母親と話したい。
そう父に伝えると、父は眉尻を下げた。その表情は驚きだったのか、悲しみだったのか、それとも別の意味が含まれていたのか。アヤトには分からない。
父に家の近くまで車で送ってもらい、その車中で父とキョウヤと約束を交わした。
「アヤト。ここで待ってるから。一時間後に一度顔を出してくれ。もしアヤトが来なかったら、お父さんが家に様子を見に行く」
「なら俺は……ちょっと家に帰る。また戻ってくるから」
父が設けた制限時間の一時間は、長くも感じたし、短くも感じた。
キョウヤは荷物を置きに家に帰るようだったが、玄関先まで着いてきてくれた。父親に気を遣ってなのか、手は繋いでくれなかったのが少し寂しかった。
「アヤト。本当に大丈夫? ……まだ戻れるよ」
「大丈夫だよ。ここで逃げちゃったら……きっとアヤカが悲しむ。アヤカにはもう……自由に、遊んでてほしいから」
もうきっとアヤカは居ない。そう分かっていても、胸元に手を当ててしまう。なんとなく、まだほんのりとそこに居てくれている気がした。
「……分かった。俺もすぐ戻るし、何かあったらすぐに家から出るんだよ。アヤトのお父さんがすぐそこで見守っててくれてるから」
「うん。ありがとう」
手を振ってキョウヤを見送り、改めて玄関の前に立ち深呼吸をする。息が深く吸えない深呼吸には何の意味も無かった。
そもそも母親は家に居るのだろうか。
父の元へと導いてくれた小さい手は、今はもう何も言ってくれることは無い。
玄関の鍵を開け、中に入る。誰の声も出迎えてくれることは無かったが、母親の靴が置いてあった。それを見て心臓が大きく脈打つ。
一歩踏み出すたびに床が鳴った。自分の存在を知らせるようにわざと音を立てながらリビングへ入る。
まず目に入ったのは、多くのゴミ。お弁当の容器やお酒の空き缶、ペットボトル、ティッシュなどのゴミが散乱していた。臭いも充満している。
母親はそのリビングの椅子に座り、テーブルに突っ伏していた。服装はスーツだ。仕事には行っていた様子がそこで伺えた。
その光景を目の当たりにし、何を話しに来たのか一瞬忘れかけてしまった。だが、
『おにいちゃん、がんばって』
アヤカの声を思い出す。
自分に掛かった呪いは、アヤカが持って行ってくれたんだ。
「……お母さん。ただいま。しばらく帰らなくてごめん」
母親は何も喋らない。
アヤトは両手の拳を握った。まだ右手にはキョウヤの手の感触、そして左手には――アヤカの手の感触が残っている。
声も震えない。大丈夫。
「お母さん。俺……悩んだんだ。このままお母さんと暮らすべきじゃないって。お父さん達の所に行こうかなって。お父さんも、そうすることを望んでくれて……」
顔を掠めたのが、何か分からなかった。
背後から何かが割れる音がした。振り返ると、アヤトがいつも使っていたコップだった物の破片が散らばっていた。
「……お母さん」
「…………アヤちゃん。その呼び方やめて。俺って言わないで。アヤちゃんはそんな子じゃなかった。なんであんなヤツの所に会いに行ったの? やっぱりあの時、封筒の中を見たんだろ」
母親の機嫌が悪い。なんて、そういう次元ではないとすぐに分かる。ゆらりと立ち上がり、アヤトに向かって足を一歩ずつ進めた。
「見たよ。今まで何通も出したってお父さんは言ってた。全部お母さんが捨ててたんだね」
「……離婚して、金だけ出せば良いと思って、自分は他の女と幸せになって……」
「優しそうな人だった。俺のことも、受け入れてくれるって言ってくれた」
母親はアヤトの目の前に立つと、アヤトの首に手を掛けた。
「……逃がさない。アヤちゃんは……アヤちゃんだけは、私の物なんだから……」
「お母さんは、小さい頃から俺の事をアヤちゃんって呼んだことなんか一度も無かったでしょ。それは……アヤカに対する呼び方だ」
ゆっくり、少しずつ、母親の手に力が入る。
まだ苦しくない。まだ、話せる。
「お母さんは俺のことをアッくんって呼んでた。ずっと覚えてる。俺は……お母さんにそう呼ばれるのが大好きだったから」
母親の腕を握った。自分の首から手を離すように軽く催促するが、離れてくれない。
「夢の中でアヤカに会えたんだ。アヤカは……俺と……お母さんによく似てたんだね。やっと思い出せた。髪の色は俺とは違ったけど」
母親の顔に目を向けた。いつも綺麗に束ねられていた髪は今は解かれていて、母親の顔を隠している。
あぁ。あの生き霊とやらは、この母親の姿だったのか。と、やっと自分の中で合致した。
母親は何も喋らないまま、アヤトの首に手を掛け続ける。
「アヤカに頼まれたんだ。……お母さんを、一人にしないでねって。お母さんとお話ししてね、って。だから……話をしに帰って来たよ」
母親の手の力が緩まった気がした。しかし、顔は上げないままだ。
「いつもお仕事を頑張ってくれて、ご飯を作ってくれて、おはようからおやすみまで言ってくれて……俺は……お母さんのこと、大好きだよ」
だけど、それはきっと――。
「でも……お母さんは、俺のことを好きじゃないんだよね。お母さんはアヤカのことが大好きだったから、俺じゃなくてアヤカに元気で生きててほしかったんだよね」
母親の顔が勢いよく上がった。
額と眉間に皺を寄せ、乾燥した唇が震えている。何かを言いたいのだろうか。しかし、特に何も言われることは無い。
「でもね、俺はアヤカにはなれない。……俺は男だから。男物の服を着たいし、男物の制服を着たい。お母さんがアヤカに着せたかった服を、俺は着ることは出来ない」
「……さい……」
母親の唇が開いた。何を言ってるかすぐに聞き取れなかったが、良い言葉では無いことは分かる。
「もう俺にアヤカを重ねるのは……やめてほしい。俺は俺で、アヤカはアヤカなんだよ」
「…………うるさい……っ!」
頬を叩こうとした母親の手が見えたが、避けなかった。激しい音に遅れて頬が痛み出す。頬を叩かれるのは、もう何度目か覚えていない。
「アヤちゃんはアヤちゃんなの! 自慢の娘なの! アヤちゃんは死んでない! ここに居る! うるさい! うるさいうるさいうるさいうるさいうるさい!」
母親はアヤトの胸元に両手を何回も何回も打ち付けた。目を真っ赤にさせながら。
もう、自分はアヤカで良いのではないか。それで母親が幸せで居てくれるならば。そう思ったことも何回もあった。
でも、もう今はそう思えなくなった。
"アヤト"を心配してくれる父親が居るから。"お兄ちゃん"を大好きと言ってくれたアヤカが居るから。
"アヤト"を好きだと言ってくれた、キョウヤが居るから。
自分の胸元を叩き付ける母親の両腕を掴み、アヤトは母親の顔を見つめた。
「力も……周りの男の子と比べたら弱いかもしれないけど、お母さんに負けるほどでは無いと思ってる。男として、俺は成長してるつもりだよ」
掴まれた腕を振り回そうとする母親の力とも相当強い。それでも、離すわけにはいかない。
「アヤちゃん! 良い子にして! ……言うことを聞け!」
「……俺はアヤトだよ! お母さんの息子だ!」
自分だって、戻れるならいくらでも幼い頃に戻りたい。いつも笑っていた母親と父に会いたい。小さい足で駆け寄ってくるアヤカに会いたい。
アヤカが交通事故に遭った日に戻れるなら、アヤカのことを家から出さなかったのに。
でも、もう――戻れないから。
「お母さんの子供はアヤカだけだったの!? じゃあ俺は何なの!?」
大声を出すということは、こんなにも呼吸が荒くなっただろうか。喉はあっという間に痛み、肺も酸素を取り込もうと必死に動いている気がする。
「……お母さんの中では……アヤトはもう、死んじゃったの? それとも、最初から居なかったの……? 生まれてなかったの……?」
アヤトが手を離すと、母親の腕は力無くだらりと下がった。母親と目は合わない。だけど、その瞳はゆらゆらと揺れていた。
「アヤカのことを忘れろなんて言えない。俺だって、ずっと忘れられない。大好きだったから。でも、俺のことは……アヤトして見てほしい。そうじゃないと……」
そうじゃないと、きっと。
「アヤカとして生きたアヤカが……報われない」
母親は崩れ落ちるように床に膝を付いた。手で顔を覆い、小さく唸り続ける。
次第にスカートに小さなシミが何個も出来始めた。それは何を思って作ったシミなのか、アヤトには想像は出来なかった。
「一時間だ。お父さんが外で待ってるんだ。"アヤト"としての俺と話してくれる気になったら……連絡ちょうだい。それまでは……帰らないから」
冷たかっただろうか。息子が母親に取る態度では無かっただろうか。これはきっと、人生で最初で最後の反抗期になるのかもしれない。だけど――。
「……ずっと、待ってるから。お母さん」
玄関を出ると、やっと深呼吸が出来た。
そう父に伝えると、父は眉尻を下げた。その表情は驚きだったのか、悲しみだったのか、それとも別の意味が含まれていたのか。アヤトには分からない。
父に家の近くまで車で送ってもらい、その車中で父とキョウヤと約束を交わした。
「アヤト。ここで待ってるから。一時間後に一度顔を出してくれ。もしアヤトが来なかったら、お父さんが家に様子を見に行く」
「なら俺は……ちょっと家に帰る。また戻ってくるから」
父が設けた制限時間の一時間は、長くも感じたし、短くも感じた。
キョウヤは荷物を置きに家に帰るようだったが、玄関先まで着いてきてくれた。父親に気を遣ってなのか、手は繋いでくれなかったのが少し寂しかった。
「アヤト。本当に大丈夫? ……まだ戻れるよ」
「大丈夫だよ。ここで逃げちゃったら……きっとアヤカが悲しむ。アヤカにはもう……自由に、遊んでてほしいから」
もうきっとアヤカは居ない。そう分かっていても、胸元に手を当ててしまう。なんとなく、まだほんのりとそこに居てくれている気がした。
「……分かった。俺もすぐ戻るし、何かあったらすぐに家から出るんだよ。アヤトのお父さんがすぐそこで見守っててくれてるから」
「うん。ありがとう」
手を振ってキョウヤを見送り、改めて玄関の前に立ち深呼吸をする。息が深く吸えない深呼吸には何の意味も無かった。
そもそも母親は家に居るのだろうか。
父の元へと導いてくれた小さい手は、今はもう何も言ってくれることは無い。
玄関の鍵を開け、中に入る。誰の声も出迎えてくれることは無かったが、母親の靴が置いてあった。それを見て心臓が大きく脈打つ。
一歩踏み出すたびに床が鳴った。自分の存在を知らせるようにわざと音を立てながらリビングへ入る。
まず目に入ったのは、多くのゴミ。お弁当の容器やお酒の空き缶、ペットボトル、ティッシュなどのゴミが散乱していた。臭いも充満している。
母親はそのリビングの椅子に座り、テーブルに突っ伏していた。服装はスーツだ。仕事には行っていた様子がそこで伺えた。
その光景を目の当たりにし、何を話しに来たのか一瞬忘れかけてしまった。だが、
『おにいちゃん、がんばって』
アヤカの声を思い出す。
自分に掛かった呪いは、アヤカが持って行ってくれたんだ。
「……お母さん。ただいま。しばらく帰らなくてごめん」
母親は何も喋らない。
アヤトは両手の拳を握った。まだ右手にはキョウヤの手の感触、そして左手には――アヤカの手の感触が残っている。
声も震えない。大丈夫。
「お母さん。俺……悩んだんだ。このままお母さんと暮らすべきじゃないって。お父さん達の所に行こうかなって。お父さんも、そうすることを望んでくれて……」
顔を掠めたのが、何か分からなかった。
背後から何かが割れる音がした。振り返ると、アヤトがいつも使っていたコップだった物の破片が散らばっていた。
「……お母さん」
「…………アヤちゃん。その呼び方やめて。俺って言わないで。アヤちゃんはそんな子じゃなかった。なんであんなヤツの所に会いに行ったの? やっぱりあの時、封筒の中を見たんだろ」
母親の機嫌が悪い。なんて、そういう次元ではないとすぐに分かる。ゆらりと立ち上がり、アヤトに向かって足を一歩ずつ進めた。
「見たよ。今まで何通も出したってお父さんは言ってた。全部お母さんが捨ててたんだね」
「……離婚して、金だけ出せば良いと思って、自分は他の女と幸せになって……」
「優しそうな人だった。俺のことも、受け入れてくれるって言ってくれた」
母親はアヤトの目の前に立つと、アヤトの首に手を掛けた。
「……逃がさない。アヤちゃんは……アヤちゃんだけは、私の物なんだから……」
「お母さんは、小さい頃から俺の事をアヤちゃんって呼んだことなんか一度も無かったでしょ。それは……アヤカに対する呼び方だ」
ゆっくり、少しずつ、母親の手に力が入る。
まだ苦しくない。まだ、話せる。
「お母さんは俺のことをアッくんって呼んでた。ずっと覚えてる。俺は……お母さんにそう呼ばれるのが大好きだったから」
母親の腕を握った。自分の首から手を離すように軽く催促するが、離れてくれない。
「夢の中でアヤカに会えたんだ。アヤカは……俺と……お母さんによく似てたんだね。やっと思い出せた。髪の色は俺とは違ったけど」
母親の顔に目を向けた。いつも綺麗に束ねられていた髪は今は解かれていて、母親の顔を隠している。
あぁ。あの生き霊とやらは、この母親の姿だったのか。と、やっと自分の中で合致した。
母親は何も喋らないまま、アヤトの首に手を掛け続ける。
「アヤカに頼まれたんだ。……お母さんを、一人にしないでねって。お母さんとお話ししてね、って。だから……話をしに帰って来たよ」
母親の手の力が緩まった気がした。しかし、顔は上げないままだ。
「いつもお仕事を頑張ってくれて、ご飯を作ってくれて、おはようからおやすみまで言ってくれて……俺は……お母さんのこと、大好きだよ」
だけど、それはきっと――。
「でも……お母さんは、俺のことを好きじゃないんだよね。お母さんはアヤカのことが大好きだったから、俺じゃなくてアヤカに元気で生きててほしかったんだよね」
母親の顔が勢いよく上がった。
額と眉間に皺を寄せ、乾燥した唇が震えている。何かを言いたいのだろうか。しかし、特に何も言われることは無い。
「でもね、俺はアヤカにはなれない。……俺は男だから。男物の服を着たいし、男物の制服を着たい。お母さんがアヤカに着せたかった服を、俺は着ることは出来ない」
「……さい……」
母親の唇が開いた。何を言ってるかすぐに聞き取れなかったが、良い言葉では無いことは分かる。
「もう俺にアヤカを重ねるのは……やめてほしい。俺は俺で、アヤカはアヤカなんだよ」
「…………うるさい……っ!」
頬を叩こうとした母親の手が見えたが、避けなかった。激しい音に遅れて頬が痛み出す。頬を叩かれるのは、もう何度目か覚えていない。
「アヤちゃんはアヤちゃんなの! 自慢の娘なの! アヤちゃんは死んでない! ここに居る! うるさい! うるさいうるさいうるさいうるさいうるさい!」
母親はアヤトの胸元に両手を何回も何回も打ち付けた。目を真っ赤にさせながら。
もう、自分はアヤカで良いのではないか。それで母親が幸せで居てくれるならば。そう思ったことも何回もあった。
でも、もう今はそう思えなくなった。
"アヤト"を心配してくれる父親が居るから。"お兄ちゃん"を大好きと言ってくれたアヤカが居るから。
"アヤト"を好きだと言ってくれた、キョウヤが居るから。
自分の胸元を叩き付ける母親の両腕を掴み、アヤトは母親の顔を見つめた。
「力も……周りの男の子と比べたら弱いかもしれないけど、お母さんに負けるほどでは無いと思ってる。男として、俺は成長してるつもりだよ」
掴まれた腕を振り回そうとする母親の力とも相当強い。それでも、離すわけにはいかない。
「アヤちゃん! 良い子にして! ……言うことを聞け!」
「……俺はアヤトだよ! お母さんの息子だ!」
自分だって、戻れるならいくらでも幼い頃に戻りたい。いつも笑っていた母親と父に会いたい。小さい足で駆け寄ってくるアヤカに会いたい。
アヤカが交通事故に遭った日に戻れるなら、アヤカのことを家から出さなかったのに。
でも、もう――戻れないから。
「お母さんの子供はアヤカだけだったの!? じゃあ俺は何なの!?」
大声を出すということは、こんなにも呼吸が荒くなっただろうか。喉はあっという間に痛み、肺も酸素を取り込もうと必死に動いている気がする。
「……お母さんの中では……アヤトはもう、死んじゃったの? それとも、最初から居なかったの……? 生まれてなかったの……?」
アヤトが手を離すと、母親の腕は力無くだらりと下がった。母親と目は合わない。だけど、その瞳はゆらゆらと揺れていた。
「アヤカのことを忘れろなんて言えない。俺だって、ずっと忘れられない。大好きだったから。でも、俺のことは……アヤトして見てほしい。そうじゃないと……」
そうじゃないと、きっと。
「アヤカとして生きたアヤカが……報われない」
母親は崩れ落ちるように床に膝を付いた。手で顔を覆い、小さく唸り続ける。
次第にスカートに小さなシミが何個も出来始めた。それは何を思って作ったシミなのか、アヤトには想像は出来なかった。
「一時間だ。お父さんが外で待ってるんだ。"アヤト"としての俺と話してくれる気になったら……連絡ちょうだい。それまでは……帰らないから」
冷たかっただろうか。息子が母親に取る態度では無かっただろうか。これはきっと、人生で最初で最後の反抗期になるのかもしれない。だけど――。
「……ずっと、待ってるから。お母さん」
玄関を出ると、やっと深呼吸が出来た。
