グラウンドから響くホイッスルの音が、遠い世界の出来事のように聞こえる。
三ヶ月前まで、俺はその音の中心にいた。
土を蹴る感覚、肺を焼くような熱い息、そしてゴールネットを揺らす瞬間の無重力感。
そのすべてが、右膝の靭帯断裂というあっけない音と共に消え去った。
「……味、しねぇな」
屋上のフェンスに背を預け、購買で買った焼きそばパンを口に押し込む。
パサついたパンと、妙に塩辛いだけのソース。
かつては運動後の最高の栄養源だったはずのそれが、今はただ胃を埋めるための無機質な物体にしか感じられない。
医者からは「日常生活に支障はない」と言われた。
けれど、全力で走れない、競り合えない、芝の匂いを感じられない俺にとって、それは「死んだ」も同然だった。
放課後の喧騒を避けるように、俺は旧校舎へと続く渡り廊下を歩いていた。
三年生にとって、引退した後の学校ほど居心地の悪い場所はない。
後輩たちの熱気も、同級生たちの受験モードも、今の俺には眩しすぎて毒だった。
ふと、どこからか香りが漂ってきた。
それは、実家の食卓とも、学食の油っこい匂いとも違う。
もっと繊細で、どこか懐かしい、食欲の奥底を直接指先でなぞるような――出汁の匂いだ。
誘われるままに足を向けた先は、普段なら男子生徒が寄り付かない家庭科室だった。
放課後の調理実習室。
西日が差し込む静かな部屋の中で、一人の男が立っていた。
後ろ姿でわかる。背は俺より少し高く、肩幅はがっしりと広い。
Tシャツ越しでもわかる鍛えられた背筋は、とても料理部という文化系の枠に収まるようには見えなかった。
トントン、とリズミカルにまな板を叩く音が、静かな廊下に響く。
「……誰?」
俺の声に、その背中がびくりと震えた。
振り返った男は、整った、けれど少し冷たさを感じさせる顔立ちをしていた。
確か、一年生の佐伯だったか。
「高瀬……先輩」
「ああ、悪い。なんかいい匂いがしたから、つい」
立ち去ろうとした俺の足を止めたのは、佐伯の低い、地を這うような声だった。
「……食いますか?」
「え?」
「試作品です。どうせ捨てるだけなので、食ってください」
佐伯は一度も俺と目を合わせようとせず、無愛想に白い小鉢を差し出してきた。
中には、透き通った金色のスープが湛えられていた。
小さな野菜が丁寧に面取りされ、宝石のように沈んでいる。
断る理由も、立ち去る気力もなかった。
俺は促されるままに、調理台の丸椅子に腰を下ろし、蓮華を手に取った。
一口、口に含んだ瞬間――。
「っ……」
熱い液体が喉を通った。その瞬間、凍りついていた体の芯が、じわりと溶け出す感覚がした。
野菜の甘み、鶏の滋味、そしてそれをまとめ上げる繊細な塩気。
複雑に絡み合った味が、一気に五感を叩き起こす。
「美味い……」
気づけば、夢中で啜っていた。
パンをかじっても、肉を食っても感じられなかった「食べる」という実感が、この一杯のスープに凝縮されている。
見上げると、彼は包丁を持ったまま、俺がスープを飲む様子をじっと見つめていた。
その瞳は、憧れとか敬意とか、そういう綺麗なものではない。 もっと暗くて、執拗な、獲物を観察する捕食者のような――。
「てかお前、なんで……俺のこと、知ってんだよ」
俺の問いに、佐伯はふっと目を逸らした。
「有名人ですから。……元、サッカー部のエース様は」
その「元」という言葉が胸に刺さる。
だが、彼が作った料理の暖かさが、その痛みを不思議と和らげていた。
「また、明日も来てください」
「え?」
「試作品の処分、困ってるんです。先輩が食べてくれないと、全部ゴミになります。……いいですか?」
それは、お願いというより命令に近い響きだった。
でも、俺は拒めなかった。
この一ヶ月、何を食べても満たされなかった空腹が、この無愛想な後輩の作る一皿によって、ようやく「生」を自覚させてくれたから。
「……ああ、わかった。明日も来るよ」
俺がそう答えた瞬間、佐伯の口元が、わずかに歪んだ。
それが「喜び」なのか、別の「何か」なのかを、この時の俺はまだ知る由もなかった。
かつて俺が守った、あの泣き虫な少年の指先が。
今、俺を捕らえるための網を編み始めていることに、俺はまだ気づいていなかったんだ。
三ヶ月前まで、俺はその音の中心にいた。
土を蹴る感覚、肺を焼くような熱い息、そしてゴールネットを揺らす瞬間の無重力感。
そのすべてが、右膝の靭帯断裂というあっけない音と共に消え去った。
「……味、しねぇな」
屋上のフェンスに背を預け、購買で買った焼きそばパンを口に押し込む。
パサついたパンと、妙に塩辛いだけのソース。
かつては運動後の最高の栄養源だったはずのそれが、今はただ胃を埋めるための無機質な物体にしか感じられない。
医者からは「日常生活に支障はない」と言われた。
けれど、全力で走れない、競り合えない、芝の匂いを感じられない俺にとって、それは「死んだ」も同然だった。
放課後の喧騒を避けるように、俺は旧校舎へと続く渡り廊下を歩いていた。
三年生にとって、引退した後の学校ほど居心地の悪い場所はない。
後輩たちの熱気も、同級生たちの受験モードも、今の俺には眩しすぎて毒だった。
ふと、どこからか香りが漂ってきた。
それは、実家の食卓とも、学食の油っこい匂いとも違う。
もっと繊細で、どこか懐かしい、食欲の奥底を直接指先でなぞるような――出汁の匂いだ。
誘われるままに足を向けた先は、普段なら男子生徒が寄り付かない家庭科室だった。
放課後の調理実習室。
西日が差し込む静かな部屋の中で、一人の男が立っていた。
後ろ姿でわかる。背は俺より少し高く、肩幅はがっしりと広い。
Tシャツ越しでもわかる鍛えられた背筋は、とても料理部という文化系の枠に収まるようには見えなかった。
トントン、とリズミカルにまな板を叩く音が、静かな廊下に響く。
「……誰?」
俺の声に、その背中がびくりと震えた。
振り返った男は、整った、けれど少し冷たさを感じさせる顔立ちをしていた。
確か、一年生の佐伯だったか。
「高瀬……先輩」
「ああ、悪い。なんかいい匂いがしたから、つい」
立ち去ろうとした俺の足を止めたのは、佐伯の低い、地を這うような声だった。
「……食いますか?」
「え?」
「試作品です。どうせ捨てるだけなので、食ってください」
佐伯は一度も俺と目を合わせようとせず、無愛想に白い小鉢を差し出してきた。
中には、透き通った金色のスープが湛えられていた。
小さな野菜が丁寧に面取りされ、宝石のように沈んでいる。
断る理由も、立ち去る気力もなかった。
俺は促されるままに、調理台の丸椅子に腰を下ろし、蓮華を手に取った。
一口、口に含んだ瞬間――。
「っ……」
熱い液体が喉を通った。その瞬間、凍りついていた体の芯が、じわりと溶け出す感覚がした。
野菜の甘み、鶏の滋味、そしてそれをまとめ上げる繊細な塩気。
複雑に絡み合った味が、一気に五感を叩き起こす。
「美味い……」
気づけば、夢中で啜っていた。
パンをかじっても、肉を食っても感じられなかった「食べる」という実感が、この一杯のスープに凝縮されている。
見上げると、彼は包丁を持ったまま、俺がスープを飲む様子をじっと見つめていた。
その瞳は、憧れとか敬意とか、そういう綺麗なものではない。 もっと暗くて、執拗な、獲物を観察する捕食者のような――。
「てかお前、なんで……俺のこと、知ってんだよ」
俺の問いに、佐伯はふっと目を逸らした。
「有名人ですから。……元、サッカー部のエース様は」
その「元」という言葉が胸に刺さる。
だが、彼が作った料理の暖かさが、その痛みを不思議と和らげていた。
「また、明日も来てください」
「え?」
「試作品の処分、困ってるんです。先輩が食べてくれないと、全部ゴミになります。……いいですか?」
それは、お願いというより命令に近い響きだった。
でも、俺は拒めなかった。
この一ヶ月、何を食べても満たされなかった空腹が、この無愛想な後輩の作る一皿によって、ようやく「生」を自覚させてくれたから。
「……ああ、わかった。明日も来るよ」
俺がそう答えた瞬間、佐伯の口元が、わずかに歪んだ。
それが「喜び」なのか、別の「何か」なのかを、この時の俺はまだ知る由もなかった。
かつて俺が守った、あの泣き虫な少年の指先が。
今、俺を捕らえるための網を編み始めていることに、俺はまだ気づいていなかったんだ。
