その名前で呼ばないで

 父の隣に座る女性は、アヤトの手を強く握った。

「私達、アヤト君を家族に出来るように頑張るから……。あ、でも、ユウの幼稚園があるから引っ越しするのはちょっと難しいんだけど……えっと……」
「……アヤトに、この家に住んでほしいんだ。学校から遠くなってしまうけど、俺……お父さんが毎朝車で送っていく。早起きだけ頑張ってもらうことになるけど」

 時が止まったように感じた。

「ユウにももうアヤト君のことは話してあるの。もしかしたら、お兄ちゃんと一緒に住むことになるかもって。そうしたらすごく喜んでて……だから、そこも心配は要らないの……」

 父の隣に座っている女性は、声を詰まらせた。
 自分の旦那の元妻が産んだ子供のことなのに、真剣に考えてくれていたんだ。それはどんなに、苦渋の決断だっただろうか。
 アヤトには想像もつかなかった。

「俺のせいで、アヤトにもユウにも迷惑を掛けてしまって本当に情けなく思ってる。子供達は何も悪くないのにって……。だから、せめて、今更だけど……。今からでも、守らせてくれないか……アヤト」
「急に言われても困るよね。……アヤト君、今日はうちに泊まらない?」

 リビングの扉が勢い良く開いた。小さい人影が元気な足音を鳴らし、アヤトの隣に寄った。
 栗色の、自分と同じ髪色をした小さな男の子に手を握られた。男の子の表情は太陽のように眩しい――なんてそんなわけはないのに、眩しく感じて目を細めてしまった。

「お兄ちゃん、今日お泊まりするの?」
「こら、ユウ! お話しするからお部屋で待っててって言ったでしょ! ごめんねアヤト君……ちょっと待っててね」
「えー! もう飽きちゃったよー!」

 女性に抱っこされ、小さな男の子は部屋を出た。部屋の中にはアヤトと父の二人きりになる。
 その静寂さは、何故か嫌ではなかった。

「アヤト。俺のこと、まだお父さんって呼んでくれるなら……お父さんは、アヤトのために頑張るよ」
「……俺……あの、ごめんなさい。少し、疲れちゃって……。今日は……」

 帰りますと言おうとした口を閉じた。

 ――どこに帰る?

「アヤト。うちが嫌なら……この辺ならホテルもあるし、そこはどうだろう。何泊でもして良い。服もこの辺りは買えるところはたくさんある。学校も心配要らない。俺が毎朝ちゃんと送って行く」

 甘い言葉に、視界が揺れる。
 どうしてこの人はそんなに必死な声を出すのだろうか。
 
 自分にはそんな価値は無いのに。だから、置いて行ったのではないのか。

「明日、お母さんの所に話をしに行くよ。制服とか教科書も取ってくる。アヤトは何もしなくて良い。心配は要らないからな。ちゃんと学校にも通えるよ」

 父は隣に立つと、しゃがみ込んでアヤトの体を抱きしめた。広い肩幅はアヤトの体を優しく包み込んだ。

 とても、温かい。
 
「…………お父さん」

 直接そう呼ぶ気は無かった。だってその呼び方は、もうあの子どものものなのだから。
 でも、またそう呼んでも受け入れてもらえるのならば。
 その中に混ぜてもらえるのならば。

 何度も呼んだ。
 呼ぶ度に父は背中と頭を撫でてくれて、力強く抱きしめてくれた。
 
 声が枯れた頃に顔を離すと、父の服はぐしゃぐしゃに濡れてしまっていた。

「あ……。お父さん、俺、キョウヤ……友達に連絡しないと……」
「だいぶ待たせちゃったもんな。お詫びしないと。一回、うちに呼ぶと良い」

 アヤトがメッセージを送った数分後、キョウヤが父の家を訪れた。隣に座ったキョウヤと目が合うと、キョウヤはどこか嬉しそうに微笑んだ。
 女性も部屋に戻り、父の隣に座った。その表情もまた、柔らかかった。

 その後しばらく父とキョウヤが話をし、アヤトはキョウヤの家に泊まることになった。

「本当に送らなくて大丈夫か?」
「うん。まだ夕方だし、寄り道して帰るから」
「何かあったら、メッセージでも電話でも良いからいつでもしてきてくれ。制服と教科書、明日キョウヤ君の家に届けに行くから」

 玄関を閉めるその時まで、父と女性の表情は優しかった。
 アヤトとキョウヤは近くで服を数着買い、電車に乗って帰路に着く。帰りの電車の中でも、キョウヤと肩は触れ合ったままだった。
 ただ一つだけ違ったのは、帰りの電車でキョウヤがずっとにこやかだったことだ。

 念のため、母親には友人の家に泊まる旨を送っておいた。既読の文字はすぐには付かなかった。

 駅に着くと、辺りはすっかり暗くなってしまっていた。キョウヤは手荷物を全て右手に持ち、左手をアヤトに差し出す。

「帰ろうか、アヤト」
「……うん!」

 アヤトはキョウヤの手を握った。

◇◇◇
 
 キョウヤの家に上がり、アヤトは息を深く吐いた。

「ごめんね。キョウヤ。迷惑掛けちゃって……」
「迷惑だと思ってるなら、ホテルに泊まるっていう提案に賛成してたよ。俺が来てほしかったんだよ」

 キョウヤに頭を撫でられる。最近、よく頭を撫でてもらっている気がする。

「それに生活に必要なお金は日割りして請求してくれってアヤトのお父さんが言ってくれたから、気兼ねなく色々使ってよ」
「うん。ありがとう。学校、バイト禁止だけど色々説明したらバイト出来るかな……」
「今はやめておきなよ。考え事多すぎて仕事にならないでしょ」

 父にメッセージを送った時に見えたのだが、母親からは何の返信も無かった。既読の文字が付いているかどうか確認はしなかった。
 父からはすぐに返信があった。「また明日」というメッセージとともに、何かよくわからない動物のスタンプ。それを見て、アヤトは小さく吹き出した。

「うちの父さんと母さんにも言っておきたいんだけど……アヤトの事情、内容は濁すけど話しても良い?」
「もちろんだよ! 何から何まで、本当にごめんね……」
「全然。俺、電話するから先にお風呂入ってきて」

 その後、シャワーを浴びている時も、髪を乾かしている時も、キョウヤと話している時も、胸の下は痛まなかった。ここ最近、あれほど痛んでいたのに。

 ――だけど、本当にこのままで良いのか。
 
 今はとても穏やかなはずなのに、その気持ちだけがアヤトの心に引っ掛かったまま取れてくれなかった。

「明日、アヤトとやりたいことがあります」
「何? 改まって……」
「じゃん。未開封のゲーム。RPG。詰みゲーだったんだけど、せっかくだし明日からやろうと思って」

 誇らしげにキョウヤは鼻を鳴らした。

「キョウヤ、もう眠い?」
「いや、全然。どうしたの?」
「俺もまだ寝れそうになくて。眠くなるまで、今からやらない?」
「良いね。徹夜はしないようにしなきゃね」

 しかし、二時間ほどゲームをプレイした辺りで二人は眠気に襲われて同時に就寝した。

◇◇◇

「おにいちゃん。わたしのせいで、ごめんね」

 暗い中で聞こえた、舌足らずだが懐かしい、愛おしい声。
 小さい手がアヤトの手を握っていた。

 この手は、父の家の前で感じた手と一緒の大きさだ。

「謝らなくて良いんだよ。そんなこと言わせて、俺の方こそごめんね。守ってくれたんだね。――アヤカ」

 それが夢だと気付いたのは、キョウヤに起こされた後だった。