その名前で呼ばないで

 母親と食べる食事は、いつも味を感じない。
 昔は――父と妹が一緒に食べていた頃は、美味しかった記憶がある。

「ねえアヤちゃん。学校の制服、スカートに替えてもらえるように……ママが学校に電話しようか?」

 昨日壁に押し当てられた後頭部とは違う箇所、頭の横が痛んだ。まるで硬い何かで殴られたような、そんな音が脳に響いた。

 箸を置き、顔を上げる。
 そこにあるのは、綺麗に化粧を施した母親の笑顔。

「アヤちゃんも……ずっとズボンじゃ嫌よねぇ。可哀想に……。でもアヤちゃんは良い子だから、先生達に言えないのよね?」

 そう言って母親は水を飲む。
 水が喉を通る音ですら今は大きく聞こえた。

「……ママ。前も言ったと思うんだけど、その……。スカートだと、痴漢に遭うのが……怖いから」

 男物の制服が着たいから着るんだよ。
 当たり前のことを素直にそう言えれば良かったのに、何が怖いと言うのだろうか。

 言葉が震えないように歯を食いしばるだけで精一杯だった。母親の顔が見れない。

「……あー。確かに! そうよね! うん、アヤちゃんの言う通り! アヤちゃんが怖い目に遭うの、可哀想だもん……。ズボンにしましょ!」

 声は明るかった。
 小さく息を吐く。それと一緒に肩の力が落ちたのが自分でも分かった。

◇◇◇

 玄関を開けると、キョウヤが家の前に立っていた。

「おはよう。ごめん、待たせちゃった」
「全然待ってないよ。おはよう、アヤト」

 キョウヤは毎朝迎えに来てくれる。
 学校まで手を繋いで歩く。キョウヤに触れていると、怪奇現象に巻き込まれないのだ。

 ただそれでも、たまに違和感がある時はあるのだが。

 繋いでいた手は、人通りが多くなると自然に離れた。その代わり二人の肩が触れ合うほどの距離で歩き続けた。

「……あれ。なんか、いつもよりうるさいね」

 校舎に入り教室に向かっていると、キョウヤがそう呟いた。
 いつも通りの賑やかさで、それに違和感を覚えなかったアヤトは首を傾げる。

「え、いつも通りじゃない?」
「……そうかも。ごめん、気のせい」

 見上げたキョウヤの顔は笑ってはいなかった。教室に向かっていたキョウヤの足が別の方向を向く。

「アヤト、おいで。厄除けしとこうか」

 ついて行った先は保健室だった。キョウヤが扉をノックするが返事はない。
 中に入るが、保健室の先生は不在だった。他の生徒が居る気配もない。

 キョウヤに手を引かれ、アヤトはベッドに腰掛けた。カーテンを閉められる。

 何をされるかはもう分かっていた。
 手が落ち着かず、両手を太ももの上で組む。

「そろそろ慣れてよ」

 キョウヤの片膝が乗せられると、ベッドが軋んだ。その音がやけに生々しくて、視線が泳ぐ。

 両頬を包まれた。湿気た室内に似合わないその冷たい手に、思わず声が漏れた。

 少し顔を上に向けさせられる。キョウヤの切れ長の目と、自分の目が合う。その目は逸らされることはなかった。

「今日はちょっと、多めの方が良いかも」

 いつもより少し低い声が聞こえ、顔が近付いてくる。
 反射的に目を閉じた。

 静かな保健室に響く水音と、それを飲み込む自分の喉の音。そして勝手に漏れる自分の息から逃れたかった。
 耳を塞いでみるが、状況が悪化した。すぐに耳から手を離す。行き場をなくした手が空中で固まった。

 唇が離れると、キョウヤの肩が震え出す。

「ほんと、可愛いね」
「……慣れてないんだから、仕方がないでしょ!」

 教室に入ると、やけにクラスの空気が沈んでいた。友人に理由を聞くと、バスケットボールが壊れたせいで午後の体育の授業がなくなり数学に変更になったらしい。
 体育が苦手なアヤトはそれがちょっと嬉しかった。

 お昼休みになるまでの授業中は静かなものだった。
 沈んだクラスの空気もそうだが、それ以外の歪な気配も感じることはなかった。

「アヤト。お昼食べよう」

 お昼休みもいつもキョウヤと二人で食べている。
 
 二人だけで食べたいのだ。

 屋上へ向かうための階段で他に生徒は居ない。
 アヤトは母親が作った弁当を、キョウヤは購買で買ったパンを食べる。

 毎日同じ場所で、同じ弁当を食べる。
 
 アヤトのお弁当箱は、女子に人気のキャラクターが描かれているお弁当箱。それを包んでいるバンダナも可愛いピンク色。

 弁当箱を開けると、ご飯の上にピンク色の桜でんぶが載せられている。弁当箱と同じキャラクターのかまぼこと、ピック。

 アヤトの弁当は、毎日同じおかずにご飯。他のクラスメイトに見られたくないから、キョウヤと食べる。

「嫌なことは嫌って言った方が良いと思うけどな」

 キョウヤが口に自分のやきそばパンを押し付けてきた。ありがたく一口かじらせてもらうと、やきそばの香ばしい香りが口いっぱいに広がった。
 
「……嫌、ではないから」

 以前は昼食を食べている時でも、怪異は容赦なく襲ってきた。階段から落とされそうになったり、息が出来なくなったり、様々な現象が起きた。

 だけどキョウヤと一緒に昼食を食べるようになってからは、そんなことはなくなっていた。
 最初は断ったのに、気付けばキョウヤはいつの間にか隣に座っていた。それから、一人で食べることを諦めた。
 
 そして今ではキョウヤの前で弁当を堂々と広げることになんの躊躇もなくなっていた。

「そのお弁当箱、お母さんが選んだやつ?」
「そうだよ。……妹が好きだったキャラ」
「なるほどね」

 ここ数日、キョウヤが一瞬だけ背後に目を向ける時が増えた。だがその理由は「気のせいでしょ」と言われ、教えてもらえない。

「お弁当、購買で買うか、自分で作るって言ってみたことあるんだ。でも駄目だったから……」

 その時に叩かれたのは左頬だった。アヤトは、なんとなくその箇所に触れる。

「それはもう、虐待だと思うけどね。相談してみたら? 俺も一緒に居るよ」
 
 真っ当な提案だ、とアヤトは思った。
 もちろん今まで一度も考えなかったわけではない。

「でも、お母さんのこと……一人に出来ないから」
「…………ふーん」

 キョウヤはパンを一口だけかじり、目を細めた。

 キョウヤの指が顎先に触れた。顔を持ち上げられ、目が合う。

「気分が落ち込んでる時って、悪いモノにつけ込まれやすいから。気を付けてね」

 笑うでもなく、怒るわけでもなく。さらりと流すようなその口調がほんの少し怖かった。

 ◇◇◇

 放課後。
 母親からメッセージが届いた。

『残業で帰りが少し遅くなっちゃうから、ご飯作っててくれる?』

「って、来てたから……今日はスーパーに寄って帰るから、一人で帰るよ」
「駄目でしょ。買い物くらいついて行くよ」

 という流れから、今アヤトとキョウヤはスーパーで買い物中だ。夕方と言うこともあり、店内は混雑している。

「キョウヤって自炊するの?」
「するよ。だからついでに、俺も買い物しちゃおうと思って」

 キョウヤは迷うことなく野菜をかごに放り込んでいく。

「何作るの?」
「今日は冷やし中華の気分かな」
「じゃ、うちもそうしよ。メニュー決めてなかったんだ」

 キョウヤが手に取ったものと同じ野菜や肉をかごに入れる。キョウヤと買い物をするのはなんだか不思議な気持ちになり、くすぐったい。

 二人揃って会計を終え、スーパーを出る。すると入り口の横に小さな女の子がしゃがみ込んでいた。

「女の子? 迷子かな」

 アヤトが女の子の側に寄ろうとした。
 だが、目の前に伸びた手がそれを妨害した。

「違うよ」

 耳元でキョウヤが囁いた。
 間を置いて、その手が避けられる。

 そこに居たはずの女の子は姿を消していた。

「アヤト、お守りは?」

 肩を抱かれ、引き寄せられる。

「……鞄に付いてるよ……」
「失くしちゃ駄目だよ」

 軽く頭を撫でられ、キョウヤの手が離れた。
 頭から離れた手はそのままアヤトの手を繋ぐと、早足で歩き出した。

「キョウヤ」
「なに?」
「俺、今の子……女の子って、勝手に思い込んだ」

 しゃがみ込んでいたその小さな姿を思い出す。
 首筋のあたりに、へばりつくような汗がにじみだした。

「そう思ってた方が楽かも」

 思い出そうとした。
 だが、思い出せなかった。服装も髪型も、その何もかもを。

「幽霊は基本的に俺に寄って来ないはずなんだ。俺は嫌われる体質だから」

 辺りに響くのはそのキョウヤの声と、アマガエルの鳴き声。微かな風も吹かず、息をするのも苦しい蒸し暑さ。

「でも最近、幽霊達は俺を無視してアヤトに近付こうとしてる」

 今日はやけに、アマガエルの鳴き声がうるさく感じた。

「嫌なことは、早めに片付けた方が良いよ。アヤトが幽霊に好かれる原因は多分そこにあるから」

 気付いたら家の前に居た。
 キョウヤの手が頬に触れ、我に返る。

 キョウヤの顔が近付いた。その薄い唇が、アヤトの唇に触れる。

「……何かあったら、連絡して」

 そう呟いて離れたキョウヤの顔は無表情だった。
 笑顔が見たかったのに、どうして笑ってくれないんだろう。