アヤトの家はマンションの一室にある。オートロック式、というわけでもない小さなマンションだ。
マンションの階段を上ったところで物音が聞こえた。先程スーパーの前で見かけた幼い女の子のような姿が脳裏をよぎり、一瞬体が硬直する。
ゆっくりと振り返ってみると、郵便局員が各部屋の郵便ポストに投函していた音だった。
「あ! アヤト君じゃないか? こんにちは!」
田舎に住んでいると、顔と名前を覚えられていることはざらにある。アヤトに話しかけてくれた郵便局員も、周辺の配達を担当しているためアヤトの顔と名前を覚えていてくれた。
「こんにちは、いつも配達ありがとうございます」
「ちょうど良かった。アヤト君宛の封筒だよ。あと、他の手紙も」
階段を下り、郵便局員から茶封筒と何枚かのハガキを受け取る。そこには確かにアヤトの名前が書いてあった。
「俺に?」
「三ヶ月に一回くらいその人から封筒届いてるよねぇ。……あっ。本当は直接渡すのは御法度だから、内緒にしておいてね!」
郵便局員はそう言ってへらへらと笑った。次の配達に向かって行った郵便局員を見送り、目線を落とした。
「郵便物、受け取るの初めてだ……」
目線を郵便ポストに向ける。ポストにはダイヤル錠が掛けられており、アヤトはそれを解除するための番号を知らなかった。いつも郵便物は母親が持ってきては、アヤト宛の郵便物を手渡してきていた。
封筒をひっくり返す。
そこに書かれていた名前は、アヤトがよく知った名前。
「…………お父さん?」
母親に愛想を尽かせて、離婚して家を出て行ったはずの父親。
「なんで?」
思わず手に力が入った。音を立てて封筒に皺が寄る。
脈が速くなり、額に汗が滲む。気付かないうちに呼吸も荒くなっていた。
スクールバッグのチャックを開け、茶封筒だけを奥底へ乱暴に突っ込んだ。
手を引き抜く際、何かに手が当たった。
それは音を立てて床に落ちる。
「あ……。プリクラ……」
先日キョウヤと撮ったそれを拾い、見つめた。
整わない呼吸も、乱れた脈も、すぐに落ち着いてくれることはなかった。
だがそれでも、騒めいた心だけは少しずつ穏やかになる。
やっと深く息が吸えた気がした。
再度、深呼吸をする。
「……帰ろう」
部屋に帰ろうと振り返った。
――何かと、目が合った。
何の音も聞こえなかった。
ただ、アヤトの横顔を覗くように、その顔は静かにそこにあった。
長い髪はその顔を覆っている。
大きく開いた左目だけが、見えた。
やっと気付いた。
生温い息が耳に当たっていた。
鼻息か、口から漏れた息か。
アヤトには分からなかったが、確かに耳を撫でていた。
血走った白目に浮く眼球が動いた。
持っていた買い物袋とハガキが床に散らばる。
後ろへ下がろうとした足が上手く動かず、アヤトはその場に尻もちを付いた。
鼻の使い方を忘れ、口だけが息を吸って吐く。
「アヤちゃん」
口での呼吸の仕方も忘れかけた時、声が聞こえた。
顔が傾き、髪が揺れる。
「アヤちゃん」
動いた口元から、聞き慣れた声が聞こえた。
何回か瞬きをする。
そこに立っていたのは、母親の姿だった。
「やだもう、そんなにびっくりしちゃってぇ!」
母親はにっこりと笑ってしゃがみ込み、買い物袋から散らばった野菜を拾う。
「アヤちゃんの後ろ姿が見えたから、びっくりさせようと思ったのよぉ」
ハムも掴み、袋へと入れる。
いつから、そこに居たんだろう。
「……ねえアヤちゃん。なんで……ここに居るの?」
母親の手に握りしめられたハガキが、悲鳴を上げた気がした。
「アヤちゃん。郵便ポストの前で何をしていたの? なんでハガキを待っているの? ダイヤルの番号、教えてないのにどうやって開けたの? ハガキしか入ってなかったの? 他にはお手紙とか入ってなかったの?」
言葉が出てくるたびに口の動きは早くなり、声は低くなる。
母親はゆっくりと立ち上がり、アヤトを見下ろした。乱れた髪は顔に垂れてその表情を隠す。
母親が足を一歩踏み出すと、ハイヒールが地面を打ち付けた。
さっきはそんな音、聞こえなかったくせに。
「……何も、ハガキしかなかったみたいだよ。郵便局の人とたまたまここで会って、郵便物を渡してくれたの」
アヤトの声は震え、裏返った。
思わずスクールバッグを背後に隠す。
「……あ、でも、本当はそれは駄目だから……内緒にしてねって言われたんだけど……」
母親は黙ってアヤトを見下ろし続けた。
だが、何かに気付いた様子で目線がズレた。
だんだんその瞳が輝き出す。
「あら、あらあらあら!」
母親は床に落ちていた物を拾い上げた。
「……あ」
母親が拾い上げたのは、キョウヤと撮ったプリクラだった。出す気の無かった声が漏れる。
「やだー! アヤちゃんの彼氏!? かっこいいわねー! 背も高くって素敵!」
クラスメイトの女子達がアイドルの話をする時のような、そんな楽しそうな声。
アヤトは母親のその声は初めて聞いた。鳥肌が立ったが、目の前で腕をさするわけにもいかず、奥歯を噛み締めて堪える。
「お部屋に戻りましょ、アヤちゃん! お仕事思ったより早く終わったの! 夕ご飯、一緒に作りましょ!」
一人楽しそうに、母親は入り口へと向かって行った。床に座り込んだままのアヤトを置いて。
◇◇◇
アヤトが夕飯を作っている最中、母親はずっとプリクラを眺めては何かを呟いていた。
夕飯をテーブルに並べ、二人で食卓を囲む。
「ねえアヤちゃん、彼氏は同じクラスの子なの?」
母親は料理の感想を言わない。
アヤトも家で食べる料理に味を感じることは無いので、今目の前で食べているそれが美味しいか不味いかも分からない。
「そうだよ、ママ」
キョウヤの顔が浮かび、嘘を吐いてしまっていることを申し訳なく思った。
冷やし中華の麺をすする。しょうゆだれのはずだが、水を飲んでいるようだ。
「お名前なんて言うの?」
「……キョウヤ」
名前を出してから後悔した。咄嗟に別の名前が出てこなかったのだ。
「お名前もかっこいいわねぇ! 告白はどっちからなの?」
「私からだよ」
母親の箸が止まった。
「あらぁ……。それはちょっと、駄目ねぇ。告白は男の子からしてくれなきゃ……。マイナス十点ね」
ため息を吐き、冷やし中華の横に置いてあるプリクラに目線を落とした。アヤトも一緒にプリクラに視線を向ける。
早く飽きてくれないかと祈りながら。
「まぁでも、とりあえずは良いわ。アヤちゃんはキョウヤ君のどこが好きなの?」
「……いつも一緒に居てくれて、優しいところ」
それでも、キョウヤのことを話すだけで呼吸がしやすくなった。自分の単純さに呆れる。
「まぁ、素敵! ママね、こうやって"娘"と恋愛話するの憧れだったんだぁ……。ご馳走様! ママ、お風呂入ってくるわね!」
食べ終えた食器をそのままに母親は席を立った。
風呂場から物音が聞こえ出したところでアヤトも席を立った。
スポンジに洗剤を付け、泡立てる。そのまま皿を洗い出す。
その単調な作業を繰り返す中で、ふっと考えてしまった。
"娘"と呼ばれるのが嫌だ。母親に女の子として扱われるのが嫌いだ。自分の見た目も嫌いだ。
なのに、好きになった相手は男の子だ。
――いつも一緒に居てくれて、守ってくれて。何を考えているのか分からないが、それでも優しくて。
泡で滑り、手から皿が落ちた。
シンクの上に落ちた皿は割れることはなかったが、その音がアヤトを我に返した。
皿をすすごうと水道から水を出した時、手の甲に水滴が落ちた。その水滴は水道の水だったのか、それとも。
マンションの階段を上ったところで物音が聞こえた。先程スーパーの前で見かけた幼い女の子のような姿が脳裏をよぎり、一瞬体が硬直する。
ゆっくりと振り返ってみると、郵便局員が各部屋の郵便ポストに投函していた音だった。
「あ! アヤト君じゃないか? こんにちは!」
田舎に住んでいると、顔と名前を覚えられていることはざらにある。アヤトに話しかけてくれた郵便局員も、周辺の配達を担当しているためアヤトの顔と名前を覚えていてくれた。
「こんにちは、いつも配達ありがとうございます」
「ちょうど良かった。アヤト君宛の封筒だよ。あと、他の手紙も」
階段を下り、郵便局員から茶封筒と何枚かのハガキを受け取る。そこには確かにアヤトの名前が書いてあった。
「俺に?」
「三ヶ月に一回くらいその人から封筒届いてるよねぇ。……あっ。本当は直接渡すのは御法度だから、内緒にしておいてね!」
郵便局員はそう言ってへらへらと笑った。次の配達に向かって行った郵便局員を見送り、目線を落とした。
「郵便物、受け取るの初めてだ……」
目線を郵便ポストに向ける。ポストにはダイヤル錠が掛けられており、アヤトはそれを解除するための番号を知らなかった。いつも郵便物は母親が持ってきては、アヤト宛の郵便物を手渡してきていた。
封筒をひっくり返す。
そこに書かれていた名前は、アヤトがよく知った名前。
「…………お父さん?」
母親に愛想を尽かせて、離婚して家を出て行ったはずの父親。
「なんで?」
思わず手に力が入った。音を立てて封筒に皺が寄る。
脈が速くなり、額に汗が滲む。気付かないうちに呼吸も荒くなっていた。
スクールバッグのチャックを開け、茶封筒だけを奥底へ乱暴に突っ込んだ。
手を引き抜く際、何かに手が当たった。
それは音を立てて床に落ちる。
「あ……。プリクラ……」
先日キョウヤと撮ったそれを拾い、見つめた。
整わない呼吸も、乱れた脈も、すぐに落ち着いてくれることはなかった。
だがそれでも、騒めいた心だけは少しずつ穏やかになる。
やっと深く息が吸えた気がした。
再度、深呼吸をする。
「……帰ろう」
部屋に帰ろうと振り返った。
――何かと、目が合った。
何の音も聞こえなかった。
ただ、アヤトの横顔を覗くように、その顔は静かにそこにあった。
長い髪はその顔を覆っている。
大きく開いた左目だけが、見えた。
やっと気付いた。
生温い息が耳に当たっていた。
鼻息か、口から漏れた息か。
アヤトには分からなかったが、確かに耳を撫でていた。
血走った白目に浮く眼球が動いた。
持っていた買い物袋とハガキが床に散らばる。
後ろへ下がろうとした足が上手く動かず、アヤトはその場に尻もちを付いた。
鼻の使い方を忘れ、口だけが息を吸って吐く。
「アヤちゃん」
口での呼吸の仕方も忘れかけた時、声が聞こえた。
顔が傾き、髪が揺れる。
「アヤちゃん」
動いた口元から、聞き慣れた声が聞こえた。
何回か瞬きをする。
そこに立っていたのは、母親の姿だった。
「やだもう、そんなにびっくりしちゃってぇ!」
母親はにっこりと笑ってしゃがみ込み、買い物袋から散らばった野菜を拾う。
「アヤちゃんの後ろ姿が見えたから、びっくりさせようと思ったのよぉ」
ハムも掴み、袋へと入れる。
いつから、そこに居たんだろう。
「……ねえアヤちゃん。なんで……ここに居るの?」
母親の手に握りしめられたハガキが、悲鳴を上げた気がした。
「アヤちゃん。郵便ポストの前で何をしていたの? なんでハガキを待っているの? ダイヤルの番号、教えてないのにどうやって開けたの? ハガキしか入ってなかったの? 他にはお手紙とか入ってなかったの?」
言葉が出てくるたびに口の動きは早くなり、声は低くなる。
母親はゆっくりと立ち上がり、アヤトを見下ろした。乱れた髪は顔に垂れてその表情を隠す。
母親が足を一歩踏み出すと、ハイヒールが地面を打ち付けた。
さっきはそんな音、聞こえなかったくせに。
「……何も、ハガキしかなかったみたいだよ。郵便局の人とたまたまここで会って、郵便物を渡してくれたの」
アヤトの声は震え、裏返った。
思わずスクールバッグを背後に隠す。
「……あ、でも、本当はそれは駄目だから……内緒にしてねって言われたんだけど……」
母親は黙ってアヤトを見下ろし続けた。
だが、何かに気付いた様子で目線がズレた。
だんだんその瞳が輝き出す。
「あら、あらあらあら!」
母親は床に落ちていた物を拾い上げた。
「……あ」
母親が拾い上げたのは、キョウヤと撮ったプリクラだった。出す気の無かった声が漏れる。
「やだー! アヤちゃんの彼氏!? かっこいいわねー! 背も高くって素敵!」
クラスメイトの女子達がアイドルの話をする時のような、そんな楽しそうな声。
アヤトは母親のその声は初めて聞いた。鳥肌が立ったが、目の前で腕をさするわけにもいかず、奥歯を噛み締めて堪える。
「お部屋に戻りましょ、アヤちゃん! お仕事思ったより早く終わったの! 夕ご飯、一緒に作りましょ!」
一人楽しそうに、母親は入り口へと向かって行った。床に座り込んだままのアヤトを置いて。
◇◇◇
アヤトが夕飯を作っている最中、母親はずっとプリクラを眺めては何かを呟いていた。
夕飯をテーブルに並べ、二人で食卓を囲む。
「ねえアヤちゃん、彼氏は同じクラスの子なの?」
母親は料理の感想を言わない。
アヤトも家で食べる料理に味を感じることは無いので、今目の前で食べているそれが美味しいか不味いかも分からない。
「そうだよ、ママ」
キョウヤの顔が浮かび、嘘を吐いてしまっていることを申し訳なく思った。
冷やし中華の麺をすする。しょうゆだれのはずだが、水を飲んでいるようだ。
「お名前なんて言うの?」
「……キョウヤ」
名前を出してから後悔した。咄嗟に別の名前が出てこなかったのだ。
「お名前もかっこいいわねぇ! 告白はどっちからなの?」
「私からだよ」
母親の箸が止まった。
「あらぁ……。それはちょっと、駄目ねぇ。告白は男の子からしてくれなきゃ……。マイナス十点ね」
ため息を吐き、冷やし中華の横に置いてあるプリクラに目線を落とした。アヤトも一緒にプリクラに視線を向ける。
早く飽きてくれないかと祈りながら。
「まぁでも、とりあえずは良いわ。アヤちゃんはキョウヤ君のどこが好きなの?」
「……いつも一緒に居てくれて、優しいところ」
それでも、キョウヤのことを話すだけで呼吸がしやすくなった。自分の単純さに呆れる。
「まぁ、素敵! ママね、こうやって"娘"と恋愛話するの憧れだったんだぁ……。ご馳走様! ママ、お風呂入ってくるわね!」
食べ終えた食器をそのままに母親は席を立った。
風呂場から物音が聞こえ出したところでアヤトも席を立った。
スポンジに洗剤を付け、泡立てる。そのまま皿を洗い出す。
その単調な作業を繰り返す中で、ふっと考えてしまった。
"娘"と呼ばれるのが嫌だ。母親に女の子として扱われるのが嫌いだ。自分の見た目も嫌いだ。
なのに、好きになった相手は男の子だ。
――いつも一緒に居てくれて、守ってくれて。何を考えているのか分からないが、それでも優しくて。
泡で滑り、手から皿が落ちた。
シンクの上に落ちた皿は割れることはなかったが、その音がアヤトを我に返した。
皿をすすごうと水道から水を出した時、手の甲に水滴が落ちた。その水滴は水道の水だったのか、それとも。
