その名前で呼ばないで

 人間と言われれば人間だ。だが、人間じゃないと言われれば人間ではない。それらはアヤトと目が合うと、ゆっくりと足を進めて来た。

「……何……?」

 歯が細かく音を立てる。体中に鳥肌が立ち、とにかく寒い。二の腕を手で擦るがちっとも温まらない。足は立ち上がることを拒絶し、息は勝手に漏れるばかり。目を閉じてしまえば楽なのに、それらを見続けてしまう。

「……アヤト」

 キョウヤの手に目を塞がれ、視界が暗くなった。だが、一度見てしまったものが瞼の裏に張り付いて剥がれない。

「アヤト。今、何が見えた?」

 答えたくても声が出てこなかった。代わりに呼吸が荒くなっていく。キョウヤの手の温かさが落ち着く。だが、今はその手が作る暗闇が心地悪い。アヤトはキョウヤの手を握り、下に降ろさせた。

 何か、どうにか、心を落ち着かせたい。
 
 自分の心臓の音が思考することさえも邪魔をする。ゆえに、意識をしたつもりではなかった。だが、アヤトはキョウヤの肩に手を添え、その唇に自分の唇を押し付けていた。体が勝手にそうしていたのだ。
 
 アヤトに何かあった時に、いつもキョウヤがそうしてくれていたので、アヤトの中で癖になってしまっていたのかもしれない。

 ゆっくりと唇を離したが、周囲の様子を見ることはしない。代わりに、キョウヤの顔だけを視界に入れるように見つめた。キョウヤはまるでアヤトを心配するように、その目を細めた。

「体育館に、いっぱい何かが居て……ボールで遊んだり、走り回ったり、とにかくたくさん……音も色々聞こえて、気持ち悪い……」
「……なるほどね。俺にも同じものが見えてる。今のアヤトは、霊感が強まっちゃってるんだね。とにかく体育館から出よう。立てる?」

 キョウヤに立たせてもらったが脚が震えて上手く歩けない。まるで何かに掴まれているかのように、上手く踏み出せない。

 いや、掴まれているかのように、ではない。

 足元に視線を向けた。床から生えた手が、アヤトの足首を掴んで離していなかった。

「……誰の許可を取って触ってるんだろうね」

 キョウヤが屈み、アヤトの足首を掴んでいた手を掴んで握った。その手はいとも簡単に潰れ、床に黒いシミを残す。

「俺が近くにいる限り、アヤトには近寄って来ないもんだと思ってた。けど……良くないね。急ごうか」
「……キョウヤ、これは……」
「いたって普通の幽霊達。……と言っても、悪霊だね。良い霊は生きている人間に悪さをしないはずなんだって」

 歩けるようにはなったが、それでも脚は震えてしまう。手を力強く握ってくれているキョウヤの手の温もりだけが心を支えてくれていた。
 周囲にいる、キョウヤ曰く悪霊達は様子を伺っているようにこちらを見つめ続ける。不快な音の数々はいまだに鳴り止むことはない。

「暗くて見えづらいな。さっきまで夕方だったのに」

 そう言いながらキョウヤは体育館の扉に指を掛け、開けた。

「……え……」

 その先は渡り廊下のはずだった。だが、目の前に広がる光景は――。

「教室、だ」
「……どういうことだろう。空間がめちゃくちゃにされてるのかな」

 見覚えがある教室――とは少しだけ様子は違うが、確かに何処かの教室だ。黒板には今日の日付が書かれている。

「どこの教室だろう」
「三年生のかな」
 
 キョウヤは一番近くに置かれていた机の中から教科書を引っ張り出していた。隣から覗くと、確かに三年生用の教科書だ。

「電気も点かないか。暗いね」
「……扉も開かない」
「また閉じ込められちゃったのかな。困ったね」

 月明かりが当たる場所に移動し、窓の外を眺めた。見覚えのあるグラウンドだが、そこには当たり前のように誰も居ない。少しの間外を眺めていると、キョウヤの視線を感じた。

「キョウヤ? どうしたの?」
「…………いや。綺麗だな、って思って」

 キョウヤの視線は窓の外には向いていなかった。だが、その発言が何を指していたのかはアヤトには分かっていたつもりだ。
 
「あぁ……月明かり、綺麗だよね。月は見えないけど……」
「……そうだね。さて、どうしよっかな。警備員さんとか見回りに来るのか、な…………」

 手を引かれた。
 驚いてる暇も無く、アヤトの体はキョウヤの腕の中に包み込まれる。床に座るように体を押され、その拍子に椅子や机が小さく音を鳴らした。

「……キョ……」
「しっ」

 聞こえてきたそれは、裸足でフローリングを歩く時のような音。ゆっくり、ゆっくりと、二人が居る教室にその音は近付いてくる。
 何か聞こえてきた気がして耳を澄ませると、心臓の音が邪魔をして上手く聞き取れないが歌のような何かが微かに聞こえた。
 
 音が教室の前で止んだ。思わず唾を飲み込む。
 何が居るのか見ようとしたが、キョウヤがそれを拒んだ。アヤトを抱きしめる腕の力が強まる。

 長い沈黙のように感じた。再び音が聞こえ始めた。
 それは時間を掛けて、ゆっくりと教室から遠ざかっていった。

「変なものが本当に多いな。アヤトに近付く奴は俺がどうにかするから安心してね」
「キョウヤ……この間もだけど、さっきも潰してたよね」
「本当はあんまりやりたくないんだよね。幽霊も元は……人とか動物とかだし」

 キョウヤに手を引かれ、立ち上がった。キョウヤのその手はそのままアヤトの頭を撫でる。

「でも、アヤトに何かしようとするなら話は別。俺が一番大事なのはアヤトだから」
「えっ?」

 それは、どういう――。
 そう聞こうとして止めた。下手に喋ると自分の気持ちがポロッと出てしまいそうだったからだ。その気持ちを、そっと心の奥底に仕舞い込んだ。

「なんてね」
「……あ。なんだ、からかったんだ。やめてよね」

 アヤトは頬を膨らませ、キョウヤの胸元を軽く数回叩いた。キョウヤは静かに笑うと、椅子に座って頬杖を付いた。

「アヤト。お母さんと……何を話すの?」
「……んー。俺は男だよって、素直に言う」
「俺も、アヤトのこと女の子みたいってたくさん言っちゃった。ごめんね。嫌だったね」
「いやっ……! キョウヤのは、なんだろう。えっと、悪い気はしなかったよ。冗談だって伝わってたから……かな」

 でも、母親のそれは――。
 アヤトは目線をキョウヤから逸らした。

「あ。あと、可愛いっていうのもたくさん言っちゃった。ごめん」
「それも……キョウヤだから良いよ。キョウヤに言われても、嫌な気持ちにならなかったし」
「気遣われてる感じがしちゃうな。もう言わないから……安心して」

 そう言って微笑むキョウヤの顔を見て、何故か胸が痛んだ。女の子のように扱われることは本当に複雑で、苦手だ。でもキョウヤが「可愛い」と言ってくれることは、嫌と思ったことは無い。理由は明白だ。

「でも本当に、キョウヤになら可愛いって言われるのも嫌じゃないんだよ」
「……え」

 恥ずかしさを誤魔化すように、教室の扉に指を掛けた。

「キョウヤに言われるならむしろ嬉しいかも。俺も……キョウヤが一番、大事だから」
「……それは……」
「なんてね」
「…………さっきの仕返し?」
「そうだよ」

 どうせ開かないだろう。そう思い指に力を込めた。
 だが扉はすんなりと開き、危うく扉に指を挟みそうになった。

「あ、開いた……!」
「……あ」

 キョウヤも後ろに続き、二人は横並びに立った。先程までは教室の窓からは廊下が見えていたはずだった。だが、今の二人の視線の先にはまた教室。後ろを振り返っても教室。

「入った方が良いのかな……」
「ここ、うちの教室だね。見て、床。ペンキが溢れたままだ」
「本当だ……。あ、鞄も置きっぱなしだった」

 二人が教室に入ると扉は勢いよく閉まった。音の大きさに思わず後ろを振り返ると、外の景色は先程までそこにあった三年生の教室ではなく廊下に変わっていた。

「なんか、頭おかしくなりそう」

 まだ治ってくれない頭痛をどうにかしたくて額を手で押さえてみるが、無駄だった。
 アヤトは床に溢れたままのペンキに近寄った。もう随分時間が経ったはずなのに、ペンキは乾いていない。

「モップ持ってくるの忘れてた……」
「それどころじゃなかったでしょ」

 屈んでペンキを眺めた。僅かにペンキに映る自分の顔は歪んでいて、まるで自分の顔ではないように感じた。
 喋っていなかったはずだったのに、そこに映っていた自分のような誰かが口を開いた。

「おにいちゃん、がんばって」

 その口は、そう喋っていたように見えた。