教室を出れば外に出れるものかと思っていたが、そうではなかった。アヤトとキョウヤは廊下を歩いていた。ずっと月明かりだけが二人を照らし続けている。
教室に居た時はほとんど全く出なかったソレらは、廊下に出ると活発的に行動していた。
窓ガラスから覗く何か。天井から垂れ下がる髪の毛。床から生える手。壁にくっついている複数の目。
窓ガラスを叩く音。聞こえ続ける金切り声。誰かの喋り声。上履きが廊下を滑る音。扉が開く音。扉が閉まる音。
――それらは全て、キョウヤが常に見ている何かと、聞こえている音。この数時間ですらアヤトの気持ちは参り始めていた。それを、キョウヤは毎日、毎分、毎秒、見たり聞いたりし続けている。
それがどれほど大変で、辛いことなのか。
今までも考えて来なかったわけでは決してないが、いざ自分が視える立場になるとそれを改めて実感する。
「……キョウヤは、毎日こんな感じなんだね」
「さっきも言ったでしょ。ずっと聞きたくないものが聞こえてても、その中でアヤトの声が聞こえると嬉しくなるって」
アヤトを掴もうと伸びた手を踏み潰し、キョウヤは微笑んだ。
「俺、ずっと脚が震えてるのにキョウヤは普通にしてる」
「子供の頃は怖かったよ。今はもう慣れちゃったけど」
「……当たり前のような顔して、いつも守ってくれてる」
「当たり前のことだから、当たり前の顔をしてるの。好きな子の前でくらいかっこつけたいしね」
自分の発言が恥ずかしくなったのか、キョウヤは咳払いをした。その顔は少し赤いような気もする。
「キョウヤ、顔赤い? 暗くなかったらもっと顔ちゃんと見れたのに」
「暗くて良かった」
不快な効果音をかき集めて一斉に流しているような音が耳を刺し続ける中、キョウヤの声だけがその耳の痛みを和らげてくれるように心地良い。
そうしてしばらく物音に怯えて歩いているうちに、ようやく辿り着いた。
「……昇降口、やっと着いた……」
アヤトが幽霊に驚かされ続けていたので、辿り着くまでに思ったよりも時間が掛かった。だが、そこは確かに見覚えのあるいつもの場所だ。
「でも階段とか他の教室とかは見かけなかったね」
「……そう、だよね。俺の勘違いじゃなかったんだ」
やはり異質な空間だ。ここは多分、学校だけれど学校じゃない。そんな場所なんだろうと改めて思った。
「靴……あ。普通に入ってる」
キョウヤは自分の靴箱を開け、中から靴を取り出して地面に置いた。他の生徒の靴箱も開けては、中が入っているかどうかを確認しているようだ。
「勝手に開けてごめんねー。……うーん。靴が入ってる人もいる」
「俺は……っと」
アヤトも靴箱の扉を開けようと指を触れた。
しかし、触れたはずの指が反射的に離れた。すぐに指先に視線が落ちる。指先は色が抜けたように真っ白くなり、暗がりでもぼんやりとその白色が浮いた。
遅れて痛みが指先を走り出し、アヤトは思わず左手で右手の手首を強く握る。
「……痛っ……!」
「アヤト?」
駆け寄ってきたキョウヤに手を取られ、アヤトは指を広げて見せた。靴箱に触れた指先は質感を変え、白色から薄らとした紫に色を変え始めてきていた。
「アヤト……! 靴箱に触ったの?」
「そ、そうなんだけど……針で刺されたような感じがあって……」
二人は靴箱に目線を向ける。喉を鳴らす音が聞こえ、同時にキョウヤの手が靴箱に伸びようとした。アヤトは慌ててその手を握って止める。
「キョウヤ! 触っちゃ駄目だよ!」
「でもそれ、もしかしたら凍傷なんじゃないかと思って……」
「凍傷……?」
アヤトは再び指先に目を向けた。真っ白だった色が今は薄い紫色にすっかり変わっていた。でも冷たさは感じなかった。感じたのはただの痛みだけだ。それに、この場は決して寒くなどない。むしろ蒸し暑いくらいだ。
――それなのに何故、悪寒が止まらないのだろう。
その答えはすぐに分かった。
誰も触っていない靴箱がたっぷりと時間を掛けて少しずつ開く。キョウヤはアヤトの腕を握り、距離を置くように後ずさった。
靴箱からどろどろとした黒い液体が滴り、床に黒いシミを作る。しかしそのシミはすぐに床に溶け込み、何も残すことなく消え去った。
二人は靴箱の近くに再び寄った。キョウヤはアヤトの靴箱を開け、中を覗く。
「……靴だけだ……」
アヤトも続いて靴箱の中を覗いた。確かに、中には自分の靴だけが置いてあった。深くため息が溢れる。その間もズキズキと指は痛み続けた。
先に靴を履き終えていたキョウヤが昇降口の扉を開けようとするが、ガタガタと扉を揺らす音だけが響き、扉はまた開かない。キョウヤはその扉を足で蹴飛ばした。
「き……キョウヤ! 足、痛くするよ……!」
「どうにか蹴破れないかなと思って。アヤトの指、早く診てもらわないと……」
その横顔を見ただけでもキョウヤの表情が険しくなっているのが分かった。確かに指先は痛むが、そのせいでキョウヤに怪我なんかしてほしくない。
アヤトはキョウヤの腕を抱き、後方へと引っ張った。
「えっと……なんか消化器とか投げ付けてみるとか! 怒られるだろうけど出られないよりマシだし! 確かこの辺に……」
振り向くと、少し先に黒い液体がポタリと床に垂れたのが見えた。天井からポタポタと液体が一滴ずつ落ちる。その光景を視認してから、水滴のような音が明確に聞こえ始めた。
「キョウヤ……」
「……あの液体、やっぱりあんまり良い感じしないね」
「なみだ、みたいだね」
二人の声ではない誰かの声がそう言った。その声は二人の背後から聞こえたような気がした。キョウヤとアヤトは同時に振り返るが、誰も居ない。
「アヤカ!」
だけどそれは、確かにアヤカの声だった。
「やっぱりアヤカちゃんだけは見えないな」
キョウヤはアヤトを庇うように前に立った。その背中を握りしめ、アヤトは左右や背後を見渡す。やはりアヤカらしき姿はどこにも見当たらない。
「……とりあえず、アレをどうにかしなきゃ」
アヤトには今はキョウヤの背中しか見てない。少し背伸びをし、少し先に垂れていたはずの液体をどうにか覗き見た。
もうそこには液体は残っていなかった。
そこにある――いや、立っていたのは。
「……お母さん」
だと、アヤトがそう思い込んでいるだけかもしれない黒い女の姿。
長い髪が顔を覆い、表情は見えない。しかしそれが着ている服装が今になってハッキリと分かった。淡いクリーム色に控えめな花柄が散りばめられたキャミソール型のワンピース。先日アヤトの母親がアヤトとお揃いで買ったと言っていた、その服だった。
そこでやっと、確信を持った。
「アヤちゃん」
母親の声ではない。
「見つけた」
それでも、そこに立っているのは母親だ。
その母親が呼ぶ「アヤちゃん」は、アヤトの中では二択だった。自分のことか、アヤカのことか。考えなくても分かった。母親が求めるのは、ただ一人だ。
「アヤト!」
気付いたら足を踏み出していた。キョウヤに右腕を引かれ、我に返る。しかしその左腕は、別の誰かに引かれていた。キョウヤの手よりずっと小さく、柔らかい感触。
「アヤカが……お母さんのところに行きたいって」
そして母親も、恐らくは。
「……指先、痛いよね。握り返さなくて良いから、側から離れないでね」
「分かった。ありがとう、キョウヤ」
キョウヤとアヤトは手を繋ぎ、横並びになった。そして母親の――キョウヤが生き霊と言ったソレの近くに歩み寄る。キョウヤと繋いでいない左手も勝手に温かくなる。ここにアヤカが居るということを実感するには、それだけでじゅうぶんだった。
「お母さん。そのワンピースは……大きくなったアヤカと、お揃いで着たかったんだよね」
左手を握る何かの力が少し強まった。アヤトもその手を握り返す。
「でも俺はそれを着れない。……アヤカならきっと可愛く着れたね」
左手をそっと離した。
「アヤカ。今まで俺のこと守ってくれてありがとう。俺にはキョウヤが居てくれるから、もう大丈夫」
少しの間、小さい手の感覚は離れなかった。
「側に居なくても、大好きだよ。アヤカ。アヤカはずっと俺の……大切な妹だよ」
瞬きをした。それは一瞬の行為。
目を開けた瞬間、息が止まった。
小さな女の子が自分の左手を握って、こちらを見上げていた。
「……アヤカ……」
自分とは違う、母親譲りの真っ黒な艶のある髪。だけど、自分によく似た顔。アヤカはアヤトによく似ていたんだということを思い出した。
「おにいちゃん、だーいすき!」
アヤカは満面の笑みを浮かべ、アヤトの手を離した。そして母親の足元に抱き付く。
「おかあさん、だいすき!」
また可愛らしく無邪気に笑った。そしてひらりと身を翻すと、アヤカの服装は母親が着ている服と同じワンピースに変わった。
「このおようふく、もらうね! ……ばいばい。おにいちゃん、おかあさん。ずーっと、だいすき!」
母親の足元からも離れ、アヤカは笑顔を浮かべたまま手を大きく振った。そして走り出す。
「……アヤカ……」
瞬きをすると、アヤカの姿はもうどこにも無かった。
母親の生き霊は動かず、何も喋らない。どこを見ているかも定かではない。それでも、アヤトは目を逸らすことなく向かい合って立つ。
「お母さん。俺、今からお母さんに会いに行くよ。会って話がしたいんだ。……だから、ここから俺たちを出して」
気付いたら、先程まで聞こえ続けていた不快な音達は止んでいた。今この場に流れるのは、アヤトの声と沈黙だけ。
「俺達をここに閉じ込めたのは、もしかしたら俺だと思ってた。でも……やっぱりお母さんだったんだよね。アヤカを連れて家から出て行ってごめんね。……俺は、アヤカにはなれないけど……」
アヤトの手を握るキョウヤの手の力が強まった。
「…………それでも、家に帰っても良い? お母さん」
髪の毛から覗いた母親の生き霊は、少し泣いていたような気がした。それは何も喋らないまま、ゆらりと煙のように姿を消していった。
そして、同時にアヤトの意識は途絶えた。
◇◇◇
目を開けると、見覚えがあるような無いような天井が目に入った。
「……起きた?」
声が聞こえた方向に顔を向けると、今度は心配そうに眉を顰めたキョウヤの顔が視界に入る。
「……あれ、俺……」
上半身を起こし、辺りを見渡す。
どうやらアヤトはベッドの上に寝かされていたようだった。
「アヤト、あの後にすぐ倒れたんだよ。ここは保健室で……それで……」
キョウヤはベッドを囲っていたカーテンを開けた。ベッドから降り、カーテンの外を覗く。
夕陽が差し込む窓から見えるのは、たくさんの生徒達の姿だった。サッカーボールを蹴っていたり、走っていたり、談笑していたり――。
それは、いつもの放課後の光景だった。
「アヤトを抱えようと思って頭を下げて、頭を上げたら……いつもの学校の光景に戻ってた。一瞬すぎてさすがにびっくりした。当たり前みたく周りに居た人達が倒れたアヤトを見て悲鳴上げちゃって……困っちゃったよ」
誰かが保健室の前を通り過ぎるたびに、その足音や話し声が聞こえる。その賑やかさが嘘のように感じる。
それでは、先程までのは――。
「夢ではないと思う。指、痛いでしょ。先生が応急処置してくれたけど、その間もアヤト起きなくて……」
視線を落とすと、指先にはガーゼが巻かれていた。ただその指先を見つめていると、頭が揺れた。そのまま視界が暗くなる。
「このまま起きなかったらどうしようかと思った」
キョウヤの声が近くなり、抱きしめられたことを理解した。その声は、アヤトが聞いたキョウヤの声の中で一番頼りなく聞こえた。
「……また心配掛けちゃったね……」
「起きてくれたから良いよ。今更だけど、体調はどう?」
「全然平気。指以外は痛くない」
胸元から顔が離され、呼吸がしやすくなった。しかし顔を覗き込むキョウヤの表情がいまいち晴れてくれない。アヤトはキョウヤの両頬を手で包み込むと、自分の顔に近付けた。唇同士がそっと触れ合う。
「お父さんが待ってるかも。行かなきゃ」
「……そうだね。後で、もっとさせて」
「…………う、うん」
自分からしておいてなんだったが、急に恥ずかしくなり頬を手で押さえ込んだ。隣でキョウヤが笑っていた。
◇◇◇
昇降口から外に出る。いつもと同じ光景なのに、なんだかとても懐かしく感じた。
目の前に停まっている車のうちの一代から父が出て来た。
父はアヤトとキョウヤに向かって手を振る。
「アヤト、キョウヤくん。急だったのにありがとう」
「……お……お父さん……」
「ん? どうした。アヤト」
今から父に言うことは、父の優しさを裏切ることにならないだろうか。父はせっかく、自分を家族として迎え入れてくれようとしてたのに。
いや、もしかしたら本当にそうなるのかもしれない。でも何よりまずは――母親と、話さなくては。
「迎えに来てもらって、本当にごめん。……あの、俺……もう一度だけ……お母さんと、話したいんだ」
もう、アヤカは側に居ない。
それでも、アヤカと交わした約束を果たすために。
教室に居た時はほとんど全く出なかったソレらは、廊下に出ると活発的に行動していた。
窓ガラスから覗く何か。天井から垂れ下がる髪の毛。床から生える手。壁にくっついている複数の目。
窓ガラスを叩く音。聞こえ続ける金切り声。誰かの喋り声。上履きが廊下を滑る音。扉が開く音。扉が閉まる音。
――それらは全て、キョウヤが常に見ている何かと、聞こえている音。この数時間ですらアヤトの気持ちは参り始めていた。それを、キョウヤは毎日、毎分、毎秒、見たり聞いたりし続けている。
それがどれほど大変で、辛いことなのか。
今までも考えて来なかったわけでは決してないが、いざ自分が視える立場になるとそれを改めて実感する。
「……キョウヤは、毎日こんな感じなんだね」
「さっきも言ったでしょ。ずっと聞きたくないものが聞こえてても、その中でアヤトの声が聞こえると嬉しくなるって」
アヤトを掴もうと伸びた手を踏み潰し、キョウヤは微笑んだ。
「俺、ずっと脚が震えてるのにキョウヤは普通にしてる」
「子供の頃は怖かったよ。今はもう慣れちゃったけど」
「……当たり前のような顔して、いつも守ってくれてる」
「当たり前のことだから、当たり前の顔をしてるの。好きな子の前でくらいかっこつけたいしね」
自分の発言が恥ずかしくなったのか、キョウヤは咳払いをした。その顔は少し赤いような気もする。
「キョウヤ、顔赤い? 暗くなかったらもっと顔ちゃんと見れたのに」
「暗くて良かった」
不快な効果音をかき集めて一斉に流しているような音が耳を刺し続ける中、キョウヤの声だけがその耳の痛みを和らげてくれるように心地良い。
そうしてしばらく物音に怯えて歩いているうちに、ようやく辿り着いた。
「……昇降口、やっと着いた……」
アヤトが幽霊に驚かされ続けていたので、辿り着くまでに思ったよりも時間が掛かった。だが、そこは確かに見覚えのあるいつもの場所だ。
「でも階段とか他の教室とかは見かけなかったね」
「……そう、だよね。俺の勘違いじゃなかったんだ」
やはり異質な空間だ。ここは多分、学校だけれど学校じゃない。そんな場所なんだろうと改めて思った。
「靴……あ。普通に入ってる」
キョウヤは自分の靴箱を開け、中から靴を取り出して地面に置いた。他の生徒の靴箱も開けては、中が入っているかどうかを確認しているようだ。
「勝手に開けてごめんねー。……うーん。靴が入ってる人もいる」
「俺は……っと」
アヤトも靴箱の扉を開けようと指を触れた。
しかし、触れたはずの指が反射的に離れた。すぐに指先に視線が落ちる。指先は色が抜けたように真っ白くなり、暗がりでもぼんやりとその白色が浮いた。
遅れて痛みが指先を走り出し、アヤトは思わず左手で右手の手首を強く握る。
「……痛っ……!」
「アヤト?」
駆け寄ってきたキョウヤに手を取られ、アヤトは指を広げて見せた。靴箱に触れた指先は質感を変え、白色から薄らとした紫に色を変え始めてきていた。
「アヤト……! 靴箱に触ったの?」
「そ、そうなんだけど……針で刺されたような感じがあって……」
二人は靴箱に目線を向ける。喉を鳴らす音が聞こえ、同時にキョウヤの手が靴箱に伸びようとした。アヤトは慌ててその手を握って止める。
「キョウヤ! 触っちゃ駄目だよ!」
「でもそれ、もしかしたら凍傷なんじゃないかと思って……」
「凍傷……?」
アヤトは再び指先に目を向けた。真っ白だった色が今は薄い紫色にすっかり変わっていた。でも冷たさは感じなかった。感じたのはただの痛みだけだ。それに、この場は決して寒くなどない。むしろ蒸し暑いくらいだ。
――それなのに何故、悪寒が止まらないのだろう。
その答えはすぐに分かった。
誰も触っていない靴箱がたっぷりと時間を掛けて少しずつ開く。キョウヤはアヤトの腕を握り、距離を置くように後ずさった。
靴箱からどろどろとした黒い液体が滴り、床に黒いシミを作る。しかしそのシミはすぐに床に溶け込み、何も残すことなく消え去った。
二人は靴箱の近くに再び寄った。キョウヤはアヤトの靴箱を開け、中を覗く。
「……靴だけだ……」
アヤトも続いて靴箱の中を覗いた。確かに、中には自分の靴だけが置いてあった。深くため息が溢れる。その間もズキズキと指は痛み続けた。
先に靴を履き終えていたキョウヤが昇降口の扉を開けようとするが、ガタガタと扉を揺らす音だけが響き、扉はまた開かない。キョウヤはその扉を足で蹴飛ばした。
「き……キョウヤ! 足、痛くするよ……!」
「どうにか蹴破れないかなと思って。アヤトの指、早く診てもらわないと……」
その横顔を見ただけでもキョウヤの表情が険しくなっているのが分かった。確かに指先は痛むが、そのせいでキョウヤに怪我なんかしてほしくない。
アヤトはキョウヤの腕を抱き、後方へと引っ張った。
「えっと……なんか消化器とか投げ付けてみるとか! 怒られるだろうけど出られないよりマシだし! 確かこの辺に……」
振り向くと、少し先に黒い液体がポタリと床に垂れたのが見えた。天井からポタポタと液体が一滴ずつ落ちる。その光景を視認してから、水滴のような音が明確に聞こえ始めた。
「キョウヤ……」
「……あの液体、やっぱりあんまり良い感じしないね」
「なみだ、みたいだね」
二人の声ではない誰かの声がそう言った。その声は二人の背後から聞こえたような気がした。キョウヤとアヤトは同時に振り返るが、誰も居ない。
「アヤカ!」
だけどそれは、確かにアヤカの声だった。
「やっぱりアヤカちゃんだけは見えないな」
キョウヤはアヤトを庇うように前に立った。その背中を握りしめ、アヤトは左右や背後を見渡す。やはりアヤカらしき姿はどこにも見当たらない。
「……とりあえず、アレをどうにかしなきゃ」
アヤトには今はキョウヤの背中しか見てない。少し背伸びをし、少し先に垂れていたはずの液体をどうにか覗き見た。
もうそこには液体は残っていなかった。
そこにある――いや、立っていたのは。
「……お母さん」
だと、アヤトがそう思い込んでいるだけかもしれない黒い女の姿。
長い髪が顔を覆い、表情は見えない。しかしそれが着ている服装が今になってハッキリと分かった。淡いクリーム色に控えめな花柄が散りばめられたキャミソール型のワンピース。先日アヤトの母親がアヤトとお揃いで買ったと言っていた、その服だった。
そこでやっと、確信を持った。
「アヤちゃん」
母親の声ではない。
「見つけた」
それでも、そこに立っているのは母親だ。
その母親が呼ぶ「アヤちゃん」は、アヤトの中では二択だった。自分のことか、アヤカのことか。考えなくても分かった。母親が求めるのは、ただ一人だ。
「アヤト!」
気付いたら足を踏み出していた。キョウヤに右腕を引かれ、我に返る。しかしその左腕は、別の誰かに引かれていた。キョウヤの手よりずっと小さく、柔らかい感触。
「アヤカが……お母さんのところに行きたいって」
そして母親も、恐らくは。
「……指先、痛いよね。握り返さなくて良いから、側から離れないでね」
「分かった。ありがとう、キョウヤ」
キョウヤとアヤトは手を繋ぎ、横並びになった。そして母親の――キョウヤが生き霊と言ったソレの近くに歩み寄る。キョウヤと繋いでいない左手も勝手に温かくなる。ここにアヤカが居るということを実感するには、それだけでじゅうぶんだった。
「お母さん。そのワンピースは……大きくなったアヤカと、お揃いで着たかったんだよね」
左手を握る何かの力が少し強まった。アヤトもその手を握り返す。
「でも俺はそれを着れない。……アヤカならきっと可愛く着れたね」
左手をそっと離した。
「アヤカ。今まで俺のこと守ってくれてありがとう。俺にはキョウヤが居てくれるから、もう大丈夫」
少しの間、小さい手の感覚は離れなかった。
「側に居なくても、大好きだよ。アヤカ。アヤカはずっと俺の……大切な妹だよ」
瞬きをした。それは一瞬の行為。
目を開けた瞬間、息が止まった。
小さな女の子が自分の左手を握って、こちらを見上げていた。
「……アヤカ……」
自分とは違う、母親譲りの真っ黒な艶のある髪。だけど、自分によく似た顔。アヤカはアヤトによく似ていたんだということを思い出した。
「おにいちゃん、だーいすき!」
アヤカは満面の笑みを浮かべ、アヤトの手を離した。そして母親の足元に抱き付く。
「おかあさん、だいすき!」
また可愛らしく無邪気に笑った。そしてひらりと身を翻すと、アヤカの服装は母親が着ている服と同じワンピースに変わった。
「このおようふく、もらうね! ……ばいばい。おにいちゃん、おかあさん。ずーっと、だいすき!」
母親の足元からも離れ、アヤカは笑顔を浮かべたまま手を大きく振った。そして走り出す。
「……アヤカ……」
瞬きをすると、アヤカの姿はもうどこにも無かった。
母親の生き霊は動かず、何も喋らない。どこを見ているかも定かではない。それでも、アヤトは目を逸らすことなく向かい合って立つ。
「お母さん。俺、今からお母さんに会いに行くよ。会って話がしたいんだ。……だから、ここから俺たちを出して」
気付いたら、先程まで聞こえ続けていた不快な音達は止んでいた。今この場に流れるのは、アヤトの声と沈黙だけ。
「俺達をここに閉じ込めたのは、もしかしたら俺だと思ってた。でも……やっぱりお母さんだったんだよね。アヤカを連れて家から出て行ってごめんね。……俺は、アヤカにはなれないけど……」
アヤトの手を握るキョウヤの手の力が強まった。
「…………それでも、家に帰っても良い? お母さん」
髪の毛から覗いた母親の生き霊は、少し泣いていたような気がした。それは何も喋らないまま、ゆらりと煙のように姿を消していった。
そして、同時にアヤトの意識は途絶えた。
◇◇◇
目を開けると、見覚えがあるような無いような天井が目に入った。
「……起きた?」
声が聞こえた方向に顔を向けると、今度は心配そうに眉を顰めたキョウヤの顔が視界に入る。
「……あれ、俺……」
上半身を起こし、辺りを見渡す。
どうやらアヤトはベッドの上に寝かされていたようだった。
「アヤト、あの後にすぐ倒れたんだよ。ここは保健室で……それで……」
キョウヤはベッドを囲っていたカーテンを開けた。ベッドから降り、カーテンの外を覗く。
夕陽が差し込む窓から見えるのは、たくさんの生徒達の姿だった。サッカーボールを蹴っていたり、走っていたり、談笑していたり――。
それは、いつもの放課後の光景だった。
「アヤトを抱えようと思って頭を下げて、頭を上げたら……いつもの学校の光景に戻ってた。一瞬すぎてさすがにびっくりした。当たり前みたく周りに居た人達が倒れたアヤトを見て悲鳴上げちゃって……困っちゃったよ」
誰かが保健室の前を通り過ぎるたびに、その足音や話し声が聞こえる。その賑やかさが嘘のように感じる。
それでは、先程までのは――。
「夢ではないと思う。指、痛いでしょ。先生が応急処置してくれたけど、その間もアヤト起きなくて……」
視線を落とすと、指先にはガーゼが巻かれていた。ただその指先を見つめていると、頭が揺れた。そのまま視界が暗くなる。
「このまま起きなかったらどうしようかと思った」
キョウヤの声が近くなり、抱きしめられたことを理解した。その声は、アヤトが聞いたキョウヤの声の中で一番頼りなく聞こえた。
「……また心配掛けちゃったね……」
「起きてくれたから良いよ。今更だけど、体調はどう?」
「全然平気。指以外は痛くない」
胸元から顔が離され、呼吸がしやすくなった。しかし顔を覗き込むキョウヤの表情がいまいち晴れてくれない。アヤトはキョウヤの両頬を手で包み込むと、自分の顔に近付けた。唇同士がそっと触れ合う。
「お父さんが待ってるかも。行かなきゃ」
「……そうだね。後で、もっとさせて」
「…………う、うん」
自分からしておいてなんだったが、急に恥ずかしくなり頬を手で押さえ込んだ。隣でキョウヤが笑っていた。
◇◇◇
昇降口から外に出る。いつもと同じ光景なのに、なんだかとても懐かしく感じた。
目の前に停まっている車のうちの一代から父が出て来た。
父はアヤトとキョウヤに向かって手を振る。
「アヤト、キョウヤくん。急だったのにありがとう」
「……お……お父さん……」
「ん? どうした。アヤト」
今から父に言うことは、父の優しさを裏切ることにならないだろうか。父はせっかく、自分を家族として迎え入れてくれようとしてたのに。
いや、もしかしたら本当にそうなるのかもしれない。でも何よりまずは――母親と、話さなくては。
「迎えに来てもらって、本当にごめん。……あの、俺……もう一度だけ……お母さんと、話したいんだ」
もう、アヤカは側に居ない。
それでも、アヤカと交わした約束を果たすために。
