その名前で呼ばないで

 アヤトはシャワーを浴びながら、明日のことを考えていた。

 明日は、キョウヤと一緒に父の家を訪ねることにした日だ。手紙に連絡先は記載してあったが、事前に連絡はしていない。
 家に居なかったら居なかったらで、そういう運命なんだと思って諦めようと思ったからだ。

 目を閉じ、髪を洗う。
 キョウヤと休日に会うことは珍しくはないのだが、その度に前日はなんとなく念入りに髪を洗ってしまう。

「アヤちゃん」

 風呂場の横、脱衣所から母親の声が聞こえた。
 その声を聞いては胸の下が痛んだ気がして、手で押さえる。

「……どうしたの……」

 目線を横に向けた。

「……っ!」
 
 すりガラスの扉に、真っ黒い人の形をした何かが張り付いていた。

「アヤちゃん」

 声は母親のものだ。
 だが、本当に母親か判断が出来ない。ただそれは、すりガラス越しにアヤトを覗いているような気がした。

 風呂場の中にいるはずなのに、体が冷える。腕に立つ鳥肌を手で押さえた。
 
 シャワーヘッドから漏れる水滴が床を打ち鳴らす。
 
「……ママ、どうしたの?」

 震える声を絞り出す。酷く喉が渇いた。
 すりガラスの扉に張り付いた人影はゆっくりと離れた。

「……バスタオルだけ持って行ってお着替え忘れちゃったでしょ? ここに置いておいたからね」
「……あ……。あ、ありがとう」
 
 脱衣所の扉が閉まる音が聞こえた。胸を撫で下ろす。
 
 母親が何をしたかったのかなんてアヤトには分からない。分かるわけがない。

 アヤトは再び胸の下をさすった。

 風呂場を出ると、下着とルームウェアが置かれていた。
 女性用の上下の下着と、フワフワとした素材の、可愛らしい薄いピンク色のルームウェア。

 自然とため息が溢れた。
 バスタオルの中に隠すように入れていた男性用の下着を取り出す。ルームウェアはどうしようもないので、そのまま着る。

 ――明日、どうなるだろう。

 どうしようもならないのではないか。でも、どうにかなるのではないか。半分半分な気持ちを抱き、アヤトはその日眠りについた。

◇◇◇

 翌日、メッセージが届いた音で目を覚ました。
 眠い目を擦りながらメッセージを開くと、送り主は母親からだった。

『お仕事に行って来ます。彼氏とデート楽しんでね。お洋服、クローゼットの中に昨日サプライズで入れちゃいました。この間買ったワンピースもあるから、好きな方を着て行ってね。制服はママがお仕事場に持って行っちゃいました』

 体が飛び起きた。開き切らなかった目もしっかりと開く。ベッドから出ようとし、掛け布団に足を引っ掛けてベッドから落ちた。体の痛みは不思議と気にならない。

 体の震えを堪えてクローゼットを開ける。

 お小遣いを貯めて買っていた男性用の服は、そこにはもう一着も無かった。

 代わりにハンガーに掛けられていたのは、先日母親が買った花柄のワンピースと、フリルがたっぷりとあしらわれたオフショルダーのトップスに、ミニスカート。

 それだけだった。

 上手く息が吸えない。歯が音を鳴らす。
 時計に目を向けた。キョウヤとの待ち合わせ時間には、まだ時間がある。

「気のせいだ。見間違いだ」

 そう言い聞かせ、震える脚で無理矢理立ち上がる。顔を洗おうと、洗面所へ向かった。
 
 アヤトの頭は顔の洗い方も忘れていたが、体が覚えていてくれた。泡一つ残さず綺麗にすすぎ、タオルで押さえながら顔を上げた。鏡を見る。

 何の気配も無かったはずだったのに、自分の背後にソレはいた。

「あ……」
 
 抉れたような真っ黒い目に、大きく開いた真っ黒い口。
 長い髪を垂らし、自分の首を絞めようとする何か。
 
 鏡越しに目が合う。いや、合ったのか分からない。ただ、それはアヤトの顔を見ているということだけは分かった。
 
 ただ静かな空間に、自分とソレの二人きり。

 それの口元から何かが垂れたが、それが床に落ちる音は聞こえなかった。

 ただ聞こえるのは、歯軋りのような音。

 首に食い込む指の力が強くなる。力が入らない膝は折れ、そのまま床に倒れ込む。その間にも、どんどん息苦しくなる。

 腕の力だけで床を進む。
 自分の呻き声と嗚咽をかき消すくらいに、ソレから聞こえる歯軋りのようなその音は大きかった。

 ――部屋の扉を開けておいて良かった。

 アヤトの上半身が部屋に入る。
 すると、音が嘘のようにピタリと止んだ。途端に呼吸がしやすくなる。

 目に入ったのはスクールバッグに付けられた、キョウヤからもらったお守り。

 ベッドの上に必死に腕を伸ばした。メッセージを打つ指すら震える。どうしても文章にならなかったので、仕方がなく電話を掛けた。

『もしもし、おはよう。……アヤ?』

 聞きたかったキョウヤの声。
 返事をしようと思ったが奥歯が音を鳴らし、言葉が出ない。

『すぐ行く。喋らなくて良いから、電話繋ぎっぱなしにしてて』

 電話越しに風の音が聞こえた。そうしてだんだんと、キョウヤが息を切らし始める。

『もうすぐだから』
 
 その呼吸で分かる。走ってくれているんだ。キョウヤは自分のために急いでくれている。
 
 それが申し訳なかった。
 アヤトも家を出ようと立ち上がるが、脚がすくむ。どうにか立ってくれないかと自分の脚をさすると、自分の服装が目に入った。フワフワとした素材のショートパンツに、薄手のキャミソールだ。
 
 着ているルームウェアは母親が買ってきたものだ。
 着ることを拒否したこともあったが、頬を拳で打たれてからは大人しく着続けていた。
 
 背筋が寒くなった。脳が固まったような錯覚を感じる。
 服を取り替えようにも、他に服は無い。

「……待っ、キョウヤ……」

 先程から出そうとしていた声がやっと出てくれた。

「やっぱり、来ないで……」

『……いや、もう着いちゃったよ。玄関……開けれる……?』

 キョウヤの息はすっかり切れていた。
 電話越しに玄関を叩く音が聞こえる。家の中にもその音は響いた。
 
 ――ここまで走らせておいて、帰れだなんて言えない。

 壁に手をついて玄関に向かう。唇を噛み締めるアヤトと対照的に、アヤトの膝は笑っていた。

 玄関の鍵を開け、少しだけ扉を開く。キョウヤの顔が少しだけ見えた。

「……キョウヤ……」
「ごめん、開けるよ」

 少し開いた隙間に手を差し込まれた。アヤトは思わず抵抗するように力を入れたが、キョウヤに敵うはずはなく、扉はあっさりと開けられる。

 扉に手を当てたままキョウヤの表情が固まった。息遣いは荒く肩だけが上下する。
 その目を見れなかった。アヤトは視線を下に向ける。

「入るよ。アヤトの部屋、どこ?」

 キョウヤは玄関の鍵を閉めるなり、靴を乱暴に脱ぎ捨てて家に上がった。
 
「……左奥……」

 アヤトの手を引き、キョウヤは無言のままアヤトの部屋へ向かう。表情は見えなかったが、アヤトの手を握る力が今までの比にならないほど強かった。

 アヤトの部屋に入り、キョウヤはクローゼットを開けた。その横顔に目を向ける。キョウヤは口を小さく開き、そのすぐ後に唇を噛んだ。

「制服は?」
「お母さんが、職場に持って行ったってメッセージに書いてあった……」
「…………アヤト。さすがにこれは駄目だ。度を越してる。悪いけど、通報するよ。俺が事情を説明する。良いよね」

 いつもと同じ、淡々とした口調。
 だが、キョウヤが何を思っているのか、今は分かった。

「……待って……」
「待てないかな。暴力はされてなくても、これは虐待だよ」
「お父さん……に、会って……話を……」
「それじゃ遅いって」

 キョウヤがやっとアヤトの顔を見た。眉間に皺を寄せ、目つきは鋭い。アヤトは思わず後ろへ下がった。

「……さっき、顔洗ってて……顔上げたら、後ろに……何かいて……」

 キョウヤは少しだけ目を細めた。
 
「あー、うん。……今分かったけど、多分ソレはアヤトのお母さんの生き霊だよ」

 キョウヤは力任せにアヤトの腰を抱き、頭を手で押さえた。そのままアヤトの唇に自分の唇を重ね、ベッドへとアヤトの体を押し倒す。
 キョウヤの指が乱暴にアヤトの口を開かせ、また唇を重ねた。

 いつもとは違う息苦しさに、アヤトはキョウヤの背中を叩くが、離してはもらえなかった。
 しばらく部屋にはアヤトの漏れる息の音と、水音が響く。

 それが何分続いたから分からない。
 唇が離れた時、アヤトの意識は朦朧としていた。

「アヤトの後ろにはいつも何かいたんだけど、俺の中では二択だった。亡くなったアヤトの妹さんの魂なのか、アヤトのお母さんの生き霊なのか、どっちかなって思ってた」
 
 キョウヤに手首を押さえ付けられ、身動きが取れない。見上げたキョウヤの顔には影が落ちていた。

「今のアヤトを見てたら間違い無さそう。ソレは、アヤトのお母さんの方だ」
「生き霊……?」
「アヤトへの異常な執着と言うか、何の感情かは知らないけど、それが形になってる。……生き霊は祓えないんだ」

 一瞬だけ、アヤトの唇にキョウヤの唇が当たった。すぐに離れ、キョウヤはアヤトの体を抱きしめた。

「一番手っ取り早いのは、元凶から離れることか、根本から問題を解決すること。このままだとアヤトのお母さんの生き霊はますます悪いモノを呼び寄せると思う」

 耳元で聞こえるキョウヤの声は優しい声ではなかった。それでも、その声はアヤトの心を落ち着けるのにはじゅうぶんだった。
 
 深く息を吸うと、キョウヤの匂いがする気がした。

「キョウヤ、やっぱり俺……お父さんに会いに行きたい」
「……アヤト」

 体から離れたキョウヤの口が、何か言葉を発したそうに動いた。アヤトはその両頬に手でそっと触れ、自分の唇をキョウヤの唇に付ける。
 
 唇が震えているのが自分でも分かった。そっとキョウヤの顔から離れ、再びベッドへと頭を付けた。

 キョウヤの目が大きく開いている。
 引かれてしまったかもしれない。しかし、今はそれもどうでも良かった。

「……一緒に来て、キョウヤ……」
「それは……ずるいね。……とりあえず服、なんか買ってくるよ。お母さんまだ帰らない?」
「夜まで帰らないと思う……」
「分かった。待ってて」

 アヤトの頭を撫で、キョウヤは家を出た。
 キョウヤが戻ってくるまでの一時間ほどの間、アヤトは何もかもを考えることを止めた。

 今はもう、何も考えたくない。考えることにも疲れてしまった。
 
 頭はそう考えても、指だけは勝手に唇に触れていた。