その名前で呼ばないで

 その日から文化祭の準備が始まった。
 と言っても、アヤト達のクラスは焼きそば屋をすることになったので事前の準備自体は大したことはない。看板を作ったり、エプロンにワッペンを縫い付けたりするくらいだ。
 帰宅部のアヤトとキョウヤはほぼ強制的に看板の制作班に加えられていた。

「アヤト、ペン取ってくれる?」
「はい、どーぞ」

 二人で分担して色塗りを進める。看板もそんなに大きなものではないので、すぐに終わるだろう。

「こんなに早く看板作り終わっても置く場所ないよね……」
「んね。今日中には出来ちゃいそうじゃない?」

 アヤトはこういった人前に出す物に関しては、なるべく真っ直ぐに文字を書きたいので定規を使って書く。対してキョウヤは感覚で線を引くが、それでも綺麗に書けているから感心した。

「……なんか、結構こういう作業好きかも。集中出来て、頭の中がクリアになるっていうか」

 ただ線を引く作業だが、なんだか心が落ち着くような気がした。無心になれるというか、なんというか。意外と細かい作業が自分には向いているのかもしれない、とペンを動かしながら考える。

「キョウヤくん、アヤトくん。作業どう?」

 クラスメイトの女子に話しかけられたが、彼女はキョウヤの方を見ては頬を少しだけ赤くさせた。
 キョウヤは容姿が整っていて、さらに人あたりも良い。モテないわけがないとは分かっているのだが、それでも胸中はなんとなく複雑だ。

「順調。今日中にはもう終わっちゃうよ」
「あ、えっと……ペンキとかも必要かなって思って他のクラスから借りたんだけど……あっ!」

 彼女は机に足を引っ掛けてしまったのか、姿勢を崩した。反動で持っていた赤い色のペンキが溢れ、床に広がった。幸い彼女とアヤトとキョウヤの制服は無事だったが――。

「やっちゃった……!」
「あらら。制服、汚れてない? 大丈夫?」
「あっ……うん! ありがとう……」

 その会話を尻目に、アヤトは掃除ロッカーを開ける。
 ホウキとちりとりしか置かれておらず、床を拭けそうな物は置いていなかった。確か、いつもは雑巾とモップも置いてあった気がしたのだが。

「雑巾とかモップが無いや……隣のクラスから借りてくるよ」
「俺も行くよ」

 隣のクラスくらいならば一人でも平気だったのだが、なんとなくキョウヤと二人の時間が一瞬でも欲しくなったので何も言うことはしなかった。
 教室の扉を開け、廊下に出る。やけに静かだ――と思ったが、気のせいだろうか。

「失礼しまー……あれ?」

 隣の教室の扉を開けようとしたが、開けられない。建て付けが悪いのだろうか。中には誰もおらず、声を掛けることも出来ない。
 続けてキョウヤも扉を開けようと試みたが、キョウヤですら開けられなかった。

「こっちも駄目だ……」

 そのまた隣の教室の扉も開かない。中には誰もいない。廊下にも誰も居ない。放課後と言えども、いつもは誰かしら歩いているのに。
 二人は自分達の教室へ戻る。そこには、先程ペンキを溢した女子の他にも数人が居た。

 ――違和感は、気のせいだったのだろうか。

「なんか、他の教室の扉が開かなくて……中にも誰も居ないんだよね……」
「そうなんだぁ……困っちゃったなぁ」
「――体育館は?」

 女の子の声だった。だが、クラスメイトの誰の声だったか分からなかった。

「あ! 確かに。キョウヤ、行ってみよう」
「体育館のモップ、ペンキで汚しちゃっても大丈夫かな。まあ洗えば良いか」

 何故か、アヤトもキョウヤもその声をクラスメイトの誰かの声だろうと認識していた。

「行こうか、アヤト」

 廊下を歩くが誰ともすれ違わない。階段ですら、誰も歩いていない。窓からグラウンドを見るが、誰もいない。
 だがキョウヤは何も言わない。だからきっと、おかしいと感じているのは自分だけなのだろう。

「今日、部活ってどこも休みなのかな」
「え? いや、やってると思うけど。どうしたの?」
「……あ……ううん」

 アヤトとキョウヤの歩く音と話し声だけが聞こえる。階段を降りる時の音が、今日はなんだか不快だった。
 何か、気を紛らわすのにちょうど良い話はないだろうかと考えていると、一つだけずっと気になっていたことを思い出した。

「そういえば、キョウヤがくれたお守り……あれって、どうやって作ってるの?」

 少し待ってみたが何も返事をしてくれない。キョウヤの顔を見上げてみると、珍しく困り顔だった。

「……どうしても気になる?」
「どうしても」
「……普通のお守りの作り方と一緒で、布を縫い合わせるんだけど……」

 歯切れが悪い。そんなに言えない作り方なのだろうか。

「……だけど?」

 キョウヤは気まずそうに頭を掻く。

「……俺の髪の毛が何本か、一緒に縫われてる……。あと、お守りの中にも何本か入ってるから、開けると見た目が気持ち悪いと思う……」
「……あっ。お守り、金色だったもんね」
「髪の毛を目立たなくしたくて。俺の体で一番手軽にお守りに入れられそうなのが髪の毛だったから、そうしたんだけど……怖いよね」

 眉を下げたキョウヤの顔が可愛くて、つい笑ってしまった。静かな廊下に笑い声だけが響き渡る。

「でも、お守りは俺のこと守ってくれてるから」
「最近はちょっと効き目が弱くなっちゃってるね」

 昇降口の前を通り過ぎるが、やはり誰も居ない。

「お守り、なんで焦げちゃったんだろ」
「霊気に負けるとそういうこともあるみたい。アヤトのこと守ろうとしたんだと思う」

 体育館への渡り廊下へ出て、やっと蝉の鳴き声が聞こえた。人の声が聞こえない分、蝉の声はやたらと大きく聞こえる。

「周り静かだからかな。蝉がすごいうるさく聞こえるなぁ」
「……確かにうるさいけど」

 キョウヤのほんのわずかな間が気になった。
 体育館の扉をキョウヤが開けてくれた。いつもなら人の声やボールが跳ねる音、上履きが床を滑る音があちらこちらから聞こえている時間帯のはずなのに、今日は何も聞こえない。
 
 先日バスケットゴールが折れてしまってから、コートの半分は規制され使えなくなっていた。バスケ部も他校との合同練習がメインになっているとクラスメイトから聞いていたため、その分人は少ないのは分かってはいたのだが、まさか誰も居ないとはさすがに想定外だった。
 
 その静寂さがあまりにも不気味に感じ始めた。

「……アヤト?」
「……あれ、あ……えっと、モップって倉庫にあるんだっけ」

 思い出せない。
 朝の教室は賑やかだったことは覚えている。でも、今日は、それ以外に廊下で人を見かけただろうか。
 倉庫の扉に手を掛けた時、メッセージの受信音がポケットから聞こえた。

「……あ。お父さんだ」
「俺、モップ探してくるから返信してて良いよ」
「今日、この後キョウヤも一緒にご飯に行かないかだって」

 倉庫の扉が開くと、カビの臭いがした。

「俺は大丈夫だよ。二人で行っておいで」
「でも、お父さんキョウヤとも話したいことあるって」
「えぇ……うーん……お邪魔しちゃうのちょっと複雑だけど」

 先にキョウヤが倉庫に入り、後にアヤトが続いて足を進める。

「お父さん、一時間くらいしたら迎えに来てくれるって」
 
 アヤトの体が倉庫に入った瞬間、倉庫の扉が耳が痛くなるほどの音を立てて閉まった。思わず後ろを振り返る。

「アヤト?」
「…………違う。俺じゃないよ……」

 思わず後ずさった。倉庫の小さな窓ガラスから光が入り込み、埃を照らす。
 再びメッセージの受信音が鳴った。

 その音は嫌に耳を刺した。

「……開かないな」

 キョウヤが扉を開けようとする音と、鳴り続ける受信音。
 画面に目を向けた。

 『アヤちゃん』
 『お話しましょう』
 『帰っておいで』
 『あの人を呼んだのはアヤちゃん?』
 『どうしてそんなことをしたの?』
 『どうしてあの人の住所を知ってたの?』
 『怒らないから』
 『早く帰れ』
 『早く』
 『早く』
 『早く』
 『早く』
 『早く』

 立て続けに送られてくるメッセージは、その後も同じ文面しか送られてこなくなった。