こじらせ委員長と省エネ男子

 夏休みになった。

 中学生の頃から、夏休みといえば夏期講習だった。今夏も既に、駅前にある進学塾に申し込みを済ませている。

 今は、予定を立てているところだ。

 予定というのは、勉強のスケージュールのこと。俺にはそれ以外、何も予定なんて……。

 いや、中学時代は勉強オンリーの淋しい夏休みだったが、今年は違う。

 俺には彼氏がいる!!!(大声)

 あれこれと予定が入るかもしれない。花火を見に行くとか、プールに行くとか……。

 いかにも陽キャがすることだなという事実に思い至り、居心地の悪さを感じた。

 俺は、ちらりと視線を上げた。

 ここは玖堂の部屋だ。俺はソファに座って、スケジュール管理のアプリを開いている。

 玖堂は、張り切って夕食の準備をしている。

 自炊をするようになって、なんとか唐揚げだけは作れるようになったらしい。

 鼻歌まじりにキッチンに立つ玖堂を見ながら、俺は落ち着かない気持ちになった。

 ソファに座って、余裕の態度でスマートフォンを操作しているように見えるかもしれないが、実はかなりテンパっている。

 いや、悩んでいるといってもいい。俺は「彼氏の部屋での自身の振る舞い方」について、真剣に頭を悩ませているのだ。

 正直なところ、自分の彼氏ができる未来を想像したことがなかった。

 彼女ができる妄想をしたことならあったが……。(小声)

 つまり、何をどうすれば良いのか皆目見当がつかないのだ!!

「宮下~~! 唐揚げできたよーー!」

 エプロン姿の玖堂に呼ばれた。

「あぁ」

 俺は立ち上がり、ちょっと格好をつけながら返事をする。無駄に低い声になってしまった。恥ずかしい。意識し過ぎだ。

 それに比べて、玖堂はごく普通だった。いつも通り。めちゃくちゃ自然体なのだ。ちょっと憎らしい。

 食卓を見ると、大量の唐揚げがあった。

 大皿にデデンと唐揚げが盛られている。

「すごい量だな……」

「おかず、これしかないから」

「なるほど」

 発展途上の玖堂なので、今はまだ唐揚げしか作れないのだ。

 味噌汁は即席らしい。たどたどしい手つきで、玖堂はポットからお湯を注いでいる。

 トポトポと注がれる熱湯を見ながら、感慨にふける。玖堂は成長した。だらしない生活を送っていたのに、今はひとりで起きられるし、こうやって自炊も頑張っている。

 俺は着席して、手を合わせた。

「いただきます」

「はい。どうぞ~~」

 まずは味噌汁をすする。

 ちょうど良い濃さに作れている。お湯の分量を間違えていない証拠だ。えらい。

 続いて、白米を口に入れる。ちゃんと炊けている。問題なく炊飯器を使えている。えらい。

 唐揚げに箸を伸ばし、ぱくりと口に運ぶ。うん。これも間違いなく……。んん? あれ? いや、美味いな……!?

 外はカリっと、中はじゅわっと。味付けも良い。シンプルな醤油味だけど、しっかり味が馴染んでいる。これは、白米がすすむやつだ……!

 もりもりと食べていたら、見られていることに気づいた。視線を感じる。

「美味しい?」

 玖堂に問われ、俺はこくこくとうなずく。

「めゃくちゃ美味いよ」

「でも、まだレパートリーはひとつだけだし……」

「これから増やしていけば良いんじゃないか?」

「朝は、ひとりで起きれるようになったけど」

「……何の話?」 

 いや、玖堂が成長したことは分かってるんだけど。

「まだまだ至らない俺だから」

「うん?」

 話が見えない。何が言いたいんだ、こいつは。

「宮下に好きになってもらえると思わなくて……」

 いきなり話が見えた。そういうことか。

「……そういうのは出来たほうが良いけど。でも、それで好きになるとか嫌いになるとかはない。……と、思う。やる気がなくて、めちゃくちゃ怠惰だったら呆れるかもしれないけど」

「怠けてたら、宮下の中の『好き』が『嫌い』に傾くってこと?」

 真剣な顔で、玖堂が俺に問う。

 元々が、ぼんやり体質の玖堂だ。心配なのだろう。俺は世話焼き体質なので問題はない。しかし、玖堂の自立心の妨げになってはいけない。

 俺は「そうだな」とうなずいた。

「目減りする可能性はある」

 玖堂は、ごくりと息を飲んだ。そして決意表明をする。

「これからも、自分のことは自分で出来るように頑張るね……!」

 テーブルの上に置いた拳に、ぎゅうっと力が込められる。

「……あぁ。でも、俺が言いたいのはムリをするなってことで」

「うん?」

「玖堂は自然体で良いと思う。俺は、いつの間にか玖堂のことを好きになってて。でも、それが友だちとしての好きか、こ、恋人になりたいっていう好きか、判別できなかっただけだから」

 あぶねぇ。「恋人」のところで噛むところだった。なんとか耐えた。

 思春期なので、軽々しく「恋人」なんていうワードは口にできない。

 いつの間にか、唐揚げの味が分からなくなっている。あんなに、はっきりとした醤油味だったのに。

 俺は変な汗をかきながら、縮こまっていた。恥ずかしい。

 テーブルの上に置かれていた箱ティッシュから数枚を抜き取り、額の汗を拭う。

「どうして、宮下は『恋人になりたい好き』だってことに気づいたの?」

「玖堂が告白されてたから」

「体育祭のとき?」

「うん。それで嫉妬した」
 
 嫉妬イコール、恋人になりたい好き。

 俺が説明すると「なるほど」と言って、玖堂が納得した。

「なんですぐに気づかなかったの?」

「それは、判断材料がなかったから」

「判断材料?」

 玖堂が首をかしげる。

「だって人を好きになるのは初めてだし……」

 あっ。

 慌てて口を押さえる。

 しまった、と後悔したが、もう遅い。

 ば、ばばばば、ばれた……!

 高校生になってようやく初恋を経験したという事実がつまびらかになってしまった。恥ずかしい!!!

 真っ赤な顔で俯いていたら、玖堂が奇声を上げた。

「はわわわ~~~~!!!」

 咄嗟に顔を上げる。

 玖堂は口元を両手で覆っていた。小声で「かわいい」「尊い」とつぶやいている。

「ばかにしてるだろ」

 忌々しい。恥ずかしい。今すぐにでも自分の部屋に退避したい。

「するわけないでしょ!!」

 玖堂は、満面の笑みだった。

 絶対にばかにしている。その顔が、何よりの証拠だ。

 憎々しい。悔しい。今すぐにでも玖堂の顔面にパンチを入れたい。

 色んな感情が渦巻いている。体中の血液が沸騰するみたいになって、最後まで唐揚げの味は分からないままだった。

 食後は、散歩がてらドラッグストアに向かった。

 シャンプーが切れていたことを思い出したのだ。自分ひとりで行くつもりだったのに、玖堂も付いて来た。

「夜道は危険だから」

「ふうん」

 別に、全然危なくなんてないし……。子ども扱いされることに不満を感じつつ、一緒にいられるのはうれしい。相変わらず感情のメーターは複雑に揺れ動いている。
 
 閉店間際のドラッグストアーは、客がまばらだった。閑散とした店内を歩き、シャンプーが置いてある棚に向かう。

「いつも同じの買ってるの?」

「いや。特にこだわりはない」

 だから、店にある安価なものを適当に購入している。

「あ、これ」

 ふいに、あるシャンプーが目についた。

「玖堂が使ってるやつだ」

 何気なく手に取った。値段は、高くもなく安くもなく。

「これにしようかな。良い匂いだし……」

 あ、やばい。

 俺、今めちゃくちゃやばいこと言った気がする。

「べ、別に! お前が良い匂いって言ってるんじゃなくて……!」

 俺は必死に弁明した。決して、玖堂の匂いを嗅ぎまくっているわけではない。「良い匂いだな、ぐへへ」とか思っていない。

 偶然というか、不可抗力というか。玖堂が密着してくるから悪いのだ。そうだ。俺は悪くない。

 必死に誤解を解こうとする俺の背後から、玖堂が覆いかぶさってくる。

 体格差があるので、後ろから抱き着かれると覆いかぶされるとしかいいようのない体勢になる。

「俺って、良い匂いしてるの?」

 耳元で、玖堂がささやく。

 ひどいヤツだ。こんなときに低い声を出すなんて。

 体中が、ジンと痺れる。

「ひゃーーーー!」

 我慢できずに、俺は叫んでしまった。  

 閑散としていたせいで、俺の声は店内の隅々にまで響き渡っていた。



 夏休みに入って三日目。

 俺は、今日も早朝から勉強に励んでいる。集中している時間は好きだ。無心になれるから。

 しかし、集中力にも限りがある。時刻を確認すると、午前十一時だった。俺は椅子の背もたれに体重を預ける。

 目を閉じると、玖堂の顔が浮かんできた。

「はぁ……」

 思わず、口からため息が漏れる。

 俺には懸念事項がある。それぞれに家庭の事情があり、こうやって一人暮らしをしているのだが……。

 夏休み、自由な時間、親の監視なし。

 これって、マズいんじゃないか……?

 何も考えてなさそうな、常にぼんやりした玖堂だけど、仮にも男子高校生なのだ。

 つまり、フルスロットルで関係性が進展する可能性がある!

 俺は!

 一体、どうなってしまうんだろう!!

 あんなことやこんなことを考えていたら、動悸息切れが激しくなった。

 童貞という性質上、妄想力には長けている。もう勉強どころではない。俺は、ひたすら悶えていた。

 しばらくすると、インターホンが鳴った。

「誰だ……?」

 俺の部屋に訊ねてくる人間は限られている。というか、玖堂しかいない。

 その玖堂は、バイトで留守のはずだった。

「勧誘か……?」

 俺は立ち上がり、玄関に向かった。

 扉を開けると、そこにいたのは兄の洸だった。

「久しぶり~~」

 ヘラヘラと笑いながら手を振っている。

「な、何の用だよ」

 いきなり過ぎる。来るなんて聞いてない。

「えぇーー、お兄ちゃんが来たのに! 何だよ、その態度は~~」

「いや『お兄ちゃん』とか、きもいんだけど」

 げんなりしながら、俺は兄を部屋に入れた。追い返す理由もないので、仕方がない。

「それで?」

 俺は、冷蔵庫から麦茶が入ったポットを取り出した。ポットからグラスに麦茶を注ぎながら、ここに来た理由を問う。

「理由がないと、来ちゃいけないわけ? 二人きりの兄弟なのに~~~」

 洸が悲嘆に暮れる。

 面倒なヤツだ、という感想しかない。

「高校に入学してから、一度も音沙汰がなったけどな?」

 俺はバッサリと切った。

 責めるような視線を向けると、洸は「うっ」となった。

「いやーー、実を言うとさ。すっかり響の存在を忘れてて。ふいに思い出したんだよ~~! そういえば元気にしてるかなと思って。今日から夏休みだろ? 久々に顔を見たくなって」

 忘れてたんかい。

「今日で夏休みは三日目だよ」

 冷たい声でいうと、洸は「あ、そうなの?」と笑いながら頭を掻いた。

 まったく、いい加減なヤツめ。

「洸は、家のことちゃんとしてるのか?」

 一緒に暮らしていたときは、俺が家事全般を担っていた。

 不健康そうな見た目ではないので、食べるものは何とかなっていそうだ。まぁ、外食とかデリバリーとか、選択肢は色々あるしな……と想像する。

 あとは、汚部屋になっていないかという懸念だけだ。

「部屋の掃除は?」

「業者入れてるよ。だって掃除するとか面倒だし~~」

「……なるほど」

 社会人には、その手があるのか。それにしても賢明な判断だ。

 俺が密かに納得していると。

 ダイニングテーブルに腰かけながら、洸がニヤニヤと俺の顔を見る。

「何だよ」

「いやーー、何か様子が違うなと思って。雰囲気というか、顔つきというか……」

「なんだそれ」

 また意味不明なことを言い出したな、と思いながらクソ兄貴の向かいに座った。

 洸がグラスに手を伸ばす。そして、麦茶をごくりと飲んでひと言。

「彼女でもできたのか?」 

 さらりと指摘された。

 俺は、思わず動揺してしまった。といっても、視線が少し泳いだに過ぎない。

「……できてないよ」

 嘘は言っていない。「彼女は」できていない。

 変なところで勘の良い兄なので、俺の動揺を見逃してくれなかった。

「俺さーー、恋愛話を聞くのが趣味なんだよ」

 最悪な趣味だ。

「相手は? どんな子?」

 心底楽しそうな顔で、洸が尋問を開始する。

 俺は必死にすっとぼけていたが、クソ兄貴の尋問は長く厳しいものだった。ネチネチネチ……。

「み、認める……。相手ができたことは認める」

 とうとう俺は陥落してしまった。

「でも、相手のことはいえない」

 だって恥ずかしいから。

 頑なに交際相手について語ろうとしない弟を見て、洸は危機感を覚えたようだった。

「お前、まさか言えないような相手と付き合ってるんじゃないよな……?」

 クソ兄貴が、急に保護者の顔を見せる。

「そ、それは」

 ごにょごにょと言葉を濁す俺の向かいで、洸の目が吊り上がっていく。

「まさか教師とか……」

「いや、あり得ない」

 その可能性はないので、どうか安心して欲しい。

「おかしな商売に手を出してないよな?」

「商売ってなんだよ」

「ウリとかそういう」

「やるわけないだろ」

 そんな時間はない。俺は毎日勉強で忙しい。家事もおろそかにできないし。

「まぁ、そうだよな……」

 洸も納得しているようだ。

 それなりに信用はされているらしいと、安堵していたら。

「だとしたら、アパートの住人だな」

 クソ兄貴に言い当てられ、ドキリと反応する。

 目が泳ぐ。さっきよりも激しく。

「アパートに住んでる奥さんと不倫でもしてるのか?」

「は、はぁ……?」

「怒らないから。正直に言え」

 洸は、怒気を含んだ声で俺を問い詰める。

 もうすでに怒ってるじゃんか、と俺は呆れた。不倫はしていない。とんだ言いがかりだった。

 こんな風に誤解されるくらいなら、正直に白状したほうがマシだ。俺は仕方なく、同じクラスの男子生徒と交際していることを明かした。

 そして、その相手が隣に住んでいることも。

 彼女ではなく、彼氏だという部分でなにか言われるかもと覚悟した。ちらりと洸を見たら、やたらキラキラした顔で俺を見ていた。

「え、なにその顔。どういう感情なわけ……?」

 戸惑いながら、俺は洸に訊いた。

「言ったじゃん」

「何を」

「恋愛話を聞くのが趣味だって」

 あぁ、最悪な趣味のことね。

 思わず脱力した。少しだけぬるくなった麦茶に口をつける。  

「で?」

 洸が、ワクテカした顔で催促する。もっと話を聞きたいようだ。

「きっかけは? どっちから告白したの?」

「言わない」

「どんなヤツ? イケメン? それともかわいい?」

 どんどん洸が前のめりになってくる。

 俺は白けた視線を送りながら、イケメンだしかわいいよ、と心の中で言った。

「ケチだなぁ、響は。少しくらい教えてくれても良いのに」
 
 くちびるを尖らせながら、洸が文句を言う。

 俺はやれやれ、と思いながら麦茶を飲んだ。

「それで、二人はどこまで行ってるんだ?」

「ぶふっ……!」

 思わず、口に含んでいた麦茶をふき出してしまった。

 童貞をこじらせた俺でも、さすがに意味は分かる。どこまでというのは、場所のことではない。

「セクハラ発言はやめろ」

 クソ兄貴を睨みつけた。

 俺の反応で、どこまで進展しているか察したのだろう。

「なんだ、まだ全然なのか……」

 と言って、肩を落とす。どれだけ恋愛話を聞きたいんだ。

「はーー、そっかぁ。でも心配だな~~。夏休みに入ってるし、時間はあるわけだし~~。隣に住んでるなんて、状況はそろってるもんなーー。どんなことになっちゃうのか、お兄ちゃんは心配だな~~」

 心配を連呼しつつ、面白がっているとしかいえない表情をしている。 

「もう帰れよ」

 さすがに鬱陶しくなってきたので、俺はクソ兄貴に帰宅を促した。

「えーー、冷たい!」

「うぜぇ」

 文句を言う洸をなんとか玄関の外まで追い払うことに成功する。

「響」

「何だよ」

「お前のサイズって、標準か?」

 真面目な顔で、クソ兄貴が俺に問う。

「は?」

 サイズって何だよ。見れば分かるだろ。

 もしかして、服でも買ってくれるのだろうか。

「……身長は平均だ」

 痩せ型なので、体格的には薄っぺらいのだが。

「そっちじゃない」

 じゃあ、どっちだよ。他に何のサイズがあるというのだ。

「いや、意味分かんな……」

 ん? ちょっと待って。もしかしてこいつ、あっちの話してるのか? 

 いや、さすがにクソ兄貴でもそんなアホなことは……。俺は、まさかと思いながら確認してみた。

「もしかして、下半身のこと言ってる?」

「そうだ」

「マジで早く帰れよ」

 今すぐ消えて欲しい。俺は玄関の扉を閉めようとしたが、洸が抵抗する。結果、扉がガタガタと音を立てる。

「大事なことだぞ」

「どこがだよ……!」

「そこそこの大きさがないとダメだ。嫌われるぞ」

「え?」 

 思わず、固まってしまった。その発想はなかった。き、嫌われる……?

「俺は、女の子としか付き合ったことはないけどな。たぶん、相手が男でも同じだ。必ずしも巨根である必要はない。そこそこあればいい。というか、標準であればとりあえずはセーフだ」

 洸の顔は真剣そのものだった。

 もしかして、真面目にアドバイスしているつもりなんだろうか。そんなアドバイスをされても、大きさなんて自分でどうこうできる問題ではないのだが。しかし、サイズか……。

「響、聞いてるのか?」

 名前を呼ばれて、我に返った。

「つまりな、巨根じゃなくても」

「玄関で『巨根』を連呼するなよ……!」

 他の住人には絶対に聞かれたくない。

 押し合いの末、俺はなんとか扉を閉めることに成功した。

 しばらくは外で何か言っていたが、俺が「帰れ」と一喝したら大人しくなった。外階段を下りる靴音が聞こえたので、ホッと胸を撫でおろす。

 はた迷惑な兄貴め……!

 忌々しく思いながら、俺は二人分のグラスを洗った。ついでにキッチンをピカピカに磨き上げる。イライラしたときは掃除をすると良い。気分爽快になるのだ。

 一通り綺麗にして、俺は満足した。タオルで手を拭きながら、課題でもやろうかと考える。そのとき、ふいにクソ兄貴の声がよみがえった。

『そこそこの大きさがないとダメだ。嫌われるぞ』

 ……ふん。何が嫌われるだよ。

 玖堂は、そんなヤツじゃない。大きさとかそんなものは関係ない。うん。関係ない……と、思う。

 いや、どうなんだろう。クソ兄貴は経験だけはあるし。でもでも。男女の差があるし。いや、う~~ん。これは、かなり悩ましい問題だ……。

 はっ!! そうだ!! 

 とりあえず大きさを測ろう……!!

 標準サイズだったらセーフだと洸は言っていた。必ずしも巨根である必要はないとも言っていたじゃないか!!

 計測した結果、自分のサイズが標準値をクリアしていたら良いのだ。

 そうすれば、もう悩む必要はない。

 俺はスマートフォンで標準値を検索した。

「なるほど、これが標準サイズか……」

 インターネットが弾き出した数字を俺は真剣な眼差しで見つめた。こんなに真面目に数字の羅列を見るのは、勉強以外ではあり得ない。

 次に、俺は勉強机の引き出しを開けた。定規を取り出し、震える声で「よし……!」と気合を入れる。

 ……いや、ちょっと待って。長さって、通常時で良いんだろうか?

 分からん。由々しき事態だ。

 再びインターネットで検索する。検索しまくった結果、通常時で良いという答えが導き出されたので計測を続ける。

 巨根は諦めるにしても、せめて平均よりは大きくあって欲しい。

「……ん? え、嘘だろ」

 目を凝らす。何度も確認したが、間違いない。

「ダメだ、小さい……!」

 微妙に平均値には届かない。俺は膝から崩れ落ちた。

 定規を右手に持ちながら、床に這いつくばって頭を抱える。

 俺は、玖堂に嫌われてしまうのか……!?

 そんなはずはないと思いながら、沈んでいく気持ちを奮い立たせることは出来なかった。

 俺は半泣きになりながら、計測に使用した定規を消毒した。そして引き出しの中に仕舞う。もちろん課題をやる気分にはなれず、ひらすらめそめそしていたらスマートフォンが震えた。

 玖堂からのメッセージだった。

『バイト終わったよ~~』

 呑気な玖堂の顔が浮かぶ。

 一瞬、ほんわかと癒されそうになったが、イヤな数字の羅列がそれを邪魔をする。思い出したくもない。俺の計測値。平均を上回れない俺のサイズ……! 

 どんよりした気分で、俺は『おつかれさま』と返信した。

 そして、ベッドに倒れ込む。

 カーテンの隙間から、夏の日差しが差し込んでくる。今日は晴天だった。

 世界は光に満ちている。俺は、こんなにも暗い気持ちを抱えているのに。

 再び、スマートフォンが震える。

『どこか遊びにいかない?』

 玖堂からのメッセージを見て、少しだけ気分が浮上する。

 仰向けのまま、俺は返信した。

『どこかってどこ?』

『遠く!』

 それって、日帰り旅行的なことか……? 

 まさに、今の俺は遠くに行きたい気分だった。現実逃避というか。

『宮下は、行きたい場所とかない?』

 スマートフォンの画面を見ながら、俺は悩んだ。

 夏といえば花火とかプールだが、正直なことをいうと俺は暑さに弱い。

 体育祭のとき、日陰で休憩していたのはそのためだ。できれば、屋内イベントがあれば良いのだが……。

 玖堂に『屋内が希望だ』と伝えてみた。すると、すぐさま『水族館は?』と返ってきた。

 水族館……!!

 それは、かなり良い。屋内だし、なんかいかにもデートっぽい!

 もちろん了承した。そして、日程の調整に入る。俺は塾の夏期集中講座に申し込んでいる。玖堂も怒涛の鬼連勤なシフトを組まれているらしい。

 お互いの予定をすり合わせた結果、水族館に行けるのは一週間後だと分かった。



 水族館デートの当日。

 二人でアパートの部屋を出て駅に向かった。隣を歩く玖堂は、まるで雑誌モデルのようだった。

 サックスブルーの半袖カットソーと、ブラックのテーパードスラックス。ボディバックを斜めかけした出で立ち。どの角度から見てもおしゃれ男子だ。

 こんなに素敵男子が駅にいたら、声をかけられるのは当然なわけで。

 案の定、目的地に着くまでに玖堂は何度もナンパされていた。その度にイライラとキュンが襲ってきた。

 玖堂が他人から声をかけられると、イライラする。

 けれど「恋人がいるので」と断るのを目の当たりにすると、胸がキュンと反応する。

 しかし当の本人は、まさかの天然ぶりを炸裂させていた。 

「道に迷う人が多いんだね」

 水族館の入口。チケット購入の列に並びながら、玖堂が俺を見下ろす。曇りなき眼だ。

 最初の目的が「道案内」だと本気で信じている。確かに、道に迷ったフリをして女性たちは玖堂に声をかけていた。ナンパは、そのついでというか。

 いやいや。ナンパが主目的だから。道に迷っているのは嘘だから。

 まったく、いつでもどこでもぽやーーっとして。俺の苦労も知らないで!

 俺は、冷めた目で玖堂を凝視した。

「ん、宮下? どうかした?」

 どうかした? じゃ、ねぇんだわ。

「ちゃんと自覚を持てよな」

「自覚?」

「他人を惹きつけるってこと」

 モテ男を彼氏に持つと大変だ。やれやれ、と思っていたら、玖堂が眉をひそめた。

「それを言うなら、宮下のほうだろ」

「え、どういうこと……?」

「電車の中で、サラリーマンにちょっかいかけられてた……!」

 ビシッと玖堂に指摘される。が、俺は覚えていない。幻でも見たのだろうか。

 もしかして、この暑さでやられた? いや、電車内は冷房がガンガンにきいていた。その可能性は低い。

「ちょっかいなんて、かけられてないぞ……」

 俺は困惑しながら、玖堂を見上げた。

 そもそも、どの角度から見ても平凡を絵に描いたような俺だ。そんなモブ的男子高校生にちょっかいをかける変わり者はいないだろう。

「手に触れようとしてた!!」

「いつ? どこで?」

「さっき! 電車の中で!」

 玖堂は引き下がらない。詳しく話を聞くと、俺が掴んでいたつり革にサラリーマンが触れたというのだ。そういえば、そんなことがあった気がする。

「間違って掴もうとしただけだと思う」

 俺はそう諭したが、玖堂は聞く耳を持たない。

「絶対にわざとだよ! 宮下のこと狙ってたね!」

 どこまでも意見を曲げないつもりらしい。そして、まだまだ玖堂の主張は続く。

「前から言おうと思ってたんだよ。宮下は無自覚すぎる! 学校で色んなヤツと仲良くして。隙だらけなんだよ! ぜったいに狙っているヤツがいるんだから……!」

 玖堂は力説しているが、どうやら大きな事実誤認があるようだ。

 たとえ俺に隙があったとしても、それに乗じてどうこうしようなんていう輩はいないだろう。

 列に並ぶこと十数分。ようやくチケット売場の窓口にたどり着いた。持論を展開する玖堂を横目で見ながら、俺は二人分のチケットを購入した。

「行くぞ」

 そう言って、玖堂の腕を引く。

 ただでさえ混雑している場所なので、のんびりしていたら迷惑になる。そう思って、チケット売場から移動した。

 玖堂の腕を引きながら、懐かしいなと思った。

 カップル然としたこの体勢で登校していたのかと思うと、今さらながら羞恥を感じる。玖堂が勘違いするはずだ。

 館内に入ると、幻想的な世界が広がっていた。水中でゆらゆらと揺れるクラゲを見ながら、このまま腕を組んでいても問題ないのでは? という考えが浮かぶ。なんといっても薄暗い。

 俺は、周囲の客をちらちらと確認した。各々が展示物に夢中になっている。よし、大丈夫だ。バレない。そう確信して、クラゲの水槽から離れて次のコーナーに向かう。

「このままで良いの?」

 玖堂に問われた。

 俺はすっとぼけて「何のこと?」と返す。

「腕、組んだままだけど」

「……これは、腕を組んでるとかじゃない。迷子防止策だ」

 さすがにムリがあるだろうな、と自分でも思う。しかし、素直になれない。

 俺は思春期なのだ。思春期とはそういうものだ。

「玖堂は、ぼんやりしてるから。迷子にならないように、俺がこうして策を講じてる」

「なるほど~~」

 え、まさかの納得……!?

「子どもの頃から、よく迷子になってたんだよ。だから助かる」

 玖堂がにこにこと笑う。

 どうやら、俺の企みは露見していないようだ。

 それにしても、よく迷子になっていた? 迷惑千万な子どもだな。玖堂の両親の苦労を想像したら、一気に疲れた。

「宮下、見て。ラッコがいる」

 玖堂が、うれしそうに指さす。

 どれどれ、と水槽を覗き込む。

「く、か、かわいい……!」

 俺の目の前を二頭のラッコがスイ~~と移動していく。思わず声が出た。

 もふっとした体毛と、つぶらな瞳。なんとも愛おしいフォルムだ。

 泳いでいたかと思えば、くるんと回転したり、両手で頬をむにむにしたり。もう癒しでしかない。

「あっちが『メルちゃん』だな。それで、こっちが『イルくん』らしいぞ」

 二頭のラッコの名前だ。

 案内板を見ると、フランス語で海と島の意味があると解説されている。

「オスとメスが一頭ずついて、水族館でいちばん人気みたいだね」

 玖堂が、水族館のサイトを見せてくれる。

 たしかに、トップページの目立つところにドドーンとラッコがいた。つぶらな瞳の二頭のラッコが、これでもかと愛嬌を振りまいている。

 オスの「イルくん」は芸達者なようだ。飼育員が持っているバケツに、集めたボールをせっせと投げ入れている。ボールをバケツに入れるたびに、観客からは歓声があがった。

 一方、メスの「メルちゃん」はマイペースな性格らしい。お気に入りの貝をお腹の上に乗せて、ぷかぷかと水面に浮かんでいる。勤勉なラッコはかわいい。自由気ままなラッコもかわいい。

 しばらくすると「イルくん」が「メルちゃん」のところにスイ~~と泳いでいく。そして、「メルちゃん」と同じ仰向けの体勢になった。

 ……あ、手を繋いだ!

 ゆらゆらと水面を漂いながら、ぎゅうっと手を繋ぎ合っているのだ。なんという微笑ましく尊い姿だろう。

 ラッコには、潮に流されて迷子にならないよう手を繋ぐ習性があるらしい。水槽のそばにある案内板「ラッコの生態」にも詳しく書かれている。

 ラッコのほうを見たまま、俺は玖堂の指に触れた。そっとすべり込ませるみたいにして手を繋ぐ。

 ビクリと玖堂が反応した。

「ラッコのまねだよ」

 言い訳するみたいにつぶやいた。

「腕を組むのにも飽きたし」

 相変わらず、俺は素直になれない。 

「そっか」

 玖堂はうなずいて、俺の手をぎゅうっと握ってくる。

「……そろそろ、時間だね」

「そうだな」

 大人気のラッコなので、時間制限があるのだ。ひとの波に押し出されるようにして、俺たちは歩き出した。

「お土産を買おう」

 玖堂が指さす方向には、お土産コーナーがあった。

「何買うんだ?」

「ラッコのぬいぐるみ!」

 満面の笑みで玖堂が答える。え、かわいい。

 玖堂が、ずんずんと先を急ぐ。「メルちゃん」と「イルくん」のぬいぐるみが山盛りになったコーナーをめがけて突進する。

「ふたつ買うのか?」

「ひとりぼっちだと、さみしいでしょ」

 微笑みながら俺を見下ろす。やっぱり、かわいい。

 玖堂が会計を済ませたあと、俺はもう一度レジに並んだ。 

「なにを買ったの?」

「ヘアクリップ」

 そう言った瞬間、玖堂の眉がぎゅうっと寄る。

「勘違いするなよ。自分用だから」

「宮下が、使うの……?」

「ちょっと前髪が伸びてきたから。勉強するときに鬱陶しいんだよ」

 小さな包みを開けると、中からラッコのヘアクリップが出てきた。

 貝を抱えているのが「メルちゃん」で、ボールを持っているのが「イルくん」。

「つけていい?」

 玖堂の申し出に戸惑う。

「え、今……?」

「つけてるところが見たい」

 駄々っ子みないな声で、玖堂が言う。

 まったく、仕方ないな。

 俺が了承すると、そろりと指が伸びてきた。長くて美しい玖堂の指。

 気づいたら、反射的に目を閉じていた。

「髪、さらさらだね」

「普通だろ」

 前髪を梳くように流して、ヘアピンで留める。

 ざわりと地肌を撫でられて、肌が粟立った。

「宮下って、あざといよね」

「どこがだよ」

 ムッとした。俺は決して計算高い人間ではない。

 目を開けると、至近距離に玖堂がいた。

「キス待ちの顔をしてた」

「はぁ!?」

 き、ききききすぅーーーー!?

 してねぇーーーーーー!!!

 あ、もしかして。目を閉じたから……?

「ば、場所を考えろよ! こんなところでしたら怒るからな……!」

 俺はテンパりながら玖堂に訴えた。

 正直なところ、怒るより泣くと思う。あまりの羞恥で。想像しただけで涙目になっているくらいなのだ。

「そうだね、考えよう」

 にこにこしながら、玖堂がうなずいた。

「か、考える……?」

「どこが良い?」 

「でゅ……!」

 思いっきり噛んだ。どこが良いとか聞かないで欲しい。そんなことを言われても困る。

 俺は真っ赤な顔で、玖堂の肩にパンチを繰り出した。



 水族館デートを終えた数日後。

 夏休みも中盤に突入し、俺は完全に勉強モードになっていた。夏期講習の真っ只中なのだ。

 午後七時過ぎ。風呂から上がった俺は、パジャマ姿で冷蔵庫を開けた。キンキンに冷えた麦茶をがぶ飲みする。しばらくすると、インターホンが鳴った。

 なんだか、嫌な予感がする。

 玄関の扉を開けると、その予感が的中したことを知った。

「よっ!」

 バカ兄貴だった。

「何の用?」

 タオルで髪を拭きながら、冷めた目で洸を見る。

「いやーー、ちょっと響に頼みたいことがあってさ」

「お断りだ」

 即刻、断った。碌な頼み事ではないと思う。

「話だけでも聞いてくれよ~~」

 そう言って、ぐいぐいと部屋の中に押し入ってくる。

 侵入を許してしまったので、早々に諦めて帰ってもらう方向に切り替える。

「話が終わったら、すぐに帰れよ」

「うわ、冷た……! 響くん冷酷ーー!」

 うぜぇ。イライラしていたら、洸がバッグの中から箱を取り出した。

 一見すると、シューズボックスのように思える。

「何だよ、それ」

「中身、知りたいか? ん? 知りたいだろ?」

 洸がニヤリと笑う。

 だる。ただでさえ低かったテンションが、さらに急降下していく。

 俺がため息を吐いていると、洸が箱を開けた。

 ちらりと確認する。なんだか、よく分からないモノが入っていた。見たこともない物体で、俺は戸惑う。何かしらの機器ではあると思う。

「なんだこれ?」

 電池式か……? と思いながら眺めていたら、ハッとした。

 これは、まさか。

「お子様の響には分からないか」

 洸の言葉で確信する。

 ……おもちゃだ。

 おもちゃといっても、子どもが使うものではない。いわゆる大人の……。

 理解した途端、俺はブチ切れた。

「弟の家に、こんなもの持ってくるなよ! クソ兄貴!!」

 この非常識人め~~~~!

 俺が喚くと、洸が「落ち着けよ」と宥めてくる。

 落ち着け? ぜーーんぶ、お前のせいだろ!!

 怒り心頭な俺に、ヘンタイ兄貴が説明を始める。

「実はさ、同僚がしばらくうちに泊まりに来ることになったんだよ。なんか、住んでたマンションが火事になったみたいで。火元の部屋とは階が違ってて、同僚は無事だったんだけど。住むのはきついらしいんだよね……」

「……その同僚って、男?」

「そうだよ」

 だとすると、完全に善意からくる行動だ。

 兄の洸は無類の女好きなので。 

「洸が人助けするなんて、めずらしいな」

 ちょっと感心した。兄にも人間の心があったらしい。

 自分の欲望のために、いたいけな弟を追い出すようなクズ野郎だと思っていたが、ちょっと印象が良くなった。

「シゴデキな同期なんだよ~~」

「へぇ」

「恩を売っておけば、後々に良いことあるかも? とか思って~~」

 ……クズだな。

 前言撤回だ。少しでも洸のことを見直した俺が浅はかだった。 

「その同期ってのが、これまたクソ真面目なヤツでさーー。こんなもの持ってたら、俺の私生活の乱れっぷりがバレるじゃん? そうなったら面倒じゃん? 俺にもイメージってものがあるしさ~~」

 驚くことに、洸は会社では真面目な社員らしい。清廉潔白な宮下洸くん、というのが社内での共通認識らしい。あり得ない。会社の人たちに言いふらしたい。

 こいつは下半身のだらしない男です……!!

「少しは、自重しろよ」

「ムリ~~」

 うんざりした顔で洸を見る。すると、苦笑いしながら「反動かな」と口にする。

「反動?」

「学生時代は真面目だったから」

 ぽつりと、つぶやくように言った。

「……誰が」

「俺が」

 洸が、自分を指さす。

「冗談はやめろ」

 クソ兄貴が真面目とか、あり得ない。

「え、響は覚えてないのか……」

 洸が不思議そうな顔で俺を見る。

 年が離れているので、洸の学生時代なんて知らない。いや、一緒に住んでいたから知らないはずはないんだけど。

 なんだか、昔の記憶がぼんやりしている。

「今さ、俺が家事とかしてないのもやっぱり反動だと思うんだよ。めちゃくちゃ頑張ったから、しばらくはやりたくないんだよな~~」

 洸の言葉に、違和感を覚えた。

「家事って、一緒に住んでた頃は俺がしてただろ……?」

 洸は、家のことを俺に任せっきりだったはず。

「それは、響がある程度大きくなってからの話だろ? それまでは、ずっと俺が家事をやってたよ。というか、お前の面倒もみてたじゃん」

「え……?」

 俺の記憶とは食い違っている。でも、洸が言ったことはたぶん正しい。

 それらしい記憶の断片が、ちらちらと脳裏をよぎる。

 初めて見る映像のようだ。でも、知っている。知らないのに全部、知っている。まぎれもなく自分が体験したことだと分かる。

 一度でも溢れ出したら、もうダメだった。まるで濁流みたいに幼少期の記憶がよみがえってくる。

 ガツン、と後頭部を殴られた気分だった。

 八歳年の離れた兄弟。

 長年、海外で生活している両親。

 弟の俺が、兄である洸の世話をするなんて、よく考えてみればおかしい。

 なぜ、俺は忘れていたんだろう。

 なぜ、都合よく記憶をすり替えていたんだろう。 

 呆然としている俺を見ながら、洸がヘラヘラと笑う。

「ちょっと響くん~~、マジで忘れたの? 勘弁してよーー!」 

「な、なんで……? 俺、忘れてたんだろう」

 頭が混乱する。脳みそが、グラグラと揺れる感じだ。

「……まぁ、なんとなく理由は想像つくな」

 洸の表情から、笑みが消えていることに気づいた。

 何か、逡巡しているようだと察する。俺は「何?」と言って、話すように促した。

「俺が中学一年生のとき、林間学校があったんだよ。二泊三日で家を空けてて」

 洸のいう林間学校というのは、修学旅行とは少し違っている。自然と触れ合いながら成長しましょうという感で、簡単にいえば野外活動だ。

「響は、まだ四歳だったかな。その林間学校から俺が戻って来たら、家の中にひとりでいたんだよ」

「ひとり……?」

 留守番でもしていたのだろうか。

 でも、四歳ってひとりで留守番できるのか? 身近に幼児がいないので、その辺りのことが分からない。

「それで、父さんと母さんは?」

「それが……」

 洸が、言葉を濁す。

「何だよ」

「……二人で出かけてた」

「は?」

 意味が分からない。

「二人でっていうのは、両親だけでってこと? 俺は……?」

「だから、放置されてた」

「い、いや……。はい?」

 ますます混乱する。放置されてた? 俺が?

「前から、たまにあったんだよ。だから、俺が気を付けてたんだけど……」

 そう言って、洸が俯く。

「ちょっと理解が追いついてないんだけど。もしかして、うちの両親って」

「クズだな」

 え~~~~! 嘘だろ。マジで? ちょっと信じられない。

「ごく普通の親だと思ってた……」

「シンプルに親失格なひとたちだよ。経済的には、子どもを不自由させてないし。暴力を振るわれたこともない。でも、普通にネグレクト気味だったな。単純に、興味がないんだと思う。自分たちが楽しむことだけを追求したいっていうか。俺も、完璧にあのひとたちを理解できてはいないんだけど……」

 洸が「あのひとたち」と評するのをぼんやりした頭で理解する。

「俺は、すっぱりと諦めがついたというか。それなら仕方ないなって感じだったけど。響はまだ小さかったし、健気に親の愛情を求めてた。でも、いくら求めても愛情は得られないし。放置されるし。それで、無意識に自分の記憶を改ざんしてたんだと思う」

「そ、そうなのか……」

 放置されていた。

 四歳の俺は、ひとりでいた。

 部屋にひとりきり。幼い自分。

 妙な既視感がある。あ、もしかして……。

 まれにみる、あの夢。

 兄の話と符合する点がいくつかある。俺は、夢のことを洸に打ち明けた。

「それは、たぶん夢というか現実というか……」

 洸は、ちょっと言い辛そうだった。

 俺としては、夢の謎が解明できてすっきりした。同じ内容の夢をみることをずっと不思議に思っていたから。 

 夢の中の洸は、ぶっきらぼうだった。

 もしかしたら、学生時代は本当にあんな感じだったのかも……?

 ちょっと洸を見る目が変わる。弟である俺の面倒をずっとみていたのだ。口にしないだけで、おそらく苦労した学生時代だったのだろうと推察する。

 ある程度、俺が大きくなって。手が離れて。それで今、まさに人生を謳歌しているのだろう。まぁ、人生というか異性関係なのだが……。

 なんともいえない沈んだ気分でいると、洸が明るく「じゃ、俺は帰るわ!」と言った。

「そういうことだから。しばらく預かってくれよな!」

「え、預かるって……?」

 笑顔の洸が、持っていた箱をダイニングテーブルに置く。そして光の速さで部屋を出ていく。

 いかがわしいものが入った箱を見て、俺はギョッとする。こんなものを置いていくな。ここは、食事をするテーブルなんだぞ……!

「ちょっと、待てよ。洸……!」

 俺は慌てて呼び止めた。こんなものを預かりたくはない。絶対にイヤだ。

 しかし、洸が足を止めることはなく。

「また、取りに来るから!」

「お、おい……!」

「使うなよ?」

 くるりと振り返る。ニヤリといやらしい顔で笑う。しんみりしていた、さっきまでの表情が嘘みたいだ。

 バタンと音を立て、玄関の扉は閉まった。

「使うわけないだろ!!」

 誰もいなくなった玄関に向かって、俺は力の限り叫んでいた。

 いかがわしいモノが入った箱は、とりあえず押し入れの奥に仕舞った。

 本当は預かりたくなんてなかった。一日も早く引き取りに来て欲しいと願ったが、数日が経っても兄からの音沙汰はなかった。

 しびれを切らして、こちらから連絡すると「まだ同期が家にいるから」との理由で引き取りを拒否する。

「くそが……!」

 勉強机に突っ伏しながら、俺は兄に悪態をついた。

 塾の課題に集中できない。午前中は勉強が捗るゴールデンタイムなのに。

 なるべく意識しないようにと心がけたが、気づくと視線が押し入れのほうに向かっている。落ち着かない。

 もしも玖堂が部屋に来て、押し入れを開けたりしたら……。

 想像するだけで血の気が引く。俺の持ち物だと疑われるだろう。そうなったら、変態野郎というレッテルを貼られてしまう。

「いや、落ち着け。大丈夫だ。玖堂は無断で押し入れをあさったりしない……」

 そう自分に言い聞かせ、冷静になろうと試みる。 

 静まり返った部屋。

 玖堂の部屋からも生活音は聞こえてこない。バイトに行っているのだ。

「それにしても、まさか自分がネグレクトされてたとは……」

 想像もしていなかった事実だ。「ネグレクト」というワードは昨今よく耳にするようになったが、自分がそれに当てはまるとは思っていなかった。正直なところ、今でもピンときていない。

 特にショックは感じておらず、洸にも言ったのだが夢をみる理由が分かって腑に落ちたというか。「そうだったのか!」と納得したというか。すっきりした感じがしている。

 でも……。

 俺はこの話を玖堂にはしていなかった。タイミングが掴めずに、話しそびれている。毎日のようにメッセージを送り合ったり、顔を見たりしているんだけど……。

「玖堂のところは、なんというか『普通』っぽいし……」

 同じく両親が海外暮らしをしている玖堂家。違うのは、定期的に連絡があるということだ。

 ビデオ通話をしている場面に出くわしたことが何度かある。玖堂は、いつものぽや~~んとした感じで「元気にやってるよ~~」と画面越しに手を振っていた。

「それに比べて……」

 俺には、両親からの連絡はない。それが当たり前だと思っていたが、今になって考えてみれば「普通」からは大きく逸脱している。そもそも、最後に会話をしたのがいつだったのか思い出せない。

 非常識な両親であることには違いないが、その状況を不思議に思わなかった自分も、ちょっとおかしい気がする。

「だから、言えないんだろうな……」

 玖堂が、どんな反応をするのか。

 想像したら、とても怖かった。



 夏休みも後半に入った。

 例の箱は、未だに俺の手元にある。洸には引き取り要請をしているが、のらりくらりと躱されていた。

 塾から戻った夕方。玖堂の部屋のソファに身を沈め、俺は静かにキレていた。

 スマートフォンを握りしめながら、画面を睨む。洸から届いたメッセージには、快適な生活を送る様子が記されていた。『同期のメシがマジで美味い!』らしい。

 火事で住むところを失った同期に、恩を着せているようなのだ。

 なにかと便利に使っているようで、料理を作らせたり、掃除をさせたりしていると洸は自慢気に語る。自分の兄ながら、その性悪さにはほとほと呆れる。

『洸のクソな性格は、その同期のひとにバレてないのか?』

 俺がメッセージを送信すると、すぐに返信があった。

『全然大丈夫! むしろ張り切ってる!』

 なぜだ。意味が分からない。

『どうせ、洸が脅してるんだろ? やらないと追い出すとか言って』

『そんなことしないよ。めちゃくちゃ褒めてる。おだてまくって、いい気分にさせてる。そうすると自主的にあれこれするようになるんだよ~~』

 なんという性悪。

 俺がため息を吐くと、隣にいた玖堂が「どうしたの?」と訊いてきた。

「べ、別に……」

 ぎくしゃくとしながら、俺は咄嗟にスマートフォンを隠した。

 玖堂には、未だに言えていない。時間が経つにつれ、どう切り出せば良いのか分からなくなってしまった。

 視線を彷徨わせていると、玖堂が足を組み替えた。

「最近、よくスマートフォン触ってるよね」

 じいっと見られて、俺は居心地が悪くなる。

「そ、そうか……?」

 ぎこちなく笑いながら、俺はなんとか誤魔化そうと試みる。

「誰からのメッセージ? 最近、頻繁に誰かとやり取りしてるよね」

 ズバリと言い当てられ、俺は言葉に詰まった。

 別にやましいことはない。例の箱を取りに来るよう、洸に催促のメッセージを送っているだけなのだ。そして、見事に躱されているだけ。

 口ごもりながら、俺は「友だちだよ」と嘘の言い訳をする。

「頻繁にやり取りするような友だち、宮下にはいないでしょ」

 見事な指摘だ。その通りなんだけど、さすがに失礼が過ぎるのではないか。

 思わずムッとして、玖堂に言い返した。

「俺にだって、そういう友だちはいるから」

「どこの誰? いつ親しくなったの?」

 矢継ぎ早に質問され、答えに窮する。

「そ、それは……。そう、塾! 夏期講座で出来た友だち」

 架空の友人を作り上げ、玖堂に説明する。

「……男?」

「う、うん」

 俺はうなずいた。残念というかなんというか、塾で親しい友人はできなかった。

 世間話をしたり、挨拶をしたりといった程度の関係なら構築できたのだが。

 夏期講座に来ている生徒は、俺以上の勉強ガチ勢ばかりだった。休み時間でも教科書とにらめっこをしているので、話しかけずらいのだ。

 そういうわけで、連絡先を交換するという場面は、今のところ一度も訪れていない。

 玖堂は、かなり俺を疑っている様子だった。

 しかし、俺は潔白だ。やましいことなんてこれっぽっちもしていない。「親しい友人ができた」と、嘘をついたことについては、悪かったなと思うけれども……。 



 今日で、夏休みも終わり。

 俺は朝から、最後の夏期講習に出かけた。玖堂は吉沢に誘われて、プールに出かけている。クラスの男子数人が集まって夏の思い出を作るらしい。

 ホワイトボードを使いながら、講師が問題の解き方を説明している。その様子をぼんやりと眺めた。

 今頃、玖堂はプールにいる。

 クラスの男子数人が集まると言っていたが、本当だろうか。途中でクラスの一軍女子が合流したりする可能性もあるのではないか。

 はしゃぐクラスメイトを想像すると、気分が沈んだ。

 あれから玖堂とは、ちょっとぎくしゃくしている。俺が一方的に、そう思っているだけかもしれないけど……。

 なんとか夏期講習の日程を終え、トボトボと歩いて帰路につく。

 アパートに戻ると夕方になっていた。とはいえ、夏なのでまだまだ明るい。

 部屋に入り、教科書の整理をしていたらインターホンが鳴った。もしかして……。

 俺はダッシュで玄関に向かった。そして、扉を開けると。

 そこにいたのは、期待していた人物ではなかった。

「なんだ、洸か……」

 あからさまにがっかりする俺を見て、クソ兄貴が文句を言う。

「なんだよーー! せっかく引き取りに来てやったのに~~」

「……いつも思うんだけど。前もって連絡とかしてくれない?」

 留守にしている可能性もあるわけだし。

「えぇーー、ムリだよ。だって俺って気分屋だし。連絡した次の瞬間には、行く気が失せる可能性があるもん」

 ヘラヘラしながら、俺を押しのけるようにして部屋に入ってくる。

「それで? 俺が預けた箱は?」

 洸が、きょろきょろと部屋の中を見回す。

「預けたんじゃなくて、置いていったの間違いだろ」

 そう言って、俺は押し入れの奥から箱を取り出した。

「使った?」

 呑気な顔で洸が訊く。俺はブチッと切れた。

「使ってねぇ……!」

 押し入れに仕舞ったきり、取り出してもいない。存在を忘れたいくらいだった。

「なんだ、そっか」

「早く帰れよ」

 もう用事は済んだはず。

 シッシッと手で追い払う仕草をすると、洸が「えぇーー!」と大げさに嘆いた。

「もう夕方じゃん」

「だから?」

「夕飯の時間じゃん!」

「だから、それがどうしたんだよ」

 どう考えても夕食をタカるつもりだろうが、俺は知らんふりをした。

 絶対に洸の分まで作りたくない。

「シゴデキの同期がさ、出て行っちゃったんだよ~~」

 ウィークリーマンションの契約をして、無事に引っ越して行ったそうだ。

「ふうん」

「それで、コンビニとかテイクアウトとかしてたんだけど。なんか味気なくて。一人で食事する虚しさといったら……」

 洸が、しくしくと泣きマネをする。

 しかし残念ながら、俺には通じない。なぜなら洸の性格がクソなことを知っているから。

「俺を追い出したくせに、今さらそんなことを言われてもな」

 冷たい視線を送ってやったが、神経が図太いことに定評がある洸なので効果はなし。それどころか、背後から俺に抱き着いてきた。

「ケチケチしないでさーー、ちょっとくらい良いじゃん。な?」

 甘えた声で、俺に懇願してくる。 
 
「絶対にイヤだね」

「なーー、響ってば~~」

「離せよ、暑苦しい」

 押し問答をしながら、俺は玄関に向かった。へばりついている洸をなんとか引き剥がして、外に追い出す作戦だ。

「マジで、いい加減にしろって……!」

「つれないなーー、響くんは。すっかりひねくれちゃって。昔はあんなにかわいかったのに」

 悪かったな! ひねくれてて!

 イライラしながら、玄関のドアノブを掴もうとしたとき。

 カチャリ、と音を立てて扉が開いた。

「あ、玖堂……?」

 目の前に立っていたのは、なんと玖堂だった。

 プールから帰ってきたらしい。

 洸に伸し掛かられたまま、俺は「おかえり」と言ったのだが。

 玖堂は、驚いた顔で固まっている。

 しばらくすると我に返ったようで、俺の背中に乗っている人物を凝視した。かなり剣呑な雰囲気だ。睨んでいるといっても良いくらいの目つきだった。

「誰……?」

 玖堂の低い声に、ビクリとなる。今までに聞いたことのない声だ。

 俺の反応のいち早く気づいたらしい洸が、サッと距離をとった。離れてくれたのは良かったのだが、その拍子に洸がよろけた。玄関の段差に足をとられたのだ。

「わわっ……!」

 ドジでクソな兄貴は壁に激突した。勢いのまま、手に持っていた箱の中身が散らばる。

「あっ……!」

 洸が、軽く「落ちたな」くらいの反応を見せる。一方の俺はというと。

 あぁ~~~~~~!!!(絶叫)だ。

 床に散らばったいかがわしいモノを見ながら、俺は真っ青になった。

 見られた。絶対に見られたくなかった相手に見られた。

 タイミングが悪すぎる。というか、なんでこんなところで転ぶんだよ! クソ兄貴め~~~~! 

 怒りで顔が真っ赤になる。

 青くなったり赤くなったりと、俺は顔色の変化に忙しい。

 玖堂のほうは、表情がなく顔色は真っ白だった。

「これは?」

 散らばったモノに視線をやりながら、玖堂が問う。

「見て分かる通りのおもちゃだよ~~」

 ヘラヘラと笑いながら、洸が答える。

「ところで、君は誰なの? あ、もしかして、響のクラスメイト?」

 クソ兄貴が、玖堂を指さす。

 玖堂の眉がピクリと動いた。

「そうですけど。宮下のこと、呼び捨てなんですか……?」

 うわ、めちゃ怖い。玖堂って、こんな怖い顔もできるんだ……。

 俺は密かにビビッていた。

「普通に、呼び捨てにしてるよ。というか、このアパートの住人だったりする?」

 洸の問いに、玖堂は鋭い眼光を向けたままうなずいた。

「そっかーーー!」

 突如として、洸がハイテンションになる。

 そして、俺の背中をバシバシと叩く。

「響~~、お前ってイケメン好きだったんだなーー!」

 あ、なんか嫌な予感がする。

「痛ぇよ」

「馴れ初め、教えて?」

 キラキラの目で見つめられる。寒気がする。やっぱりな。

「ムリ」 

 俺は端的に言って断った。

 そして、散らばったモノを拾い集めるように言い渡す。

「けち~~~! ちょっとぐらい良いじゃん」

 ぶつぶつと文句を言いながら、洸は拾い集めたものを箱に入れる。最後に手にしたのは、アレを模したモノだった。アレというのは、俺が計測したアレだ。あとは察して欲しい。

 洸は俺の肩を抱き、脇腹をアレで突いてくる。

 くそが……!

 俺は、思いっきり力を込めて拳を振り上げた。渾身のパンチをお見舞いしてやろうと思ったのだが、拳を振り下ろしても手ごたえはなかった。

 洸は玖堂に胸倉を掴まれていた。

「ちょ、く、苦しい……」

 クソ兄貴が、苦しそうに顔を歪めている。いい気味だ。

「宮下に、なにしてるんだよ」

 唸るように玖堂が言うと、洸が「お、俺も……」と声を出す。

「俺も、宮下だし」

「え……?」

 一瞬、玖堂の力が緩んだ。

 その隙を見逃さず、洸は玖堂の腕を振りほどく。

「響……! いくら長身イケメンだからって、DV男はダメだぞ……!」

 呼吸を整えながら、洸が俺に忠告する。

「お兄ちゃんは許しません……!」

「いや『お兄ちゃん』とかやめて。マジできもいんだよ」

「きもいとか言うなよ! だいたい響は口の利き方がなってない~~」

 俺と洸が言い合いをしていると、玖堂が困惑した様子で「お兄ちゃん……?」とつぶいやいた。

「実は、そうなんだ。似てないと思うけど……」

 俺は仕方なく、洸が自分の兄であることを打ち明けた。

「よく言われるけど、実の兄弟だよ~~。名前は洸。年は八歳違いで~~」

 ヘラヘラと洸が説明する。そして最後に、じっと玖堂を見据えた。

「ところで、君って本当にDV男じゃないんだよな? もし、うちの子にひどいことしたらマジで許さねぇぞ」

 洸が圧をかける。たまにしか発揮しない「兄の顔」を見せている。なんだかんだ言いながら、弟である俺のことは守ってくれるつもりなのだ。まぁ、玖堂はDV男なんかじゃないし、完全に誤解なんだけど。

 ちょっと感動していた俺だったけど、改めて洸を見てその感動は一気に去った。

 アレを握ったままなのだ。

 なんという滑稽な姿なのだろう。俺の感動を返してくれ。

「あの、玖堂は暴力なんて振るわないから……」

 とりあえず誤解は解きたい。

「へぇ、玖堂くんっていうのか~~」

 アレを持ったまま、洸が「下の名前は?」と問う。

「玖堂碧斗です」

 自己紹介をしながら、ぺこり、と玖堂が頭を下げる。

「そうか、うむ。弟のことを頼んだぞ」

 急に洸が偉そうな態度を見せる。

「あ、ありがとうございます」

「ところで、玖堂くん」

「はい」

「馴れ初めは?」

「え、はい……?」

 玖堂が困惑している。当然だ。

 まったく、懲りない男め……。

 俺は、背後から洸にパンチをお見舞いした。今度は手ごたえがあった。足元がふらついたところで蹴りを入れて、すかさず部屋から追い出す。

 洸のシューズも玄関の外に投げ捨て、勢いよく扉を閉めた。

 もちろん、玖堂は部屋の中に引き入れている。

「ぼ、暴力男……!」

 扉の向こうから、洸が叫んだ。

「うるさい、変態! クソばか兄貴!」

 俺は口汚く罵った。洸が変態なのは事実だ。

 いかがわしいモノを弟に押し付けた事実は消えない。自分でもいうのもなんだか、俺はまだピチピチの高校生なのだ。

 純真無垢(?)でいたいけな男子高校生の部屋に持ち込んで良い代物ではない。

「玖堂くん! 弟に暴力を振るわれたら、俺に言うんだよ! そして、馴れ初めを聞かせて……!」

 諦めの悪いクソ兄貴が、まだなにか喚いている。

「黙れ! 早く帰れ!」

 扉を一枚挟んで、俺も負けじと応戦した。だいたいの事態を飲み込んだらしい玖堂は、ひたすら苦笑いしていた。 

 玖堂と二人きりになってから、俺は「あんな兄でゴメン」と詫びた。

「騒々しいというか、馴れ馴れしいというか……」

「いや、俺もお兄さんの胸倉を掴んじゃったし。失礼なことしちゃったな」

 玖堂が、気まずそうな顔をしている。

 例の箱を預かっていた経緯も説明した。それを今日、引き取りに来たということも。

「強引に押し付けられて。早く取りに来いって催促してたんだけど……」

「もしかして、それで頻繁にメッセージのやり取りをしてたの?」

「……うん。嘘ついて、ゴメン」

 塾で特別に親しくなった相手はいない。そう玖堂に打ち明ける。

 玖堂が大きく息を吐いた。

「実は、めちゃくちゃ嫉妬してた」

「うん」

「塾に行って偵察しようかと思った」

「え?」

 急に話が不穏な方向に向く。

「宮下を尾行して、塾まで行って。様子を窺おうかと思ったんだけど」

「は?」

「バレたら嫌われそうだし。やめた」

 もう少しで実行するところだったらしい。マジのストーカー案件じゃんかよ。だけど……。

「……嫌わないと思う」

「そうなの?」

 玖堂が、ちょっと驚いた顔になる。

「たぶん、嫌いにはならない。怒るとは思うけど」

 俺をストーキングする玖堂を想像したら、ドン引きしたけれど嫌いにはならなかった。

「残念。だったら尾行すればよかった」

 そう言って、冗談っぽく笑う。 
 
 俺は冷蔵庫を開けて、スポーツドリンクを取り出した。

 玖堂に手渡しながら、「言い出しにくかったんだ」と言って視線を逸らした。

「預かってる物があれだったら、仕方ないよ。言いにくいのは分かる」

 玖堂が苦笑いしながら、俺に理解を示す。

「そうじゃなくて……」

 俺は、ゆっくりと首を振った。

 玖堂の目を見る。言いかけて、逸らす。

 何度か繰り返した。そして、俺はようやく覚悟を決めた。

 兄から聞いた話。

 いつの間にか、過去の記憶をすり替えていたこと。

 両親のこと。自分の幼少期。

 ときどきみる夢の話。

 今まで言えなかったことを玖堂に打ち明けた。

 玖堂は、最後まで俺の話に耳を傾けていた。

「そうか……」

「うん」

「なんだか、分かった気がする」

 玖堂が、静かに言った。

「宮下が、いつも『褒められたい』と思う理由」

 ドキン、と心臓が跳ねた。少しだけ怖い。

 俺は、玖堂になにを突き付けられるんだろう。 

「宮下は、ずっと愛されたかったんだよね」

 玖堂の言葉は、あっけなく俺の心臓を貫いた。

「褒められたくて、そのために一生懸命に頑張るのは、愛情が欲しいからだ」

 やさしい声が、俺の柔らかい場所を抉る。

 痛い。でも、玖堂が相手だから許してしまう。

「そう、かもしれない……。ていうか、たぶん、そう……」

 自分でも気づいていない部分を暴かれるのは、不思議な感覚だった。

 考えてみれば、簡単なことだった。

 褒められたい。注目されたい。俺のことを見て欲しい。

 ずっと、得られなかったもの。

「俺は、ただ愛されたかった」

「うん」

「でも、ダメだった」

「……うん」

「もらえなかったんだ」

 気づいたら、涙が溢れていた。

 苦しい。恥ずかしい。俺は愛されない子どもだった。惨めな子どもだった。

 そのことを玖堂に知られてしまった。

「玖堂には、知られたくなかった……。俺が、愛されなかったこと。玖堂は、普通だから……」

 両親に愛されているから。

 スポーツドリンクをダイニングテーブルに置き、玖堂が俺に手を伸ばす。

 玖堂の両手が、俺の顔を包み込んだ。親指で、溢れる涙を拭う。

「俺は、玖堂が思ってるような人間じゃないかもしれない」

「宮下は、宮下だろ?」

 そう言って、玖堂が微笑む。

 俺は、駄々っ子のように首を振った。

「面倒見の良いお母さんタイプじゃなくて、淋しがり屋かも……」

 語尾が震えた。嫌われたくない。好きなままでいて欲しい。ずっと一緒にいて欲しい。

 玖堂が、いくら拭っても涙が溢れてくる。

「ハンカチか、タオルある?」

 玖堂が、苦笑いしながら俺に問う。

 俺は、こくんとうなずいた。

「どこ?」

「寝室の押し入れ」

 押し入れの中に、透明の収納ボックスがある。 

 衣装ケースとして利用しているのだ。ハンカチやタオルもそこに仕舞っている。

 玖堂が寝室に向かった。

 自分から離れていく。 

「俺のこと、ひとりにしないで……」

 ぐずぐずと洟をすすると、玖堂が困った顔をしながら戻ってきた。

「ちょっと、取りに行くだけだよ」

「……分かってる。けど、涙が出るんだよ」

「じゃあ、一緒に行こう」

 そう言って、玖堂は俺の手を握った。

「宮下は、そこに座ってて」

 玖堂に促され、俺は大人しくベッドに腰かけた。涙は止まらず、ときどきしゃくりあげるように喉が鳴る。

「あ、あった」

 玖堂が、収納ボックスからハンドタオルを取り出した。 

 俺の隣に腰を下ろし、玖堂がやさしく涙を拭ってくれる。どれくらいそうしていたのか、少しずつ俺は落ち着きを取り戻した。

 カーテンの外は、もうすっかり暗くなっていた。

「宮下、お腹すいてる?」

 玖堂に問われ、俺は首を振った。食欲がない。とてもじゃないけど、食べられないと思う。

「じゃあ、今日はもうこのまま寝よう」

 ベッドをポンポンと軽く叩きながら、玖堂がやさしく笑う。

「……玖堂は」

 自分でも、びっくりするくらい声が潤んでいた。

「俺?」

「うん」

 ここにいて欲しい。そばにいて欲しい。

「帰らないよ」

 俺の気持ちが伝わったのだろうか。俺は安堵しながら、ベッドに横たわった。

 玖堂とは手をつないだままだった。でも、足りない。心許ない感じがして、俺はベッドの端に移動した。モゾモゾと動く俺を見て、玖堂が「どうしたの」と不思議そうな顔をする。

 ベッドはシングルなので、壁際にいかないと場所を確保できない。

 場所というのは、もちろん玖堂が寝るためのスペースだ。

「玖堂も、一緒に寝よう?」

 たぶん、ぎゅうっと抱き着いたらこの不安な気持ちは消えると思う。

 俺が掛け布団を持ち上げると、玖堂が困った顔になった。

「……いいの?」

「うん」

 俺がうなずくと、根負けしたように玖堂は体を横たえた。すかさず玖堂に抱き着く。

「どうしたの」

「……何が」

「今日の宮下は、甘えん坊だね」

 俺の髪をやさしく梳きながら、玖堂が言う。

「……こんな俺でもいい?」

 玖堂の胸に顔をうずめたまま、俺は訊いた。 

「もちろん」

 その返答にホッとする。

 玖堂からは、かすかにプールの匂いがした。夏の匂いだと思った。たぶんこれから先、夏に関わるすべての事象が、この夜を思い出すトリガーになる。

 髪を梳いていた玖堂の手が止まった。

 こめかみに、やさしいキスを落とされる。

 そこから、体中に余韻が広がっていく。俺は、顔を上げて玖堂を見た。

 気づいたら、くちびるが重なっていた。

「やっぱり……」

「うん?」

「プールの匂いがする」

「シャワー浴びたんだけどな」

 囁くように会話をした。至近距離だから、このトーンで十分なのだ。

「プールを見る度に、思い出すんだろうな」

「何を」 

「キスしたこと」

 俺がそう言うと、強い力で抱きしめられた。

「これから、色んなものを食べる度にキスしよう」

「なんだよ、それ」

 意味が分からない。

「だって、そうしたら思い出すでしょ? 唐揚げを食べても、目玉焼きを食べても、宮下は俺のことを思い出す」

「……まぁ、そうだな」  

「何かの間違いで、離れ離れになるかもしれないだろう? 万が一、そうなったとしても安心だ。俺はいつだって宮下に思い出してもらえる。……絶対、逃がさないけどね」

 玖堂が、怖ろしいことを口にする。特に、最後の言葉には情念がこもっていた。

「急に、ヤンデレ要素を増やすなよ」

 心臓に悪い。愛が重すぎる。

 いや、これくらいで良いのかもしれない。

 俺は、本当は淋しくて、いつだって愛されたいと思っているから。

「……俺たぶん、ぐちゃぐちゃに愛されないと死ぬ。そういう性質っぽい」

「だったら、宮下は不死身だ」

 玖堂が言い切る。

「え、俺って死なないの?」

「うん。どろどろのぐちゃぐちゃに愛されてるから、俺に」

 ……どろどろの、ぐちゃぐちゃ。

 想像したら、しびれるくらいに幸せだった。

 幸せなのに、堰を切ったように涙があふれだす。こぼれ落ちる涙が、目尻からこめかみに伝う。

 いつの間にか、仰向けになっている俺を玖堂が見下ろしていた。

 玖堂の目には、明らかな熱があった。捕食者の目をしている。やっぱり玖堂はライオンだったなと、ぼんやりした頭で考える。

 自分が、今からどうなるかも分かっている。

 知らないけど、分かる。

「……俺、小さいかも」

 唐突に、懸念事項が頭をよぎった。

 愛が重い玖堂なので、そんなことで俺を嫌ったりしないだろう。そう思いつつ、俺は正直に申告した。

「何が?」

「……アレが」

「そうなの?」

「たぶん、いや、分からないけど……」

 真っ赤な顔で視線を逸らす俺に、玖堂が悪い顔をする。

 あ、こんな顔もするんだと思った。心臓がうるさいくらいにドキドキしている。

「確かめていい?」

 もう、声を出すことはできなかった。緊張と、色んな感情が決壊して。  

 俺は、ただうなずくことしかできなかった。



 気づいたら、俺は真っ暗な世界にいた。

 ここは、どこだろう……。

 しばらくすると、遠くに小さな光が見えた。少しずつその光が大きくなっていく。まぶしくて、ぎゅうっと目を閉じる。

 次に目を開けたとき、見覚えのある部屋にいた。

 幼少期に暮らした家だと気づいて、これは夢だと納得する。

 いつもの夢と同じで、幼い時分の俺はひとりで遊んでいる。両親の姿は見えない。もうそろそろ、苦しくなってくるはずだ。

 呼吸が浅くなって、そうして、兄が現れるはずなんだけど……。

 いつまで経っても、兄の姿は見えない。

 かわりに、意外な人物が出現した。玖堂だった。

 玖堂は、幼い俺を抱き上げた。

 何か話している。聞こえない。でも、幼い自分は楽しそうにはしゃいでいた。

 夢の中にいる自分は、いつも俯いていた。こんなにうれしそうに笑っているのを見るのは初めてだった。

「良かったな……」

 玖堂は、今の俺だけじゃなくて、幼い頃の俺のところにも来てくれた。

 自分の中の空洞が、少しずつ埋まっていくのが分かる。

 俺は、いつまでも二人の様子を眺めていた。

「……宮下?」

 遠くから、名前を呼ばれている。

 声が近づいてくる。

「宮下」

 何度も呼ばれ、体を揺さぶられて、俺は目を開けた。

「あ、玖堂……?」

 心配そうに俺を見つめる玖堂の顔があった。どうやら、あのまま眠ってしまったらしい。

「宮下、平気?」

 なんでも、また俺は泣いていたようだ。

「大丈夫だよ。ていうか、寝てるのに泣くって……。意味分からないよな」

 俺が苦笑いすると、玖堂の腕にすっぽりと包まれた。

「まだ、朝になってない?」

「うん、夜明け前だよ」

 もうしばらくは、眠れるらしい。

 夏休みは昨日で終わってしまった。今日から学校が始まる。でも、あと少しだけ……。

 玖堂の腕の中で、俺はそっと目を閉じた。



 夏休み明けの教室は、気だるい空気が漂っていた。

 教室に入ると、吉沢が一番最初に俺たちに気づいた。しかし、次の瞬間「うわ」と吉沢がドン引きした顔になる。

「おはよう」

 俺は構わず、吉沢に挨拶をした。

「……ダメだ。宮下までバカになってる」

 そう言って、吉沢が頭を抱える。

「バカってなんだよ」

 思わず、ムッとした。俺はクラスで一番テストの点が良い。かなりの成績優秀者なのだ。

「……玖堂。倦怠期、終わったのか?」

 頭を抱えたまま、吉沢が玖堂を見る。

「倦怠期? そんなの、まだ当分先の話だよ~~」

 いつものおっとりした口調で、玖堂が答える。

 着席すると、クラス中が静まり返っていることに気づいた。違和感しかない。

「なんか皆、静かだな」

 俺は、背後にいる玖堂に話しかけた。

「夏休み明けで疲れてるんだよ」

 なるほど、と俺は納得した。

「いや、皆が静かなのはお前たちの様子がおかしいからで……」

 吉沢は、かなり困惑した風情だった。顔色も悪い。もしかして、体調が良くないのかもしれない。

「様子おかしいって?」

 俺が問うと、吉沢の顔色がますます悪化した。本気で心配だ。

「ずっと手、つないでるじゃん……? というか、抱っこされてるじゃん……?」

 吉沢に指摘され、俺は「あ」と声を上げた。まるで気づいていなかった。吉沢の言う通りで、俺は玖堂としっかり手をつないでいた。

 そして、抱っこされている。 

 俺は玖堂の膝に乗る形で、自分の席に座っていたのだ。

 確かに、これではクラスメイトも驚くはずだ。

「いやーー、ゴメン」

 さすがに恥ずかしくて、頭を掻いた。

 ふいに、怒りのオーラを感じた。周囲を見回すと、新田さんと目が合った。

 白石さんと、唯川さんも俺のほうを見ている。

 彼女たちの眼光の鋭さに恐れおののく。

 勢いよく新田さが立ち上がった。そして、膝から崩れ落ちる。

「あぁ~~~~~! 負けたーーーーー!!」

 床に這いつくばりながら、新田さんが呻く。一体、何の勝負をしていたのだろう。

 明らかに精神的に参っている様子なので、金銭が絡んでいるのかもしれない。心配だ。どうか、法令遵守していることを願う。

「女子力を磨くしかないね……」

 歯ぎしりとともに、静かなつぶやきが聞こえた。白石さんの声だ。

「でも、委員長は男子だから……。方向性がムズい」

 これは、唯川さんの言葉。

「どの方面で努力すれば良いのか分かんない! 清純派優等生こそ至高だってSNSで見てたのに……! だからこんな格好してるのに……!」

「ずっと派手髪にしたかったよね。黒髪JKやってた意味、なかったわ……」

 二人で意味不明な会話をしている。

 会話の断片から推察すると、彼女たちは自分を偽って生きていたのかもしれない。何か事情があるのだろう。俺だって、まさか自分で自分の記憶をすり替えているなんて思いもしなかった。

 皆も、色々あるよな……と共感する。

「まぁ、白石さんと唯川さんの理論は玖堂にも普通に通用したよな。残念ながら、JKじゃなくてDKに持っていかれたけど……。そういう意味では、玖堂もごく普通の男子高校生だったってことだな」

 吉沢が、椅子をギコギコしながら意味深なことを言う。

 腕を組んで、うなずきながら独り言をつぶやいている。吉沢には、彼女たちの会話の意味が理解できているらしい。

 すげぇ……と思っていたら、担任の青山が教室に入ってきた。

 玖堂に抱っこされている俺を見て、青山が破顔する。

「暑いのに、よくやるな~~。やっぱり高校生は元気だな、うん」

 青山は二十代だ。まだまだ若いと思うのだが。

「宮下~~」

 青山に呼ばれた。俺は、玖堂に抱っこされた状態のまま「はい」と真面目に返事をする。

「元気が有り余ってる宮下に、頼みたいことがある。明日の放課後なんだけど~~」

「明日はムリです」

 俺はきっぱりと断った。明日は先約がある。玖堂とデートする予定なのだ。映画を見に行く計画を立てている。なのでムリ。

「絶対に?」

「はい」

 俺は、大きくうなずいた。

「な、なんでだ……!」

 断られるとは想定していなかったのか、青山が大げさに仰け反る。

「ど、どうしたんだ宮下! 体調でも悪いのか? いつもOKしてくれるのに……」

 腑に落ちない、といった表情で青山が俺を見る。

 体調はすこぶる良い。

 ただ、以前と違うのは「褒められたい」欲求が消滅してしまったということ。

 しかし、いきなり全拒否では青山に申し訳ない気もする。

「明後日なら良いですよ」

 俺が別の日を提案すると、青山は一気に「さすが宮下!」と目を輝かせる。

 褒められた。でも特別にうれしいとか、満たされるとか、そういう気分にはならなかった。

 授業が始まる直前、玖堂は自分の席に戻って行った。「じゃあね」と言って、俺に軽く手を振る。

 新田さんをはじめとした女子の面々は、その様子を複雑そうな表情で見ていた。

「早く別れて欲しい……」

「だよね」

「決めた。私、祈るわ」

「あ、それ良いね」

「私も、お祈りする」
 
 女子たちがヒソヒソと相談する声が、チャイムの音に重なって俺の耳にも届く。

 祈るってマジだろうか。まさか、呪うとかじゃないよな……?

 ふいに、背中がぞくっとした。考えれば考えるほど怖い。やはり女子は苦手だと確信する。

 これからの俺の学校生活は、平穏ではないかもしれない。

 しかし、それもひとつの青春といえよう。そんなことを考えながら、俺は教科書のページをめくった。



<了>