◇
「寒い……寒いわ……」
雨に打たれて、裸の夜乃は小さく震えていた。
何度押しても、木の扉は開かない。
何度助けを求めても、誰も扉を開けてくれない。
このまま風呂場……にしてもらった敷居を出たくても、まわりから見えないように四方を高い木の板で囲ってもらっているため、昇ることもできない。
(だれが私のことを閉じ込めたのだろう?)
助けを求めることを諦めた夜乃は、その場に座り込むことしかできなかった。
膝を抱えて、なるべく身体を丸めて、自分で自分を抱きしめることしかできない。
(お父様は見合いの継続を望んでいたし、お母様も違う気がする……小梅さんも最近は蒼剣様が次はいつくるのかと楽しみにしていたから……桜乃、かしら?)
どうやら桜乃は、蒼剣のことをあまりよく思っていないらしい。
(やはり『ちんちくりん』と呼ばれるのが嫌なのかしら?)
年頃の妹だ。きっと蒼剣なりの愛情表現なのだろうが、それがわかるほど彼女はまだ賢くないのだろう。
(それとなく蒼剣様にお伝えしないと……)
そんなことをぼんやりと考えていくうちに、夜乃は本能のままつぶやいていた。
「喉、乾いたな……」
雨脚はどんどん強くなっていた。
さらに晩餐会が近いからと、またここ数日、血をもらえずにいたのだ。
風邪を引くことはないとはいえ、さすがに裸で雨に濡れたままだと、体温がどんどん下がっていく。
そのたびに、夜乃は喉の渇きで意識が朦朧としてきた。
「血が、飲みたい……」
夜乃が求めるのは、死んだねずみではない。
あの甘美なおいしさを知ってしまった手前、もう死にかけの兎をもらっても、喜べる気がしなかった。
まぶたの向こうに思い浮かべるのは、とても健康そうで美味しそうで、いつも偉そうな、ひとりの美丈夫の姿だった。
「そう、けん……さま……」
「俺を呼んだな?」
声と同時に、夜乃の体がにバサッと黒い外套がかけられた。
少し土っぽくて、動物のような甘い匂いは、コロンの香りだろうか。それとも、彼自身の匂いだろうか。
それでも、その濃厚で力強い香りに、夜乃はとっさに顔をあげる。
見上げた先にいた男は、雨空を背景にしても不敵な笑みを浮かべていた。
「ふん……時間ギリギリまで身を清めているとは、殊勝なことじゃないか」
(解釈が前向きすぎるわ)
その言動があまりに可愛くて、思わず夜乃の表情がほころぶ。
そして、星峰蒼剣は許可を得ることなく、夜乃を横抱きに持ち上げた。
かけてもらった外套も、銀色に輝くスーツも、とても高価な代物だろう。夜乃を抱きかかえるということは、それらが濡れてしまうということ。それなのに、蒼剣はぎゅっと夜乃を布越しに抱きしめて、力強く歩を進める。
「このまま車に向かうが、妹に挨拶してから行くか?」
(桜乃、か……)
ぼんやりとした頭で、夜乃は家族のことを思い浮かべる。
外出するなら、きちんと挨拶をしてからいくべきだろう。
ましてや、聡明な蒼剣が裸で震えていた自分を見て、本当に『殊勝ゆえの行動』だと思っているはずがない。これもまた、きっと夜乃が『家族と仲良くしたい』と願ったからこその気遣いなのだろうと思うと、目の奥が熱くなる。
「それなら、ちゃんと服を着てから――」
「そんな時間はない。どうせすぐに見合い相手である俺の用意したドレスを着るんだから。覚えておけ、金の節約より時間の節約が成功者になる秘訣だ」
「は、はあ……」
だけど、そのわりに夜乃の意見は却下されてしまった。
(怒っているのかしら?)
どことなく急いた声音に蒼剣を見上げようとしたときだ。きゃんきゃんと甲高い声音に夜乃がまわりを見渡せば、縁側で桜乃が使用人の小梅にしがみついていた。
「お金はいいから、早くあいつをどうにかしてよ~~!」
「いいじゃないですか、お嬢様もお金を拾いましょ! これ一枚でぬいぐるみひとつ買えるんですよ!?」
「だ~か~らぁ~~!!」
どうやら他の使用人たちも、目をギラギラさせて屋敷のあちこちに散らばるお金を拾い集めているらしい。蒼剣はその横を構わず通り過ぎた。
「姉は借りていくぞー。日付が変わる前には帰すからなー」
棒読みの蒼剣が少しおかしくて再びを視線をあげたときだった。
派手なスーツの襟元から伸びる喉ぼとけに、夜乃は喉を鳴らす。
(あぁ、なんて美味しそうなの……?)
そう思ったら、思い出してしまう。
全身が砂になってしまったかのような、喉が渇きを。
思い出してしまったら、もう耐えられない。
今すぐにでも、目の前のご馳走の首元を貪りたくて。
(でも、我慢しなくっちゃ……)
夜乃は以前、蒼剣に言われたことを必死に思い返す。
(人目がなくなるまで、我慢、我慢……)
だから、もう夜乃の耳には聞こえない。
夜乃たちを見送る妹の、憎々しげに吐きだした言葉なんて。
「おねえさまは、桜乃のモノなのに……」
そして、車の扉が閉められた途端、夜乃は蒼剣に抱き着いた。
「お、おい!」
黒いカーテンを閉めなくても、雨が車体の窓にカーテンをかけてくれていた。
だから夜乃は巻かれた外套がずり落ちそうになっていることも気にせず、うろたえる蒼剣の赤い蝶ネクタイを夜乃は無我夢中でほどく。シャツをむけば、下から美しい肌がでてきた。夜乃は蒼剣の腹の上に迷うことなく跨る。
「く、車をだせーい! 俺らのことは気にするな! 何があっても気にするなよ!」
運転手に向かって蒼剣が必死に叫んでいるが、覚悟を決めてぎゅっと目を閉じる男が、夜乃はかわいくてかわいくて仕方がなかった。
たまらず、夜乃は蒼剣の頬を撫でた。身をよじらせる男を前に、夜乃の普段は黒い瞳が赤く揺らめく。そして、二人の息遣いが狭い車体の中で重なる中で、夜乃は妖艶に己の唇を舐めた。
「いただきます」
車が発進するとともに、解かれた赤い蝶ネクタイがはらりと座席の下に落ちる。
