すっかり日が落ち、空は淡い群青色に染まっていた。
校内はいつの間にか放課後のささやかな賑やかさを取り戻し、遠くのグランドからは野球部が特大のホームラン球をほかの野外部活動生徒に慌てて知らせる声が聞こえる。
二人がいる階段裏の外に繋がる出入口のガラス窓から、空にかすかに残った光が四角く入り込んでいた。
「大丈夫か?」
「……大丈夫じゃないですぅ……」
壁に体をめり込ませるように押し付け、膝を抱えて耳を赤くした暁人が言った。
「……恥ずかしすぎる」
暁人は、蒼介のとんでもなくエロいキスで、腰を抜かしてしまったのだ。
「今更そんな恥ずかしがることじゃないだろ。ほら、立てる?」
「えっ!? 『たってる』!? たっ、たたた、たってないよ!? ここ学校だよ! たつわけないじゃない!」
「いや、俺は『立ち上がれるか』って聞いてるんだけど」
「…………一生の恥」
「っはは」
膝の間に頭を潜り込ませた暁人の隣に、蒼介が同じように座った。
あまり使われない旧校舎の階段裏とあってあまり掃除が行き届いていないようで、リノリウムの床には埃や細かななにかしらの欠片のようなゴミが落ちていたが、蒼介は気にしない。
「あ、そうだ。あおくん」
顔を両膝の間に挟みながら、スラックスのポケットから暁人が何かを取り出した。
「口開けて」
なんの疑いもなく開かれた蒼介の口の中に、小さく丸い何かが放り込まれる。口を閉じた瞬間に鼻へと抜ける爽やかなハーブの香りと独特の辛みから、ミントタブレットを食べさせられたのだと気が付いた。
「よく舐めてから飲み込んでね」
蒼介は一瞬だけなにか言いたげな顔をしていたが、すぐに奥歯でガリッとタブレットを噛み砕いて飲み込んだ。
そんな蒼介に気が付かないまま、暁人が「さっきさ」とそのままの姿勢で話し始めた。
「あおくん、『誰にも言うなよ』って言ってたけど、誰に言ってたの?」
「階段にいる幽霊」
「え、あの幽霊に? なんで?」
思わず顔を上げる。変にずれてしまった眼鏡を、先程と同じように蒼介が直した。
「んー、なんとなく? ほら、相談してきた女子……池田さん?」
「伊東さん」
「伊東さんか……その伊東さんの話とさ、暁人の『窺うみたいに見てる』っていうのを考えたら、その幽霊は誰かの秘密を知るのが好きなのかなって思った」
「あ――」
蒼介の話には、思い当たることがいくつもあった。
二人に相談してきた同じ一年生の伊東心春の、「階段裏で吹部のリズム取りの練習をしていると、誰かが覗き込んでくる感覚がして怖い」という言葉。
そして暗い人の言っていた、「なにしてるの」「なにはなしているの」「しりたいの」という声。
敷地の東の端に位置する特別教室棟――通称、旧校舎には生徒達が普段からいる普通教室はなく、図書館や理科室、音楽室、視聴覚室、美術室などの特別教室のみがある。つまり、普通教室のある校舎と比べると人は少ないのだ。
さらにそこの階段裏となると、もっと人は少なくなるだろう。
この階段裏にある出入口は、学校の北東側、今は使われていないプールや校内栽培の畑がある場所に面している。用事がなければ誰も来ないような場所だ。
だからこそ、秘密を抱えた人がくるのだろう。
人が来ない場所だからこそ、人が溜まりやすい。
廊下からは視界になっているし、出入口を使う人間なんてほとんどいない。だからきっと、ここは秘密を持つ人間にはうってつけの場所なのだ。誰かの噂話や悪口を話していたり、告白だってここでされていたかもしれない。もしかしたら、教師だって使っていたのかもしれない。
もし、そんな人気のない階段裏で誰かの話し声が聞こえたら、好奇心からそこへ引き寄せられてしまうだろう。――たとえそれが、幽霊だったとしても。
「なるほど」
暁人は感心したように呟いた。頭の中の知識と、今回起こった現象がカチリとはまった気がした。
「じゃあ、きっとあの幽霊は、特定の誰かってわけじゃなくて大勢の意識の集合体なんだ。そこにどこからかやってきた幽霊が乗っかったんだ」
誰にだって好奇心というものはある。高校生とはいえ、まだまだ子供の生徒達はより好奇心が強いのだろう。
誰かの秘密を知りたい。内緒話の内容を聞きたい。何をしているのかが見たい。
階段裏で行われていた秘密の会合。この学校の長い歴史の間、溢れんばかりの好奇心を胸に、誰かがずっと階段に立ってこっそりと窺っていたのだ。
「だからあおくんは意味ありげに視線を階段のほうに向けたり、興味をそそるようなことを言ってたのか」
「一回目のキスじゃダメだったんだろ? 俺達から遠いからなのかなって」
「エロの波動が?」
「っはは、そう。エロの波動が弱いのかなって。だからおびき寄せようとしたんだけど、まさか、こんなにうまくいくなんて思ってもいなかった。――というか……」
隣から視線を外し、幽霊がいたという斜めの天井の角を見ながらしみじみと言う。
「まさか、幽霊がエロいキスで退治できるとはなぁ」
蒼介と同じ場所を見ながら、困ったように笑いながら暁人が返した。
「退治じゃなくて『退散』ね。……そう。『退散』だから」
自分の言葉を噛みしめるようにして続ける。
「だから、僕らがやったことで幽霊は消え去ったりしない。ちょっとの間だけ、いなくなるだけで」
それはまるで、自分の無力さを噛みしめているような声音だった。
確かに、暁人には幽霊が見える。しかし、干渉はできない。できたとしても先程の退散程度だ。
暁人は小さく肩を丸めた。
結局、解決していないのだ。自分達はただ、問題を先延ばしにしているに過ぎない。
「――でも、やれることはやっただろ」
まるで背中を叩くような声だった。
丸まって猫背になった背中を叩いて、まっすぐに伸ばしてくれる声。
「自分を信じてやれよ」
はっとして隣を見れば、さっきまで同じ天井を見ていた蒼介がこちらを向いていた。
『しんじるよ』
幼い声が、どこからか聞こえた気がする。
蒼介の大人びた端正な顔に、遠い昔の幼い蒼介と重なる。
遠い昔、同じ保育園のつくし組だった、あの頃。蒼介は泣く暁人に、そう言って丸い手を差し出してくれたのだ。
ずいぶん大人びて格好良くなってしまった幼馴染が、昔と変わらない心と言葉で隣にいる。
「……そうだね」
途端に心が上を向く。
そうだ。自分には、蒼介がいる。
もしまた幽霊が戻ってきてしまったら、また二人で退散させればいいだけの話なのだ。
暁人はついさっきまでの暗い表情が嘘のように、明るい声を出した。
「ま! 僕も正直、ここまでうまくいくとは思ってなかったしね! うんうん。我流素人集団の我々としては、上出来かと思いますよ、ええ!」
「俺は毎回毎回そう思うわ。……中学の時に、お前から『エロいキスして!』って言われたときは何事かと思ったし」
「あ、あの時は必死だったんだよぅ……」
「幽霊関係に関してはいつも必死じゃねぇか」
「だって怖いんだもん!」
「はいはい。――じゃあ、相談事も解決したし、帰るか」
立ち上がった蒼介が手を差し出す。
暁人はその手を、なんの躊躇もせずにとって立ち上がった。
「――ね、ね。あおくん」
「なに」
「帰り、僕ん家までついてきて欲しいな……なぁ~んて……」
「じゃ、また明日な」
「え!? ちょ……っ、僕達友達だよね? 親友だよね? 幼馴染だよね!? てか足速い!」
夜で満たされた校舎の中。
年相応の笑顔を浮かべて走り出した蒼介と、彼の背中を必死に追いかける暁人の足音が響いた。
校内はいつの間にか放課後のささやかな賑やかさを取り戻し、遠くのグランドからは野球部が特大のホームラン球をほかの野外部活動生徒に慌てて知らせる声が聞こえる。
二人がいる階段裏の外に繋がる出入口のガラス窓から、空にかすかに残った光が四角く入り込んでいた。
「大丈夫か?」
「……大丈夫じゃないですぅ……」
壁に体をめり込ませるように押し付け、膝を抱えて耳を赤くした暁人が言った。
「……恥ずかしすぎる」
暁人は、蒼介のとんでもなくエロいキスで、腰を抜かしてしまったのだ。
「今更そんな恥ずかしがることじゃないだろ。ほら、立てる?」
「えっ!? 『たってる』!? たっ、たたた、たってないよ!? ここ学校だよ! たつわけないじゃない!」
「いや、俺は『立ち上がれるか』って聞いてるんだけど」
「…………一生の恥」
「っはは」
膝の間に頭を潜り込ませた暁人の隣に、蒼介が同じように座った。
あまり使われない旧校舎の階段裏とあってあまり掃除が行き届いていないようで、リノリウムの床には埃や細かななにかしらの欠片のようなゴミが落ちていたが、蒼介は気にしない。
「あ、そうだ。あおくん」
顔を両膝の間に挟みながら、スラックスのポケットから暁人が何かを取り出した。
「口開けて」
なんの疑いもなく開かれた蒼介の口の中に、小さく丸い何かが放り込まれる。口を閉じた瞬間に鼻へと抜ける爽やかなハーブの香りと独特の辛みから、ミントタブレットを食べさせられたのだと気が付いた。
「よく舐めてから飲み込んでね」
蒼介は一瞬だけなにか言いたげな顔をしていたが、すぐに奥歯でガリッとタブレットを噛み砕いて飲み込んだ。
そんな蒼介に気が付かないまま、暁人が「さっきさ」とそのままの姿勢で話し始めた。
「あおくん、『誰にも言うなよ』って言ってたけど、誰に言ってたの?」
「階段にいる幽霊」
「え、あの幽霊に? なんで?」
思わず顔を上げる。変にずれてしまった眼鏡を、先程と同じように蒼介が直した。
「んー、なんとなく? ほら、相談してきた女子……池田さん?」
「伊東さん」
「伊東さんか……その伊東さんの話とさ、暁人の『窺うみたいに見てる』っていうのを考えたら、その幽霊は誰かの秘密を知るのが好きなのかなって思った」
「あ――」
蒼介の話には、思い当たることがいくつもあった。
二人に相談してきた同じ一年生の伊東心春の、「階段裏で吹部のリズム取りの練習をしていると、誰かが覗き込んでくる感覚がして怖い」という言葉。
そして暗い人の言っていた、「なにしてるの」「なにはなしているの」「しりたいの」という声。
敷地の東の端に位置する特別教室棟――通称、旧校舎には生徒達が普段からいる普通教室はなく、図書館や理科室、音楽室、視聴覚室、美術室などの特別教室のみがある。つまり、普通教室のある校舎と比べると人は少ないのだ。
さらにそこの階段裏となると、もっと人は少なくなるだろう。
この階段裏にある出入口は、学校の北東側、今は使われていないプールや校内栽培の畑がある場所に面している。用事がなければ誰も来ないような場所だ。
だからこそ、秘密を抱えた人がくるのだろう。
人が来ない場所だからこそ、人が溜まりやすい。
廊下からは視界になっているし、出入口を使う人間なんてほとんどいない。だからきっと、ここは秘密を持つ人間にはうってつけの場所なのだ。誰かの噂話や悪口を話していたり、告白だってここでされていたかもしれない。もしかしたら、教師だって使っていたのかもしれない。
もし、そんな人気のない階段裏で誰かの話し声が聞こえたら、好奇心からそこへ引き寄せられてしまうだろう。――たとえそれが、幽霊だったとしても。
「なるほど」
暁人は感心したように呟いた。頭の中の知識と、今回起こった現象がカチリとはまった気がした。
「じゃあ、きっとあの幽霊は、特定の誰かってわけじゃなくて大勢の意識の集合体なんだ。そこにどこからかやってきた幽霊が乗っかったんだ」
誰にだって好奇心というものはある。高校生とはいえ、まだまだ子供の生徒達はより好奇心が強いのだろう。
誰かの秘密を知りたい。内緒話の内容を聞きたい。何をしているのかが見たい。
階段裏で行われていた秘密の会合。この学校の長い歴史の間、溢れんばかりの好奇心を胸に、誰かがずっと階段に立ってこっそりと窺っていたのだ。
「だからあおくんは意味ありげに視線を階段のほうに向けたり、興味をそそるようなことを言ってたのか」
「一回目のキスじゃダメだったんだろ? 俺達から遠いからなのかなって」
「エロの波動が?」
「っはは、そう。エロの波動が弱いのかなって。だからおびき寄せようとしたんだけど、まさか、こんなにうまくいくなんて思ってもいなかった。――というか……」
隣から視線を外し、幽霊がいたという斜めの天井の角を見ながらしみじみと言う。
「まさか、幽霊がエロいキスで退治できるとはなぁ」
蒼介と同じ場所を見ながら、困ったように笑いながら暁人が返した。
「退治じゃなくて『退散』ね。……そう。『退散』だから」
自分の言葉を噛みしめるようにして続ける。
「だから、僕らがやったことで幽霊は消え去ったりしない。ちょっとの間だけ、いなくなるだけで」
それはまるで、自分の無力さを噛みしめているような声音だった。
確かに、暁人には幽霊が見える。しかし、干渉はできない。できたとしても先程の退散程度だ。
暁人は小さく肩を丸めた。
結局、解決していないのだ。自分達はただ、問題を先延ばしにしているに過ぎない。
「――でも、やれることはやっただろ」
まるで背中を叩くような声だった。
丸まって猫背になった背中を叩いて、まっすぐに伸ばしてくれる声。
「自分を信じてやれよ」
はっとして隣を見れば、さっきまで同じ天井を見ていた蒼介がこちらを向いていた。
『しんじるよ』
幼い声が、どこからか聞こえた気がする。
蒼介の大人びた端正な顔に、遠い昔の幼い蒼介と重なる。
遠い昔、同じ保育園のつくし組だった、あの頃。蒼介は泣く暁人に、そう言って丸い手を差し出してくれたのだ。
ずいぶん大人びて格好良くなってしまった幼馴染が、昔と変わらない心と言葉で隣にいる。
「……そうだね」
途端に心が上を向く。
そうだ。自分には、蒼介がいる。
もしまた幽霊が戻ってきてしまったら、また二人で退散させればいいだけの話なのだ。
暁人はついさっきまでの暗い表情が嘘のように、明るい声を出した。
「ま! 僕も正直、ここまでうまくいくとは思ってなかったしね! うんうん。我流素人集団の我々としては、上出来かと思いますよ、ええ!」
「俺は毎回毎回そう思うわ。……中学の時に、お前から『エロいキスして!』って言われたときは何事かと思ったし」
「あ、あの時は必死だったんだよぅ……」
「幽霊関係に関してはいつも必死じゃねぇか」
「だって怖いんだもん!」
「はいはい。――じゃあ、相談事も解決したし、帰るか」
立ち上がった蒼介が手を差し出す。
暁人はその手を、なんの躊躇もせずにとって立ち上がった。
「――ね、ね。あおくん」
「なに」
「帰り、僕ん家までついてきて欲しいな……なぁ~んて……」
「じゃ、また明日な」
「え!? ちょ……っ、僕達友達だよね? 親友だよね? 幼馴染だよね!? てか足速い!」
夜で満たされた校舎の中。
年相応の笑顔を浮かべて走り出した蒼介と、彼の背中を必死に追いかける暁人の足音が響いた。
