幽霊はエロいことが苦手らしい

 防球ネットの向こう側には、かつて一軒家があったそうだ。
 そこには女性が住んでいたのだが、体を患ってからはずっと寝たきりの生活だったらしい。そんな彼女の楽しみは、窓から見える澤見高校の野球部の活躍だった。暑い日も寒い日も、窓を開けて部員達の声を聞き、調子が良い時は窓際に椅子を置いて見ていた。
 だから、よく分かっただろう。防球ネットを越えて転がってくるボールの位置が。
 彼女はきっと、ボールを探しに来た部員達に伝えたかったはずだ。
 「ボールはあちらにありますよ」、と。

「訪問着を着てたのは、きっと観戦してる気分だったんじゃないのかなぁ」

 コンビニで買った肉まんを食べながら、暁人は山際のコンクリートの上に座りながら言った。ここはきっと、老女が住んでいた家の跡地なのだろう。

「よくそこまで分かったな」
「この前、ここで犬を散歩させてるお年寄りがいて、聞いたら教えてくれたよ」
「すご……暁人、お前すごいな」

 初対面の人との会話が苦手な蒼介が、心の底から尊敬しているまなざしで暁人を見た。

「褒美に最後の一口やるよ」
「やった!」

 最後の一口になったピザまんを口元に運ばれ、暁人は嬉しそうにパクリと食べた。
 今日は天気があまり良くなく、ずっと分厚い雲に覆われている。夜になったら大雨が来そうな天気だ。照らす夕日も今は雲の後ろに隠れてしまい、いつもと比べるとあたりはずっと薄暗い。
 そんな中、二人は人を待っていた。

「あ、来た」
「遅せぇよ」

 同時に放たれた言葉に、二人の待ち人である大雅は小さく手を上げて「悪い」と返した。
 今日野球部は部活が休みのはずなのに、大雅はユニフォームを着てスパイクも履いていた。

「お前が今日は部活内から放課後すぐに行けるって言うから、こっちも都合合わせてるのによ」
「だから悪かったって。うちの担任のありがたいお言葉が長引いちゃってさぁ」
「あ~轟んとこの松原先生、ちょっと話長いよねぇ」

 そんな話をしながら、轟がエナメルバッグからグローブを取り出した。

「準備は万端だね」
「おうよ」
「何度も言うが、グローブは必要なのか?」
「やってみないと分かんないじゃんねぇ」
「ほんとよねぇ」

 三人がわざわざ集まった理由。それは、今まで探せなかったボールをもう一度探すためだ。――先日の、老女の力を借りて。

「じゃあ、始めようか」
「よっしゃ!」
「叫ぶなよ」

 あの日。ボールが見つかって、老女の目的が判明した時、あんなに怖がっていた大雅が言ったのだ。

「……ボールの場所を教えてくれるんなら……別に今のままでもいい、かも……」
「はあ?」

 そして今回。暁人が仕入れた情報を聞いて、大雅は改めてこのままでいいと言い切った。

「ただ野球が好きなばあちゃんってことじゃんな」
「ま、あ……そう、だね……?」
「見た目はちょっと――いやだいぶ怖いけど、慣れるだろ。なら、ボールの場所教えてもらうほうがありがたいわ」

 突然現れる老女に驚くのは一瞬。しかし、ボールが見つからないのはずっとだ。
 それなら、老女にボールの場所を教えてもらうほうがいい。大雅はそう思ったらしい。とんでもない心臓の持ち主である。

「……野球バカ」
「聞こえたぞ根暗」
「やめなよぉ……」

 蒼介と大雅がお互いへ小石のような悪口を投げつけ合いながら、桜の木々の間に入る。
 老女の幽霊は部活中のユニフォームを着た大雅とチューニングが合う。大雅は今、自主練という体でここに来ている。これでおそらく、老女の幽霊は姿を現すはずだろう。

「――ひぐ、ぅ……!」

 そう思っているうちに、さっそく老女が現れた。誰よりも先に気が付いた暁人の口から潰れたような悲鳴が聞こえたが、それを両手で塞いで何とか耐える。
 老女は先日と同様、訪問着を着て地べたに直接正座していた。そして品の良い笑顔を浮かべ、前とは違う方向を手で示した。
 そしてその先には、やはりボールがあった。

「あった!」
「こっちもあったぞ」
「何個あんだよ……」

 老女が現れ、示す先へボールを取りに行く。すると老女は消え、少し木々を見つめる角度を変えるとまた出てくる。そのたびに手の向きが違うので、また探せば古いものから新しいものまで、長年にわたって隠れていたボールが見つかった。
 探し出したボールが二十を超えたあたりで、三人の探索は止まった。

「出てきたねぇ」
「出てきたなぁ」

 大雅が持ってきたビニール袋いっぱいに入ったボールを見てしみじみと言う。

「つまり……あのおばあちゃん霊は、良い幽霊だったってことか?」

 大雅の質問に、暁人は難しそうな顔で答えた。

「ん~~……幽霊に良いも悪いも実はそんなになくて、みんなただいるだけだったり、見てほしいとか、そういう気持ちで出てきてる。悪意を持っている幽霊っていうのは、本当に本当にやばい奴だけだと思う」
「そうなのか……。まあでも、俺は助かったし、この人は良い幽霊ってこととにしておこう」
「だね」

 ふと、うなじに風を感じた気がして暁人が後ろを向いた。

「っ……」

 数メートル先に、老女が座っていた。
 手はどこも差してはいない。ただ、膝の上に優しく置かれているだけだ。
 老女はただボールの位置を示しているだけだと分かっているのに、幽霊だからどうしても怖い。でもやっぱり、悪意や嫌な感じのする雰囲気は感じられなかった。

「あ」

 暁人に続いて老女に気が付いた大雅が一歩前へと出る。
 先程の言葉通り、もう老女に対する恐怖は薄れているようで、暁人はその度胸に驚いた。少し、羨ましいと感じてしまうほどに。

「今までビビっててすみませんっ! ありがとうございましたっっ!」

 帽子を脱いで、野球部らしい挨拶をした。そして、顔を上げるころには、老女の姿は消えていなくなっていた。

「――エロキス、いらなかったねぇ」
「いらなかったな」

 見つけたボールを部室に戻って綺麗にする。と言って、大雅は部室棟へと行ってしまった。
 残された二人は、いつもならするはずのキスをしなかったことをぼんやりと振り返っていた。
 もにもにと唇を食みながら暁人が言う。

「……なんか、いつも幽霊を見た時はキスしてたから、変な感じするね」

 二人の間に流れる、あまり経験したことのない空気を和らげようとして言った暁人に、蒼介が「そうだな」と短く返した。そして、

「物足りないんなら、しておくか」
「へ――」

 気付いた時には、もう蒼介は目の前にあった。
 ふに――
 目を大きく見開き、今何が起こっているかを整理をする。
 触れ合った唇は湿っていて、熱くて、ぬるっとしていて、くっついた上の唇と下の唇の間に舌が割り込まれようとして――

「おぎゃーーー!!」

 両手をまっすぐに突っぱねて蒼介を遠ざける。

「ななななん、な、なに、なにするのさ!」

 暁人の顔がカカカカッと赤くなるのが分かる。赤は顔から始まり、首、耳、額、全身と、見事なまでに暁人を染め上げていく。

「いや。物足りなさそうな顔してたからキスしてやろうかと思って」
「そんな顔してません!」
「唇モグモグさせてたじゃん」
「そっそれはっ! 唇についたピザまんの味が美味しくて! それでモグモグさせてました!」
「ああ、確かに唇の端に赤いのついてたな」
「そんな口にキスしようとするな!」

 肩で息をしながら言う暁人に、蒼介がポツリと、「俺は構わないけどな」と言う。暁人はぐったりと疲れたように肩を落とす。

「ぼ、僕がかまうんだよ……それに、幽霊退治もしないのにキスするなんて、おかしいでしょ……」
「……そうか」

 ――ぴり、と、空気が張った気がした。
 蒼介の声がやけに冷静な声音に聞こえた。何かに対してむっとしているのは、長い付き合いである暁人にはすぐに分かった。
 だが、何に対してなのかが、」分からなかった。

「そ――」

 だから、とりあえずこの場を和ませようとしたのだ。

「そうだよぉ。だってあおくん、幽霊退治でもないのに僕とキスするなんて、変だと思うし、嫌でしょう?」
「……暁人は?」

 まさか聞き返されるとは思っていなかった。
 思わず、「へ、え?」と、バカみたいな返事をしてしまう。

「暁人は、幽霊退治でもないのに俺とキスするの、変だと思うし、嫌だと思う?」
「そ、れは……」

 答えはもちろん、「はい」だ。

「だって、僕達、ただの幼馴染だよ?」

 そう。暁人と蒼介は幼馴染だ。ただの、古くからの付き合いだ。
 恋人同士なら分かるが、ただの古くからの友人関係で、キスはしない。

「か、海外の人なら、分かるけど

 苦しまぐれに言った言葉は、蒼介の脇を通り抜け、すとんと地面に落ちた。

「そうか」

 ぽつりと返された声。それはなんだか聞いたことのない声に感じられて、暁人は蒼介の顔を見た。
 もう、日が完全に落ちて、周囲は暗闇に沈んでいる。それのせいなのか、蒼介の顔もこんなに近くなのに、まったく見えない。
 暁人は、恐怖を覚えた。

「あ、あおくん。暗くなってきたから、そろそろ――」

 真っ暗な顔から、声が聞こえた。
 蒼介の声だ。間違いない。だって蒼介はここにいるし、これまでもずっと一緒にいた。
 それなのに、幼馴染の蒼介の声は、なんだか違く聞こえたのだ。


「――だから俺は、お前のことを『あきちゃん』って呼ばなくなったんだよ


「え……それって、どういう意味……」
 
 返事は、ない。
 暗く、輪郭しかわからない蒼介が、小さく息を吐いたのだけがかろうじて分かった。

「いや、なんでもない」
「あ、あおく――」
「帰るぞ。もうめちゃくちゃ暗いじゃねぇか」
「う、うん……」

 まだ困惑する暁人の手を蒼介が握った。その手は、いつもと変わらない固さと熱を持っていて、そのことに少しだけ安心した。

「足元気をつけろよ」
「うん。ありがとう」

 手を繋いで、おっかなびっくり木々の間を歩いていく。
 その姿はまるで、保育園の頃のお散歩のようだ。
 「あおくん」「あきちゃん」と、お互いを呼び合っていた、あの頃。
 変わらない蒼介の優しさと熱を感じながら、暁人の頭の中には、彼がどうして自分を「あきちゃん」と呼ばなくなったかの疑問だけが、胸に重く残っていた。