一度味を知ってしまえば、あとは堕ちるだけだった。
翌日の放課後も、その翌日も、俺の足は吸い寄せられるように旧校舎の家庭科室へと向かっていた。
扉を開けると、いつものように佐伯が待っている。
彼は俺の顔を見るなり、挨拶もそこそこに
「座ってください」
と丸椅子を指差す。そこには、俺の体調や気温に合わせた、完璧な一皿が用意されていた。
「今日は、カレイの煮付けと、季節野菜の浸しです。先輩、最近寝不足でしょう。鉄分とビタミンを多めにしました」
「……お前、俺の何を見てそんなこと判断してんだよ」
「見ていればわかります。顔色が悪い。……それとも、俺以外の奴の飯が口に合わないんですか?」
佐伯は淡々と菜箸を動かしながら、とんでもないことを口にする。
冗談だと思って笑い飛ばそうとしたが、彼の瞳は一切笑っていなかった。
それどころか、俺が煮付けに箸を伸ばすのを、まるで聖餐を見守る信者のような、あるいは獲物が罠にかかるのを待つ猟師のような、異常なまでの集中力で見つめている。
「……美味い」
一口食べれば、文句の付けようがなかった。
白身魚のふっくらとした食感と、上品な出汁の香りが口いっぱいに広がる。
コンビニの濃い味付けに慣れきった舌が、佐伯の作る「正解」によって丁寧に調教されていく感覚。
「当たり前です。先輩のために、一から出汁を取ったんですから」
佐伯はさらりと言ってのける。
一人の後輩が、引退した先輩のためにそこまでやるか? という疑問は、空腹を満たす快楽の前に霧散していった。
いつの間にか、俺の生活の中心は「佐伯の料理」になっていた。
クラスの連中に遊びに誘われても、「先約があるから」と断るようになった。
サッカー部時代の仲間が「膝の具合はどうだ」と声をかけてきても、適当な返事をして逃げ出すようになった。
誰も俺を「かつてのエース」として見ない場所。
佐伯が用意する、温かくて閉鎖的な家庭科室だけが、今の俺の聖域だった。
変化は、それだけではなかった。
「先輩、口元にタレが付いてます」
「ん? ああ……」
自分で拭おうと手を伸ばした瞬間、それより早く、佐伯の大きな手が伸びてきた。
指先が、俺の唇に触れる。
「っ……!」
びくん、と肩が跳ねた。
佐伯の指は、調理で鍛えられているせいか、驚くほど硬くて熱い。
親指の腹でゆっくりと、俺の唇をなぞるようにタレを拭い取る。
その動作は、後輩が先輩に対して行うには、あまりに親密で、そして……あまりに男性的だった。
「自分でやるよ」
「じっとしていてください。……汚いですよ」
佐伯の声が、耳元で低く響く。
見上げると、間近にある佐伯の瞳が俺を射抜いていた。
「佐伯、お前……」
「……先輩は、俺だけを見て、俺の作ったものだけ食べていればいいんです」
佐伯の手が、今度は俺の顎を掴み、軽く上向かせる。
まるで、主導権を完全に握っていることを誇示するかのように。
「そうすれば、サッカーを失った空っぽの体も、俺が全部満たしてあげますから」
その言葉は、救いのように聞こえた。
同時に、取り返しのつかない檻の扉が、背後で閉まった音がした。
「さあ、冷めないうちに。……全部、食べてくださいね。高瀬先輩」
俺は震える手で、再び箸を握った。
佐伯の差し出す「毒」のような美食に、俺はもう、抗えなくなっていた。
翌日の放課後も、その翌日も、俺の足は吸い寄せられるように旧校舎の家庭科室へと向かっていた。
扉を開けると、いつものように佐伯が待っている。
彼は俺の顔を見るなり、挨拶もそこそこに
「座ってください」
と丸椅子を指差す。そこには、俺の体調や気温に合わせた、完璧な一皿が用意されていた。
「今日は、カレイの煮付けと、季節野菜の浸しです。先輩、最近寝不足でしょう。鉄分とビタミンを多めにしました」
「……お前、俺の何を見てそんなこと判断してんだよ」
「見ていればわかります。顔色が悪い。……それとも、俺以外の奴の飯が口に合わないんですか?」
佐伯は淡々と菜箸を動かしながら、とんでもないことを口にする。
冗談だと思って笑い飛ばそうとしたが、彼の瞳は一切笑っていなかった。
それどころか、俺が煮付けに箸を伸ばすのを、まるで聖餐を見守る信者のような、あるいは獲物が罠にかかるのを待つ猟師のような、異常なまでの集中力で見つめている。
「……美味い」
一口食べれば、文句の付けようがなかった。
白身魚のふっくらとした食感と、上品な出汁の香りが口いっぱいに広がる。
コンビニの濃い味付けに慣れきった舌が、佐伯の作る「正解」によって丁寧に調教されていく感覚。
「当たり前です。先輩のために、一から出汁を取ったんですから」
佐伯はさらりと言ってのける。
一人の後輩が、引退した先輩のためにそこまでやるか? という疑問は、空腹を満たす快楽の前に霧散していった。
いつの間にか、俺の生活の中心は「佐伯の料理」になっていた。
クラスの連中に遊びに誘われても、「先約があるから」と断るようになった。
サッカー部時代の仲間が「膝の具合はどうだ」と声をかけてきても、適当な返事をして逃げ出すようになった。
誰も俺を「かつてのエース」として見ない場所。
佐伯が用意する、温かくて閉鎖的な家庭科室だけが、今の俺の聖域だった。
変化は、それだけではなかった。
「先輩、口元にタレが付いてます」
「ん? ああ……」
自分で拭おうと手を伸ばした瞬間、それより早く、佐伯の大きな手が伸びてきた。
指先が、俺の唇に触れる。
「っ……!」
びくん、と肩が跳ねた。
佐伯の指は、調理で鍛えられているせいか、驚くほど硬くて熱い。
親指の腹でゆっくりと、俺の唇をなぞるようにタレを拭い取る。
その動作は、後輩が先輩に対して行うには、あまりに親密で、そして……あまりに男性的だった。
「自分でやるよ」
「じっとしていてください。……汚いですよ」
佐伯の声が、耳元で低く響く。
見上げると、間近にある佐伯の瞳が俺を射抜いていた。
「佐伯、お前……」
「……先輩は、俺だけを見て、俺の作ったものだけ食べていればいいんです」
佐伯の手が、今度は俺の顎を掴み、軽く上向かせる。
まるで、主導権を完全に握っていることを誇示するかのように。
「そうすれば、サッカーを失った空っぽの体も、俺が全部満たしてあげますから」
その言葉は、救いのように聞こえた。
同時に、取り返しのつかない檻の扉が、背後で閉まった音がした。
「さあ、冷めないうちに。……全部、食べてくださいね。高瀬先輩」
俺は震える手で、再び箸を握った。
佐伯の差し出す「毒」のような美食に、俺はもう、抗えなくなっていた。
