その名前で呼ばないで

 翌朝。

 目を開く。
 最初に目に入ったのは想い人の寝顔。思わず声を上げそうになったが堪えた。
 しばらくキョウヤの寝顔を見つめる。いつもは大人びて見えるが、今はどことなく幼く見える。

「キョウヤ」

 小さく呼んでみたが、寝息で返事をされた。
 キョウヤの唇に視線が向いた。

 ――駄目だ。

 頭はちゃんとお利口さんだった。だけど、体がそうではなかった。
 ゆっくりと、キョウヤの顔に近付く。
 
 あと――少し。
 だったのだが、キョウヤの目が開いた。

「……見かけによらず、寝込みを襲うタイプなんだね」

 そう言いながら、手首を掴まれた。
 少し強い力で握られた後、すぐにその手は離される。
 
「……起こそうと思ったの!」

 ニヤニヤと笑うキョウヤの顔に、枕を押し付けた。

「すぐに家に帰らなくても大丈夫でしょ? 夕方くらいまでどこか遊びに行く?」
「あ。俺、行ってみたいところがあるんだけど……」

◇◇◇

 二人が訪れたのは、パンケーキ屋だった。
 店内の内装もピンクで統一されており可愛らしい。写真が映えると女性やカップルに大人気の店だ。

「ほんと、こんな田舎に似合わないお店だよね」
「ね。でもパンケーキがすごく美味しいってクラスの皆が言ってて……」

 店のガラスに映った自分の姿が、一瞬だけずれて見えた気がした。

「アヤト?」
「あ……ううん、なんでもない」

 目を擦りもう一度ガラスに目を向けるが気のせいだったようだ。昨日、上手く眠れなかったからだろうと思いガラスから目を逸らした。

「思ってたより種類あるね」

 席に通され、キョウヤがメニューに目を通している。
 
 一人では恥ずかしくて来れなかったアヤトの念願の店。
 浮かれていることがバレないように、冷静を装いメニューに目を通す。

 キャラメル、チョコバナナ、林檎、ブリュレ。
 目移りをしてしまう。

 でも何より、一番目を引かれたのは――。

「ねえアヤト、カップルでしか注文出来ないパンケーキがあるね。……バレないんじゃない?」

 ほくそ笑んだその顔を見て、思わずため息が出た。

「絶対バレるって」
「やってみなきゃ分かんないって。それにこれ、モンブランパンケーキなんて、アヤト好きそうじゃん」
「うっ……」

 まさにその通りだった。
 一番目を奪われていたのは、そのモンブランのパンケーキ。

 キョウヤが呼び出しボタンを押した。

「あっ」
「まあまあ」

 黙ってろと言わんばかりに、キョウヤは唇に人差し指を当てた。
 混雑している店内にも関わらず、店員がすぐに注文を取りに来た。にこやかで明るい、素晴らしい接客だ。なのに、目を逸らしている自分の態度を申し訳なく感じた。
 
「モンブランパンケーキと、ホットコーヒーとホットティーを一つずつお願いします」

 いつもの淡々とした口調でキョウヤが注文をする。
 
 怒られたらどうしよう、と心臓がうるさかった。
 しかしそんな心配をよそに注文はあっさりと通ってしまった。

「ほらね」

 キョウヤが舌を出した。

 数十分後、二人分の量が盛り付けられたパンケーキと、ホットコーヒーとホットティーが運ばれてきた。
 
 自分の目の前にホットティーが置かれると、キョウヤがミルクをその隣に置いてくれた。

「俺、紅茶が好きって言ったことあったっけ?」
「無いかも。でもいつも紅茶飲んでるじゃん」

 そんな些細なことを覚えてくれているのが嬉しかった。胸がくすぐったくなるような感覚がする。
 なんとなくソワソワもしたが、その感覚も嫌いではなかった。

 パンケーキも美味しく完食し、二人はゲームセンターへ向かった。
 キョウヤが銃撃ゲームをあまりにも下手くそにプレイして、二人で笑った。

「アヤト、プリ撮ろうよ」
「……えっ」

 キョウヤに手を引かれ、空いていた撮影ブースの中に入る。画面を操作するキョウヤの手付きは慣れていた。

「撮ったことあるの?」
「何回かね」
 
 誰と、とはなんとなく聞けなかった。

「ほら、寄って」

 キョウヤに肩を引き寄せられた。肩同士が触れる。
 画面に写る自分の顔は、緊張しているように見えた。

 カウントダウンが始まる。

 ――本当は、写真が嫌いだ。
 自分の写真の後ろには、ほとんど毎回写ってはいけない何かが写る。

 最初のうちは、皆がいじってくれる。
 だがそれも何回も続くと、皆が距離を取り出す。

 高校に入学してからは極力写真に写らないように逃げていた。

 なんて言うのは、建前かもしれない。
 
 本当は何より、自分の顔が嫌いなだけなんだ。

「うわ、すごい顔変わったね」
 
 コトンと落ちてきたシールを手に取り、キョウヤが笑った。

 ――何か写っていたらどうしよう。
 恐る恐るそれに目を向ける。
 
 そこに写っていたのは、補正が掛かり、目が大きくうっすらとメイクが施されたような二人の姿。

 それだけだった。

「……んふっ」

 頬がピンク色に染められたキョウヤの顔があまりにも不自然で、アヤトは思わず声に出して笑った。その鼻をキョウヤがつまむ。

「こら」
「ふふっ……ごめん……」
「アヤトは……そのままの方が可愛いね。はい、アヤトの分。データもあとで送るね」

 受け取ったそれを、アヤトは折れないようにと慎重に鞄にしまった。

「そろそろ帰ろうか。送って行くよ」
 
 日もそろそろ暮れる時間帯。キョウヤのそれは、ごく普通の当たり前の言葉だ。
 
 それなのにその言葉を聞いた瞬間、頭の片側が痛み始めた。

◇◇◇

 キョウヤに見送られ、家に入った。

「あら! お帰り、アヤちゃん! お泊まり楽しかった?」

 たまたま部屋から出てきた母親と、玄関で出くわした。
 視界が揺れる。

「昨日電話してきてくれた子、礼儀正しい子だったわね!」

 機嫌が良い時の高い声。
 母親は顔の横で両手を合わせ、その場で一回転をしてみせた。スカートがふわりと揺れる。

「んもー、アヤちゃんも隅に置けないんだから。彼氏が出来たんだったら、ママにも教えてよ〜!」

 玄関のドアは、いつの間にか鍵が掛かっていた。

 靴を脱ぎ、家の中に上がる。なのに、部屋に向かおうとした足が上手く動かない。

「アヤちゃんは可愛いもんねぇ! 彼氏の一人や二人くらいいるかも、って思ってたけど……やっぱり"娘"を取られるのは、複雑な気持ちになっちゃうわぁ」

 母親に頭を撫でられた。まるで小鳥の頭を撫でるように、そっと、優しい手。

「ねえねえ、彼氏のお写真とか無いの?」
「……あの。お母さん、ごめん。荷物……部屋に置いてくるから……」

 一瞬の間も、そこには無かった。
 強いて言うなら、まるで何かが破裂した時のような、そんな大きい音が玄関に響いた。

 音に遅れて頬が痛み出す。
 アヤトは右頬を押さえた。

「……ママ、でしょ? 娘は、ママのことはママって呼んだ方が可愛いの。何回も言ったわよね?」

 妹は亡くなるその寸前まで、母のことをママと呼んでいた。

「あ……ごめん、なさい。俺……」

 視界が揺れた。
 
「……その言い方、誰に教わったの?」
 
 今度は、鈍い音が聞こえた。すぐに後頭部に痛みが走る。

 視界の隅に白い壁があった。壁に押し付けられたのだと、理解するのに時間はそう掛からなかった。

「娘は! 俺なんて! 言わないの! 私! 私、私、私、私、私! 私って言うの! そんな当たり前のことがなんで分からないの!?」

 大きく開いた血走った目。鼓膜を刺すような金切り声。
 揺れる自分の体に、熱くなる右頬。そしてズキズキと痛む後頭部。

 母親は壊れたかのように「私」という言葉を繰り返した。

「……ごめんなさい。ママ。私、間違えちゃった。"彼氏"が自分のこと俺って言うから、釣られちゃったの」

 母親の声が止まった。
 
 しばらく間を置き、その顔に笑顔が貼り付けられた。

「なぁんだ。そうだったの。アヤちゃんったらドジなんだから。気を付けてね。ごめんね、せっかくの可愛い顔叩いちゃって……傷にならなければ良いんだけど……」

 母親はそっとアヤトを抱きしめ、右頬だけを撫でた。
 
 まるでそこに、愛情があるかのようなその行動。
 アヤトはそれを受け入れるように目を閉じた。

「アヤちゃん、仲直りしましょ。コーヒー淹れるから、一緒に飲みましょうね! 荷物、ママが部屋に持って行ってあげる。先に手を洗っておいで」
「うん、ありがとう! ……ママ」

 これが正解の人生。
 攣りそうになる口角を下げることなく、アヤトは母親の顔を見た。

 その笑顔を見た瞬間、さっきまで感じていた恐怖が嘘みたいに消えていった。

 ――いや、消されたのかもしれない。

 床に落ちた鞄に目を向ける。
 鞄の中でプリクラが折れてないかだけが、少し心配だった。