「――本当に、ここでするのか?」
秘めるようなささやき声が、夕暮れに染まる階段裏から聞こえてきた。
そこは人気のない旧校舎のとある一角。夕方とはいえ、まだ学校に残っている生徒も部活動に励む生徒もいる。それなのに、そこだけは異様な静けさに包まれていて、まるで世界から切り離された空間のようだった。
その世界から切り離された階段裏に、二人の男子生徒がいた。
二人は狭い空間で密着するようにしていて、片方が壁にもう片方の体を押し付けるようにして立っている。
「――うん」
古い壁ともう一人に挟まれた男子生徒――小野暁人がうつむきながら返事をした。
その肩は小さく震えていて、制服のブレザーの袖から覗く白い手は目の前の男子生徒の手を握っていた。
「分かった」
暁人の返事を聞いた、もう一人の大人びた雰囲気の少年――深森蒼介は小さく頷く。
ゆっくりと太陽が沈んでいく夕方の校舎に差し込む光は刻一刻とその色を深くし、二人の足元を燃えるような色で照らしていた。
「さわるよ」
大きく骨ばった手が、俯いていた暁人の丸いあごをすくうように持ち上げた。
流行から少し遅れた型の黒縁眼鏡をかけた、利発そうな顔は緊張からか少し強張っている。よほど目が悪いのだろう。レンズの向こう側がかすんで見える。それでも、彼の黒い目が潤んでいることはよく分かった。
あごを持ち上げた蒼介の手がそのまま暁人の頬を撫でた。親指が眼鏡のレンズの下に潜り込み、零れ落ちそうな涙を拭う。
そのまま耳にかかっていた黒髪を払うと、指は耳の輪郭を撫でるようにして動いた。薄い耳たぶを噛むようにつまみ、耳のくぼみに指を潜り込ませる。
「っ……」
暁人がくすぐったそうに身をよじる。噛みしめた口からは、震えた吐息が漏れた。
しかし蒼介はそんな暁人を気にすることなく手を首筋へと流す。そのまま手触りを確かめるように、まるで暁人をからかうように動くと、襟足の髪の生える流れに逆らって撫でた。
そして、ぐっと力を入れ、後頭部を支えるようにして持つ。
反動で暁人の首が反って顔が上を向き、蒼介の均整の取れた顔と向き合う形になる。少しでも動けば、鼻先が触れるような近さだ。
「本当に、いいんだな?」
そんな至近距離で、もう一度蒼介が念を押すように暁人へと尋ねた。
暁人はまた涙がにじんできた目でまっすぐに蒼介を見つめ、小さく息が漏れる口で、はっきりと言った。
「――やって」
二人の唇が、合わさった。
暁人の体に力が入ったのが分かる。
始めはただ触れ合うように重なり、次第に小さな音を立てながら、唇同士が触れあっていく。
苦しそうにはふはふと息継ぎをする暁人なんか気にならないようで、蒼介はあごを優しく固定してさらに深く口付けた。
カクカクと暁人の足が震えてくる。体を自力で支えるのが難しくなって、壁にもたれかかるようになんとか踏ん張るが、唇は離れないままだ。
「――どう?」
ついに、カクンと暁人の片膝が折れた。
そこでようやく唇を離した蒼介が涼しい顔のまま、濡れた唇を手の甲で拭う。対して、なんとか座り込むのを耐えた暁人は、耳から頬を真っ赤に染め、肩で大きく息をしながら自分をこんな状態にした蒼介へ視線を送った。
――いや、蒼介ではない。
暁人の視線の先は、彼ではない。
黒縁眼鏡のレンズの向こうの目が大きく見開かれ、またじわりと涙が滲んだ。
緊張や羞恥の涙、とは違う。
視線の先。蒼介の、その向こう。階段下の斜めになった、天井の角。
そこからこちらを凝視する――黒い、人。
「ひッ……!」
まるで影のようなそれは、階段からぬうっと首を伸ばしてこちらを見ていた。
暁人がまた蒼介の体の陰に隠れ、その背中を落ち着かせるように撫でた蒼介が尋ねる。
「まだいる?」
「ままままだいる……! まだ全然普通にいるううぅ!」
先程の秘めるような雰囲気が一瞬で吹き飛んだ。
パニックになった暁人の言う、『いる』という言葉。
それは、蒼介には見えない。
いや、蒼介だけではない。ほとんどの人間が見えないものだ。
――それはいわゆる、幽霊という存在。
「まだいるのか」
暁人と違って幽霊が見えない蒼介が、自分達の周りをぐるりと見渡しながら言う。
「向こうは何をしているんだ? 見てるだけ?」
「そ、そう……なん、なんていうの、かな……う、窺うみたいに、こっち見てる……っ!」
「俺達を?」
蒼介の問いに、彼の胸に顔を擦り付けるようにして隠れた暁人が、首をものすごい勢いで縦に振りながら応えた。
「そっか。確かに、なんか圧迫感、ていうのか? 息苦しい感じはするけど」
「ああああ~~もう嫌だ~! 怖いいぃ~! 帰りたいいぃ~!」
暁人はそうひとしきり癇癪を起したように叫ぶと、満足したのか蒼介の胸に顔をうずめたまま大きく深呼吸を繰り返した。
「暁人、なんかしっとりしてきてんだけど」
「だって怖いんだもん! もうちょっと待ってよ! こっちは今必死に落ち着こうと頑張ってるのにさ!」
自分の呼気で顔に熱が帯びていくのが分かるが、怖いものは怖い。暁人は何度も何度も深呼吸を繰り返し、ようやく落ち着いてくると蒼介の肩越しにもう一度向こうを確認した。
「ッ……!」
喉の奥が恐怖で引きつる。
黒い人が、さらに身を乗り出していた。
やはり、あの人はこちらを見ている。いや。人、なのだろうか。
もし人であるのなら、階段の手摺りから大きく体を乗り出しても、あそこまで顔は出てこないだろう。
恐ろしい赤い色ではあるが階段裏は夕焼けの光が満ちている。それなのに、斜めの天井からこちらを覗く黒い人に光は届いていない。黒い輪郭は曇りガラスを通して見るようにぼやけている。
まるで影だ。黒い、ではなく、暗い、のだ。
輪郭はぼやけて見えるのに、目だけは爛々としている。ありえない角度で首だけをぬうぅっと出して二人を見ているのが嫌でも分かった。
そのやけに生々しい目と、目が合った。
「あやっぱ無理だ! 無理無理ムリむりヤバすぎ怖すぎほんと無理!!」
蒼介のブレザーの襟を両手で掴み、体を思い切り引き寄せる。またしばらくふうふうと恐怖から乱れた呼吸を整えていると、頭上から蒼介の落ち着いた――まるで、小さな子供をあやすような声が落ちてきた。
「もう、やめておくか?」
無理やり引き寄せられたにも関わらず、蒼介は優しく暁人の背中を撫でながら言った。
「他人のために、暁人が無理をして怖い思いをしなくたっていい」
そう、耳元で囁くように続ける。
「今日は帰って、明日会った時に『幽霊なんかいなかった』って言えばいいんだから」
「……それは、だめだよ」
力強い声だった。
震えている。けど、それでも、芯の通った強い声だった。
暁人は丸い頭をふるふると振りながら、蒼介の胸の中から答えた。黒髪が制服に当たる乾いた音がやけに大きく聞こえる。
「困ってるのに……僕みたいに怖がってるって知ってるのに、それを見て見ぬふりするのは嫌なんだ」
上げられた顔にはまだ恐怖の色が残っていたが、それを感じさせない強い意志を宿した黒い目が、蒼介をまっすぐに見つめていた。
蒼介は少し下にある暁人の顔を見つめると、ふっと息を吐いた。
「――ま、お前ならそう言うと思ってたよ」
「うん……ごめんね。付き合わせちゃってるのに、僕のほうがクヨクヨモダモダしちゃって」
「気にすんな。慣れてる。それに――」
胸に顔を擦り付けすぎたせいで曲がってしまった暁人の眼鏡を直しながら、柔らかく微笑む。
「幼馴染の、よしみってやつだ」
そう言うと、蒼介は「やるぞ」と一声かけ、自分では何も見えない階段裏の斜め天井の角を、まるで探るように視線をやった。
「あおくん? なにして――」
「暁人、舌、出せ」
「し、舌? こ、こんなかんい?」
「そう。そんな感じ」
さっきまで情けない悲鳴と声しか上げていなかった暁人の口から、健康的で肉厚な舌が突き出される。そして――突き出された暁人の舌へ、蒼介は食らいつくように口付けた。
「ッふぁ、あぉ、ぅ……!?」
驚いた暁人が蒼介を押し返そうと両腕で突っぱねる。が、蒼介はびくともしない。むしろ腰に手を回され、そのまま仙骨のあたりをくりっと押されると、体が痺れたように動けなくなった。
「ふぁ、あっ……ぁえ……っ」
そのまま暁人の抵抗が鈍くなると、蒼介はさらに深くキスをする。もし本当に自分達の頭の上の階段に人がいたら、気付かれてしまうくらいの水音が暁人を耳から襲った。
舌を食べられてしまう。
そう思ってしまっても無理はないくらい、蒼介のキスは大人顔負けの深く濃厚なものなのだ。
「あぇ……」
頭の中がぼうっとする。脳の芯が、とろり……とチョコレートのように溶けていくのを感じる。自分の口からしているとは思えない、いやらしい音が耳をずっと責め続け、うなじから尾てい骨までに、さざ波が立つような感覚がした、その時――
「なぁぁあぁあ あ ぁあにい ぃいしてぇえええぇ ぇえるうううぅう うのお ぉお おぉ ぉおお」
何も聞こえない水音の中、その声だけは、はっきりと聞こえた。
まるで、何人もの人間が、息を合わせることも、声のトーンやリズムを合わせることしないで、一斉に喋ったかのような、耳に障る声――。
ハッとして涙が滲んでいた目を見開いた。
近過ぎてぼやける、蒼介の顔の後ろ。
斜め天井の角から、顔だけをぬうっと突き出していた人が、首だけを伸ばしてそこにいた。
「見んな」
凍り付いた暁人に気が付いたのか、いつの間にか口を離した蒼介が耳元で言う。――その声に引き寄せられるように、暗い人がより一層顔を近付けた。
「なぁ ぁあああぁあににぃいぃぃはなあぁぁ あぁしいぃ いてぇ ええるううぅ うのぉ お おおお ぉ」
目が、目が、目が。
ぎょろぎょろと何かを探るようにせわしなく動いていた目が、暁人を向いて止まった。
そこには何も映っていない。暁人の顔も、階段裏の壁も。
ただただ、光の届かない深い穴のような真っ黒な目が、こちらに向いていた。
「しいいぃりい ぃい いぃたあ あいぃぃ い いいのぉお おぉ」
「ッひ――」
「暁人」
思わず逃げようと体を引いた暁人のブレザーの襟を、さっきのお返しとばかりに蒼介が握る。
「あ、あお、くん……ッ」
「暁人。よそ見すんな。俺だけ見てろ」
蒼介はそう言うと、自分の隣を見た。暁人の息が止まる。彼には見えてはいないが、蒼介の鼻の数センチ先に、暗い人がいるのだ。
顔は正面の暁人に向けたまま、穴の目だけを蒼介に向けた暗い人が、何かを待ちわびるようにしてそこにいるのだ。
蒼介にはそれが見えていない。見えていないはずなのに、まるで見えているかのように視線をやると、蒼介は秘めた声音で言った。
「――誰にも言うなよ」
慣れ親しんだ熱がふたたび捻じ込まれ――瞬きをする間に、暗い人はいなくなっていた。
――幽霊が見える小野暁人と、幽霊が見えない深森蒼介。
二人はこの春入学した澤見高等学校で、噂を聞き付けた生徒から幽霊退治を依頼されるようになっていた。
その幽霊退治の方法というのが、幽霊の出現場所で性的な――エロいキスをするという、かなりどうかしている方法だった。
