幽霊はエロいことが苦手らしい


 小野家への道を、二人は無言で歩いていた。
 いつもなら「送って行って」、「いやだ」のやり取りがあるが、今はそれがない。蒼介も、どうしていいのか分からず、ただ歩きたかったのだろう。

「あ……雨」

 ぽとん、と、頭に雨粒を感じた。すぐにコンクリートの地面に不規則な水玉模様ができて雨粒の大きさが分かる。見上げた空は、昼間の天気が嘘のように押しつぶされるような色をしていた。

「大雨になりそうだね」
「……そうだな」
「ね、あおくん。うち寄って、また雨宿りしていきなよ」

 暁人の言葉に、蒼介の足がぴたりと止まった。不思議に思って振り返ると、蒼介はずいぶんと暁人から離れた位置にいた。

「どしたの?」
「お前、ここからは一人で帰れ」
「え」

 それは、別に初めて言われた言葉ではなかった。一緒に帰っている時だって、たまに蒼介に用事があって、そう言われて別々に帰ることだってあった。
 けど、今の蒼介の声は、今までと全然違っていた。はっきりと、拒絶の色を含ませた声だった。

「あおくん……?」

 どうかしたのだろうか。深森家を出てから、蒼介はずっとこんな感じだ。何かを考えているようで、まったく口を開かない。
 駆け寄ろうとした暁人に、蒼介がもう一度、はっきりとした拒絶の言葉を投げかけた。

「くんな」

 ザアアアアアッと、雨が白い線になって降ってきた。
 あっという間に濡れネズミになってしまった。早く帰って、風呂に入って、体を温めなければいけなのに――。

「どうしたの、あおくん。具合でも悪いの?」
「正子の話、聞いてなかったのか、お前」

 ザアザアと降り続ける雨で音が遠い。けど、不思議と蒼介の声は、暁人には届いていた。

「俺、釘の女の話、大まかなことは知ってたんだ。でも俺も、別世界の話な感じがしてた。本家のやつらと一緒だよ」

 苦しそうな、辛そうな声だ。

「俺の家は、俺が知らないだけでずっとずっとヤバかったんだよ。誰かの犠牲の上に成り立つ家だ。そしてそれを、当たり前だとしている家だ。本家の出の母さんや、正子や、ばあちゃんや、外から来た正子のおばさんの犠牲の上に成り立っているような家だ」

 釘の女としての犠牲。それを背負い続ける現代の女の犠牲。それに巻き込まれた、外の女の犠牲。

「俺も、祖父ちゃんや、伯父さん達と同じ深森の男だ。俺もいつかああなるんじゃないかって、今まで怖かった。けど、あの話を聞いて、もっともっと怖くなった。だって、だって俺――」

 泣いているのかと思った。でもそれは、ただの雨粒だ。
 蒼介は濡れて額に張り付いた前髪を乱暴にかき上げると、叫ぶようにして言った。

「だって俺、暁人にずっと犠牲を強要してただろ」

 思ってもいない言葉だった。思わず「どういうこと」と聞けば、今度こそ蒼介は腕で目元を拭った。

「……俺が幽霊を引き寄せやすい体質かもしれないっていうの……あれ、きっと本当なんだ。正子の話を聞いて確信した。深森家の因果因縁が、引き寄せてるんだ」

 蒼介の家系にまつわる、因果と因縁。
 それが絡まりあって、蒼介にすべてが集約している……。

「俺に寄ってきた幽霊をお前が見て、あんなに怖い思いをしている。俺は暁人が怯えずに済むのが一番だって。思ってるのに……だから俺は、暁人の前からいなくなったほうがいいのに」
「そっ、そんなことないよ! そりゃあ、幽霊は怖いよ。けど、あおくんと一緒だから、僕は――」
「そんな眼鏡をつけてまで俺と一緒にいたいのかよ」
 
 ぐ、と、喉の奥で声が詰まった音がした。
 心臓がドクンと跳ね、暁人の顔が驚きで満ちる。その顔には、古い型の黒縁眼鏡がかけられている。

「その眼鏡のこと、俺が気付いてないとでも思ってたのかよ」

 歩み寄った蒼介が暁人の眼鏡を手に取り、レンズの向こうの景色を透かすようにして見る。

「……やっぱり」

 レンズの向こうの景色は、霧がかかっているかのように霞んでいた。

「お前、これ、わざと見え辛くするように加工してあるだろ。……遮蔽眼鏡、だっけか」

 暁人はそれに、答えられなかった。
 なぜなら、その通りだからだ。
 暁人の視力は悪くない。むしろ、良いほうだ。
 輝也から貰った眼鏡を、両親には秘密にして、わざわざ遮蔽加工をしてもらった。
 理由はいたってシンプルだ。幽霊をクリアな視界で見ることが、怖かったからだ。

「視界を見え辛くする眼鏡をわざわざかけてまで、幽霊が怖くて見れないお前が、どうして幽霊を引き寄せる俺と一緒にいようとするんだよ」
「あおくんと一緒にいたいからだよ」

 久しぶりに、なんの障害もない、純粋な目で見た蒼介は、今にも泣きそうな、ひどく傷付いた表情をしていた。
 雨が強い。遠くで地域の防災無線が大雨洪水警報を流しているのが聞こえる。
 腹に力を入れないと、その音に声が負けてしまいそうになる。それくらい、足がすくんでいた。

「だって僕は、僕は――」

 言おうとして、言葉に詰まる。
 雨が口の中に入ってきて、苦味が広がった。それを言葉ごと飲み込んで、暁人は続けた。

「――僕達、幼馴染で、ずっと一緒にいたじゃんか。僕はずっと、あおくんと一緒にいたいんだよ」

 本心だった。けれどそれは、半分だけだ。
 暁人の言葉を聞いた蒼介が鼻で笑い、一歩だけ近付いた。

「……じゃあ、お前が俺から離れたがることを教えてやるよ」

 暁人の目に眼鏡を戻す。視界の中の、かすれた蒼介が言う。

「俺、お前が好きなんだよ」

 ……一瞬、何もかもの音が聞こえなくなった。
 雨の音も、防災無線も、自分の呼吸さえも。

「お前が幽霊にビビって俺に抱き着いてくるのも、お前にエロいキスするのだって、お前を家まで送り届けるのだって、全然嫌じゃない。むしろ、役得だなんて思ってた。お前がキスのたびにタブレッを渡してくるのを、いらないって、思ってた」

 呆れたように笑う。

「お前が怖い怖いって泣くたびに、エロいキスで幽霊を退治するたびに、俺は、お前に必要とされているって思えて、安心してた」

 暁人は、何も言えない。言いたくても、言葉が喉の奥に突っかかって、出てこない。

「俺がお前を暁人って呼び始めたのは、幼馴染から先に進みたかったからだ」

 蒼介は言い終わると、また大きく息を吐いた。

「……な? 俺は自分のために、お前へ犠牲を強いてるんだよ。俺も、深森の人間だから」

 蒼介が背中を向けた。いつも自分を守ってくれた幼馴染の背中が、ずいぶんと小さく見えた気がした。
 その背中がどんどんと遠ざかっていくのを、暁人はただ見つめることしかできなかった。