◇
――喉が渇いた。
もう椿原夜乃は我慢の限界だった。
そんな夜乃にとって、それは甘美な誘惑だった。
「桜乃の血を飲んでいいんだよ?」
もう夜乃の頭には短い角が二本生え、牙が唇から飛び出している。
喉がカラカラに乾いて、目の奥がメラメラと燃えるように熱かった。
ハァハァと荒い息遣いが止まらない。
夜乃は姿見に映る自分に目を向ける。
――鬼だ。
そこには、鬼に変化しようとしている自分が映っていた。
かつて妹を食べようとしたときと同じ、邪悪な鬼。
あのときよりも成長した体躯は、なおさら迫力を増していた。
身体から黒い瘴気を放つ姉を、同じように大きくなった妹・桜乃は恍惚と抱きしめる。
誘うように着物をはだけさせた姿はさながら遊女のようだった。
「桜乃を傷物にしたら、一生責任取ってくれるよね? ずーっと桜乃のそばで、惨めにかわいそうにかわいそうでいるの。約束してくれるでしょ、おねえさま?」
十二歳の白くて柔らかそうな肌に、夜乃は喉を鳴らす。
おいしそうだった。
今すぐ飲み干したくて仕方がなかった。
肩口に、かつて自分が牙を立てた跡がうっすらと残っている。
その傷口を撫でると、桜乃がくすぐったいのか肩をすくめて……。
そんな愛らしい姿に、夜乃は口を開いてしまう。
牙をその肩口に突き刺そうとする、その寸前――夜乃は自分の長く伸びた爪で、腿をキッと切り裂いた。
だって、夜乃は彼女の姉であり、椿原の女だから。
星峰蒼剣と見合いをしている女だから。
――パンッ。
だから、夜乃は桜乃の頬を叩く。
もちろん爪で頬を傷つけないように、最新の注意を払った。変な力が入ったせいか、手首が痛む。だけど、心のほうがもっと痛かった。
(ごめんね、桜乃……)
だって、妹はずっと夜乃にとって心の支えだった。
自分を受けて入れてくれる唯一の存在だと思っていた。
それでも、夜乃は荒ぶる呼吸を整えながら、まっすぐに桜乃に向き合う。
「どうして、私が忌み子だとばらしたの?」
「えっ?」
桜乃が打たれた頬を押えて、目を白黒させている。
妹の声が信じられないとばかりに震えていた。
「だ、だって……ちゃんと忌み子の証明ができたら、月影様がおねえさまを守ってくれるって。檻に閉じ込めて、いつでも好きなだけ愛でさせてくれるって、約束を……」
(座敷牢に閉じ込めることが、私を守ること?)
どうにも桜乃の趣向が歪んでいることは否めない。
だからこそ、少しずつでも矯正していかなければならない。
姉だからこそ、家族だからこそ――逃げるわけにはいかないのだ。
「月影様が、その約束を守る保証はどこにあったの?」
夜乃の指摘に、桜乃は押し黙る。
奥歯を噛み締めて、握ったこぶしがプルプル震えていた。
だけど、夜乃は追及をやめない。甘やかさない。
「私のことはどうでもいい。だけど、もしも月影様が約束を守らず、椿原が忌み子を匿っていたと公にしてしまったら? 椿原家がどうなるか考えたの?」
「え、あ……その……」
夜乃の理詰めに、桜乃はただ口ごもるだけ。
それでも、夜乃は毅然とした声のまま話し続ける。
「お父様やお母様、使用人のみんながどうなるのか考えた? 一族郎党、打ち首になる可能性はならなかったの? 我が家にとって、あなたにとって、月影様はそんなに信用に値する男なの? いままで付き合いもなかったでしょう?」
どんどんと、妹の顔が歪んでいく。その大きな目が潤んでいく。
「でも、月影様は討伐隊の隊長で、優しくて……」
「役職や初対面の印象だけで判断するなど、それでも椿原家の女か。仮にも華族の一人なら、家のことを第一に考えるべきでしょう!?」
語気を強くすれば、とうとう桜乃の目から涙がこぼれ落ちる。
ヒクヒクと鼻をすする様は、ただの幼子のようだった。
「なんで……おねえさままで、おかあさまみたいに『椿原の女』って言うの?」
たしかに、近ごろ桜乃は母がうるさくなったと愚痴を漏らしていた。
椿原の女――それは母の口癖だ。代々と、女が陰ながら家を支えてきたという自負の現われだろう。夜乃は幼いときにそんな毅然とした母の姿を見て育っていた一方、桜乃が生まれた以降は部屋に引きこもってばかりだった。だから桜乃が戸惑うのも無理はない。
それでも、だからこそ、夜乃は桜乃の肩に手を置かなければならなかったのだ。
「私が椿原の女だからよ――あなたもね、桜乃」
母が不調なら、姉である自分が桜乃の手本にならなければならなかった。
まだ桜乃が幼かったから、自分が忌み子になってしまったから。
言い訳はたくさん思い浮かんでしまうが、逃げていい理由にはならなかったのだ。
子どもの時代は、今、そのときしかなかったのだから。
(まだ間に合うはず……)
だって、桜乃はまだ十二歳。
夜乃ほどでないにしろ、彼女も幸か不幸か、椿原の外をほとんど知らない。
そんな妹が、わんわんと夜乃に縋りついてくる。
「ねぇ、おねえさまが喉が渇いたんでしょ? 素直になっていいんだよ? おねえさまは、桜乃がいないと生きていけないんでしょ? そうだよねぇ!?」
(素直に……)
ずっと、願望なんて言えないと思っていた。
忌み子になった自分は生かされているだけで本望なのだと、自分に言い聞かせていた頃が、ずっと遠い日のように感じる。
だけど、夜乃は蒼剣の前でちゃんと口にしたのだ。
――家族と仲良くなりたい。
そうしたら、母がメロンを食べてくれた。使用人たちも少しだけ夜乃に対して優しくなった。それらは、すべて蒼剣がお膳立てしてくれたものだけど……それでも、夜乃はおかげでもっと強欲になってしまったのだ。
「私は蒼剣と見合う相手でありたい。隣に立てる人間でありたい」
(蒼剣様が好き)
それが、夜乃の心にじんわりと広がる想いだ。
あの見合いの日から、日を重ねるたびにどんどん強くなった想い。
蒼剣に見合う女になりたい。そして蒼剣の妻になりたい
それは、彼から多くのものを与えてもらいたいからではない。
(蒼剣様を支えられる女になりたい)
だって、夜乃も椿原の女だから――ただ後ろで控えているだけで満足できる女ではない。
三歩後ろから、男を守ってこその椿原の女。
だから、固い決意を持って、夜乃は自分に言い聞かせる。
「だから、私は鬼になるわけにはいかない!」
夜乃は、桜乃を突き飛ばす。
尻餅をついた桜乃が、絶望した顔で夜乃を見上げていて。
夜乃が罪悪感に奥歯を噛み締めたときだった。
「よく言った!」
あまりに大きな賛辞に夜乃が振り向ければ、そこには焦がれていた顔があった。
いつも自信に満ちていて、頬を突き破らんばかりに口角をあげている。
檻の入り口で仁王立ちしている星峰蒼剣の姿に、夜乃は目の奥をさらに熱くさせた。
「蒼剣様……!」
「その胆力、さすが俺の見初めた女だ!」
威勢よく褒める蒼剣は、そのまま首元の釦を外す。
「あとで褒美に俺の血をくれてやろうか?」
それは、蒼剣なりの冗談だったのかもしれない。
蒼剣の隣の使用人がしぶしぶ牢の鍵を開けている。また金でも握らせたのか……なんて思いながらも、夜乃は、蒼剣が扉を通る前に駆け出していた。
勢いのまま抱き着けば、蒼剣が「おぉ!?」と素っ頓狂な声を出す。
そのまま蒼剣もまた尻餅をつくも、夜乃は迷うことなく蒼剣のシャツを剥く。
少し汗ばんだ肌に噛みつけば、待ち望んだ甘い味が口の中に広がった。
「はうぅ!」
素っ頓狂な声をあげて、蒼剣の顔が蕩けていく。
(ずっと……ずっとこれを待っていたの)
だけど、蒼剣の両手がわなわなと少しずつ動く。
ゆっくりと夜乃の肩を掴んだ彼は必死に叫んだ。
「い、今は、妹の情操教育に良くないのではないか!?」
「あ……」
我に返った夜乃が、牙を離して振り返る。とりあえず、今の一口で牙が引っ込み、頭の角も収まったはいいものの……桜乃が真っ赤な顔を手で覆っていた。だけど指の隙間からしっかりと目が合う。
「…………」
「…………」
姉妹がいたたまれない空気に何も発せられない中、蒼剣が「ごほん!」とわざとらしい咳ばらいをする。そして、夜乃を軽々と抱き上げたのだ。
「……で、あるからして。こいつは俺のだ。わかったな?」
なにが「で、あるのか」定かではないが、桜乃は惨めに蒼剣の足にしがみついていた。
「やだぁ……」
その姿は、本当に駄々をこねる幼子と何も変わらない。
「おねえちゃんをとらないでぇ。さくらののなのぉ……さくらのはぁ、おねえさまのことがだいすきなだけなのぉ……」
涙をぼろぼろと零す桜乃に、夜乃はやさしく微笑みかける。
「私も桜乃のことが大好きよ。だから桜乃には、私が桜乃の幸せを願うように、私の幸せを願ってもらえると嬉しいわ」
「おねえさまの、しあわせ……?」
きょとんと二人を見上げる桜乃を、蒼剣がやれやれと肩を竦める。
「いい機会だから、少し姉離れすればいいだろう。今生の別れでもないんだから」
その言葉に、桜乃がきょとんと目を見開いた。夜乃も同様だ。
桜乃はおずおずと口を開く。
「おねえさまと……これからも会わせてくれるの?」
「当然だ。そもそも、今から椿原の家に連れて帰るのだが? 無論、貴様もな」
そして、蒼剣は桜乃に何かを渡していた。
きっぱりと言い切る蒼剣に、夜乃はたまらず蒼剣の首にしがみついた。
「大好きです、蒼剣様!」
「なっ!」
もう愛しくて愛しくて、我慢が出来なかった。
だって、蒼剣は今でも夜乃が『家族と仲良くしたい』という願いを覚えていてくれているのだ。叶えようとしているのだ。
当の本人は、耳まで真っ赤になりながらも、理解できずにいるようだけれども。
「婚前で、しかも未成年の女たちだぞ? 夫になる者だからこそ、まだ親元に返すに決まっているだろう。父親はともかく……母親はひどく心配していたしな」
「お母様……」
本当に、蒼剣は嬉しいことしか運んでこない。
母にも早く会いたい。心配かけたことを謝って、改めて紹介したい。
――このひとが、私の『想い人』です、と。
そのとき、蒼剣の腕に今までになかった銀の腕輪がついていることに気づく。
(これは……?)
だけど、それを尋ねるよりも前に、蒼剣が「そもそも妹」と桜乃にきっぱりと言ってのける。
「この星峰蒼剣が、姉妹の交流を邪魔するような、狭量な男だと思うのか? 結婚しても定期的に会いに来い。海外から取り寄せた最高級の甘味と茶で歓迎してやる。それと……これは貴様への土産だ」
どこから取り出したのか……それは金色にキラキラ輝く『ほっしーくん』ぬいぐるみで。受け取って呆然としている桜乃をよそに、蒼剣はご機嫌に笑っていた。
「遅れたが、貴様への土産だ! ぬいぐるみが好きなのだろう? この金のほっしーくん人形は非売品だから大事にするように――」
悠然と語る蒼剣をよそに、桜乃は即座に金のほっしーくんを投げ捨てる。
そして、おもいっきり叫んでいた。
「……桜乃、あんたのこときらい。だいっきらい!」
「はーははははっ! 存分に俺を嫌うがいい! 反抗心も大人になる立派な栄養だ!」
拗ねてはいるが、桜乃はほっしーくんを受け取ったときに、蒼剣の足から手を離している。
だいきらいと喚き続ける桜乃の頭を、蒼剣がわしゃわしゃと撫でた。
「ちんちくりんの義妹め」
桜乃も仏頂面ながらも、その手を振り払わなかった。
◇
ふたりが歩き出してからも、桜乃はしばらく動けなかった。
だって、見上げた蒼剣に抱かれる夜乃が、すごくしあわせそうに見えたから。
座敷牢の外の窓には、夜空が広がっていた。
星がまたたき、月が静かに輝いている。
だけど、そのどれよりも、蒼剣に見上げて嬉しそうに微笑んでいる姉・夜乃が輝いて見えた。うつむいていた、かわいそうなときよりも――桜乃が今まで見てきた中で、いちばん美しい姉の姿だった。
「おねえさまの、しあわせ……」
ほとんど消えた首元の傷跡を撫でながらつぶやくと、夜乃と蒼剣が振り返ってくる。
「ほら、早くきなさい」
「歩けないなら、貴様も抱きかかえてやろうか?」
そんなふたりに見下されて、桜乃はぐしゃぐしゃの顔を自分で拭う。
「こ、子ども扱いしないでってばぁ!」
桜乃は喚いてから、足元に転がる不細工なぬいぐるみを睨みつけた。
かわいくない。頭が星型の人形なんて、とても不気味だ。
しかも、表情が特に気に食わない。なんで口が斜めにつり上がっているんだろう。
「……でも、こんな場所でひとりぼっちなんて、可哀想だし?」
そして、椿原桜乃は星頭のぬいぐるみを拾って走り出す。
自分の足で、だいすきな姉と、だいきらいな義兄候補のもとへ。
