幽霊はエロいことが苦手らしい

 轟大雅は野球少年だった。
 父の影響から地域の少年野球クラブに所属し、中学校三年間もずっと野球部として過ごしていた。高校に上がってからも当然のように野球部へ入部し、つい先日まで最高学年として君臨していたが、今は下っ端として先輩方のフォローと練習に明け暮れていた。
 先輩への球出しや、道具の整理、グランドの整理、打撃練習のボール拾い。様々な雑用をこなしていったが、顧問や先輩の人柄もあって、中学校時代は苦痛で仕方がなかった雑用も苦ではなくなっていた。それこそ、この野球部に入れて良かったと思えるほどに。
 しかし、最近はその考えが曇ってきているというのだ。
 野球部が練習に使っているのは第一グランドで、そこにはボールが敷地内を飛び出さないように緑色の巨大な防球ネットが設置されている。防球ネットの上をボールが越えることはあまりないが、防球ネットの痛みやすい下部分に開いた穴から転がり出てしまうことはしばしばあった。
 澤見高校は山際にある学校で、防球ネットのすぐ向こう側には山際となっていた。さらにそこには学校をぐるりと囲うようにして植えられている桜の木々があり、防球ネットを潜り抜けていったボールは桜と山際の木々の間へと消えて行ってしまっていた。そんなボールを探すのも、一年生の仕事だった。
 学校の外周の桜並木と山際の間には、昔は綺麗に舗装されていたであろう、荒れた細い道があった。しかしそこは昼間でも薄暗く、その道でなく山のほうへボールが行ってしまったら見つけることは至難の業だ。

「それ自体は別にいいんだよ。探してればいつか見つかるし……最悪、なくなっても報告するだけだから。……だだ、その探すのが、怖いんだ」

 ――最初は、キノコだと思ったらしい。
 樹齢数十年以上の桜の太い幹から見えたのは、白く、湿っぽいなにかだった。
 最初は白がボールに見え、喜んで駆け寄ったが――早い段階でそれが、ボールのように丸い形をしていないことに気が付いた。茂る木々のせいで薄暗い中、それは横に平らな形をしていた。

「木って、キノコとか生えるじゃん。なんだっけ、サルノコシカケ?」

 キノコには興味も関心もなかったが、まじまじと見てしまうくらい大きなキノコだ。

「めちゃくちゃでかいな、人の手くらいあるなって、思った」

 瞬間、血の気が引いた。
 それはキノコではなく、手だったのだ。
 桜の木の陰から、まるで降る雨を受けるように上を向いた手が、そこにあったのだ。
 スパイクを履いた足が止まる。視線も、動きも、呼吸さえも止まってしまう。怖い、というよりは、見えてはいけないものを見てしまったと感じた。
 大雅はどんどんと闇が深くなっていく中、やけに白い手をしばらく見つめ続けたのだという。

「それで俺、自分でも分かんないんだけど、確かめなきゃって、思ったんだ」

 それが手なのか、キノコなのか。はたまた、探しているボールかもしれない。
 大雅はゆっくりと足を前に出した。落ちた枝を踏んでパキンと軽い音が鳴るのが、」心臓が飛び出るほど怖かった。
 そして、その結果は――

「やっぱり手だった」

 白く、湿っぽい、上を向いた手。
 大雅は大きく肩で息をしながら「確認しなければ」という強迫観念に駆られた。あの手は桜の木の陰から見えている。ならそれを、一度しっかりと裏側まで確認しなくては、と。
 そして確認したのだ。手が見える桜の木を大きく迂回しながら。
 するとどうだろう。桜の木の陰から見えていた手に、手首が見えた。白く、えぐれるように筋が目立つ、年寄りのような手首。
 そして手は、回り込んで移動すればするほど、見る角度を変えれば買えるほどに、見える面積を増やしていった。
 手から手首、手首から前腕、二の腕、肩、そして、顔――

「桜の木の後ろに、人がいたんだ」

 藤色の訪問着を着た、正座した老女。
 着物の上からでも体が痩せ細っているのが分かる。落ち窪んだ目は少し濁っていて、唇は紅でも引いているのか不自然に赤い。
 そんな老女が、木々が生え、雨でぬかるんだ地面に正座しているのだ。

「そもそも、そこにいたんなら、手が見えた時点で体のどこかが木からはみ出してなきゃおかしいんだ」

 大雅が移動するのに合わせて、ゆっくりと桜の木と空間の間から現れた老女は、手をそのままに、うっすらと微笑んでいたのだという。

「ぅう……」

 暁人の背中に悪寒が走る。原因は、大雅が話を聞く代わりに奢ってくれたコンビニの肉まんでないことだけは確かだった。

「だから俺さ、ボール拾いに行くの、ちょっと嫌になっちゃってさ……」
「その幽霊は毎回出てくるの?」
「毎回いる。でも、場所は毎回違う。だから、いつ出てくるのが分からないから、怖いんだ」
「そっか……」

 階段裏の幽霊や、ゆっくりと近付いてくる図書館の幽霊なら、どこで姿が見えるのか予想が付く。しかし、今回の老女の出現場所に法則性はなさそうだ。

「ボールは見つかったのか?」
「……そこ気にするかぁ?」

 暁人と同じく、大雅から奢ってもらったアイスを食べた蒼介が露骨にむっとした顔をした。

「野球部員としてのお前を気遣って聞いてんだよ」
「はいはい。ありがとうございます~。……ったく。深森ってほんと、顔はイケメンなのにちょっとズレてるんだよなぁ」
「暁人、もうこいつのことは放って帰ろう」
「うそうそ! 嘘に決まってんじゃん! ったく、短気が……ボールは見つかってねぇよ。というか、もう怖くて探しにも行ってない。ボールが向こう側に行ったら、少しだけ陰に隠れといて『見つかりませんでした』って言って戻れば誰も疑わないからな」
「はぁ。崇高な精神の野球部員だことで」
「ストップストップ!」

 一触即発とはこのことだ。開戦のハンマーが振り下ろされる直前の二人の間に暁人が割込んだ。

「二人とも突っかかり合うのやめてよ! 僕の神経が磨り減る!」
「……ごめん」
「……悪かったよ」
「とりあえず、今からその場所に行ってみようよ」
「え、今からか」

 大雅がポケットから取り出したスマホで時間を確認する。
 時間は六時半。クラスマッチ後のなんやかんやで今日は全校生徒の帰宅が遅く、まだ校内に人は残っていたが、空はもう暗くなっている。完全な夜になるのはあっという間のことだろう。

「そう。とりあえず確認することに越したことはないからさ。それに、防球ネットなんてすぐそこだし」
「いやまあ、そうだけどさ……」

 口ごもる大雅に、蒼介がまたいらないことを囁いた。

「お前、怖いんだろ」
「はあ!?」
「真っ暗闇の中、幽霊が見えたらどうしようって不安なんだろ。そんな暁人を、お前はずっとからかってきたわけだが」
「だからストップだって!!」

 また寸前のところで振り下ろされそうになったハンマーを止め、三人は防球ネットまで学校の外周を歩いて移動した。
 入学した時には薄桃色の花を咲かせていた桜の木は、今は青いくらいに葉が茂っている。例の防球ネットの後ろに回れば、すぐそこにある山際と桜の木々の間に舗装が剥がれてほぼ土の地面になった細い道があった。

「防球ネットって、改めてみると大きいねぇ」
「五メートルはあるって聞いたな」

 薄暗い中でも、防球ネットの鮮やかな緑はよく見えた。防球ネットは数年前に取り換えたらしいのだが、地面に近いネット部分は少し擦り切れていたり泥汚れが目立っていた。
 やはり大雅の話通り、山に近いからか、闇がより深く濃く感じられる。道も山に続くものだからか人通りはほとんどなく、この中でボールを見つけるのはなかなか骨が折れる作業だろう。

「前は、あそこらへんにいた」

 大雅が指さす先には桜の木があり、暁人が蒼介に張り付きながらが回り込んでみても何もいなかった。

「んー……」
「なんか見えたか?」
「いや、何も見えないし、聞こえない」
「そっか……でも、本当にいたんだ。本当に俺はこの目で見たんだよ」

 嘘だと思われると思ったのか、不安そうな表情で焦ったように大雅が言う。そんな彼を安心させるために、暁人はゆっくりと、穏やかに頷く。

「うん。分かってるよ。轟が嘘ついてないって」
「え……」
「こんなに必死なんだもん。疑う気持ちなんて一ミリもないよ。ね、あおくん」
「……まあ、そうだな」

 ふいっと、蒼介の視線が下に行く。暁人の言う通り、蒼介は大雅の発言に突っかかってはいるものの、その発言を信じていないわけではなかった。
 ただ、自分が当事者になってから、ようやく暁人への姿勢を直したことが気に食わなかったのだ。そんな蒼介の気持ちを知ってか知らずか、暁人は心春や乃々羽の時と同じように寄り添う。

「きっと今は、チューニングが合っていないだけだと思う」
「チューニング……? 幽霊との電波、みたいなことか?」
「そう。轟は、今までどのタイミングで幽霊を見たか覚えてる?」

 大雅は視線を右に寄せると、これまでのことを思い出した。これまで、手が、老女が、見えた時のことを……それはすべて、部活中であったことを。

「……全部、部活中だ。体育の時とか、今日とかは見えなかった。ソフトの時に野球部はボールが敷地外に出ないように拾う係だったんだけど、その時もいなかった」
 
 三人が顔を見合わせる。

「もしかしたら……」

 そこにいた三人が、同じことを思った。