蒼剣の全身は血と雨に濡れていた。
だから、誰も気づかない。
顔を覆ってしまえば、どんなに泣いていたところで、人間ひとりの涙など、雨が洗い流してくれる。
だけど、そうは問屋が許さないのだ。
「蒼剣様っ!」
車から降りてくるのは、ひとりの女だった。
まだ雨が吹きすさぶ中を、迷うことなく駆けてくる。はらりと揺らめくコートの隙間からは白く美しい柔肌をちらつかせている。
だから思わず、蒼剣は耳を真っ赤にして叫んだ。
「は、はしたない姿で外に出てくるな!」
(すぐに引き返すように指示を出すべきだったか)
あのときは下手に車を動かすことによってあやかしが追ってしまうことを危惧したのだが、それこそ自分が食い止めればよかっただけのこと。
現に、同乗していた女が裸足で抱き着いてきて。
蒼剣は固まる。
(えっ?)
しかも彼女は蒼剣の胸に顔を埋めながら、ヒクヒクと肩を震わせていた。
「蒼剣様が、死んでしまうかと思った……」
(椿原夜乃が、泣いているだと……?)
椿原夜乃が泣いていた。
自分の安否を心配して泣いている。
喉が渇いて苦しかったときも、もんぺ姿で働かされていたときも、母親から拒絶されたと思ったときも。
ただうつむくだけだった女が、泣いている。
(母親と仲直りできたときも、泣いていたか)
彼女の涙のぬくもりが蒼剣の胸にじんわりと伝わってくる。
嬉しさに涙を惜しまない女に、蒼剣はたまらず肩を竦めた。
「ははっ……笑ったり泣いたり……忙しい女だなぁ……」
(泣き止ませなければ)
女に心配をかけるなど、それこそ男として情けない所業だ。
だからこそ、彼女に見られてもいいように、大きく息を吸い、口角をあげ、いつもの高慢な笑みを作る。
そして、ずっと彷徨わせていた両手で彼女の細い肩を掴んだ。
「俺が死ぬわけなかろう、俺を誰だと思っているんだ?」
――星峰蒼剣様です。
そんな答えが返ってくるかと思っていた。
彼女が顔をあげてもまだ泣いていたら『なんだ、俺の顔は泣くほど美しいか』とでも言ってやろうと思っていた。
だけど、顔をあげた女は、まっすぐに蒼剣を見上げて微笑んだのだ。
「私のヒーローです」
――今の貴様にとって、それは月影ではなかったのか?
そんないじわるが蒼剣の頭によぎる。
だって五歳だったときの彼女の『ヒーロー』は、銀の腕輪を持つ男のことのようだから。
だから、蒼剣はあえての疑問を口にした。
少しばかり、声が震えてしまったけれど。
「そ……そのヒーローという言葉の意味を、貴様は知っているのか?」
すると、椿原夜乃はきょとんと目を丸くする。
その顔は、あのメロンを抱えていたときとまるで変わっていなかった。
「私を導いてくれる……一番星みたいな人のこと、でしょうか?」
(なんだ、それは)
彼女が外来語に疎いことは察していた。
だから勘違いを笑うつもりは毛頭ないが……よりにもよって、の表現である。
たしかに、幼い迷子を救おうとしたときは、目印のような存在だったのかもしれないけれど。
(まさか、一番星にたとえるとは)
余計に、あのときの『ヒーロー』が月影怜司になってしまったことを、蒼剣は悔やむ。
本当は彼女がそう勘違いしたとき、すぐさま否定してやりたかった。
あのときの少年は、自分なのだと。
だけど、それを躊躇った理由は、自分がヒーローでもなんでもないから。
むしろ彼女は自分を守るために傷ついた――彼女こそが救世主だったから。
それだけではない、そのときのことを今でも悔やんだ結果、討伐隊に入隊したにも関わらず、自分は未だあやかしを一体も討伐したことがない。そんな事実を知られてしまうのが怖かったから。情けなかったから。
だからこそ、蒼剣が目の奥に浮かべる光景はまやかしだ。
あやかしに襲われたメロンの少女を助けることなど、時間が戻らない限り不可能なこと。それでも、まるでメロンを抱えていた少女を、自分が守れたような気がして。
(我ながら女々しい妄想だな)
それでも、ずっと胸に抱いていた無力感が晴れたような感覚に、蒼剣の目から再び涙がこぼれる。
涙を隠すことなく、蒼剣は夜乃に向かって微笑んだ。
「そうだ、俺が貴様の一番星だ」
その本当の意味は、まだ夜乃には伝えられない。
いつか実力で銀の腕輪を奪い返す、そのときまで。
そのときだ。雨音に乗じて、蹄の音が複数近づいてくる。
どうやら車の運転手が救援を呼んでいたらしい。
おそらく連絡から最速で来たであろう上司に、蒼剣は得意げに口角をあげた。
「遅いぞ、月影」
白馬から飛び降りた隊長、月影怜司が倒れたあやかしと蒼剣を交互に見やる。
「これを……本当に蒼剣が……?」
困惑する月影や他の隊員らの様子がおもしろくて仕方ない。
そんな蒼剣夜乃の頭を「車の中で隠れてろ」とぽんと叩いてから、月影のもとへ向かう。そして、彼の肩に肘を載せて、にたりと笑みを浮かべた。
「あぁ、貴様と再び決闘する日も近いやもしれんなァ」
片手で弄ぶのは、当然月影がいつも身に着けている銀の腕輪。
失くしたら困るからと無駄に律儀な幼馴染は、未だ目をぱちくりとさせていた。
「……それは困ったな」
蒼剣は気が付かない。月影の視線が蒼剣ではなく、ようやく自分の恰好を思い出して恥ずかしそうにうつむいていた、椿原夜乃を捉えていたことなんて。
だから、誰も気づかない。
顔を覆ってしまえば、どんなに泣いていたところで、人間ひとりの涙など、雨が洗い流してくれる。
だけど、そうは問屋が許さないのだ。
「蒼剣様っ!」
車から降りてくるのは、ひとりの女だった。
まだ雨が吹きすさぶ中を、迷うことなく駆けてくる。はらりと揺らめくコートの隙間からは白く美しい柔肌をちらつかせている。
だから思わず、蒼剣は耳を真っ赤にして叫んだ。
「は、はしたない姿で外に出てくるな!」
(すぐに引き返すように指示を出すべきだったか)
あのときは下手に車を動かすことによってあやかしが追ってしまうことを危惧したのだが、それこそ自分が食い止めればよかっただけのこと。
現に、同乗していた女が裸足で抱き着いてきて。
蒼剣は固まる。
(えっ?)
しかも彼女は蒼剣の胸に顔を埋めながら、ヒクヒクと肩を震わせていた。
「蒼剣様が、死んでしまうかと思った……」
(椿原夜乃が、泣いているだと……?)
椿原夜乃が泣いていた。
自分の安否を心配して泣いている。
喉が渇いて苦しかったときも、もんぺ姿で働かされていたときも、母親から拒絶されたと思ったときも。
ただうつむくだけだった女が、泣いている。
(母親と仲直りできたときも、泣いていたか)
彼女の涙のぬくもりが蒼剣の胸にじんわりと伝わってくる。
嬉しさに涙を惜しまない女に、蒼剣はたまらず肩を竦めた。
「ははっ……笑ったり泣いたり……忙しい女だなぁ……」
(泣き止ませなければ)
女に心配をかけるなど、それこそ男として情けない所業だ。
だからこそ、彼女に見られてもいいように、大きく息を吸い、口角をあげ、いつもの高慢な笑みを作る。
そして、ずっと彷徨わせていた両手で彼女の細い肩を掴んだ。
「俺が死ぬわけなかろう、俺を誰だと思っているんだ?」
――星峰蒼剣様です。
そんな答えが返ってくるかと思っていた。
彼女が顔をあげてもまだ泣いていたら『なんだ、俺の顔は泣くほど美しいか』とでも言ってやろうと思っていた。
だけど、顔をあげた女は、まっすぐに蒼剣を見上げて微笑んだのだ。
「私のヒーローです」
――今の貴様にとって、それは月影ではなかったのか?
そんないじわるが蒼剣の頭によぎる。
だって五歳だったときの彼女の『ヒーロー』は、銀の腕輪を持つ男のことのようだから。
だから、蒼剣はあえての疑問を口にした。
少しばかり、声が震えてしまったけれど。
「そ……そのヒーローという言葉の意味を、貴様は知っているのか?」
すると、椿原夜乃はきょとんと目を丸くする。
その顔は、あのメロンを抱えていたときとまるで変わっていなかった。
「私を導いてくれる……一番星みたいな人のこと、でしょうか?」
(なんだ、それは)
彼女が外来語に疎いことは察していた。
だから勘違いを笑うつもりは毛頭ないが……よりにもよって、の表現である。
たしかに、幼い迷子を救おうとしたときは、目印のような存在だったのかもしれないけれど。
(まさか、一番星にたとえるとは)
余計に、あのときの『ヒーロー』が月影怜司になってしまったことを、蒼剣は悔やむ。
本当は彼女がそう勘違いしたとき、すぐさま否定してやりたかった。
あのときの少年は、自分なのだと。
だけど、それを躊躇った理由は、自分がヒーローでもなんでもないから。
むしろ彼女は自分を守るために傷ついた――彼女こそが救世主だったから。
それだけではない、そのときのことを今でも悔やんだ結果、討伐隊に入隊したにも関わらず、自分は未だあやかしを一体も討伐したことがない。そんな事実を知られてしまうのが怖かったから。情けなかったから。
だからこそ、蒼剣が目の奥に浮かべる光景はまやかしだ。
あやかしに襲われたメロンの少女を助けることなど、時間が戻らない限り不可能なこと。それでも、まるでメロンを抱えていた少女を、自分が守れたような気がして。
(我ながら女々しい妄想だな)
それでも、ずっと胸に抱いていた無力感が晴れたような感覚に、蒼剣の目から再び涙がこぼれる。
涙を隠すことなく、蒼剣は夜乃に向かって微笑んだ。
「そうだ、俺が貴様の一番星だ」
その本当の意味は、まだ夜乃には伝えられない。
いつか実力で銀の腕輪を奪い返す、そのときまで。
そのときだ。雨音に乗じて、蹄の音が複数近づいてくる。
どうやら車の運転手が救援を呼んでいたらしい。
おそらく連絡から最速で来たであろう上司に、蒼剣は得意げに口角をあげた。
「遅いぞ、月影」
白馬から飛び降りた隊長、月影怜司が倒れたあやかしと蒼剣を交互に見やる。
「これを……本当に蒼剣が……?」
困惑する月影や他の隊員らの様子がおもしろくて仕方ない。
そんな蒼剣夜乃の頭を「車の中で隠れてろ」とぽんと叩いてから、月影のもとへ向かう。そして、彼の肩に肘を載せて、にたりと笑みを浮かべた。
「あぁ、貴様と再び決闘する日も近いやもしれんなァ」
片手で弄ぶのは、当然月影がいつも身に着けている銀の腕輪。
失くしたら困るからと無駄に律儀な幼馴染は、未だ目をぱちくりとさせていた。
「……それは困ったな」
蒼剣は気が付かない。月影の視線が蒼剣ではなく、ようやく自分の恰好を思い出して恥ずかしそうにうつむいていた、椿原夜乃を捉えていたことなんて。
