その名前で呼ばないで

 また、「なんてね」と言われるかと思っていた。だけど、いつまで待ってもキョウヤはそれを言わない。
 
 いつからそう思ってくれていたんだろう。
 ――いつでも良いや。

「……まだ、言うつもり無かったんだけど」

 キョウヤは隣の椅子に座り、項垂れてしまった。今どんな表情をしているかも見えない。

「……しかも、こんな……閉じ込められてる時に……逃げ場も無いのに……」

 両手で顔を覆ってしまい、声もくぐもっていた。
 声を掛けたいのだが、言葉が出てこない。動揺をしているんだと自分でも分かる。

「ごめん。忘れて。とりあえず、ここから出なきゃ」

 椅子から立ち上がったキョウヤの手を握った。
 忘れてなんて、ずいぶん勝手なことを言ってくれる。

「……待って」

 自分だってそうだった。いつからかと言われれば分からない。気付いた時にはそうだった。頭の中はぐしゃぐしゃで、上手く伝えられるか分からない。

 ――それでも。

「アヤト?」
「す、す……すわ、座って……」

 背中に汗が流れ、こめかみにも汗が伝う。手汗なんか特に酷い。唇も震え声も裏返り、何より鼓動がうるさい。心臓が口から飛び出なければ良い。
 キョウヤは黙って椅子に座り、アヤトの顔を見つめた。僅かにその瞳が揺れている。そんなキョウヤの表情をアヤトは初めて見た。

「……アヤト」
「あのっ……キッ……キョウ……」

 "娘"と呼ばれるのが嫌だ。母親に女の子として扱われるのが嫌いだ。自分の見た目も嫌いだ。なのに、好きになった相手は男の子だ。

 少し前に自分の心の中に抱えた矛盾が、その先の言葉を紡ぐことを憚った。

「無理しなくて良いよ。ごめんね。俺が変なこと言ったから」

 言葉を出すことを躊躇ったアヤトを見て、キョウヤは再び立ち上がった。その後、扉を開けようとする音が聞こえた。アヤトはそちらに目を向けることをせず、自分の膝を強く握る。
 
 自分の見た目が女の子らしいのは自分でもよく分かっていた。だからキョウヤが自分のことを好きになってくれたのは、ただ単に初恋の人に似ていたとかそういう理由なのかもしれない。
 対してキョウヤは誰がどう見ても格好良い男の子だ。男の子らしい見た目のキョウヤを好きになった自分の心は――本当に男でいることを望んでいるのだろうか。

 ――いや。

 それは、矛盾では無いのではないだろうか。
 仮にそうだとしても、それは一人で勝手に決めることでは無いのではないだろうか。

 アヤトは立ち上がり、扉を開けようとしているキョウヤの手に自分の手を重ねた。キョウヤは目を見開いてアヤトの顔を見下ろす。その顔を今度はしっかりと見つめ返し、すぐに扉に目を向けた。

「キョウヤッ……。俺、女の子じゃないんだ……」

 扉は開かない。まるで、外から押さえつけられているようだ。

「……知ってるよ。アヤトは、男の子だ」

 キョウヤの手の力は緩んでいた。

「……男だから、女の子を好きになるのが普通だと思ってた。矛盾してると思ってた。お母さんに女の子扱いされるのが嫌なのに……好きになったのは、男の子だなんて」

 言葉を出すたびに不思議と手は温かくなる。まるで、誰かが手を重ねてくれているかのように。
 
「…………えっ……」
「で、でも……しょうがないよね! 好きなものは好きなんだし! 俺は、男だけど……」

 きっと、これを言えば扉は開く。
 根拠のない自信がアヤトの中にはあった。自分の手に触れている小さい手の感触が手伝ってくれると、なんとなくそう思った。

「キョウヤのこと、好きだよ。……大好き」

 あまり手に力は込めなかったのだが、扉はガラリと音を立て素直に開いてくれた。その先にあったのは、また教室だ。だが、足が進むことはなかった。

 背後からキョウヤがアヤトのことを抱きしめていたからだ。

「そんなの言われたら、俺も男だけどアヤトのこと好きだよ」
「……元カノに似てるとか、初恋の人に似てるとか、そういう感じだったりする?」
「…………しない」

 キョウヤが喋るたびに、耳に息が当たって少しくすぐったい。

「……あ、あの、俺の好きって、恋愛的な意味なんだけど……キョウヤが好きって言ってくれたのって、もしかして友情的な意味だったりした……?」
「…………そうだとしたら、今こうして抱きしめてないかな。恋愛的な意味だよ」

 両肩に手を置かれ、アヤトの体はキョウヤと向き合うように回った。キョウヤに体を抱きしめられ、頭をそっと押さえられる。唇が近付くと、アヤトは思わず目を強く閉じた。
 数秒か、数十秒か。どれくらい経ったか定かではない。目を開くと、キョウヤは手で額の汗を拭っていた。顔も心無しか赤い。

「……あっつい……」
「…………本当、暑い……ね……」

 制服のポケットからハンカチを取り出し、キョウヤの額の汗を拭いた。その後に自分の汗も拭う。

「汗拭く用にハンカチ二枚持ってるんだ。これ、まだ使ってなかったから安心してね」
「あっ。こら、俺の汗は汚いから駄目だよ。というか俺もハンカチ持ってるし……」
「汚くないよ。もっと拭いちゃえ」

 キョウヤの汗をさらに拭いていたが、手首を掴まれた。唇を尖らせている。

「悪い子だね」
「キョウヤ、初めて見る顔してる」
「……誰のせいか分かってる?」

 その顔がなんだか可愛くて、思わず笑ってしまった。キョウヤの方に手を添え背伸びをする。何をしたかったか伝わっていたように、キョウヤはアヤトの背中と腰に手を回した。

 触れ合った唇は、今までで一番熱く感じた。