あっという間に訪れた土曜日。
「おはよ、あおくん」
「おはよう。晴れてよかったな」
「だねぇ」
二人はそれぞれの家の中間地点にあるコンビニに集合した。
昨日まで強く降り続いていた雨はようやく止み、今は和紙を散らしたような雲が流れる青空が広がっていた。
「じゃあ行くか」
「うん。手土産にお母さんからロールケーキ持たされたから、みんなで食べてね」
「ありがとうな」
二人は自転車に乗ると、生暖かい空気を裂くように進んだ。
暁人と家族が暮らす地域は、澤見市の中でも比較的新しい住宅街で――といっても、この地域がニュータウンなどと呼ばれていたのはもう数十年も前の話になってしまうが――、暁人の両親は十数年前にここへ移り住んできた。
対して蒼介と家族が住む地域は、旧深地村と呼ばれる地域で江戸時代くらいから続く家が多く残っている古い地域だ。建物は新しく立て直されたものが多いが、それでも暁人の住む地域とは人と建物の雰囲気が違い、ここでは古き良き重厚な街並みが広がっていた。
今は手放してしまった土地が多いが、その一帯は深森家が所有しているものだ。それでも、深森家本家は今もまだ広い土地を所有していた。
ゆっくりと流れる景色が古く重厚なものになっていく中、開発工事が背景となった河川敷に見慣れた橋が見えてきた。八淵川に架けられた深地橋だ。以前、郷土の歴史の授業で担任教師が言っていた言葉を思い出す。
「そういえば、深地橋も新しく架け直されるんだっけ」
「そう。さすがに古過ぎるからな」
深地橋は、小さいながらも立派な造りの石橋だ。下を流れる八淵川の支流は穏やかで水量も少ないが、昔から多くの人の交通の助けになってきたのだろう。
しかし現在は耐久性の問題から車両は通ることができず、今は人と自転車とバイクだけが使っていた。
「あそこらへんもあおくんの本家の所有なんでしょ?」
暁人の問いに蒼介は一言「らしい」とだけ返して、自転車を漕ぐ足に力を入れ、すぐにその場から遠ざかる。
どうやら、旧深地村の区域に入ったので、暁人が幽霊を見て怖がらないよう、早く行こうとしてくれているようだ。
「暁人、大丈夫か?」
「うん。大丈夫」
旧深地村は澤見高校と同じく古い地域なので、古くから人々の営みがあった。つまり、暁人の言うところの、綿飴のふよふよが多いのだ。だから、幽霊も多くいる。
暁人は何度か不穏な影を目にしたが、毎回蒼介に心配させるわけにはいかないし、自転車で通り過ぎてしまえばそれだけなので、悲鳴を口の中から出さないようにして耐えた。
そのせいか、深森家に着いたころにはずいぶんと疲れ切った様子だった。
「お、お前、牡蠣食う前から牡蠣に当たったような顔してるぞ」
「気にしないで……牡蠣が、僕を待ってるんだ」
蒼介の家に自転車を置く。古い家が多い街並みの中、蒼介の家はどちらかというと小野家に似た雰囲気を持つ家で、玄関前には色とりどりの花を咲かせる鉢植えが美しく置かれていた。
「じゃ、気が乗らない本家へ挨拶に行きますか」
「行きましょう!」
二人は蒼介の家から出ると、そのまま少し道を歩いた。
数百メートルほど歩いた先にはあるのは、圧迫感を感じてしまうような、重厚な造りの日本家屋だ。敷地内には家と同じ造りの倉が三つあり、艶々と黒く光る瓦屋根に漆喰の壁が素晴らしい。
生垣から玄関扉までは玉砂利と飛び石が設置されていて、家の顔である庭に金をかけているのが分かる。控えめな花々も植えられていて、訪れた客が全員が「素晴らしい庭だ」と太鼓判を押すだろう。
庭の脇には見上げるほど大きな松の木が植えられていて、本家の象徴のようになっていた。
まるで空に黒い手を伸ばしているような、大きくてぞっとする松の枝の下を通り、二人は玄関ではなく、居間の縁側に繋がる園路へと向かった。
足元に敷き詰められた玉砂利が、まるで自分達の訪問を家に知らせているようで不気味に感じる。園路も家の壁と周囲を囲う塀の間にあるので薄暗く、せっかく足元に植えられた菖蒲の花が闇に溶け込んでしまっていた。
ようやく園路が終わり、居間に面した庭へとたどり着く。そこも玄関前と同様に、手入れのされた木々が青々とした葉を茂らせていた。
蒼介が縁側の前に立つと、室内に向かって声をかけた。
「お邪魔します。蒼介です」
庭はこんなにも明るいのに、本家の中は薄暗い。縁側から居間までは数メートルもないのに、日の光は縁側で止まってしまっているようだった。
「――おお」
しばらくして、しわがれた男性の声が聞こえた。
中の薄闇からぬるりと現れたのは蒼介の母の父、蒼介の祖父に当たる、深森仁之介だ。年相応に痩せ、シワと老人斑だらけの顔を歪ませるように笑うと、蒼介へ「今起きたんか」と言った。
「いえ、友達を迎えに行っていました」
「そうかぁ。友達ってのは、その子か」
長い眉毛がかかる目を向けられた暁人は、背をピッと伸ばして声を張る。
「お久しぶりです。小野暁人です」
「ああ、小野さんとこの暁人くんか。なんだ、眼鏡なんかかけて」
暁人は眼鏡を触りながら曖昧に笑う。蒼介にああは言ったものの、暁人も仁之介のことが得意ではなかった。
仁之介はことあるごとに暁人の母穂香が仕事をしていることに意見し、「暁人からもしっかりと母親に言い聞かせろ」と直接言われたときには目が飛び出るかと思った。それは小学生の時のことだったが、仁之介の考えは変わっていないようだ。
「まだ暁人くんとこのお母さんは働いてるんか」
「はい」
「そうか……まあ、時代が変わったから言いたくはねえがよ。あんまり体裁の良いもんじゃねえでな。お父さんの顔を潰しかねないってことを胸に、身の丈に合った行動をするように」
「伝えておきます」
暁人は持ち前のコミュニケーションスキルを発揮し、朗らかに言葉を返す。一歩前に立つ蒼介を見れば、彼は感情を殺した顔をしていた。
「うんうん。そういや耳に入ってきたんだけども、暁人くんのお姉さんも大学行ってんだってね。うちの正子といい、暁人くん家といい、何を考えてんだかねぇ」
深森家当主である仁之介は、とにかく古い考え方の持ち主なのだ。
仁之介だけではない。本家にいるほとんどの人間が、その家と同じくらい時代に取り残されたような考え方の持ち主なのだ。
けっけっ、と、痰が絡まったように笑う。
「――昔、ここら一帯では、水害があったら人柱を立ててたんだわ」
抜けた歯の間から発せられた言葉に、蒼介の体に力が込められたのが分かった。それまで素直に従って話を聞いていたのに、「あの、俺達、時間が決まってて」と仁之介の話を遮る。
「いいじゃねぇの。年寄りの言うことはな、聞くもんだ。それが礼儀ってやつだろうよ」
しかし、老人特有のマイペースさ――仁之介本人の性格かもしれない――で、話が無理矢理進められる。
「暁人くんは知ってたか」
「はい、一応……学校の授業でも触れられました。江戸時代以前から、人身御供があったって」
「そうかぁ」
暁人の言葉を聞いた仁之介が、おかしそうに笑う。おかしいことなんて、何一つないのに。
「人柱にしてたんはな、みんな女なんよ。女はそれくらいしか使い道がなかったんでな。深地橋の釘の一本にするしかなかったんだわ。時代が時代なら、みんな釘にされてただろうなぁ」
そう言って、また不快な声で笑う。
蒼介の拳が強く握られたのが分かり、すぐにその手を握ってやりたかった。
仁之介は――本家の人間は、全員とはいかなかったが、ほとんどがこうなのだ。
身内である蒼介や蒼介の家族だけではなく、他人である暁人の穂香を「女だてらに」と眉を顰め、新平の職業を「女みたいな仕事だ」と否定したり、明日花の進学にまで口を出す。
そんなだから、蒼介は本家が嫌いなのだ。
しかし、古くからの権力というのは狭い地域ではまだまだ絶大なのも確かだった。
「じゃあ、俺達は戻ります」
怒りを含んだ声で言う。言いたいことをすべて言って満足したのか、仁之介は拍子抜けするほど簡単に返してくれた。
「きちんと勉強するんだぞ。――ああ、蒼介。あの件、考えといてくれなぁ」
「……はい」
二人は仁之介へ小さく頭を下げると、そのまま小走りで来た道を逃げるように後にした。
園路を抜け、玄関前にようやく出ると、蒼介が突然立ち止まった。そして暁人を振り返ると、苦しそうに言う。
「ごめんな、暁人。やっぱり俺だけ挨拶に行けばよかった」
「お祖父さんが言ってたこと気にしてるの? 平気だよ。コミュニケーションの基本は、嫌なことを言われたら笑顔でスルー! だからね」
「いや、それでも、言ったことはなかったことにはならないから」
足元を見て言う蒼介の手を暁人が触れた。されるがまま開かれた手のひらには、強く握った時に食い込んだ爪の跡が赤い三日月になって残っていた。
「気にしなくたっていいんだから。それに、あおくんがそうやって怒ってくれたから、僕はもういいんだよ」
「暁人……」
「それにさ――」
蒼介の後悔の傷跡をさすり、暁人は笑顔を見せた。
「僕達には、夏牡蠣が待っているんだから!」
「……はは! だな」
ようやく、蒼介の顔に笑顔と余裕が戻った。それを嬉しく思いながら、二人は早く本家の敷地内から出ようと足を進める。――と、正面玄関の前に、一台の黒い車が停められていた。いかにも高級そうな黒塗りの車の運転席には誰も座っておらず、後部座席はガラスが暗く、中が見えない。
「お客かな?」
「だな」
なら、自分達はちょうどいいタイミングで話を切り上げられたようだ。そう思いながら、道に出た瞬間――
「うわっ!」
暁人の目の前に、道を横切ろうとした人影が現れ、思い切りぶつかった。
幽霊だ、と思ったが違う。ぶつかった相手、柔らかく、熱を持っていた。それに――
「ご、ごめんなさい!」
「あー、こっちこそすみません……って、あれ、君って――
――その声には、聞き覚えがあった。
ぶつかった拍子に眼鏡がずれ、慌てて直そうとした暁人の手を、ぶつかった相手が掴んで止めた。そのままひょいっと眼鏡を取られ、裸眼の顔をまじまじと見つめられる。
「もしかして……あきちゃん?」
「え? ……あっ! ま、正子ちゃん!?」
ぶつかった相手。それは、仁之介の息子の一人娘。蒼介の従姉妹である、正子だった。
ベリーショートの髪は内側が脱色されツートーンカラーになっていて、着ている黒いサマーニットやスラックスは都会的な雰囲気を放ち、一瞬誰だか分からなかった。
「や~~ん! 久しぶりだね~!」
しかし、ほころぶように笑う顔は昔よく遊んでくれた正子のままで、暁人は一気に懐かしい気持ちになった。
「久しぶりだね、正子ちゃん!」
暁人の言葉に、濃いメイクをした、蒼介によく似た顔が不満げになる。
「正子って呼ぶなって言ってんじゃん。昔みたいにまーちゃんって呼んでよ」
「い、いや……さすがにそれはちょっと恥ずかしいっていうか……まだ僕思春期だから……」
黒縁眼鏡を返してもらった暁人の頭を正子がワシャワシャワシャッと撫でた。
「可愛いな~あきちゃんは! うちの蒼介と違って本当に可愛い!」
「あおくんも可愛いところあるよ」
「まだ蒼介のこと『あおくん』って呼んでるんだ! やっぱり可愛い!」
蒼介と同じくらいの背丈の正子が暁人をさらに撫でようとするが、蒼介にその手を止められた。
「なにさ。蒼介は相変わらずスカしちゃって可愛くないね」
「まだまだ可愛い盛り真っ只中の男子高生だろうが。――で、なにしに帰ってきたんだ?」
「言い方悪ぅ~。あきちゃん、聞いてた? 今の言い方」
「聞いてた。あおくん、その言い方はよくないよ」
「………………なんで帰ってきたの?」
二対一で分が悪い蒼介が聞き直す。それに正子がにんまりと笑うと、すぐにつまらなそうな顔になって返した。
「うちの年寄り達に呼ばれたんだわ。蔵の掃除しに帰って来いって」
「それだけのために!?」
暁人が驚いたように声を出す。しかしまだ深森家の敷地内なので、すぐに両手で口を塞いだ。そんな暁人の頬をおもしろそうにツンツンとつつく正子が、目に影を落としながら言う。
「蔵の掃除は、代々女しかやっちゃいけないの。本当は本家の初枝おばあちゃんがやるはずだったんだけど、おばあちゃん背骨やっちゃったでしょ? だからあたしに白羽の矢がぶっ刺さったってわけ」
「正子んとこのおばさんは?」
「お母さんは外からの嫁だからね。外様の女にもやらせられないのよ」
「それでわざわざ来たんだ……てるくんが、正子ちゃんもそろそろ帰るって言ってたけど、まさか今日だったんだね」
「そうえば輝也も実家帰るって言ってたね。――ま、それで、今日蔵の掃除に戻るって蒼介の恵子おばさんに電話で話したら、夏牡蠣仕入れたから食べおいでって。だからこのタイミングで帰ることにしたんだ」
「え、じゃあ今日は正子ちゃんも一緒なんだ!」
「そうだよぉ~~あきちゃんの牡蠣は全部あたしが食べるからねぇ~~」
「ひええ」
昔に戻ったようにふざけあう二人だったが、蒼介だけが暗い顔をしていた。
「なに、蒼介。あんたも牡蠣の心配してるの?」
「んなわけあるか」
蒼介は少し言いづらそうに逡巡すると、視線をチラッとある場所に向けた。
「その……蔵って、あの蔵のことか?」
正子も同じ方向を見る。
その視線の先は蔵だ。三つある蔵の中でも一番大きく存在感のある蔵を見ると、正子は淡々と「そうだよ」と返した。
「そうか……悪いな、正子に重荷がかかって」
「っは」
正子が鼻で笑う。メイクと服装から相まって、迫力のある笑いだった。
「男のあんたに言われて、悪い気がしないってのが、あたしも深森の人間なんだろうね」
そして、ぞっとするほど低い声で、「ま、そんな風習、あたしの代でぶち壊してやるけどね」と続けた。
正子は生家である本家の正面玄関前に体を向け、ギロリと睨みつける、口を小さく動かす。
「……っ」
その声を、突然吹いた生温い風が、暁人の耳にだけ届けた。
「じゃ、牡蠣食べに行こ! おばさん、あたしの手土産見たら喜ぶぞ~!」
「暁人もロールケーキ持って来てくれた」
「うっそ……かぶったわ」
「――暁人?」
ついてこない暁人に蒼介が振り返る。
「どうした?」
不思議そうな顔をする蒼介に、暁人ははっと我に返って駆け寄った。
「ごめんごめん。ぼーっとしちゃってた」
「夏牡蠣が待ってるんだろ? 早く行こう」
「うんっ」
――暁人は、聞き間違いだと思うことにした。
深森家を睨みつけた正子の口から、「祟られろ」と、聞こえたことは。
