幽霊はエロいことが苦手らしい


「正子」

 深森家の一番大きな蔵の前で、蒼介は中に向かって呼びかけた。
 いつも必ずする縁側での挨拶はしなかった。――つい数時間前、深森家当主である仁之介が倒れて病院へと担ぎ込まれたからだ。蒼介の両親がいなかったのは、その付き添いで病院に行っていたからだった。
 そういえば、と暁人は思う。
 以前、誰かも背中を痛めていなかったか、と。関係ないかもしれなかったが、あの女を見てしまってから、何もかも紐付けたくなってしまう。

「なに」

 しばらくして、中から埃とクモの巣を頭につけた正子が出てきた。
 正子は服に血の跡を残し、耳にガーゼを張り付けた暁人と、蒼介の真剣な顔を見ると、ただ事ではないと察したようだった。

「なに、お祖父さんについて?」

 正子が言う。

「お昼くらいに倒れてさ。救急車騒ぎだよ。この前は初枝おばあちゃんが背骨痛めて、うちの親父が足首捻挫したりして……なんだか不穏だねぇ」

 薄ら笑いを浮かべる正子の言葉を遮り、蒼介が言った。

「正子、頼みがある」
「……なにさ、改まっちゃって」

 蒼介が、仁之介を前にした時のように手を強く握る。

「うちの話を聞きたいんだ。深森家の男達が知らない、女達の役割の話を」

 女達の役割。
 その言葉を聞いた瞬間、正子の蒼介によく似た目が鋭く光った。

「今更知ってどうするの」

 まるで、責め立てるような口調だ。

「知って、それで、あんたはどうするの」
「……分からない。けど、知っておかなきゃいけない気がするんだ」
「っは、なにそれ」

 笑い方まで、蒼介にそっくりだ。――なら、きっと、正子も信じてくれる。

「正子ちゃん」

 蒼介と同じものを持っている正子になら、届くかもしれない。

「突然変なことを言ってごめんね。――僕、幽霊が見えるんだ」
「……は?」
「っおい、暁人……!」

 脈絡のない発言に、正子が不意を突かれたように黙った。蒼介が停めようとするもの構わず、暁人は続ける。

「小さい頃からずっと幽霊が見えてた。今も変わらず、見えてる」
「なに、あきちゃん、何言ってんの……」
「深地橋に、女の人の幽霊を見たんだ」

 深地橋。その単語を聞いて、正子の表情が変わった。困惑でも、苛立ちの表情でもない。これは、恐怖だ。
 やはり正子は知っているのだ。女の幽霊のことを、深地橋のことを、……釘のことを。

「ものすごく強い気持ちを持ってる幽霊だった。遠くにいたのに、まっすぐにこっちを……あおくんを、見てたんだ」

 その時のことを思い出して、また耳が疼く。上がってしまいそうになる手を抑え、暁人は続けた。

「――きっと狙いは、深森家の末代である、あおくんなんだ」

 隣に立つ蒼介の手が強く握られたのが分かる。暁人は言い切ると、正子の顔を正面から見た。
 ……あれは、どんな感情なのだろう。恐怖、でもあった。しかしあれは、悔しそうな、そんな顔に見えた。

「……ついておいで」

 少ししてから、正子はそう言った。
 そして二人に背を向け、蔵の中へと進んで行く。

「あんたたちが聞いたって、なんにもならないよ」
「うん」
「ああ」
「なんも解決しない。ただ、深森の人間の業の深さを知るだけ。しんどくなるだけだ」
「分かってる」

 蒸し暑い蔵の扉が閉められる。中には電気が通っているようで、古い電球が頼りなく揺らいでいた。
 蔵は二階建てになっていて、一階は使われていない農機具が置かれている。その奥へ行くと、鍵の外れた南京錠が引き戸に引っ掛けられていた。
 その引き戸を開ければ、そこには横に伸びた階段があり、二階へと続いていた。

「……ここに階段があるなんて、知らなかった」
「そもそも、ここは入っちゃいけないって、昔っから口酸っぱく言われてたからね」

 ぎ、ぎ、ぎ、と、一段上がるたびに音が鳴る。視界がぼやけるような埃が舞い、鼻にも口にもジャリジャリとするような埃が入り込む。それを耐えながら登る階段は、ずいぶん長く感じられた。

「いい?」

 ようやく階段を上り終えた正子が、明かりを背にして言った。
 ――目の前に広がる光景に、暁人と蒼介は息を飲んだ。
「これが、深森家の女が代々受け継いできた記憶だよ」


 きん。みよ。すえ。きく。せつ。とめ。くにこ。すて。いわ。りん。なか。とね。いくこ。さく。はつえ。けいこ。まさこ。なつ。たかこ。かなえ。しづこ。


 それが位牌だと気が付いたのは、いつだったのだろう。
 古い木製の板に書かれた平仮名。それが、壁の高い位置に作られた祭壇に、いくつも並んでいた。

「これ……位牌?」
「そう」

 薄明りに照らされた二十一本の、居間にも朽ち果てそうな位牌の数々に足がすくむ。通常、位牌に書かれるのは故人の戒名だ。それなのに、ここにある位牌に書かれているのは、ただの名前だ。
 そして、そのすべてが、女性の名前だった。

「これは全部、深森家が村のために深地橋の釘にしてきた女性の名前だよ」

 釘――人身御供。
 郷土の歴史の授業が蘇る。
 旧深地村は昔から水害に悩まされていて、人身御供を行っていた、と。

「旧深地村の人間でもそうじゃなくても、ここらの人はみんなおとぎ話として聞いてる話だよ。ただ、それを全部、深森家が取り仕切っていたことは、知らないと思うけど」

 隣で蒼介が息を飲んだのが分かった。

「まあ、なににしたって音頭をとる人間は必要だよ。……問題なのは、深森家が人柱になった女性にしてきたことなんだけどね」
 正子がどっかりと埃まみれの床に腰を下ろした。そしてポケットから煙草を取り出すと、火をつけて大きく吸い込んだ。
「どこから話そうか……」

 そう呟いて、正子は話し始めた。
 ――深森家は代々、この地域の権力者だった。村のために権力を使い、村を守るために働いた。それは畑のための水路を整備したり、隣村との交易のための橋を架けたりするものだった。

「当時の八淵川は荒川でね。何度も何度も橋が流されたそうだよ。今は上流にダムが造られたから、氾濫なんてめったにないけどね。昔はそんな技術もなかった。――だから、人身御供に頼ったんだ」

 正子は位牌を指さすと、『なか』という名前で止めた。

「あの、『なか』って人までは、普通の――何もかも普通じゃないけど――人身御供だったらしい。けど、それでも全然ダメで、当時の深森家当主は『足りないんだ』と思った」
「足りない?」

 暁人の言葉に、煙草の灰を床に落として正子が答えた。

「『村を守る祈り』が、だよ。だから、祈りに頼ることを辞めたんだ。祈りでは弱い。祈りよりも強い恨みで村を守ろうって――」
「え……」

 暁人の背中を、おぞましいものが舐めたような感覚が走った。風がまったく通らない蒸し暑い蔵の中なのに、震えが止まらなかった。

「ある時から、生贄となる女には、その日まで拷問に近い仕打ちを受けさせていたみたいなんだ。それこそ、死にたくなるようなことをね」
「な、なんで、そんな――」

 ふうっと吐かれた煙が天井に溜まり、渦を巻く。

「祈りじゃ村は助からなかったからだよ。だから、恨みで村を守ろうとしたんだ」

 ――拷問をして、苦しませて苦しませて、さらに苦しませて、女の恨みを村に向けさせ、橋の釘とした。

「水害なんかで村が滅ばないように、自分で手を下すその時まで、村があるように……」

 女を苦しませ、その恨みで村を守る、そんな、どうかしている方法だ。

「そんなのが、明治の始まりまで定期的に行われてた。信じられる? 明治時代初期まであったんだよ?」

 ふっと、正子が笑った。

「そのやり方も、どんどん陰惨なものになっていった。旧深地村は豊かな村じゃなかったからね。新天地を目指して逃げ出そうとしたり、駆け落ちする恋人同士だっていた。その、駆け落ち者を利用したんだ」

 駆け落ちを計画している男へ、深森家は金銭と権力者の娘を差し出した。その変わり、恋人を釘にすることを提案した。そして約束の日、まだかまだかと男を待つ女性のもとに現れたのは、縄を持った深森家の面々だった。

「村から逃げ出そうとした罪で女は捕まり、折檻という名の拷問を受け、『男はお前を置いて逃げたぞ』と囁く。女の体は拷問によって女ではなくなり、裏切られた心は鬼になる」

 そして恨みと憎しみで一杯になった女を、橋の釘とした。
 もうほとんど残っていない煙草を、次は『しづこ』へと向けた。

「……辻志津子。この人が、この儀式の最後の犠牲者。この人に限っては、写真も残ってる」

 正子はうなだれながら、壁にかかった一枚の写真を指さした。
 それは村の集合写真のようだった。写真自体は最近コピーされたもののようだが、画質の粗さから、ずいぶん古い写真だったのだと分かる。

「右から、二番目の女性が『しづこ』」

 写真には、こちらをまっすぐに見つめる女性の姿があった。豊かな黒髪をまとめ、切れ長の目が印象的だった。

「その隣が、恋人の山本五作。……この人は、深森家に『しづこ』を差し出すように言われても拒んだそうだよ。二人の愛は本物だったんだ。だからすぐにその人を連れて逃げ出そうとした。彼女に危険が迫ってるって、分かったから。でも結局、二人とも捕まった」

 男は深森家から、村を守る気持ちがない裏切り者として口に出すもの恐ろしいような仕打ちを受けた。それは女も同じだった。

「でも、今までと違ったのは、男が女を本当に愛していたってとこだね。男は,最期まで女を釘にすることを反対したそうだよ」
「さ、最期って、いうのは……」
「……」

 大きく息を吸う。そしてゆっくり、かすかな煙を吐き出した。

「村にとって、協力しない反抗的な男は危険な異分子さ。だから、始末するしかなかった」

 生贄のための折檻を受けてボロボロになった女の前に放り投げられたのは、男の着物だった。そして耳元で囁く。

「『お前の男はお前を置いて逃げた。金をくれてやったら、真新しい服を買って、隣村の娘を娶るそうだ』……ってね」

 怒り狂い、泣き喚いたは、そのまま釘にされた。そして、その女が最後の釘となった。

「う……」

 胸が押し潰されそうだ。腹に当てた手を強く握りながら、暁人は今まで釘となった女達と、最期の犠牲者となった志津子とその恋人のことを想った。

「……それからダムが建設されるまで、八淵川が氾濫することはなかった。……つまり、それくらい強い恨みが、旧深地村――深森家を、守っているんだよ」

 煙草はとっくの前に終わっていた。暁人と蒼介は、何も言うことができない。

「男は村を守り、女は記憶を守ってる。……今まで話した話は、全部恵子おばさんからの受け売りなんだけどね。深森の人間なら、みんなここまで詳しくはないけど、知ってる話だよ」

 蔵の中を見れば、位牌のほかにも古い棚にびっしりと資料のようなものが仕舞われていた。

「女の恨みは同じ女が覚えてなくちゃいけない……当時の深森家の女衆はそう思って、この位牌を作った。そして代々女の子が生まれたら、釘の女の話と、名前を受け継がせる」
「あ……!」

 暁人は位牌に目をやった。そこには、『まさこ』とある。

「『まさこ』、って……正子のことか……!」
「そう。で、『けいこ』は恵子。あんたのお母さん。……本当は、あたしの名前は遥になるはずだったんだって。今でも、深森家に嫁いだお母さんが酔うとその話をするんだ。旦那側の家に、名前を無理矢理決めさせられたって」

 正子の口が小さく震えたかと思うと、蔵の床へ思い切り拳を振り下ろした。

「ッ何が許せないってさ、本家の男共が、この話を知っている上で――本当にあった話だって知ってる上で、それを笑い話にしてることだよ!」

 それは、暁人も何度か聞いたことがある。
 仁之介からも、遠い昔、正子の父親からも。『釘にしちまうぞ』、『釘になるしかない』、と。

「女にばっか犠牲を強いて、自分達は橋の上から笑って見てるだけ……本当に、腸が煮えくり返る」

 暗く、重苦しい空気の中、正子の怒りに震えた呼吸だけが聞こえた。
 しばらくしてから、正子が顔を上げる。そこには、嫌な笑顔が張り付いていた。

「知ってる? 深地橋に石碑があるでしょ? あれ、石碑じゃなくて、祠なんだよ。釘の女達を鎮めるための祠。大祖父さんが若い頃、一回だけヤバいことがあったらしくて、その時に霊能力者に作ってもらったものなんだって」

 その場所には、覚えがあった。そこは今、土地開発をしている、大きな重機が、大地を掘り返している場所だ。

「そこが土地開発で壊されちゃうから、祠をもう一度別の場所に立て直そうって話になってるの。この前あんた達が来た時に、例の霊能力者の後継者も来てたんだよ」

 黒塗りの車を思い出す。
 あの時は見えなかった後部座席に、もしかしたら座っていたのかもしれない。

「深地橋の取り壊し工事、予定よりもずいぶん早く進んだんだって。だからきっと、霊能力者が新しい祠を作る前に、祟りが噴き出すだろうね」
「あ――」

 正子は、笑って言った。

「今みんなが小さな不幸に見舞われているのは、それが原因かな?」

 けらけらと、おかしそうに。

「あたしは結婚をしない。絶対にしない。子供も産まない。もう、本家を続かせない。続かせてたまるか。潰れちまえばいいんだ、こんな家。こんな、あたしと、お母さんと、恵子おばさんと、初枝おばあちゃんを苦しめる、こんな家」

 そうして、今度こそ、二人に聞こえるような大きな声で、言い放つ。

「祟られちまえばいいんだ」