星落としの花嫁 ~忌み子の私が血を吸うたび、高嶺の御曹司に執着される~


 ◇

 車の扉を閉めた途端、椿原夜乃が星峰蒼剣を押し倒した。

(の、望むところだああああああ!)

 風邪を引かないと聞いていた女が、あんなに寒そうに震えていた。

 その姿だけで、しばらく血を飲ませてもらってなかったことが窺えた。
 パーティーの最中に倒れられ……然り、忌み子とバレるようなことがあったら大変だ。

 無論、いつかは彼女の正体を隠し切れなくなるだろう。
 星峰の父はもちろん、星峰の妻になるからには、世間に公表する必要だって出てくるかもしれない。

 ――だけど、今ではない。蒼剣の勘がそう警鐘を鳴らしている。

 そう頭の中でごちゃごちゃ考えるのも、ただ目の前の女に呑まれないため。

(男を魅せろ、星峰蒼剣!)

 そう目を閉じて待っていると、頬がやさしく包まれる。

「いただきます」

 うっすら目を開けると、椿原夜乃が唇を舐め、妖艶に微笑んでいた。

(美しい……)

 海外で様々な芸術品に触れてきた蒼剣の素直な感想だった。

 椿原夜乃は、この世でいちばん美しい女だ。
 妖艶な女性を描いた絵画はいくつも見てきたが、そのどれよりも、今、目の前で自分を押し倒している女が美しい。この美を妨げるなど、それこそ神に謀反を働くようなものだ。商人としての目利きを持つからこそ、男ならこのまま女の好きにさせるべきだとも思ってしまう。

 夜乃に噛みつかれたとき、思わず蒼剣は吐息を漏らしてしまった。

「はう……」
(われながら間抜けな声だ……)

 だけど、蒼剣の顔はどんどん蕩けていく。
 コクコクと血を吸われるたびに、体中に甘い痺れが広がっていくのだ。

(きもちいい)

 その言葉だけが、蒼剣の頭の中を支配していた。

 ましてや、少し目を開ければ、世界一美しい女が、とても嬉しそうに自分に吸い付いているのだ。だから、蒼剣はジレンマに頭を悩ませる。その頭を撫でてやりたい。だけど甘美な倦怠感に酔いしれたまま、指の一本も動かしたくない。

 そんな幸せな悩みに、永遠とまどろんでいたい。
 そう、再び目を閉じようとしたときだった。

「きゃっ」

 車が急ブレーキをかけ、夜乃の体が大きく揺れる。
 乱暴に牙が離れたため、蒼剣の肩に強い痛みが生じた。だけど、即座に蒼剣は夜乃の体がどこにもぶつからないように抱きかかえる。

 我に返った蒼剣は毅然と声を張り上げた。

「何事だ!?」
「あ、あやかしです!」

 カーテンの向こうの運転席からの声に、蒼剣は固唾を呑み込んだ。
 その単語に、完全に蒼剣の目は冴える。

 己が妖力がないとしても、討伐隊だからということもある。
 だけど、それ以上に……。

 今、己の腕の中には、あのとき守れなかった少女がいるのだから。

 蒼剣は即座に車の外に出ようと腰をあげた。が、つんのめりに引っ張られる。
 椿原夜乃が何も言わず、蒼剣の袖を掴んでいた。

(そういや、前回のデートでも、こいつの前で失態を犯していたな)

 前回のあやかしに襲われたとき、夜乃には自分に妖力がないことを明かしている。
 だからこそ、夜乃は退治に向かおうとする蒼剣を止めようとしているのだろう。

 無駄に死にいく必要などない。なるほど、賢い女ではないか。
 蒼剣は何も言わない夜乃に対して、苦笑を返す。

(俺はこいつの前で、何度情けない姿を晒したことか)

 一回目の見合いでは、こいつに押し倒された。
 二回目のデートでは、あやかしに負けそうになった姿を見せた。
 三回目に使う両極端なことわざが頭によぎりつつも、星峰蒼剣の辞書に『逃げる』という選択肢はない。

(なぜなら、俺は星峰蒼剣だからだ!)

 そう自分を奮い立たせ、今日も蒼剣はどやっと笑ってみせる。

「貴様はただ、俺の雄姿に見惚れていればいい」

 夜乃を残し、蒼剣は車の中から飛び出す。

 場所は周囲を林に取り囲まれた郊外の道だ。あやかしは人間を餌にしている以上、街中のほうが出現しやすいが……目の前の狼のようなあやかしは口に人間の死体を咥えていた。この場で食べるのではなく、まるでどこかに運んでいる最中だったようだ。

(どこかで繁殖でもしているのか?)

 鼻周りが大きいところを見るに、このあやかしは本物の狼と同じだとすればオスとなる。まだあやかしについての生態は判明されていないところも多いので、蒼剣の見立ても定かではないが。

 それでも、相手があやかしである以上、蒼剣の為すべきことは変わらない。

「俺の名は星峰蒼剣! いざ尋常に勝負っ!」

 蒼剣は刀を抜く。
 たとえ己の刃があやかしに届かないとわかっていたとしても、蒼剣は雨でぬかるんだ地面を強く踏みしめ、大きく跳躍した。

 そのまま縦に振り下ろそうとするも……今日はやたらよく見えた。

 蒼剣は目がいい男だ。それは単純な視力の問題ではなく、目利きという点も含めてだった。幼少期から商人の息子として、美醜様々な物や人に触れてきたからだろう。そのことに蒼剣自身も誇りに思っていた。だけど、それらはあくまで人間としての範疇だ。

 今の蒼剣には、本来見えるべきではないものまで見えている。

 あやかしの雨を弾く毛の一本一本。
 皮膚のまわりにまとわりつくオーラの層一枚一枚。
 その下で蠢く赤黒い血脈。
 さらに奥で、大きく鼓動する心臓。

 本来見えないもの、すべてを、蒼剣の熱を帯びた青く揺らめく瞳は彼に知覚させる。

()える……!)

 だから、蒼剣はとっさに刀の構え方を変える。
 オーラが薄い部分……狼の眉間に向けて、躊躇うことなく一突きできるように。

 すると、蒼剣の刀がするりとあやかしの顔に突き刺さる。
 まるで包丁でメロンを切ったときのように、どうってことない手ごたえだった。

「ぐごぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」

 あやかしの声にならない咆哮が雨音を大きく揺るがした。ずっと咥えていた遺体をぽろりと落とした直後、強大な体躯が倒れ、ザバァッと水しぶきをまき散らした。ザァーと雨が叩くのは、瘴気を立ち昇らせたただの狼の遺体だった。さっきの半分程度の常識的な大きさになった狼は、もう動かない。隣の餌にしようとした人間の遺体と同じように。

 そんな目の前の光景に、蒼剣は思わずつぶやく。

「これを……本当に俺が……?」

 刀を見下ろすと、そこにはべったりと赤黒い血がついていた。
 反射的に、蒼剣は刀を振ってみる。よく後ろから見ていた、隊長の真似だった。

 この地面の伸びる赤い一線に、どれほど焦がれていただろう。

 目の熱は元に戻っていたが、蒼剣は両目を抑える。
 でないと、今すぐ泣き出してしまいそうだったからだ。