蒼剣はすぱーんすぱーんと扉を開けていく。
誰もいない客間も。
使用人たちが食事をとる広間も。
父のキセルの匂いが染みついた書斎部屋から、ぬいぐるみや人形がいっぱいの妹の私室まで。
「こないだおまえにやったほっしーくんはどうした?」
「私の部屋で、大切にさせていただいています」
星峰デパートのぬいぐるみ・ほっしーくん。
妹にあげようかとも思ったのだが、夜乃はやっぱり自分で持っておくことにしたのだ。
ランプのせいで少し魚臭くなってしまったけれど、蒼剣との大切な大切な思い出だから。いつか自分が処刑される、その日まで――ぬいぐるみなら、最後まで一緒にいれてくれると思ったのだ。
そんな未来を想像して、夜乃は笑みを落とす。
横目でそれを見た蒼剣は「では、今度妹には金のほっしーくんでもくれてやるか」などといって、次の部屋へ向かった。
再び蒼剣はすぱーんすぱーんと容赦なく部屋の突撃を繰り返していれば、大きいといっても昔ながらの平屋の屋敷。
「あ、そこは――」
いつしか、目的の母の部屋も見つかってしまうわけで。
夜乃の制止のよそに障子扉をあけた蒼剣の顔に硯が投げつけられた。
「誰の許可を得て入ってきているのですか、出ていきなさい!」
「無礼で申し訳ない。だが、こうしないと挨拶できないと思ってな」
だけど、夜乃が息を呑む暇もなく、蒼剣は片手で易々受け止めていた。
顔についた墨汁を手で拭ってから、蒼剣は帽子を外す。
「夜乃さんと見合いをさせていただいている星峰蒼剣です。こちらご挨拶のメロンです。どうかご家族でお食べください……と、なんだ、その顔は」
好青年がごとく挨拶をはじめた蒼剣がじとりと夜乃を睨む。
思わず、夜乃が後ずさりしていたからだ。
「いや……蒼剣様、ちゃんと敬語とか使えたんだなぁって」
「俺をなんだと思っているんだ?」
ともあれ、夜乃は部屋の中の母・雪乃と目が合った。
少し前に見かけたときよりも、痩せたような気がする。藤色の着流しを羽織っているせいか、肌がより青白く、生気がないように見えた。それでも、ちらりと夜乃を見た直後、雪乃は憎々し気に視線を逸らしてくる。
「メロンはお持ち帰りください。嫌いなの。見るだけで吐き気がするわ」
「それはメロンがきっかけで娘が忌み子になったからですか?」
「なっ……」
間を入れない蒼剣の言葉に、雪乃は目を大きくあけて。
即座に、彼女は隙のない三つ指をついた。
額を畳に付けて、ただでさえか細い声を、小さく震わせていた。
「お願いします、このことは、どうかご内密に……」
(やっぱり、お母様も私のことが疎ましいのね)
そんな母の姿に、夜乃は視線を下げる。
わかっていた。自分が母にとって邪魔な存在であるということを。
今も、母は自分を含めた椿原家や父や妹たちを守るために頭を下げているのだろう。
そんな光景に、夜乃は下唇を噛み締めて、うつむくしかなくて。
だけど、蒼剣はいつになく柔らかい口調で呼んでくる。
「夜乃さん、御台所へ案内してもらえますか?」
「えっ?」
(はじめて名前を呼んでもらえた?)
しかも「さん」付け。
一瞬目の前の男が誰だかわからなくて、思わず夜乃は顔をあげる。
やはり、目の前にいる男は討伐隊の制服を着た星峰蒼剣だ。
しかし、頭を下げ続ける雪乃に向かって、にこりと柔和な笑みを浮かべたのだ。
「メロンを切ってまいります」
夜乃は台所についてから、思わず尋ねてしまった。
「私のこと、初めて名前で呼びましたね……?」
「見合い相手の親御さんの前で『貴様』呼びはできんだろうが」
「父の前では呼ばれていたと思いますが?」
本来なら使用人たちの食事も終えて、みんなで食器を洗っているはずの時間である。
だけど、今日にかぎっては無人だった。というか、夜乃と蒼剣が現れたため、一目散に理由をつけてみな退散してしまったのだが。
(去り際に小梅さんが片目を閉じてきたから……彼女なりに気を遣ってくれたのかしら?)
金貨をもらった直後に現金なものだと思いつつも、夜乃は包丁を取り出す。
すると、蒼剣が「貸せ」と手を差し出してくるので、夜乃はおそるおそる渡してみた。
蒼剣は何の気なきに話しながら、スムーズな手つきでメロンを切り始める。
「まあ……あのときは、どうせ貴様もそこらの女と一緒だと思っていたからなぁ」
(ほら、また)
だけど、夜乃の記憶では幼馴染で隊長である月影怜司もまた蒼剣に『貴様』と呼ばれていたはずである。それなのに自分だけ他の呼ばれ方をされるのも気まずいので夜乃が口に出すのをやめたとき、メロンを切り終えた蒼剣が「さて」と夜乃に向かい合った。
メロンの表面はとてもなめらかで、甘い香りが台所中に広がっていた。
「で、貴様はどうしたいんだ?」
「なにが……ですか?」
いきなりの質問に、夜乃はきょとんを目を丸くする。
だけど、蒼剣は使い終わった包丁を丁寧に洗いながら続ける。
「あの母親を含め、結婚後の実家との付き合いだ」
その言葉に、夜乃の頭は真っ白になった。
(意味がわからないわ)
もちろん聞かれた質問の意味はわかる。
だけど、それを自分に聞かれる意味がわからない。
そんな未来の話なんて、忌み子の自分に意味があるのだろうか。
ただ、今を生かされているだけでも奇跡なのに。
周囲の皆に迷惑をかけて、慈悲で生かされているだけなのに。
そこに、自分の希望なんて、抱いていいはずがないのに。
それなのに、蒼剣は包丁の水を切りながら、不思議そうに顔をしかめてくる。
「なんだ、俺は見合い相手なのだから、将来の希望を尋ねてもおかしくないだろう」
「それは……そうなのですが……」
通常の見合いなら、女性の意見が聞かれることも増えてきたという。
たとえば、結婚式では洋装がいいとか。海外では純白のドレスを着て祝うものらしく、真似を希望する花嫁も増えているのだという。普段はモダンチックな和装を好む桜乃だが、結婚するときはドレスもいいかもと話していたことを思い出す。
夜乃からしたら結婚もすることはないと思っていたので、想像をしたこともなかったけれど。
「今までの話や今日の家の様子で、大体の貴様の立場は把握したつもりだがな。家族と絶縁したいと希望してもおかしくない立場だろう?」
――家族と縁を切る……?
それは夜乃が一度も思い浮かんだことのない考えだった。
今更ながら、蒼剣の手際のよさに驚く。
御曹司ながら、メロンの切り分けに躊躇いがなかった。討伐隊という仕事柄刀を使っているから、刃物に扱いに慣れているのだろう。
それにしても器用な男が提案してくるのだ。
「あくまで例えばだが、俺なら貴様を連れて海外に駆け落ちすることだってできる」
「か、駆け落ち、ですか!?」
その単語に、夜乃の顔は思わず赤く染まる。
使用人たちが読み終えた雑誌が夜乃にも回ってくる。その中で、親の反対を押し切り、ふたりで逃避行する恋愛小説が小梅を筆頭に使用人たちに人気があったそうだ。
彼女たちはそんな主人公に自分を重ねて楽しんでいたようだが、やっぱり夜乃には同様の楽しみ方をしたことがない。あくまで他人事、自分とは無縁の世界としか思えなかった。
だけど、目の前の男は夜乃に対して具体的に語る。
「下手に国内に留まると追手がかかる場合もあるだろう。だが、俺なら星峰の名がなくても海外で貴様ひとり養っていくことくらい容易い。正直、このままだと討伐隊からも逃げるようにやめることになるから屈辱ではあるんだが……まあ、あくまでこんな例もあるという話だ」
「は、はあ……」
こういう選択肢もあるのだと。
こういう未来もあるのだと。
夜乃の知らない世界を押し付けて、容赦なく問うてくるのだ。
「で、貴様はどうしたい?」
「私は……」
今まで、自分の意見など聞かれたことがあっただろうか。
言われるがまま、家事をこなすだけ。
言われるがまま、見合いをするだけ。
言われるがまま、いつか殺されるのを待つだけの人生だと思っていたのに。
「私は――」
夜乃が窺いみると、包丁を洗い終えた蒼剣はただ夜乃の言葉を待ってくれていた。
急かすわけでもなく、笑うわけでもなく。
ただじっと、真面目な顔で夜乃を待ってくれていて。
だから、夜乃はメロンを載せる皿を棚から取り出した。
白い陶器のこの皿で、昔、母とメロンを食べたことを思い出しながら。
そして、そんな思い出を蒼剣に差し出す。
声が震えても、まだ少しうつむきながらも。
夜乃ははじめて自分の希望を口にする。
「私は家族と、仲良くしていきたい、です……」
「次にわがままを言うときは、顔をあげて言うといい」
甘い香りが残る指で顎を持ち上げられ、自然と夜乃の顔が上を向く。
そこには星峰蒼剣が悠然と微笑んでいた。
「貴様の願いを叶えてやる男の顔が見れるぞ」
そして、蒼剣はメロンの一切れを夜乃が用意した皿に載せ、大股で歩き始める。
思わず立ちすくむ夜乃に、蒼剣は当たり前のように言った。
「ほら、早く来い」
「……はい」
夜乃は蒼剣についていく。
これからも、そうしていきたい。
いつかそんなわがままも言える日がきたらいいな、と思いながら。
そして、やっぱり蒼剣はすぱーんと障子扉を開けた。
「星峰蒼剣がメロンを切ってまいったぞ!」
「メロンは嫌いと言ったはずですが?」
文机にうなだれたままの母・雪乃の言葉に、蒼剣は心底驚愕の顔をあらわにした。
「この星峰蒼剣が切ってやったメロンが食えないだと?」
蒼剣がわなわな固まっている。
もしかして、蒼剣はメロンさえ食べさせれば母との仲が戻るとでも本気で思っていたのだろうか。そんなはずはない。それなら夜乃が日々うつむいているはずがない。
だけど、夜乃はうつむいた下で小さく笑っていた。
(なんてかわいらしいひとなのかしら?)
その気持ちだけで十分と、夜乃がメロンの皿を下げさせようとしたときだった。
星峰蒼剣はこの程度の拒絶で諦める男ではない。
「仕方ない。おい、貴様が食わせてやれ」
「えっ?」
結局母の前でも貴様呼びをする蒼剣が、イライラした口調で告げてくる。
「あーんしてやれ、と言っているんだ。俺がしたら浮気になるだろう?」
(そ、そうなの?)
蒼剣理論についていけないあいだに、メロンの皿を押し付けられてしまった。
改めて母親を見やれば、ここ最近またやつれてしまっているようだ。
食事を残すことも多いし、なにかで病が流行ったら、すぐに倒れてしまいそうだ。
そんな母の顔が、十二年前のつわりで苦しんでいた姿と重なる。
(一口でも、食べてもらいたいな……)
思わず、夜乃は震える手でメロンをすくっていた。
母に向かって差しだそうとすれば……そのフォークは母親本人に奪われてしまう。
「自分で食べるわよ!」
そして、母・雪乃は十二年ぶりにメロンを食べる。
ぽろりと、ひとしずくの涙をこぼしながら。
誰もいない客間も。
使用人たちが食事をとる広間も。
父のキセルの匂いが染みついた書斎部屋から、ぬいぐるみや人形がいっぱいの妹の私室まで。
「こないだおまえにやったほっしーくんはどうした?」
「私の部屋で、大切にさせていただいています」
星峰デパートのぬいぐるみ・ほっしーくん。
妹にあげようかとも思ったのだが、夜乃はやっぱり自分で持っておくことにしたのだ。
ランプのせいで少し魚臭くなってしまったけれど、蒼剣との大切な大切な思い出だから。いつか自分が処刑される、その日まで――ぬいぐるみなら、最後まで一緒にいれてくれると思ったのだ。
そんな未来を想像して、夜乃は笑みを落とす。
横目でそれを見た蒼剣は「では、今度妹には金のほっしーくんでもくれてやるか」などといって、次の部屋へ向かった。
再び蒼剣はすぱーんすぱーんと容赦なく部屋の突撃を繰り返していれば、大きいといっても昔ながらの平屋の屋敷。
「あ、そこは――」
いつしか、目的の母の部屋も見つかってしまうわけで。
夜乃の制止のよそに障子扉をあけた蒼剣の顔に硯が投げつけられた。
「誰の許可を得て入ってきているのですか、出ていきなさい!」
「無礼で申し訳ない。だが、こうしないと挨拶できないと思ってな」
だけど、夜乃が息を呑む暇もなく、蒼剣は片手で易々受け止めていた。
顔についた墨汁を手で拭ってから、蒼剣は帽子を外す。
「夜乃さんと見合いをさせていただいている星峰蒼剣です。こちらご挨拶のメロンです。どうかご家族でお食べください……と、なんだ、その顔は」
好青年がごとく挨拶をはじめた蒼剣がじとりと夜乃を睨む。
思わず、夜乃が後ずさりしていたからだ。
「いや……蒼剣様、ちゃんと敬語とか使えたんだなぁって」
「俺をなんだと思っているんだ?」
ともあれ、夜乃は部屋の中の母・雪乃と目が合った。
少し前に見かけたときよりも、痩せたような気がする。藤色の着流しを羽織っているせいか、肌がより青白く、生気がないように見えた。それでも、ちらりと夜乃を見た直後、雪乃は憎々し気に視線を逸らしてくる。
「メロンはお持ち帰りください。嫌いなの。見るだけで吐き気がするわ」
「それはメロンがきっかけで娘が忌み子になったからですか?」
「なっ……」
間を入れない蒼剣の言葉に、雪乃は目を大きくあけて。
即座に、彼女は隙のない三つ指をついた。
額を畳に付けて、ただでさえか細い声を、小さく震わせていた。
「お願いします、このことは、どうかご内密に……」
(やっぱり、お母様も私のことが疎ましいのね)
そんな母の姿に、夜乃は視線を下げる。
わかっていた。自分が母にとって邪魔な存在であるということを。
今も、母は自分を含めた椿原家や父や妹たちを守るために頭を下げているのだろう。
そんな光景に、夜乃は下唇を噛み締めて、うつむくしかなくて。
だけど、蒼剣はいつになく柔らかい口調で呼んでくる。
「夜乃さん、御台所へ案内してもらえますか?」
「えっ?」
(はじめて名前を呼んでもらえた?)
しかも「さん」付け。
一瞬目の前の男が誰だかわからなくて、思わず夜乃は顔をあげる。
やはり、目の前にいる男は討伐隊の制服を着た星峰蒼剣だ。
しかし、頭を下げ続ける雪乃に向かって、にこりと柔和な笑みを浮かべたのだ。
「メロンを切ってまいります」
夜乃は台所についてから、思わず尋ねてしまった。
「私のこと、初めて名前で呼びましたね……?」
「見合い相手の親御さんの前で『貴様』呼びはできんだろうが」
「父の前では呼ばれていたと思いますが?」
本来なら使用人たちの食事も終えて、みんなで食器を洗っているはずの時間である。
だけど、今日にかぎっては無人だった。というか、夜乃と蒼剣が現れたため、一目散に理由をつけてみな退散してしまったのだが。
(去り際に小梅さんが片目を閉じてきたから……彼女なりに気を遣ってくれたのかしら?)
金貨をもらった直後に現金なものだと思いつつも、夜乃は包丁を取り出す。
すると、蒼剣が「貸せ」と手を差し出してくるので、夜乃はおそるおそる渡してみた。
蒼剣は何の気なきに話しながら、スムーズな手つきでメロンを切り始める。
「まあ……あのときは、どうせ貴様もそこらの女と一緒だと思っていたからなぁ」
(ほら、また)
だけど、夜乃の記憶では幼馴染で隊長である月影怜司もまた蒼剣に『貴様』と呼ばれていたはずである。それなのに自分だけ他の呼ばれ方をされるのも気まずいので夜乃が口に出すのをやめたとき、メロンを切り終えた蒼剣が「さて」と夜乃に向かい合った。
メロンの表面はとてもなめらかで、甘い香りが台所中に広がっていた。
「で、貴様はどうしたいんだ?」
「なにが……ですか?」
いきなりの質問に、夜乃はきょとんを目を丸くする。
だけど、蒼剣は使い終わった包丁を丁寧に洗いながら続ける。
「あの母親を含め、結婚後の実家との付き合いだ」
その言葉に、夜乃の頭は真っ白になった。
(意味がわからないわ)
もちろん聞かれた質問の意味はわかる。
だけど、それを自分に聞かれる意味がわからない。
そんな未来の話なんて、忌み子の自分に意味があるのだろうか。
ただ、今を生かされているだけでも奇跡なのに。
周囲の皆に迷惑をかけて、慈悲で生かされているだけなのに。
そこに、自分の希望なんて、抱いていいはずがないのに。
それなのに、蒼剣は包丁の水を切りながら、不思議そうに顔をしかめてくる。
「なんだ、俺は見合い相手なのだから、将来の希望を尋ねてもおかしくないだろう」
「それは……そうなのですが……」
通常の見合いなら、女性の意見が聞かれることも増えてきたという。
たとえば、結婚式では洋装がいいとか。海外では純白のドレスを着て祝うものらしく、真似を希望する花嫁も増えているのだという。普段はモダンチックな和装を好む桜乃だが、結婚するときはドレスもいいかもと話していたことを思い出す。
夜乃からしたら結婚もすることはないと思っていたので、想像をしたこともなかったけれど。
「今までの話や今日の家の様子で、大体の貴様の立場は把握したつもりだがな。家族と絶縁したいと希望してもおかしくない立場だろう?」
――家族と縁を切る……?
それは夜乃が一度も思い浮かんだことのない考えだった。
今更ながら、蒼剣の手際のよさに驚く。
御曹司ながら、メロンの切り分けに躊躇いがなかった。討伐隊という仕事柄刀を使っているから、刃物に扱いに慣れているのだろう。
それにしても器用な男が提案してくるのだ。
「あくまで例えばだが、俺なら貴様を連れて海外に駆け落ちすることだってできる」
「か、駆け落ち、ですか!?」
その単語に、夜乃の顔は思わず赤く染まる。
使用人たちが読み終えた雑誌が夜乃にも回ってくる。その中で、親の反対を押し切り、ふたりで逃避行する恋愛小説が小梅を筆頭に使用人たちに人気があったそうだ。
彼女たちはそんな主人公に自分を重ねて楽しんでいたようだが、やっぱり夜乃には同様の楽しみ方をしたことがない。あくまで他人事、自分とは無縁の世界としか思えなかった。
だけど、目の前の男は夜乃に対して具体的に語る。
「下手に国内に留まると追手がかかる場合もあるだろう。だが、俺なら星峰の名がなくても海外で貴様ひとり養っていくことくらい容易い。正直、このままだと討伐隊からも逃げるようにやめることになるから屈辱ではあるんだが……まあ、あくまでこんな例もあるという話だ」
「は、はあ……」
こういう選択肢もあるのだと。
こういう未来もあるのだと。
夜乃の知らない世界を押し付けて、容赦なく問うてくるのだ。
「で、貴様はどうしたい?」
「私は……」
今まで、自分の意見など聞かれたことがあっただろうか。
言われるがまま、家事をこなすだけ。
言われるがまま、見合いをするだけ。
言われるがまま、いつか殺されるのを待つだけの人生だと思っていたのに。
「私は――」
夜乃が窺いみると、包丁を洗い終えた蒼剣はただ夜乃の言葉を待ってくれていた。
急かすわけでもなく、笑うわけでもなく。
ただじっと、真面目な顔で夜乃を待ってくれていて。
だから、夜乃はメロンを載せる皿を棚から取り出した。
白い陶器のこの皿で、昔、母とメロンを食べたことを思い出しながら。
そして、そんな思い出を蒼剣に差し出す。
声が震えても、まだ少しうつむきながらも。
夜乃ははじめて自分の希望を口にする。
「私は家族と、仲良くしていきたい、です……」
「次にわがままを言うときは、顔をあげて言うといい」
甘い香りが残る指で顎を持ち上げられ、自然と夜乃の顔が上を向く。
そこには星峰蒼剣が悠然と微笑んでいた。
「貴様の願いを叶えてやる男の顔が見れるぞ」
そして、蒼剣はメロンの一切れを夜乃が用意した皿に載せ、大股で歩き始める。
思わず立ちすくむ夜乃に、蒼剣は当たり前のように言った。
「ほら、早く来い」
「……はい」
夜乃は蒼剣についていく。
これからも、そうしていきたい。
いつかそんなわがままも言える日がきたらいいな、と思いながら。
そして、やっぱり蒼剣はすぱーんと障子扉を開けた。
「星峰蒼剣がメロンを切ってまいったぞ!」
「メロンは嫌いと言ったはずですが?」
文机にうなだれたままの母・雪乃の言葉に、蒼剣は心底驚愕の顔をあらわにした。
「この星峰蒼剣が切ってやったメロンが食えないだと?」
蒼剣がわなわな固まっている。
もしかして、蒼剣はメロンさえ食べさせれば母との仲が戻るとでも本気で思っていたのだろうか。そんなはずはない。それなら夜乃が日々うつむいているはずがない。
だけど、夜乃はうつむいた下で小さく笑っていた。
(なんてかわいらしいひとなのかしら?)
その気持ちだけで十分と、夜乃がメロンの皿を下げさせようとしたときだった。
星峰蒼剣はこの程度の拒絶で諦める男ではない。
「仕方ない。おい、貴様が食わせてやれ」
「えっ?」
結局母の前でも貴様呼びをする蒼剣が、イライラした口調で告げてくる。
「あーんしてやれ、と言っているんだ。俺がしたら浮気になるだろう?」
(そ、そうなの?)
蒼剣理論についていけないあいだに、メロンの皿を押し付けられてしまった。
改めて母親を見やれば、ここ最近またやつれてしまっているようだ。
食事を残すことも多いし、なにかで病が流行ったら、すぐに倒れてしまいそうだ。
そんな母の顔が、十二年前のつわりで苦しんでいた姿と重なる。
(一口でも、食べてもらいたいな……)
思わず、夜乃は震える手でメロンをすくっていた。
母に向かって差しだそうとすれば……そのフォークは母親本人に奪われてしまう。
「自分で食べるわよ!」
そして、母・雪乃は十二年ぶりにメロンを食べる。
ぽろりと、ひとしずくの涙をこぼしながら。
