幽霊はエロいことが苦手らしい


「あれぇ!?」

 二人で新平のスキンケア用品をふんだんに使い、普通に怒られ、業務用の大きなドライヤーで髪を一瞬で乾かしてリビングに行くと、さっきまでいなかった顔があった。
 思わず暁人が大声で叫ぶ。

「てるくん!」

 そこには、県外の大学に通い、一人暮らしをしている暁人の四歳上の兄、輝也がいた。
 二人に背を向けたソファに座っていた輝也は、首だけをそらせてこちらを見ると、「おー、久しぶりぃ」と力の抜けた声で言った。
 輝也は新平にそっくりな顔立ちだが、新平と違いテンションの低い話し方や覇気のない表情から、脱力したような雰囲気がある。暁人と同じように眼鏡をしているが、これは最近の流行の型のシンプルなフレームの眼鏡だ。
 そんなローテンションな彼だったが、その目に蒼介を映した瞬間に豹変した。

「お前、あおくんか!?」

 ガバッと立ち上がって距離を詰める。まるでさっきの新平のリプレイだ、なんて思って、蒼介は同じように苦笑した。

「お久しぶりです、輝也くん」
「おまっ、あおくんお前……! 見ないうちにずいぶんカッコよくなっちゃっても~!」
「輝也くんも、なんか都会の大学生って感じするよ」
「や、やだ! 昔みたいにてるくんって呼んで!」
「……おじさん、なんか手伝えることあります?」
「あおくぅん!」

 明るい雰囲気の家の中に、穏やかな笑い声が満ちた。
 聞くと、もともと輝也は今週末に大学のサークルメンバーで旅行に行くらしく、ついでに実家に顔を出しておこうと一人だけ先に出発して家に寄ったのだという。
 ひとしきり近況を話し終えた輝也は「そうそう」と蒼介に話を振った。

「あおくんの従姉妹の正子さんも、近々帰るって言ってたぞ」
「正子が?」

 正子というのは、輝也と偶然にも同じ大学に進学した蒼介の従姉妹だ。蒼介よりも六歳年上で、小さい頃は暁人もよく遊んでもらっていた。
 どうやら輝也と正子は同じサークルの先輩後輩の仲のようで、地元が一緒ということでよく話したりして親しい友人関係にあるようだ。

「詳しくは聞いてないけど、なんか野暮用があるって」
「本家の大叔母さんが背中痛めたって聞いてるんで、もしかしたらそれ関係……かも?」
「あおくんちの本家、そんなことになってんだ。でも、そこまで正子からは聞いてないなぁ」
「そうなんすね……あんまりこっち帰ってきたがらないって、本家の人達が言ってたけど……」
「一人暮らしすると、めちゃくちゃ実家に帰りたがる奴と、帰りたがらない奴で二極化するからなぁ」
「……まあ、正子の気持ちもわかる気がするけど」

 蒼介の言葉に新平と暁人が曖昧に笑い、輝也だけがその意味がよく分からないようだった。

「ほら、二人ともご飯できるまで二階に行っておいで。輝也は手伝って」
「ええっ、俺久しぶりに帰ってきたのに!?」
「あおくんはお客さん、輝也は帰ってきた家族。分かるだろ?」
「……へーい」
「じゃ、サラダでも作ってもらおうかな~」

 これ幸いと二階への階段を上り始めた暁人に、輝也がキッチンへと向かった新平を気にしながら声をかけた。

「おい、暁人」
「ん?」

 輝也は持ってきた旅行バッグの中から、厳重に封をした封筒を取り出した。

「ほれ。新しい『除霊グッズ』」
「あっ! ありがとう!」
「バカアホ静かにしろ!」
「ごめん!」

 二人のやり取りを、階段の途中で放っておかれた蒼介が何とも言えない顔で見ていた。

「明日花からも預かってるぞ」

 明日花は暁人と輝也の姉だ。輝也と同じく、県外の大学に進学し、学業と就活と趣味に明け暮れている。先程輝也が言った二極化する大学生の、帰ってこない側の人間だ。

「え? あーちゃんからも?」
「おう」
「元気にしてた?」
「めちゃくちゃ元気そうだよ。就活も終わって、今は友達と二人でイベントのための原稿に明け暮れてるから、しばらくこっちに帰れないって」

 差し出された封筒を暁人が受け取った――が、輝也はその封筒を離さず、暁人に言い聞かせるようにゆっくりと言った。

「……いいか、絶っ対に、父さんと母さんに、ばれないようにしまえよ。もしばれても、自分のものだって、言い切れ。もし俺達を売ったら、心霊スポットに置き去りにするからな」
「もちろん! 心霊スポットで両手両足縛って放置してくれていいよ」
「よし」

 返事に満足したのか、封筒からようやく手が離れる。封筒を大事そうに抱えた暁人の眼鏡に輝也が手を伸ばした。

「お前、本当にその眼鏡かけてるのか」
「うん。……え、もしかして返してほしいの? だめだよ。俺、高校で眼鏡男子デビューしたんだから、返してって言われても返したくないよ
「いやそんなことは言わないけどさ……」

 輝也は暁人のかけた眼鏡をジロジロと何かをチェックするように見ると、「ほどほどにしておけよ」とだけ言ってキッチンへと消えていった。

「輝也さん、なんか眼鏡のこと言ってなかったか?」

 主がいない部屋に勝手に入るわけにもいかない蒼介が、ようやく二階へと上がってきた暁人に言う。

「言ってたね」

 指の背でくいっと上げた黒縁眼鏡は、相変わらず度が強いのか、向こうの景色をかすませて見える。

「これ、てるくんが高校生の時に使ってた眼鏡なんだよ」
「もしかして、レンズもそのままなのか?」

 それなら「ほどほどにしておけよ」の意味が分かる。暁人の目の悪さに合わせたレンズでないのなら、かえって視力を悪くする原因にもなるからだ。

「まあまあ、そんな感じだよ」
「ずいぶん適当にあしらうんだな」
「だって、せっかくクラスで眼鏡キャラを確立させてるのにさぁ。目を眼鏡に合わせるからいいんだよ」
「いやなにがいいんだよ」

 蒼介の至極真っ当な意見を暁人は「うんうん」と適当に頷いて流し、自室へのドアを開ける。

「うわ、また本増えたか?」

 小野家はクリーム色の壁紙と、木目調が美しいテーブルやカウンターのあるモダンで明るい雰囲気の家だ。なのに、暁人の部屋はその片鱗が一切ない部屋だった。
 なぜなら、暁人の部屋にはホラーやオカルトに関するなんとも胡散臭い本がぎっちりと詰まった本棚がいくつもあり、その本の背表紙の暗い色が部屋全体を重苦しいものにさせていたからだ。

「そうかな? そんなに増えてないと思うけど……」

 狭い部屋の中に本棚と勉強机とベッドがあり、床が抜けそうな、なんともみっちりとした部屋だ。

「相変わらず狭いな」
「だって~広いと自分以外に誰かいそうで怖いんだもん」
「ん~……?」

 首をひねりながら、蒼介はいつものようにベッドの上に座った。暁人もその隣に当然のように座り、先程輝也から手渡された封筒を開けていく。

「……『除霊グッズ』か」
「そう!」

 何重にも重ねられて中身が透けないようになった封筒の中から出てきたもの。
 それは、ちょっと親には見せられないような、卑猥な表紙のエロ漫画だった。

「おお……! これはエロい!」
「エロイネェ」

 棒読みの蒼介を気にすることなく、暁人は中から次々と漫画を取り出す。カラフルなイソギンチャクのような生物に体をからめとられているセクシーで強そうな女性が書かれた漫画、筋肉質な女性が謎の生命体と戯れている漫画……。

「相変わらず、あーちゃんの好みはブレないなぁ」
「昔っから強い女キャラが出てくる漫画とか好きだったもんな、明日花さん……」
「ね! あ、こっちのはてるくんだ」

 次に出てきたのは、悩まし気な表情を浮かべている容姿端麗な青年が表紙の漫画だった。その後も、危うく局部が見えそうになっている表紙や、とろりと蕩けるような表情の青年が描かれた漫画が出てくる。

「……輝也さんも、ブレないな」
「ねっ! てるくん、よく『お前達が身内じゃなければな』って言ってるもんね」
「………………そうか……」

 暁人はすべての漫画を並べると、満足したように腕を組んでうんうんと頷いた。

「これはいいピンク結界になりそうだよ」
「ヨカッタネェ」
「よし。じゃあ早速やろうか。あおくんも手伝ってくれる?」
「……はい」

 二人は立ち上がり、ベッドの上の敷布団をめくり上げ、その下のマットレスをあらわにさせた。……そこには、何冊ものエロ漫画が敷き詰められている。
 暁人はもらった漫画の中から、一番エロい表紙の一冊を選ぶと――選ばれたのは、明日花の本だった――それだけを端によけて置き、残りを全てマットレスへ敷いていく。そして布団を元通りに戻し、選んだ一冊はベッドと壁際の隙間へと隠した。

「これで良し!」
「オツカレェ」

 ぱち、ぱち、と、蒼介が感情を消した顔で形ばかりの拍手をする。

「これでより強固なピンク結界になったね! 万が一の時は、ここに隠しておいた、とっておきを取り出せば問題なし!」
「ソウダネェ」

 ――そう。エロいキスで幽霊退治をする暁人の言う除霊グッズとは、エロ漫画のことなのだ。
 暁人は、物心ついた時から幽霊が見えていた。そして不幸なことにとても臆病な性格だった。だから暁人は、自分が見えているものを知るために、自分を守るために学ぼうと努力したのだ。
 それは胡散臭いオカルト書であったり、作者が分からないコンビニで売っているような不思議な本だったりを古本屋に通っては買い集めていた。ホラー映画や漫画も、研究のために蒼介に家に来てもらって、震えながら背中に隠れて見ていた。
 そしてある時、努力がついに実を結び、暁人はある結論へと至ったのだ。
 それは、「幽霊はエロいことが苦手らしい」というものだった。
 初めてそれを蒼介に話したのは、中学生になった頃だった。

「幽霊はエロいことが苦手って……暁人、お前ついにおかしくなったか」
「違うんだって! 本当なんだって! 僕の研究結果によると――」
「胡散臭いオカルト本知識の詰め合わせだろ」
「ちゃかすな! で、研究結果によると、エロいことは生きている人間しかできないでしょう!? 幽霊がエロいことするの見たことある?」
「……見たことあるのか?」
「ないんだよ! だから、幽霊は性に弱いんだよ! ほら、ホラー映画とかでセックスする二人ってすぐに死んじゃうか片割れが死んじゃうでしょ? あれって、やっぱりそういうことなんだよ」
「どういうことなんだよ」
「生のパワーが強いから、幽霊が早めに消したがるんだよ! だから序盤にいなくなるんだよ」
「……そう、かなぁ?」

 そんな持論を繰り広げた数日後、暁人に転機が訪れる。
 自分の部屋でのんびりとオカルト雑誌を読んでいた時のことだった。ふと、部屋の雰囲気が変わった気がして顔を上げると、窓の外に、真横を向いて立っている男性がいたのだ。
 暁人は悲鳴を上げた。が、すぐに歯を食いしばると、その時はまだ家にいた輝也の部屋へと駆け込み、彼の秘密の隠し場所からエロ漫画を持ってくると窓の向こうの男へと見せつけた。そして恐る恐る目を開けたころには、幽霊はいなくなっていたのだ。
 やはり、幽霊はエロが苦手なのだ。
 身を持って実感した暁人は、すぐに行動に移った。特殊な趣味をお持ちの姉と兄に、エロ漫画を分けてもらおうとしたのだ。
 強い女性がアララとなる作品が好きな明日花と、見目麗しい青年同士がウフフとなる作品が好きな輝也は、早い段階でお互いの好みを暴露し合い、両親の目からお互い助け合っていた。そこに自分達の趣味趣向を知らないはずの怖がりな末の弟から、「僕を助けると思って、いらないエロ漫画をちょうだい」と縋りつかれたのだ。
 最初は何事かと思い拒否したが、話を聞くとどうやら自分達の弟は、幽霊はエロいものが苦手らしいので、自分達のエロ漫画をお札よろしく使わせて欲しいということだった。
 正直、弟のことは可愛いし愛していたが、幽霊が見えているということについては半信半疑だった。とはいっても、大好きな弟の頼みである。絶対に両親には見つからないようにと念を押し、二人はいつ現れるか分からない幽霊の影におびえる弟に、エロ漫画を預けるようになっていたのだ。だから明日花と輝也は、家に帰ってくるたびに暁人へ新しいエロ漫画を『除霊グッズ』として渡していた。そうして、暁人は家で幽霊を見てしまった時は、エロ本でできたピンク結界のあるベッドに行けば安心できた。
 そして、中学の下校中に幽霊に遭遇した時。暁人は蒼介にお願いしてエロいキスをしてもらって幽霊を撃退し、それが今の幽霊退治方法に繋がっていたのだ。

「いやぁ……」

 下にエロ漫画が敷かれたベッドへ腰かけ直すと、蒼介がしみじみと言う。

「理解のあるご兄弟をお持ちで」
「へへ……自慢の姉と兄ですぅ」

 エロ漫画のお下がりをもらうということが自慢になるか、兄弟のいない蒼介にとっては謎だったが、暁人の家族仲が良いのは確かだ。
 美容師の輝也と、いわゆるバリキャリであり小野家の大黒柱でもある穂香。二人はなかなか休みが揃わなかったり、長期休みが取りにくい職業ではあったが、その分子供達には溢れんばかりの愛情を注いで育ててくれた。末っ子である暁人に至っては、両親に加えて姉と兄からの愛も注がれているのだ。

「お前がまっすぐで、誰かを助けるのに躊躇わない人間に育った理由がよく分かるよ」
「また僕のことお節介って言ってる……」
「言ってない。褒めてるだけ」
「ほんとぉ……?」

 いぶかしげに眉間にシワを寄せる暁人の額を指で弾く。

「本当。うちの両親と俺の三人をまとめて小野家の養子にして欲しいくらいだよ。うちの頭が古くてカチカチな本家の人間と違って、暁人の家族はみんなあったかい」

 蒼介の家は、昔からこのあたりに住んでいる人間なら知らない人はいない、古くから続く大きな家だ。旧深地村に本家があり、本家の周りを囲うように分家がある。蒼介はその分家の一つの出なのだ。

「……ありがとう」

 暁人は蒼介の家のことを否定をすることはせず、ただ自分の家族を褒めてくれたことに感謝した。
 さっき輝也が言った、帰りたがらない大学生の話。明日花が帰らないのは、趣味に忙しいからだ。しかし、蒼介の従姉妹で本家の唯一の子供である正子が帰らないのは、男尊女卑が色濃く残る実家が嫌だからだ。
 小さい頃、正子と遊んでいた暁人も、正子から家の話をよく聞いてた。

「そんなこと言ったら、お母さんが本当に手続き進めそうだから黙っとくね!」

 ふざけたように言えば、蒼介が目を細めて笑ってくれた。

「ああ。くれぐれも口滑らすなよ。――っていうか、輝也さん、変わんないなぁ」
「そうかな」
「俺のこと『あおくん、あおくん』って」
「あー……それは、僕が家でもあおくんって呼んでるからかもしれない」
「つまり、お前も変わってないってことだな」

 ザァアアア、と、窓の外の雨の音が大きくなった。窓ガラスで弾ける雨粒は大きく、怖いくらいの勢いがある。
 そんな音が満ちる狭い箱の中で、二人はぼんやりと同じ方向を見ながら続けた。

「変わってないかなぁ。そんなことないと思うけど」
「変わってないよ。お前、俺のこといつまで『あおくん』って呼ぶつもりだよ」
「そりゃこの先ずっと呼ぶつもりだよ。あ、もちろん、TPOはわきまえるけどね」
「本当かぁ?」
「本当さぁ。……逆に、あおくんは僕のこと『あきちゃん』って早い段階で呼ばなくなったよね。思春期?」
「思春期は暁人だろ。階段裏でチ――」
「わああああ!!」

 暁人は顔を赤くしながら奇声を発し、その先の言葉を遮った。
 そんな暁人を見て小さく笑うと、蒼介は「まあ」と続けた。その横顔には、窓ガラスに垂れる水滴の影が落ちていた。

「俺は『暁人』って呼びたかったんだよ」
「そうなの? 僕は幼馴染だしこのままでもいいのにって、思ってるのに。――あ、カーテン閉めなきゃ」

 ピンク結界を作ることに夢中になっていて、外が暗くなったというのにカーテンを閉めるのを忘れていた。これでは外からこちらが丸見えだ。
 暁人が立ち上がり、開きっぱなしだったカーテンを閉める。カーテンが軽い音をたててまとめられ――動きが、止まった。

「どうした?」

 蒼介の問いに返事をせず、暁人はやけに力んだ様子でしっかりとカーテンを閉めると、転がるようにしてベッドへと戻った。その怯えようからすぐに状況を把握し、暁人の肩を抱く。

「暁人」
「そ、そそそそとに、ひ、人が歩いてた」
「幽霊か」
「わかんない……! で、でもでも、こんな土砂降りの中なのに、っか、傘も差さないで、上を向いたまま歩いてた……っ!」
「それは……怖いな」

 暁人はそのまま体を折るようにして頭を抱えると、いつもの癇癪を起した。

「はぁああああ~~~久しぶりにいや何年か振りに家の中で幽霊みたぁ怖ぁあああ~~~!! ピンク結界作るのに夢中になってはやくカーテン閉めなかったからぁああああ~~~」

 蒼介は暁人から聞いたことがあった。
 じつは意外にも、幽霊は道を普通に歩いているのだと。だから、見分けがつかないのだ、と。
 そして浮遊霊などは、暗くなってきたのに電気が煌々とついていて、室内が丸見えの部屋があると。気になって来てしまうのだと。だから暁人は、部屋に戻った瞬間にカーテンを閉めているのだと……。

「普通に油断してたよノーガードのところに突然出てきちゃったもんだから心臓めちゃくちゃ痛いですぅうううっ!」

 涙声で騒ぐ暁人の背中をスリスリとさすってやれば、暁人が小さく呼吸を繰り替えしているのが分かる。

「……改めて思うけど、お前って本当に幽霊が怖いんだな」
「本当に改まって思うことかね……」
「なんとなくさ、小さいころから幽霊が見えてたら、それに慣れて全然怖くないとか、そういう感じになるもんだと思ってたんだけど、暁人は違うんだな」
「ね! 本当だよね! 僕が一番そう思ってる!」
「今まで暁人と一緒に見たホラー映画とかの霊能力者は、みんな慣れた風だもんな。ビビりながら幽霊退治してる人なんか見たことないぞ」
「だから! 僕だって! そう思ってるって! もう!」

 ――そう、顔を上げて噛みつくように言い返す暁人の頬に、暖かい何かが触れた。
 蒼介の手だというのはすぐに分かった。骨ばっているのに優しく感じる触り方が、いつもと同じだったからだ。
 ゆっくりと蒼介の顔が近付いてくる。ドライヤーがし足りなかったようで。黒髪はまだ少ししっとりとしていて、なんだかとても色っぽく感じられる。同じシャンプーを使ったので自分からも同じ匂いがするはずなのに、蒼介からする香りにくらりとした。
 いつの間に、こんなにカッコよくなってしまったんだろう。
 風呂場で思ってたことが、ここでも同じように浮かぶ。いや、服を着ている今、余計にそう感じた。
 ふっと、視界が軽くなる。

「あ――」

 眼鏡が上にずらされて、同じ香りが強くなる。
 鼻先に馴染みのある熱を感じて、目の前に、別人のようにカッコよくなってしまった幼馴染がいて――

「ちょちょちょちょっと待って!」
 お互いの近さにやっと気が付いた暁人は、慌てて両腕を自分と蒼介の間にねじ込んで距離を取った。そしてすぐに胸板を押していた手をどける。くたびれた薄い部屋着が、蒼介の熱と筋肉を直に伝えてきたからだ。

「なに」
「ななななにじゃないよ! なにはこっちのセリフだよ!」

 暁人は今までにないくらい顔を赤くさせていた。いや、顔だけではない。耳も、額も、首も――全身が、茹で上がったかのように真っ赤だった。

「お前、顔真っ赤だぞ。のぼせたか」

 眼鏡を直しながら額に手を当てられて、それに過剰に反応してしまう。

「暁人? どうしたんだ」
「ど、どうしたはこっちのセリフだってば! な、なにキ、キスしようと……!」
「だって怖かったんだろ? いつも下校中とか、怖かったら念のためにってキスするじゃんか」

 確かに、蒼介の言う通りだった。暁人は人目がなければ、恐怖を感じた時すぐに蒼介にキスを求めていた。
 それなのに今の暁人はキスを拒否した。蒼介と少し距離を空けたところで縮こまりながら、

「でっでも、ここは家だし、ピンク結界があるし……」

 言いながら、暁人は自分の抱えている矛盾に混乱していた。
 どうして自分は、今まで蒼介ととんでもないキスをしていたのに、家でするキスにここまで過剰に反応してしまっているのだろうか、と。

「な、なんか……すごく、恥ずかしい……」
「なんだそれ」
「わかんない、けど……」
「今までさんざんキスしてきたのに?」

 もしかしたら、ここが安全な場所で、狂乱していない状態でのキスだったからだろうか。
 となると、混乱していない自分にとって蒼介とのキスは、こんなにも恥ずかしく感じてしまうのか。

「まあ、怖くないならいいけど」
「あ……」

 引いてくれた蒼介の言葉に、先程の幽霊の姿を思い出してしまってぞっとする。
 幽霊は、女性だった。薄目でも雨粒が入ってきてしまいそうな土砂降りの中を、両目を大きく開き、真上を見ながら、まるで滑るように歩いていた。

「暁人が大丈夫ならいいんだけどさ」
「ま、待って! ……や、やっぱりキス、して欲しい、かも……」
「……」

 蒼介はベッドに腰かける暁人の前に膝をつくと、少し俯いていた暁人の顔に手を添えた。その優しい手つきに、少しだけ心臓が跳ねる。

「本当に、顔赤いけど大丈夫か?」
「だ、だいじょうぶ、だから」
「そっか。……眼鏡、外してもいい?」
「だ、だめ!」

 両手で眼鏡のつるを押さえる暁人に、蒼介がふっと笑った。
 また同じシャンプーの匂いが近付いてくる。肌に慣れた熱も近付いてきて、けど、音はどこか遠くに行って――
 ふにっと、火傷しそうなくらい熱い唇が触れる。

「ん……」

 唇を唇で挟まれるような、ただ恥ずかしいキスだ。深いキスではなく、舌も絡めない浅いキスなのに、しっかりと蒼介の熱を感じてしまって胸が痛いくらいに跳ねる。

「っふ、んっ、んぁ……」

 ちゅる、ちゅる、と、まるで唇を吸われているような感覚。そんな音が耳に届くたびに、背中にカッと熱いものが走る。

「は、ぁ……」

 幽霊が怖いからだ。あの真上を向いて歩く幽霊が、こちらに来ないためにする予防のキスだ。
 そう分かっているのに、いつも自分が生活している家で、部屋で、蒼介にキスをされているという事実に頭がくらくらする。

「ん、あきと?」

 いつもと違う暁人の反応に蒼介が不思議がって名前を呼んだ。その、少し舌っ足らずになった声が、一層暁人の頭の中の芯を蕩かして――

「から揚げあがったぞーーーー!!」

 階段下から放たれた輝也の大音量が、二人を引き裂いた。

「はっはい!!」

 反射的に立ち上がった暁人の額に蒼介の鼻がぶつかり、「いってぇ」と呟く蒼介はものすごく恨みがましい目で暁人を睨みつけた。

「ほ、ほらっ、あおくん、から揚げだよ、から揚げ! から揚げは揚げたてが一番だよ! ほら行こうよあおくん!」
「最近の暁人くんのブームは俺への頭突きですか」
「ごめんって!」

 先程までの熱が籠ったような雰囲気は霧散し、二人はバタバタと香ばしい匂いのする階段を下りて行く。
 顔を真っ赤にさせた暁人と鼻先を抑えた蒼介を見て、輝也が誰にも聞こえない声で「お前達が身内じゃなきゃあなぁ……」と残念そうに呟いていた。