その名前で呼ばないで

 アヤトの名前を呼んだ父は、ただアヤトの顔をしばらく見つめるだけだった。アヤトもまた、その顔を見返すことしか出来なかった。

「……アヤト君……?」

 柔らかな女性の声が耳に入り、アヤトの視線はやっと動いた。父の隣に立つ、セミロングヘアの茶髪の女性。隣には、三歳か四歳くらいの栗色の髪をした小さい男の子の姿。

「……あ……」

 ――父は、新しい家庭を持っていた。
 
 目の前の幸せそうな家族の表情がアヤトの心を埋めた。胸の下が痛み、手で押さえつける。
 その場からすぐにでも逃げ出したかった。一歩後ろに下がったが、その手を父が掴んだ。

「待ってくれ、アヤト……!」
「……あの、俺……」

 ――もう、良い。帰りたい。
 
 そう思った時、耳元から紙袋の音がした。アヤトの肩がキョウヤの胸元に触れる。キョウヤに肩を抱かれたのだと理解することに、少し時間が掛かった。

「俺はアヤト君の友人です。アヤト君はあなたに会いに来たんです。連絡も取らずに、いきなり申し訳ありません」

 キョウヤはアヤトの肩を抱く反対側の手に持っていた紙袋を、アヤトの父に差し出した。

「アヤト、ごめん。後で怒っていいから」

 キョウヤはアヤトの耳元でそう囁き、目線を再びアヤトの父へと向けた。
 父は紙袋を受け取り、中を覗いた。徐々にその目を大きく開き、体を固まらせる。

「……俺が今朝アヤト君から電話をもらって、家に駆け付けた時に残っていた服です。他の服はどこにもなくて、アヤト君のスマホには『制服は隠した』と……そうアヤト君のお母さんからメッセージが入っていたそうです」

 父の隣に立っていた女性は、呆然と立つ父から紙袋を奪い取り、中身を覗いた。女性は眉を下げ、口元を手で押さえる。

「アヤト君はこれを望んでいないことは、俺がよく知っています。……分かっていただけますね? アヤト君の現状」
 
 紙袋は女性の手から離れ、地面へと落ちる。その衝撃で、中から花柄のワンピースが少し飛び出した。

「……アヤト。俺は近くに居る。話をしておいで」
「……キョウヤ……」

 一緒に居てほしい。そう思いキョウヤの顔を見るが、キョウヤは首を横に振った。

「……キョウヤ君、と仰るんですね。アヤトを連れて来てくれて、ありがとうございます。近くに喫茶店があります。……申し訳ないですが、待っていてくれますか」

 父はキョウヤに頭を下げると、財布からお金を取り出しキョウヤに手渡そうとした。だが、キョウヤはそれを拒否する。

「受け取れません。代わりに、アヤト君の話を……聞いてください」

 それだけ言うと、キョウヤはアヤトに小さく手を振ってその場を後にしてしまった。追いかけたかったが、父の手がそれを拒んだ。
 キョウヤのその横顔がどんな表情をしていたのか、アヤトには見えなかった。
 
 蝉の鳴き声が鬱陶しい。体中に汗が噴き出ては、服を湿らせる。なのに不思議と、体の中は寒く感じた。

「……アヤト。暑いよな。とりあえず、家に上がってくれ」

 突き放してほしいと望んだ父の声は、優しかった。

◇◇◇

 マンションの最上階にある父の家は広く、綺麗だった。
 汗を拭かせてもらい、アヤトはリビングのソファーに座らせられた。

「ねえねえ、お姉ちゃんって、いつもパパとママが話してる人なの?」

 小さく、柔らかい手がアヤトの手を握った。

「え……」
「ユウくん。パパとママ……お兄ちゃんと大切なお話があるから……お部屋で遊んでてくれる?」
「お兄ちゃん? 僕も遊びたかったけど……分かったぁ」

 男の子は頬を膨らませると、リビングから出て行った。
 アヤトの前にオレンジジュースが置かれる。中に入った氷がコップにぶつかり、音を立てた。

「アヤト君。オレンジジュースは飲めますか?」
「あっ……はい! ありがとうございます……」

 アヤトは女性の顔を見上げた。優しく微笑んでくれたが、その眉はずっと下がっている。
 目の前のソファーが軋んだ。視線を向けると、父が座っていた。女性はその隣に座る。

「アヤト、どうして今日、来てくれたんだ?」

 小さく、震えた声だった。

「……封筒、が届いて……それで……」

 アヤトの声も自然と小さくなり、言葉が詰まった。顔も見れない。父と最後に会話をしたのは、もうずっと前だ。アヤトは父との話し方すら忘れてしまっていた。

「手紙、ずっと送っていたんだ。でも……アヤトには、届いていなかったんだな」

 少しだけ視線を上げて見えた父の指は忙しなく動いていた。アヤトは再び目線を下げる。

「……アヤトを置いて行って、ごめんな」

 一番聞きたかったような、聞きたくなかったような、その言葉。考えたことはあった。父が謝ってきたら、なんて返そうかと。
 怒鳴ってやろうか、泣いてやろうか、殴ってやろうか。色々なパターンは頭の中に用意していたつもりだった。
 だが、実際にその場面になってみると、思ったより言葉は出てこなかった。

「お父さんが幸せそうで、良かった……です」

 感情は込められなかった。そんなこと、思ってもいなかったからだ。
 
 キョウヤに会いたい。もう帰ろう。帰って、また女の子になればいい。それで、平穏に過ごせるのだから。
 
 勝手に来たのは自分だ。
 勝手に父の幸せを覗き見したのは、他の誰でもなく、自分だ。父は今日まで、幸せに暮らしていたのに。

 ――勝手に傷付くなんて、おかしな話だ。

「俺……帰ります。……いきなりごめんなさい」

 誰かに手を握られ、アヤトは動けなくなった。
 アヤトの手を握ったのは、父ではなく、テーブルに身を乗り出した――。

「……アヤト君、待ってください」

 父の隣に座る、女性だった。
 女性はずっと苦しそうに眉間を寄せている。
 
 当然だ。愛する旦那の、元妻の子供が急に家を踏み荒らしに来た。怒らないわけがない。むしろ、家に上げてもらっただけ感謝をすべきだ。

「座ってください」

 そう思っていたからこそ、女性がなぜそんなことを言うのか、アヤトには理解が出来なかった。
 女性はただ、優しくアヤトの手を引いた。アヤトは思わずソファーに腰を沈める。

「……アヤト君の話は、夫……彼から聞いていました。アヤト君の目から見たら、私は……お母さんからお父さんを奪った女にしか見えないですよね」

 そんなことは無かった。特に女性に対して何も思わなかった。

 強いて言うなら、父の新しい奥さんで、優しそうな人だな。と、その程度にしかアヤトは思っていなかった。
 
「……彼と同じ職場で働いていたんです。離婚したって聞いて、酷く落ち込んでいた彼に漬け込んだのは、私の方です。お父さんは……ずっと、アヤト君のことを気にかけていて……」

 アヤトは今、自分に表情が無いことが分かっていた。口角が上がりもせず、下りもしない。目元も瞬きしか繰り返さない。

 だからもう、余計なことは喋らないでほしかった。
 そんなことを話されても、なんと答えたら良いか返答に困るからだ。

「いや、それでも……最後に彼女を選んだのは俺だから……彼女にアヤトのことも、アヤトの母親の事も全部話して、それでも俺を受け入れてくれたんだ」

 ――その話は、今、自分に関係あるのだろうか。

 喉まで押し寄せたその言葉を飲み込んだ。

 急に家に上がり込んで、なのに心の中では二人の話を拒絶して。自分は一体、何がしたいのだろう。
 
 アヤトは膝を強く握った。

「アヤト君に手紙を送り続けることは……正直、嫌でした……でも……」

 先程から自分の膝だけを見つめているアヤトには、今女性がどこを向いてどんな表情を浮かべているのか分からなかった。

「……でもこれは……こんなの、あんまりよ……アヤト君……!」

 強い口調だった。紙袋を握るような音が聞こえる。
 アヤトの視界に、白く綺麗な手が入り込んだ。その手はアヤトの手を握る。

「アヤト君。私と彼で決めていたことがあるの。アヤト君が来てくれたら、言おうってずっと決めてて……」

 父が立ち上がり、隣に立った。その手はアヤトの肩をそっと抱く。

「……私達と、家族になりましょう。アヤト君」

 やっとアヤトは顔を上げられた。
 目に入ったのは、今にも泣き出しそうな女性の顔。

 アヤトの視界が、途端に明るくなった。