幽霊はエロいことが苦手らしい



 待ちに待った夏休みは、四キロにも及ぶ坂道を上ることからスタートした。

「マジでありがとうな。おかげで、最近監督にも先輩にも褒められるし、球子さんが喜んでくれるしで良いことづくめなんだ」

 と言ったのは、防球ネットの向こう側にいた老女の幽霊に悩んでいた轟大雅だ。
 夏休み前最後の登校日に、大雅は二人に改めてお礼を言いに来てくれていた。

「た、球子さん……?」
「あのばあちゃん霊の名前。名前ないと不便だろ? ボールをいっぱい見つけてくれるから、だから球子さん」
「……それはその、向こうは何とも思ってないのか?」
「分からん。けど、俺が手を振るとニコニコして振り返してくれるぜ。練習試合の時とかは、気合入ってんの白くてキラキラした着物に着替えてくれるし」
「轟ってすごいや……」
「褒め、てる……んだよな?」

 そう言った大雅は、二人に八淵山にあるプラネタリウムのチケットをくれた。

「これ、相談に乗ってくれたお礼」
「プラネタリウムのチケット? いいの、もらっちゃって」
「ああ。うちのオカンが市役所に勤めててさ。優待券? みたいなのよくもらうんだ。お礼として、もらってくれよ」

 ――そして二人は、夏休み初日にプラネタリウムに行くことにしたのだ。

「はぁ、ひぃ……はぁ、はぇえ……」
「暁人……だ、大丈夫か?」
「だい、大丈夫……」
「日頃オカルト本ばっか読んで運動しないからだよ」
「だって文化系眼鏡男子は運動なんかしないんだもん」
「何言ってんだ」

 プラネタリウムは八淵山の中腹にある。山自体そんなに高くはない山なのだが、徒歩はさすがに苦しい。

「まさかシャトルバスに幽霊が乗っているとは思わなかったんだもん……あんな怖い幽霊がいたら、バスに乗ってる間ずっとあおくんにキスしてもらわないと無理だよう!」
「だから移動中ずっとやってやるって言ったのに……」
「だだだだダメだよ!?」

 そいういことで、二人はプラネタリウムへの道を歩いていく羽目になったのだ。幸いにも、すれ違った帰りのバスには幽霊はいなかったので、帰りは何とかなりそうだ。

「ほら、暁人。もうすぐ坂、終わりそうだぞ」
「え! 本当!?」

 終わりが見えればやる気が上がるというものだ。暁人は数十メートル先にいる蒼介のもとに駆け寄ると、ようやく平らになった道を見て飛び上がって喜んだ。

「た、助かった~! あともう少しでも上り坂があったら、太腿爆発してたよ」
「間一髪だったな」

 蒼介がショルダーバッグからタオルを取り出すと、暁人の首にかける。暁人はそれをありがたく受け取ると、眼鏡を外して顔をふく。

「助かりますぅ……」
「ボディシートもあるけど、向こうについたら使おうな」
「さすがあおくん! 準備万端だね」
「まあな」
「しかもカッコいい!」
「……まあな」

 暁人がクローゼットから適当に引っ張ってきたような白いTシャツに黒のズボンに対し、蒼介はネイビーのシャツに緩やかなシルエットのズボン、黒のショルダーバッグにスニーカーと、ワントーンでまとめた綺麗なコーディネートだ。
 服装を褒められて照れたのか、蒼介は襟足をカリカリと掻くと、「ほら、行くぞ」と言って歩き出してしまった。

「あついぃ~」
「太陽やばいな……」

 途中までは雑談くらいはできていたのに、途中からはもう一言ずつのラリーしかできなくなっていた。
 そして歩くこと数分後、ようやくプラネタリウムの建物が見えてきた。

「やっと見えたぁ~!」
「もう二度と、夏に徒歩では行かない」
「僕も誓うよ」

 そう話す二人を、山からくる涼しい風が通った。その風は二人を通り抜け、その先のガードレールの向こうへと流れていく。

「風が冷たくて気持ちいい。生き返りますねぇ」
「俺は全然生き返らない。スプライトとか飲みたい」
「おっ。ここ、街を一望できるよ!」

 涼しい風で生き返った暁人が、ガードレールに駆け寄った。

「気をつけろよ」

 ガードレールの向こう側は、木々が生え放題になった崖だ。しかしさらに向こう側に目をやれば、澤見市が一望できた。

「お前……元気だな」

 隣にやってきた蒼介を見れば、額には汗が滲んでいて確かにまだ暑そうだ。

「あれ、そんなにまだ暑い?」
「まだ全然暑い」
「冷たい風を感じない?」
「熱風なら感じる」

 借りていたタオルを返せば、蒼介が汗をぬぐいながら言った。

「さっきまでの坂道なら、太陽の光も木漏れ日程度だったし、ほぼ森の中みたいなもんだったから風も涼しかったけどさ。ここには葉っぱの日陰もないし、熱々コンクリートの上だから、そんな冷たい風はこないだろ。お前、風邪引いてんじゃねえの?」

「そんなことないよ。――あ、学校見える!」

 最後の言葉は真剣な声音だったが、暁人にはいまいち届かなかったようだ。蒼介は諦めのため息をつくと暁人の指の先を一緒に見つめた。

「ほら、あれ学校だよ」
「本当だ」
「あっちが澤見大橋で、その隣が陽陽で。その向こうにある赤くて丸いのが保育園の屋根だ――っ」

 また、風が通った。
 今度は涼しいなんてものではなく、冷たい風だ。

「どうした?」
「う、ううん」

 蒼介の言う通り、自分は本当に風邪をひいているのかもしれない。そんなことを思いつつ、暁人はまた景色に目を向けた。

「あ。澤見総合病院の隣のあれって、市立図書館?」
「あー……だな。で、あっちが開発途中の本家の――」

 蒼介が止まる。
 視線の先は、暁人だ。

「暁人、お前……本当に大丈夫か」

 暁人は、自分の腕を抱いていたのだ。
 まるで雪が降り積もる中、寒さから身を守るように。

「さ――」

 暁人はうまく動かない口を――まるでかじかんだように動かなくなった口をやっとの思いで動かして言った。

「さむい」

 信じられないが、暁人は今、寒いと感じていた。
 そしてその寒さは、山からくる涼ではない。これは、寒気だ。

「あ、やば――」

 全身が一機に総毛立つ。鼓動が早くなって、呼吸が荒くなる。

「おい、大丈夫か」

 蒼介が暁人の肩を抱いて落ち着かせようとしてくれるが、それも感じられないくらい、肌がチリチリと何かを感じて痛んだ。

「ぁ、あ、あ、むり、これ、無理だ」

 この感覚には、覚えがある。しかし、いつもと違い過ぎる。
 言葉がうまく出てこない。焦点が合わない。立っていられない。寒い。ただ、寒い。

「や、ばい、か、も」

 ――どこかに、幽霊がいるのだ。
 でもおかしい。これだけ圧迫感を感じているのなら、すぐそこに幽霊がいてもおかしくないのに。
 ツン、と、鉄の匂いが鼻をかすめた。

「う――」

 吐き気がこみあげる。それをなんとか受け流して、暁人は視線を上げ、あたりを見渡す。
 暁人の反応を見て、蒼介も暁人の状況が幽霊を感じ取っていると気が付いたようで、暁人を支えるように体を寄せた。
 幽霊の姿は見当たらない。
 こんな寒いと思うほどの感覚は初めてなのに、幽霊の姿が見当たらないのだ。
 幽霊と暁人のチューニングがあっていないのかと思ったが、ここまで存在を感じているのだからそれは違うだろう。幽霊はきっと、隠れているのだ。それか――

「ぅあ……!」

 突然、目の動きがおかしくなった。
 自分の意志ではないのに、目玉がぐるんと思っていない方向へ引っ張られる感覚。
 まるで、強制的に視点を合わせられたよう。

「あ――」

 何かが見えた気がした。
 それは澤見大橋の上流。八淵川を上って行った先の、大型ショッピングモールの開発現場。
 それを背にした、深地橋の、上。
 米粒のように小さい何かが、切った爪のような形をした橋の上にあった。
 深地橋を渡るバイクが見えた。犬と思われる米粒を散歩させる人も、ロードバイクの集団も見えた。
 けれど、誰もが、その橋の上にあるものに見向きもしていないようだった。
 あんな、あんなに、異質なのに。
 目が離せない。見ないようにしようとしても、顔も、目も、すべてが見えない手によって固定されているようだ。
 茶色か、赤か――いや、赤でもない。
 銅のような色。錆のような、色。
 暁人の涙でぬれた目に映ったのは、まるで、釘のような形をした女――

「う、ぅうううぅ……」

 こちらと同じく、刺すような白い太陽の光が降り注ぐ中で。
 こちらとは違い、何人も人のいる賑やかなその場所で。
 開発現場を背に、深地橋の上で女が立っていた。

「うぁ、あ、ぁああ……」

 立って、こちらをまっすぐに見つめている。
 何キロも離れている。顔は分からない。髪型も分からない。服装は、錆のような色の服を着ているとしか、分からない。
 でも、こちらをまっすぐに見ているというのは、痛いほど分かった。
 ――そして、女が口を開いたということも。

「ぅわあああぁぁああぁああああ!!」

 声が、聞こえた。
 耳たぶに唇が触れた。そう思うくらい、近くで聞こえた。

「暁人! やめろ!」
「あ、ああ、あ、ああああ、あ……!!」

 狂ったように右耳を搔きむしる暁人を蒼介が必死に止めるが、それは何の意味もなさなかった。
 暁人は揺らされた鼓膜の感覚を忘れようと、必死に爪を立てて耳をガリガリと掻きむしり続けた。指先にぬるりとしたものを感じても、それを止めることはなかった。

「暁人!!」

 蒼介が暁人の手首を掴んで、ようやく動きが止まった。

「ッは……! ッは、ッは、は……ッ」

 耳から温い何かが流れて白いシャツに赤いシミを作る。
 暁人は自分の血に濡れた指を見ると、すぐに思い出したかのように深地橋を見た。

「……いなくなってる」 

 橋の上には、誰も立っていない。
 今まで通り、バイクが通り、自転車が通っているだけだ。

「……」

 放心状態のまま、景色を見続ける暁人の耳に、蒼介がタオルを押し当てる。

「暁人……っ、馬鹿、お前、何してんだよ――っ!?」

 蒼介の手を、暁人の血がついた手が掴んだ。
 そしてそのまま、来た道を戻っていく。

「あ、暁人、お前、どうしたんだ」

 蒼介の問いに、暁人は答えない。ただ、まっすぐに道を進んでいくだけだ。

「おい、暁人!」

 肩を掴んで無理やり振り向かせる。振り向いた暁人は、蒼介が思わず言葉に詰まってしまうくらい、号泣していた。

「暁人……ほんとに、どうしたんだ?
「……っ」

 何度も何度もしゃくりあげる。
 暁人は苦しそうに息を整えると、ようやく口を開いた。

「こ、こわい、んだ……」

 幽霊が怖いというのは、いつものことだ。
 幽霊が見えない蒼介は、きっと暁人が何かしらの幽霊を見て錯乱したのだと思っていた。しかし、今の暁人は様子がおかし過ぎる。

「幽霊が、か?」
「うん……ッ」

 ようやく息が落ち着いてきたのに、再び呼吸が乱れ始める。

「暁人――」
「っあ、あ、あんな、あんな明るいところで……!」

 落ち着かせようとした蒼介を遮るようにして暁人が言う。

「あんな、あんなに明るくて、人がいるところに、普通にいたんだ! 陰に隠れるとか、覗き見るとか、そっ、そういう、『いそうな場所』にいるんじゃなくて、普通にいたんだ……!」

 また耳を掻きそうになる手を、自分で掴んで抑える。

「普通に立って、当たり前みたいにいて、こっちを見てたんだ……っ」
「俺達を?」

 暁人が、叫ぶように言った。

「『俺達』じゃない! あおくんだよ!」

 ――女が口を開いたその時。
 暁人は直接耳に吹き込まれるようにして声が聞こえたのだ。


 「ふかもり」、と。


「あ、あの人、お前の名前を呼んだんだ! 深森って!」
「は――」
「あの幽霊の狙いは、きっとあおくんなんだよ! なんでかは分からないけど、あおくんが狙われてる! だから、帰るんだ!」
 
 また子供のように暁人は泣き出すと、そのまま蒼介の手を強く握りながら歩き出した。
 その背中に、何度も冷たい風が吹かれるのを感じながら。