うつせみ

 やけに涼しい夏である。
 例年の猛暑が嘘のようで、学校がクーラーの使用を控えるようにと言うくらいだ。
夏というより秋の初めのようだが、それでいて夏の爽やかさはあるのだから不思議なものだ。
久芍井海人(くじゃくいかいと)は例によって窓が開け放たれた教室で頬杖をつきながら、担任の話に耳を傾けていた。代り映えの無い伝達事項のあと、担任の高野がわざとらしい咳払いをした。その音に海人含めてぼんやりとしていた生徒たちの視線が一斉に教壇に向く。
「えー、夏休みも目前ですが、今日から転校生が来ます。仲良くしてやってくれ」
 転校生。その単語にクラスはどよめいた。なにせ高野が言ったように夏休みまではあと一週間。期末テストから解放されたばかりで浮かれた学生達にその単語は刺激が強かった。それまでのだらけた雰囲気は一転、お祭り騒ぎになってしまった。
 やれ性別はどっちだ、なんでこのタイミングなのかだの、どこから来たのかだのと質問やら憶測だのが飛び交っている。
 しかしそんなことはお見通しと言わんばかりに高野は二回手を叩いた。
「質問は本人にしろー。そうしたら仲良くなるのも早いだろ」
 高野は熱の冷めやらぬ教室内はそのままにして、教室と廊下を繋ぐ扉に向かって声をかけた。
「瀬見川、いいぞ」
 扉の外で上履きが鳴ると、教室内は先ほどまでの喧騒がぴたりと収まった。皆、どんな人物が入ってくるのか興味津々といった様子で扉が開くのを今かいまかと待っている。
 海人も人並程度に新しいクラスメイトのことは気になったが、周りほどそわそわもしなかった。どんな人物だったとしてもこの一週間で夏休みに入るのだ。連絡先を交換したとしても、交流する期間がほんの一週間では仲良くなるのも難しい。瀬見川と呼ばれた人物と友達になるとしても、それは夏休みが明けてからのほうが素直だろう。海人はこんな時期に転校をせざるを得なかった転校生に心の中で同情した。
 やや滑りの悪い扉が開き、教室に転校生が入ってくる。教室のざわめきがふっと途切れる。
 猫背気味の瀬見川は何かに怯えるようにカバンを胸の前に抱えて高野の隣に並ぶと、目にかかる前髪を横に流してから口を開いた。
瀬見川藤(せみかわふじ)です。長瀞から来ました。あの……僕のことは、あんまり気にしないでください。友達作るの、うまくないし、皆さんに嫌な思いをさせてしまうかもしれないので」
 自己紹介としてはあまりにもイレギュラーな藤の言葉に、生徒はもちろん高野までもが口をぽかんと開けて彼を見た。
 藤は頭を下げたというよりは、視線から逃れるように俯いたように見えた。
 海人も素っ気の無さすぎる自己紹介に唖然としたものの、やはり夏休み直前という時期のことを考えればその気持ちが分からないわけではなかった。
 藤は長瀞から来たと言った。海人の通う大玉平高校は新宿区に位置している。電車を使えば長瀞にはなんなく戻れる距離なのだ。であれば無理をして友達を作る必要などない。
「まあ、瀬見川はこう言っているが、気の合う奴はいるかもしれないからな! 席は窓側の一番後ろでいいか? 五十音に並んでたほうが出席が取りやすくてな」
 その言葉を聞いて海人はぎくりと首を伸ばした。現在の席順で窓側の一番後ろは海人なのである。海人のクラスは男女合わせて三十六人。教室に並ぶ机は縦六列、横六列でぴったり揃っている。転校生が来たことにより奇数になった生徒数。おのずと藤の席は列からひとつ飛び出ることになる。マンガやドラマで転校生のサポートをするのは隣の席の生徒と相場が決まっているが、隣がいない場合はどうなるか……考えなくても検討はつく。すぐ前の席の生徒――すなわち海人である。
「はい。席はどこでも大丈夫です」
 本人を目の前にしながらもさっそくひそひそと噂話が舞う教室内を藤は眉一つ動かさず進む。廊下側の列の最後尾に置かれた机と椅子を真逆の位置である海人の後ろへと移動させた。
「久芍井! 瀬見川が慣れるまでいろいろ教えてやれよ」
 海人の予感は当然のように的中した。
「俺、久芍井海人。よろしく」
 転校生と、そのすぐ前の席に座る自分――海人は余計なお世話だろうなと感じつつも、体を捻って挨拶をした。
「よろしく。でも、ほんとうに僕のことは気にしなくていいから」
 長い前髪の隙間から見えた瞳は一瞬だけ海人と視線を合わせたが、しかしすぐに舌を向いた。
 人見知りだと言われればそれまでなのだが、しかし海人にはどうしてか、瀬見川藤が何かに怯えているようにしか見えなかった。

「海人、貧乏くじひいたな」
 三時間目は理科室で行われるため、廊下を歩いていた海人は背中にどん、と衝撃を感じた。
「なんだよトラ。貧乏くじって」
 振り返れば校則で定められているぎりぎりの明るさに染めた茶髪が見えた。
 瞠目寅雄(どうもくとらお)。海人と同じクラスであり、海人のバイト先を紹介してくれた人物だ。名前の猛々しさとは反対に絵に描いたようなお調子者である。〝トラ〟とは海人含めてなかのいい人物が寅雄のことを呼ぶときの渾名である。
 寅雄はぐい、と強引に海人の肩に腕を回すと、顎をしゃくって廊下の先を指し示す。海人と寅雄の少し前を歩いているのは藤だ。
「わかってんだろ。瀬見川のことだよ」
 その言葉で寅雄が言わんとすることが海人にも分かった。海人が危惧したとおり変わり者の転校生のサポート役に選ばれたことを茶化しに来たのだ。
「入って来た瞬間から陰気そうなやつだなとは思ったけどさぁ、あの自己紹介はどうなんだってハナシだろ? いくら中途半端な時期に来たとは言え、コッチとしては少しでもいいからアッチからの歩み寄りの姿勢を見せてほしいわけじゃん」
「確かにあの自己紹介にはびっくりしたけど、転校なんてほとんどが親の都合だろ? あいつはしぶしぶこっちに来るしかなかったのかもしんねーし、すぐに夏休みに入るし、俺は平気だよ」
「でたよ海人のお人よし! 親の都合とか、しぶしぶ来たとか、それ、本人に聞いたわけじゃねえんだろ? 相手のことばっかり考えてるといつか痛い目見るんだからな」
「トラは俺のことを心配しすぎなんだよ。確かに自分でもお人よしかもな、と思うことはあるけど、全部を受け入れてるわけじゃねえし、俺だってちゃんとノーは言えるっての! てか、俺に絡んで瀬見川の様子を探るくらいなら本人に直接訊けばいいだろ」
「そうやってオレと瀬見川に接点持たせようとするところがお人よしだって言ってんだろ」
「なあ瀬見川――」
 海人は寅雄のじゃれつきをいなしながら少し先を歩く藤の背中に声をかけた。藤の足がぴたりと止まるとゆっくりと首が後ろを向いた。
「転校って親の都合? いきなり決まった転属とか?」
「親は……関係ない」
 歩みを止めた藤に海人と寅雄が追いついた。
「おぉ、答えてくれた!」
 寅雄がするりと海人から離れ、藤の隣に並ぶ。藤はいきなり現れた寅雄から距離をとるように身を引いている。寅雄には初対面の相手でも構わず友人のように接する癖がある。
「こいつは瞠目寅雄。なれなれしいけど、悪いやつじゃないよ」
 このままでは寅雄の印象が悪くなると見越して海人が間に割って入った。寅雄はヘラヘラと笑って「よろしく」と片手を上げる。
「あ、うん……」
「なんだよ瀬見川ぁ。緊張してんの?」
 寅雄は既に友達になったつもりなのか、藤の肩に手を回した。当然藤はそれを嫌い、肩を動かして寅雄の手を振りほどく。このままではケンカにすら発展すると感じた海人は嫌がられているというのに果敢にもアプローチを止めない寅雄の腰ベルトを掴んで動きを抑制する。
「トラはぐいぐい行き過ぎなんだって――で、親は関係ないって言ってたけど、じゃあどうしてこっちに来たの? この学校、特に強い部活があったり進学に有利とかもないけど」
「個人的な内容だから……。えっと、久芍井くんも瞠目くんも、僕に気を使わなくっていいから。こっちで友達を作ろうって、あんまり思ってないし……」
 藤はきっぱりそう言い放つとほとんど逃げるように理科室へと駆けこんだ。
「あーあ、海人フラれたな」
「どちらかと言えばトラのほうだろ」
 置き去りにされた二人はしばしぽかんとしたものの、藤の態度を特に気にすることもなく理科室へ向かった。

 授業は前回の引き続きで生殖に関わる内容だった。
 細胞分裂だの減数分裂だの似ているようで似ていない単語やら、何をどう見たらいいのか分からぬ図は海人の頭を混乱させるばかりだ。しかも生物担当の教師があまり抑揚のない喋り方をするものだから海人の耳にはなかなか内容が入ってこない。だんだんノートを取るのも億劫になる。
 海人は理科室に視線を巡らせた。
 通常の教室で行う授業とは異なり、移動教室で授業を受けるときはそれぞれが好きな席に座れるようになっていた。海人は寅雄と隣あって座っているし、ほとんどのクラスメイトは普段仲のいいグループで固まって座る。そんな中で藤だけがぽつんとひとりで座っていた。
 海人たちの理科室の実験台は真ん中に大きな流し台を挟んで前と後ろに分けられる。前後それぞれ片側に二名着席できるようになっているから、前に四人、後ろに四人の計八人がひとつの実験台に着席できる。藤が座っている実験台はまだ前に座れる余裕があるにも関わらず、洗面台の後ろ、しかも一番端の席に座っているのだ。そして海人が座っている教室後方、廊下側の席から藤の座る教室前方、窓側の席はよく見えた。
 いくら人見知りとはいえ、あまりにも周りを避けすぎている……。
 転校の理由に親は関係ないと言っていたことも気になった。親の都合ではないとなると、何が理由なのだろう。マンガやドラマの中では当たり前のように【転校生がやってくる】というイベントが発生するが、実際に学校生活を送る中でそのイベントに遭遇することは稀だ。現に海人も学生を十二年しているわけだが、十二年目にして初のことである。まして高校二年の夏休み前になんて天文学的確率なわけである。海人の頭の中で点と点が結びついていく。
 気がつけば海人は授業そっちのけで藤のことを観察していた。
 まず自己紹介の時にも気になった前髪の長さ。黒板とノートを往復するたびにうっとおしそうである。ファッションの一環として前髪を長めにしている男子もいるが、どうにもそのようには見えない。本人は煩わしそうにしているのに髪を伸ばしているということは、髪で人の視線を遮りたいからではないか?
 言うまでもなく海人が藤の観察によって導きだした転校の理由とはいじめである。
 しかし海人が藤に抱いた第一印象の中に『きもちわるい』だとか『からかいがいがある』なんてものは無かった。無論、海人自身が積極的に人をからかうタイプではないのだが、標的になりそうなタイプはなんとなく分かる。しかし藤はいじめられやすそうには見えなかった。その理由を探したときにまず目についたのが藤の体格だ。
 いかにも暗そうな雰囲気を出しているものの、半袖シャツから覗く腕はそれなりに焼けており、まるきり家に引きこもっているとも思えない。さらにその腕は骨と皮ばかりという雰囲気でもなく、むしろ海人の腕よりやや大きく感じさえした。海人はそっと自分の腕を触ってみた。運動部に入っているわけではないし、自主的に鍛えているわけでもない腕は生活に必要な最低限の筋肉があるのみ。遠目からの目測でしかないが、なんだか藤に負けたような気分になった。
 健康的な体格をしていながら不自然に前髪で視界を遮っている。
 嫌な思いをさせたくないと言いながらきっぱりとした口調で拒絶する。


――ちぐはぐだ。

 それが海人の出した藤への印象である。
 朝のホームルームの時点では積極的に藤と関わるまいとすら思っていた海人だが、本人もまだ気づかないような小さな藤への好奇心が芽生えていた。



 物心ついた頃から昆虫が好きだった。
 小さなその身からは想像できないほど強大な能力を秘めた生き物たち。
 飛ぶけれど鳥と違って舞うように宙を漂う蝶。泳ぐけれど魚と違って脚を駆使して推進するゲンゴロウ。
 からだの大きさもそのつくりも生き方も、自分とはまるで違う昆虫たちは幼い僕にとって最も身近な神秘だった。
驚きと不思議にあふれた昆虫の中で最も気に入っていたものはセミだ。
苗字が瀬見川だからというのは、まあ、否定してないけれど、それ以上に僕の心を掴んで離さない出来事があったからだ。

 はじめてセミに興味を持ったのは小学三年生の夏休み。崩れていない、完全形態のセミの抜け殻を拾ってからだ。
 庭の植木の葉にくっついていた飴色の殻。背中がばっくりと裂けたその殻は、中にいる幼虫を守るにしては薄すぎると思った。興味本位で殻を摘まんだ指に力を込めると、殻はくしゅ、と音を立ててあっけなく崩れてしまった。
 儚い。
 殻の薄さも、成虫の寿命の短さも。
 僕がセミに夢中になったのはそこからだ。

 それは七月も終わろうとしていたころの夕方だった。
 庭でセミの殻を潰してしまってから、僕はずっとセミが羽化をするところを見てみたくてしかたなく、日が沈みだすと家を飛び出して行っては公園や庭の木の周りに目を凝らしていた。
 セミが羽化するタイミングは陽が暮れてから。これは羽化という完全に無防備な状態を外敵に悟られないためだ。よって、僕がその生態を知っていたとしても幼虫を見つけることは容易ではなかった。僕は自分の都合と羽化の条件が重なる日はほとんど毎日のように幼虫探しに没頭したし、天気が悪く幼虫を探しにいけない日はセミの抜け殻があった場所を記した手作りの地図を眺めたりした。

 そんなことを繰り返すうちにとうとう僕は、地面から木の幹へよじ登るセミの幼虫を見つけた。
 雨上がりの日暮れ。キャラメルのような色をした終齢幼虫は短い鎌状の足を使ってゆっくりと幹を登る。ときに立ち止まったり、うろうろと体勢を変えたりした幼虫はようやく羽化する場所を決めたと言わんばかりに静止した。
 それは幸いなことに、直立した僕の視線と同じ高さだった。
 ぴくりともしなくなったセミを見守った。図鑑にはおよそ一時間ほどかかると書いてあったから覚悟はしていたけれど、動きの少ない対象を観察するという行為は小学生だった僕にはほんの少しだけ退屈だった。それでつい、セミの背中をつついてしまった。
 抜け殻とは違う、中身がぎっしりと詰まった触り心地は、指先から腕へぞわりと鳥肌を浮かべさせた。その触り心地があまりにも想像とかけ離れていたからだ。
 セミはといえば、僕につつかれて驚いたのか体をびくりと跳ねさせて、それから背中にめり、と亀裂を作った。
 羽化の開始だ。
 すう、と伸びた亀裂の間から新品の消しゴムのような体が覗いた。小刻みに体を震わせるようにしながら小さな殻から抜け出そうとしている。白い体は目の周りや背中のあたりが黄緑色になっていて、その色は僕が見たどんな色よりもきれいだと思った。
 体の半分を外に出した幼虫はそのまま木の上によじ登って殻を脱ぐのかと思いきや、下半身を殻に収めたまま大胆に体を反らせた。頭から落ちるのではないかと不安になるほどぐにゃりと反ったセミと目が合った。つやのある真っ黒い瞳が僕を見た。感情の無い複眼だが、それは確かに僕の姿を捉えているんだと分かった。僕は動くことはおろか、瞬きをすることも、呼吸をすることさえできなかった。
 どれくらいセミと視線を合わせていたかは分からないが、大きく息を吸ったあとではもう、セミは体を起こして尻の先を殻から抜こうとしているところだった。それでもセミはまだ視線だけは僕に向けているように見えた。
 結局僕はセミが完全に殻を抜け出し、羽を膨らませたところで集中が切れてしまった。辺りもすっかり暗くなっていたこともあって、体を硬化させているセミはそのままにして家に走って帰った。
 その日を境に僕はやたらとセミと遭遇するようになった。
 アブラゼミをはじめ、ニイニイゼミ、ツクツクボウシ、ミンミンゼミはもちろんのこと、クマゼミやハルゼミも見つけたし、旅行先では日本では最小種であるイワサキクサゼミや秋に鳴くチョウセンケナガニイニイ、体が鮮やかな緑色をしているクロイワゼミなども目撃することができた。
 この時の僕はまだ珍しいセミに出会えたことを喜んでいた。どうして自分が様々なセミに出会えたのか、その理由なんて考えもせず浮かれていた。



 理科室から教室へ戻る間にもう一度藤に話しかける機会を伺っていた海人だが、そのチャンスはついぞやってこなかった。どうやら海人の周りをちょろちょろとヒヨコのように付きまとう寅雄をかなり警戒しているらしい。藤は教室を出る時も廊下を戻る時もやけに足早で、ほとんど走るようにして海人たちから距離をとっていた。その後も授業間の休憩に入る度に会話を試みたのだが、寅雄がそうであったようにどれだけぶっきらぼうに努めたとしても校生という珍客を他のクラスメイト達もほおっておくことはできなかったらしい。授業がひとつ終わる度に藤の机の周りには小さな人だかりができていた。
「なんなの、このクラス」
 予鈴が人を散らすと、藤は小さくそう漏らした。
「まあ、他のクラスよりは明るいやつが多いかもな」
 やっと訪れたチャンスを逃せるはずもなく、海人は次に使う教科書を用意するよりも先に振り返った。藤の顔は相変わらず長い前髪が遮っているが、朝よりも疲れているように見えた。
「君も大概だよ」
 前髪の下で藤の瞳がじろりと動いた。
「俺は普通だよ、普通。トラを見ただろ? あいつが学年で一番騒がしいから、トラさえ乗り超えられたらあとは安心だな」
「学年一……気が滅入るね」
「きっとこのあとの昼休憩はトラも来るだろうな」
「そんなの休憩にならないよ」
「だからさ、俺と昼飯食わない?」
「はあ?」
 海人の提案は藤にとって予想外のものだったらしい。藤はこれ見よがしに眉間に皺を寄せ、口を大きく開いてみせた。
「高野先生にも瀬見川のこと頼まれてるし、あんまり人が来ない場所知ってるんだ。弁当持ってきてるだろ?」
「お弁当はあるけど……」
 ここで本鈴が鳴りだした。それまで賑やかだった教室はチャイムが一音発するたびに静まっていく。
「授業中に考えといてよ。それで俺と一緒に行く気になったらこっそり教えて」
 教室の扉が開き、教科書を携えた高野が入ってくる。
 海人は急いで体の向きを戻し、机の中から教科書とノート、筆箱を取り出した。高野の担当教科は世界史だ。
「きりーつ」
 形だけの号令がかかると椅子を引く音が響く。
「考えといてね」
 着席する瞬間、海人はちらりと後ろを向いて藤に念を押した。

 音を聞いてもすぐに漢字が出てこないところが、藤が中国史を苦手とする要因のひとつである。もともとの生き物好きが高じて理系科目は得意なのだが、社会科系に関しては地理も歴史も公民も鳴かず飛ばずの成績だ。生き物の名前はカタカナで記されることもあって、カタカナの単語を覚えることは得意だが、音に合わせて漢字も併せて覚えなければならない単語は習得までに時間がかかってしまう。よって、現在の授業内容は藤にとって鬼門中の鬼門であった。
 そんな苦手意識の塊のような単元をまじめに聞いて理解し、進学に活かす……なんてことをするほど藤は勉学に熱心でもない。とりあえず進学を、とは考えているものの高二の夏休みからアクセルを踏まなければならないほど難しい大学に入るつもりはそもそも無い。
 高野の声がだんだんと外国語に聞こえてきたあたりで、藤はすぐ前にある海人の後ろ姿を観察して眠気を紛らわすことにした。
 担任のある種のワガママによって転校生と席が前後になってしまったアンラッキーな男、久芍井海人。さっぱりとした短髪は陽の光に当たってほんのりと茶色がかっている。それが染髪によるものか天然由来によるものか藤には判断がつかなかったが、自分とは違って柔らかそうな髪が少し羨ましく思えた。制服のシャツの下に着ているであろうTシャツから何かのロゴが透けている。布地の厚さや光の加減で何のロゴかは分からないが、好きなバンドかブランドのTシャツだろうとあたりをつけた。どこまでが本当か定かではないが、学年一騒がしいと言う瞠目寅雄と仲が良さそうなこともあり、かなり派手に遊んでいるのかもしれない。そんな人物と一緒に昼休憩を過ごすことなどできるのか――藤は落ち着ける場所知りたさと自分とはかけ離れているであろう海人の人柄を天秤にかける。
 天秤はしばらくの間ゆらゆらと動き、そして決心がついた。
 むにゃむにゃと中国史について説明をする高野が黒板に描かれた簡略化された地図に図を描き加えている隙を見た藤は、そっと海人の背中をシャープペンシルでつついた。かなり控えめな合図だったが、海人はすぐに気がついて肩越しに顔を後ろへ向けた。さすがに授業中にどうどうと振り返ることは憚られたらしい。
「昼、一緒に食べるよ」
 そう言うと、海人はにぃ、と笑顔を見せた。
「おっけ。じゃあチャイムが鳴ったら弁当持って着いてきて」
 海人はぴっと親指を立てた。

 終鈴が鳴り、やはり形式だけの礼が済むと藤はカバンの中から弁当箱を取り出した。濃い灰色をした円柱形で、保温ができるものである。
「よし、さっさと行くぞ」
 海人の言った通り何人かのクラスメイトが藤の行動を伺っていた。その中にはまさにこちらへ足を運ばんとする寅雄の姿も視界の端に映る。
「瀬見川、はやく!」
「あ、うん……!」
 椅子を戻さず教室後方の扉めがけて走る海人に遅れないよう、藤もまた弁当を抱えて教室を飛び出した。
 ひょっとしたら追いかけてくるかもしれないという藤の不安は杞憂に終わった。廊下に出てしまえばクラスメイトは誰一人追ってくることもなければ、あの寅雄でさえ行く先を見定めようと廊下に顔を出すことすらしなかった。

 リノリウムの床を鳴らしながら進み階段を下って渡り廊下で繋がれた先の特別校舎に海人のお気に入りのスポットがある。とはいえ、そこは単なる音楽準備室なのだが。
「ここ、鍵がバカになっててさ。ここをこうやって――ほら。開くんだ」
 海人は音楽準備室の扉を少し持ち上げるようにして扉を揺すぶった。するとすぐに、かちゃんと小さな音がする。懐柔された扉は簡単のその身を退けた。
 音楽準備室の中は藤が思っていたよりも明るかった。教室と同等か少し大きいその部屋はカーテンが引かれておらず窓から陽射しが差しこんでいて、普段の授業ではお目にかかることのできないような大きな打楽器が教室内の後方にまとめてあったり、その手前には吹奏楽部が使うのであろう楽器が入った黒いケースがずらりと棚に並べられている様子がやけに鮮やかに見えた。
「準備室って聞くとなんかほこりっぽそうって思うけど、ここは吹奏楽部が部室の代わりに使うからそれなりにきれいなんだよな。椅子もあるし」
 海人の後に続く形で藤も室内に入り、適当な椅子を拝借した。これも教室で使っているものと同じ鉄製の支柱に木板がくっついているものだ。
 二人は近すぎずかといって極端に離れているわけでもなく、また、向かい合うこともしないという中途半端な距離を保ってそれぞれが腰かけた。藤はどこを向けばいいのか悩んだ末、視線を膝の上に置いた弁当へ向けた。
「瀬見川って結構食べるんだ」
「え?」
 まったく予想していなかった質問をされた藤は反射的に顔を上げ、左側に視線を向ける。
「弁当箱。イメージよりデカいなって」
 そう言われた藤は自分の弁当箱と、海人の膝に載っている弁当箱を見比べた。確かにぱっと見の印象では海人のアルミ製の弁当箱よりも藤の保温タイプの弁当箱のほうが大きく見えた。
「これ三つ入るやつだから大きく見えるだけだよ。ほら」
 保温ケースの蓋を外して中から丸いタッパーを二つ取り出した。米用とおかず用だ。本来ならばさらに汁物用のタッパーを入れて三段重ねにするのだが、藤はいつも米とおかずだけ用意してもらっている。
「そういう仕掛けね! ビビったわ」
 海人はそれだけ言うと自分の弁当箱を開け、ぎゅうぎゅうに押し込まれた米をがばりと箸でとると口に運んだ。頬が膨らむほど大量の米を咀嚼する。
 口の中が米でいっぱいになると必然、会話ができなくなる。藤は海人と積極的に交流をする目的は無かったものの、会話がふっと途切れてしまって居心地の悪さを感じていた。膝に乗せた弁当を落とさないようにもぞもぞと椅子の上で姿勢を直してみても、海人にかける言葉は見つからない。海人は海人で砕けた雰囲気で話しかけたものの藤の反応が芳しくなかったため、次のアプローチを考える間は咀嚼を続けるしかなかった。
 しばらくは奇妙な空気が音楽準備室の中を漂う。
「あのさ、もし嫌だったらはっきり言ってほしいんだけど――」
 どこかぴりりとした空気が破られる。咀嚼と嚥下にしか使っていなかった海人の喉は変な緊張も相まってうまく動かず、少しだけ声が裏返ってしまった。おかしな声だったが、それが逆に海人が話そうとする内容が深刻なのではないかと藤の緊張を増長させた。顔を見合わせた二人は二人ともがぎこちない表情だ。
「その……瀬見川って、前の学校でいじめられたりとか、してた?」
「いじめ?」
 恐る恐る問われた内容は藤が予想していた内容とはまるでかけ離れており、海人の突拍子もない言葉に目を瞬かせた。
「答えたくなかったらマジで答えなくていいから!」
 海人は藤が口を開かず固まってしまったことにより自分の推測が的中したと思い、ごめんと慌てて頭を下げた。
「いやいや、謝らないでよ。だっていじめられてないし。ただ、どうしてその考えになったのか不思議に思っただけで」
 藤はぶんぶんと首を振って海人の考えを否定する。
「ほんと?」
「ほんと」
 真意を探るべくつい、海人はじっと藤の顔を見つめた。前髪が邪魔をしているものの、その奥にある目に嘘の色は見えない。
「ならよかったわ。だってこんな時期に転校してくるし、親の都合でも無いって言うしさ。で、極めつけはやっぱりあの自己紹介な。絶対に前の学校でトラブルあったんだろうなって思うだろ」
 はあ、と息を吐きだした海人は椅子の上で脱力した。
「ひとまずよかったわ、いじめが原因じゃないなら」
「勝手にいじめられっ子にするなよ」
「あんな自己紹介したらいじめは真っ先に疑うだろ」
「先走りすぎだろ、それは」
 改めて顔を見合わせた二人にふつふつと笑いがこみ上げてきて、ほとんど同じタイミングで吹き出した。二人分の笑い声は音楽準備室によく響いた。
「瀬見川っておもしれーのな。クラスの連中とも話せばいいのに」
「あのさ。その、名前で呼んでもらってもいい? 藤って。苗字……あんまり好きじゃなくて」
「藤ね。オッケー。俺のことも海人でいいよ――話は戻すけど、親の都合でもない、いじめでもないなら、藤がなんでこっちに来たのかますます分かんねえな」
 海人は箸を持ったまま顎に手をやり首を捻った。
「席が前後のよしみで教えてくれたりなんて?」
 ちらりと視線を右に向けると、かなり苦い顔をした藤がいた。
「答えたくないなら答えなくていいんじゃなかったの」
「それはいじめが原因だった場合な。それとも、いじめより言いにくい内容ってこと?」
「言えないわけじゃない……けど、話したって信じてもらえないだろうから」
「でも転校してくるほど深刻に捉えてるんだろ? じゃあ信じる。この時期の転校だって信じられない出来事なんだからさ」
 そこまで言うと海人は弁当箱から卵焼きを選ぶとそれを口に放りこんだ。再び咀嚼がはじまり、藤は卵焼きを飲みこむまでの間に答えを出せと言われているような気がした。
「簡単に言うと、逃げてきた」
 海人の口内がからっぽになるのと同時に藤が答えた。
「逃げてきた?」
「うん。何からっていうのは説明しにくいんだけど、とにかくあっちにいたくなくて。ここが安全かどうかは分からないけど、気分的には楽ってことで」
「てことは、相手は地元に残ってるんだ。まあ、転校先まで追いかけてくるのは難しいか」
「だといいなってレベルだけどね。でも、こっちに越してきてストレスはかなり減ったかな。やっぱり都内はビルばっかりで助かるよ」
 気だるげに息を吐きだした藤は窓の外に視線をやった。教室のある本校舎の奥には太陽光をぎらぎらと跳ね返す銀色のビルがにょきにょきと立ち並んでいる。東京都新宿区。都会の代名詞とも言える街は藤のいた長瀞とはまったく異なる喧噪に包まれていた。車の排気音。往来の人の声。サイレンやクラクション。コンクリートに囲まれた世界に安心を覚える。耳をそばだてても聞こえてくるのは人工的な音ばかりだ。そんな藤の耳に予鈴のチャイムが届いた。



 初めてセミの羽化を見てからというもの、僕は夏になる度に様々なセミを観察した。成虫はもちろん、羽化する様子もたくさん見た。セミの羽化は何度見ても神秘的で美しかった。寝ても覚めてもセミセミとうるさかった僕のことを見た母が「セミに取り憑かれてる!」と呆れたように言っていた。
 母の言葉は真実を言い当てていた。
 その日……忘れることなんてできない、十三歳の夏。七月二十二日。
 例年と同じように僕は辺りが真っ暗になるぎりぎりの時間までセミの観察をしていた。近所の公園に入り浸って地面に膝をついて目を凝らし、羽化のために地表に出てくるセミの終齢幼虫を探した。
 種類にもよるが、セミの終齢幼虫はだいたい三センチ程度だ。けれどこの日に僕が見た幼虫は目を疑うほど大きかった。目測で五倍、およそ十五センチほどの大きな幼虫がのそのそと地面から這い出してきた。
 目を疑った。
 これはセミではなく別の昆虫かもしれないと思ってじっとその幼虫を観察したけれど、姿形はもちろんのこと、動きもセミとそっくりだった。違うことはその大きさと、体の色がなんだか赤みがかっていることだけ。まだ十三歳で知識も少なかったから、僕の知らないセミがまだいたんだと胸を躍らせたことをよく覚えている。もちろん、新種のセミなんかではなかったんだけど。
 終齢幼虫は体をすっかり地面から出すと、まるで僕が見ていることを知っていたかのようにゆっくりと旋回し、僕のほうに向きなおった。手のひらにすっぽり収まるサイズで見るから愛嬌がある顔も、五倍の大きさでは不気味に見えた。高揚は一瞬で消えていた。
 塗りつぶしたように黒い眼が僕を見ていた。
 セミの左右に付いている黒い眼は複眼なわけだから、つまり僕はこの時数万の視線をぶつけられていたわけだ。そんな数の視線を一度に集める人間なんて、トップクラスのアイドルくらいだろう。たかが中学一年かそこらの子供がそれに耐えられるわけがない。背中にすう、と汗が流れた。筋肉は動き方を忘れてしまったように固まっていて動けないし、その間にも終齢幼虫はじりじりと僕の方へ這ってくる。
 引きつった喉は声を出せず、ただ必死に浅い呼吸だけを繰り返した。
 セミの終齢幼虫が、僕のすぐそばまで来ていた。陽が暮れ行くにつれて深まる闇のせいで遠目からは気づかなかったが、想定に反して大きな幼虫は体を震わせているように見えた。しかしそれもすぐに間違いだと気がついた。
 間近で見るそれは不気味な形をしていた。
 通常の大きさの幼虫が重なるようにしてくっついている。アブラゼミの幼虫、クマゼミの、ニイニイゼミ、ツクツクボウシ、ミンミンゼミ……あらゆるセミの終齢幼虫がひしめき合ってい一つの個体を成していた。幼虫はそれぞれがもぞもぞと動き、一つの塊はゆっくりと僕に向かって六本の脚――脚を形成している幼虫を動かした。
 声なんてとても出せなかった。呼吸をしていたかすら、覚えていない。夥しい数の視線を受けながら止まったような時が早く過ぎることばかり祈っていたように思う。
 ジ、と音がした。セミが腹を震わす音。けれどそれはオスの成虫が鳴らすものであって、雌雄の判別のできない……そもそも無数にいるせいで意味はないのだけれど、目の前の光景からはありえない音だった。それでも音は確かに聞こえた。ジ、と。そしてその音はジジ、ジジジ、シャンシャン、カナカナにぃにぃちっちと振動回数だけではなく音の種類をどんどんと増やしていった。
 指先ひとつ動かせず、暑さから出るものとは違う汗が額からにじみ出て頬を伝った。
「ジジジッ」
 完全に沈もうとする夕陽を受けてぬらりと光った丸い複眼が、にゅうと細められた。
 笑った――そう感じた。
 僕の記憶はそこで途切れている。



 一通り授業を終えた海人は汗を流して部活に励む学生を横目に見ながら正門を抜けた。陽射しこそ強いものの、やはり肌で感じる気温はそこまで高く感じられない。夏のようで夏ではない不思議な感覚だ。
「あれ、海人は部活してないんだ」
 後ろから声がして振り返ると、藤がいた。
「うん、俺はバイトしたいから。まあ今日はバイトが休みだから完全に帰宅部だけどね」
「バイトかぁ。こっちは選びたい放題なんだろうな」
「藤はバイトとかしてなかったの?」
「バイトって言えばバイトだけど、半分は手伝いって感じかな。僕が住んでたところは本当に観光地ど真ん中ってところでさ。長瀞って自然がメインの観光地でしょ? だから家の近くだとお土産屋かカフェで売り場に立つか、ラフティングの受け付けするかくらいだったかな。店をやってる家は小さい頃から知ってるところばっかりだし、バイトって言うよりはほんとうに忙しい時に呼ばれてお小遣いもらう感覚かも。車を走らせてまでバイトしたくなかったから、バイトらしいバイトはしたことないかも」
「へえ。じゃあ何か探してみる? よかったら俺のバイト先紹介するし」
「遠慮しておく。あんまり人と関わりたくないし」
「それ! どうして関わりたくないんだよ。俺とはこうやって喋るようになったのに。そうやって普通にコミュニケーションとればいいじゃん。逆にいじめられるかもしれねえよ?」
「逆にって……高校二年生にもなっていじめなんてするほど馬鹿じゃないだろ。受験だって控えてるんだし。この学校、進学校とまではいかないけどそこそこな大学への進学する人、多いんでしょ」
「さあ? あんまりその辺を意識して学校選んだわけじゃないからなぁ。それだけ詳しいってことは進学を視野に入れてこの学校を選んで転校してきたってこと?」
 転校と言う単語が出るとすぐに藤の足がぴたりと止まった。海人と藤の間に数歩分の距離ができる。
「この学校を選んだのは――」
 立ち止まったままの藤は左右を見回した。片側二車線の道路は広く車がひっきりなしに走行している。その道を縁取るように背の高いビルが立ち並んでいる。空気はお世辞にも澄んでなどいないし、人が多くてごみごみとしていて窮屈だ。
「都会のど真ん中だからだよ」
「はあ? なんだそりゃ。いや、待てよ……昼ン時も似たようなこと言ってたよな」
 海人はそこが往来だということも忘れ、額に中指と薬指を当てて記憶を辿る。これは何かを思い出そうとするときの海人のクセだ。
「ビルばっかりだからいいって言ってなかったか?」
「そうだね。ここはビルとコンクリートばっかりだからいいと思ってる」
「普通は自然がたくさんあるほうがいいって言いそうなところだけど……ってことは、藤が逃げて来たのは自然から……? 近々、デカい災害が来る、とか?」
 額から手を離した海人がいたずらっぽく言えば、藤はふ、と口元を緩めた。
「なんだよそれ。僕は予言者なんかじゃないよ」
「じゃあどうしてだよ。転校先での友達第一号に教えてくれよ。奢るからさ」
 海人はおどけた様子を続けながら、数メートル先にあるハンバーガー屋を指さした。



 自分で誘っておきながら、海人は自分の誘いに藤が乗ったことに内心驚いていた。
「この店、来てみたかったんだよね」
 藤はトレーにハンバーガーとポテト、ドリンク(どちらもLサイズにアップした)、デザートのサンデーを乗せてご満悦だ。自分もハンバーガーのセットを頼んだので給料日前の海人の財布はややピンチになったものの、奢ると言った手前サイズアップとデザートは勘弁してくれとは言えなかった。
「じゃあさっそくだけど、藤が転校してきた理由を訊かせてもらおうか」
 海人は向かいに座る藤をじっと見据えた。藤はと言えば、席に着くやいなや包装紙を剥いて焼き目のついた大きなパティが二枚も入ったバーガーにかぶりついており、頬をいっぱいに膨らませながら首肯した。昼休みとは対の光景だ。
「転校理由ね。うん……」
 口の端に付いたソースを指で拭った藤はふん、と鼻から息を吐きだした。
「昼にも言ったけど、逃げて来たんだよ」
「そこが気になるんだよなぁ。何から逃げて来たって言うんだよ。同級生? ご近所さん?」
「答える前にひとつ約束して」
「おう」
「僕はふざけてないし、海人があんまりしつこく訊くから言うだけだから。何から逃げてるか分かっても笑わないで」
 藤は真剣に言うが、ストレートカットの厚いポテトを摘まんでいるせいで威厳は薄い。
「笑わない。約束するよ」
「僕は……セミから逃げてるんだ」
 セミ。蝉……? 海人の頭の中に夏の風物詩である昆虫がぽんと浮かぶ。
「セミって、あのセミ? ミンミン鳴く?」
 海人はセミを表そうと肩の横で両手を小さくぱたぱたと動かした。
「そう。そのセミ」
 その動作に特に指摘をすることはせず、藤は持っていたポテトを口に放りこんだ。
「セミから逃げるって、またどうしてだよ。あれって日本中にいるだろうから、新宿(こっち)に来たって一緒じゃない?」
「まあね。逃げきれてるとは思ってないけど、長瀞(あっち)よりは断然いいよ。まず木が少ないし、気温も高いからセミが鳴いてない」
「それで都会がいいってことか」
「そういうこと。引っ越してくるまではセミの鳴き声を聞くだけで気分が悪くなるくらいだったから」
「はー。大変なんだな。俺はまあ、そこまで苦手ってわけじゃないけど、妹がすげえ虫嫌いだから藤の気持ちも分からないでもないかなぁ」
「僕の場合はちょっと特殊なんだけどね。ここから先の事情こそ、海人が知りたかったことだよ」
 藤はすっと海人に向かって手を差し出した。
「なんだよ、この手は」
「ここから先を知りたかったらポテトをもう一つ奢ってよ」
 海人が机に目をやれば、いつの間にか藤のトレーの上のポテトが空になっていた。
「おまえ……っ! そんなの詐欺だろ、詐欺!」
 差し出されていた藤の手のひらをばちんと叩くと、藤はからからと笑った。
「ははっ、冗談だよ。ポテト買って来るから待ってて。ちゃんと話すから」

 新しいポテトをトレーに載せて戻って来た藤の話はにわかには信じがたいもので、藤の小学三年生から中学一年時にあった出来事を聞いた海人は腕を組んで考えこむほかどうしようもなかった。
「ちゃんと受け止めてくれたのは海人が初めてかも」
 語り終えた藤はジュースをずず、と音を鳴らして啜った。
「笑わないって約束したしなぁ……まあ、それ以前に現実感が無くて笑えるほど理解できていないって言ったほうが正確か?」
「いきなりデカいセミの化け物に狙われてる、なんて言われたら普通はこっちの頭を疑うよね。うちの親もそうだったし」
「じゃあ精神科とかに連れていかれたり……?」
「そこまではっきりと分かるところには連れていかれはしなかったけど、親の知り合いのカウンセラーには会ったかな。ほら、田舎の小さな町だからさ。よくない噂はすぐに広がるイメージがあるでしょう? あれは本当のことだから、僕みたいにヘンなことを言いだしたやつが出たらまずは内々で処理しようとするわけね」
「なーるほどね。ご近所さんは半分家族的な? 俺はマンションに住んでるんだけど、二部屋となりの苗字すら知らないわ」
「そういう無関心なところも都会の良い所だよね。田舎は田舎の良さがあるけど――とまあそんなことがあって、紆余曲折したものの親も僕の言っていることが嘘じゃないって分かったからこんな時期だけど無理やり引っ越ししてくれた……それが転校の理由」
「親が信じたって、どうやって説得したんだよ」
「説得なんてしてないよ。ただ、六月の終わりくらいからかな。家の周りに大量のセミの死骸が落ちていたり、夜中でもセミの鳴き声が聞こえるようになったってだけで。あぁ、でも家の壁全部にセミがとまって真っ黒になっていたのは怖かったかな」
 海人の手から口に入れるはずのポテトが滑り落ちた。
「なんだよそれ……」
「ヒグラシなんかは結構早くから鳴くんだよ」
「いや、そう言うことじゃなくて! そんな気持ち悪りぃことが起こってたのか? 毎年?」
「ううん。それは今年になってからかな。最初にセミを見たのが九歳で、次が十三のとき。で、今年は特におかしい。だからあのセミは四年周期で羽化してると思うんだ。セミとして見れば打倒な周期なんだよね。孵化して幼虫になり、地上に出て卵を残す。ただ、僕の考えではあのセミは一匹でそれをずっと続けてると思うんだ」
 どういった心境で解説をしているのか、海人にはまるで見当がつかなかった。
「じゃあとりあえず今年をやり過ごせたら、むこう四年間は平和に過ごせるってことか……。セミから逃げるって意味じゃあ新宿はうってつけかもしれないけど」
 コンクリートとアスファルトに囲まれた街とはいえ、しかし街路樹や公園はある。海人自身もう何年もセミをはじめとした季節の昆虫など蚊すら見るかどうかといった程度だが、こちらに越してきたから安心とは言い切れないのではないかという思いと、そもそも藤はそんなことははなから了承済みで心的負担を少しでも軽くしたくてこちらへ来たのではないかという憶測が交差する。
「少なくとも、こっちに来てからはセミの死骸や鳴き声に困らされることは無くなったから、思い切って引っ越しをしてよかったとは思ってるよ」
「そっか……」
「これで完全に断ち切れていたら万々歳。こっちまで追ってくるようなことがあったら……その時はどうするかなぁ。また引っ越すとしても、国内じゃあ東京が一番自然が少ないだろうし、次は大阪とか……? いっそセミが生息できないくらい寒いところに行こうかな。ノルウェーとか」
「ノルウェーに行くのはまあ、藤の自由だけどさ。原因を根本から断つってことは考えなかったのかよ。セミを捕まえて剥製にするとか。昔博物館でみたことあるんだよ。デカい額みたいな箱に虫がずらっと並べられてるやつ」
 海人は真剣な意見として述べたのだが、海人の提案を聞いた藤は目を瞬かせた後、肩を揺らすほど笑った。店内にいる客の視線が二人に刺さるが藤は気にしていないらしく、海人は耳を赤くした。
「なんだよ。おかしいか?」
「おかしくないけど、おもしろいね。海人が見たのってきっと昆虫標本だよね。蝶とかカブトムシとかを細いピンで固定してるやつ。いやあ、標本にするって考えはなかったな」
「じゃあそいつを捕まえてみようぜ。それでピンで固定してやればいい。さすがに身動きが取れなくなったら降参するだろ」
「まあ、悪くないアイディアだけど却下かな」
「なんでだよ。悪くないならやってみればいいじゃん」
「だって僕は会いたくないんだから。見たくないんだ。セミを。あんなに好きだったけど、今は写真やイラストでも視界に入れたくないし、できることなら口にするのも嫌なんだ」
 そういう藤の目があまりにも暗く沈んでいたので、海人はそれ以上ふざけることも勇気づけることもできなくなってしまった。
「あー……だから名前で呼んでくれって言ってきたのか」
 昼休憩の際に藤が苗字が嫌いだと言っていたことを思い出す。漢字は違えど『瀬見川』という苗字には『せみ』という音が入っている。
「そういうこと」
 なにかもう少し藤の力になれないものかと思案する海人を余所に、藤はひとり椅子から立ち上がった。
「このことは誰にも言わないでね。まあ、言ったところで信じる人なんていないだろうけど。じゃあ、今日はごちそう様」
 食べ終えたゴミを載せたトレーを持った藤は、海人のほうを振り返ることなくハンバーガー屋を出て行った。ひとり残された海人は食べるものも飲むものも無いというのにその場でしばらく呆けていた。



 藤が転校してきて三日が経った。
 転校初日の刺々しさはやや薄れたようで、藤は海人以外のクラスメイトともそれなりに会話をするようになっていた。相変わらず寅雄のことは苦手なようだが、海人の目線からはうまくいなしているように見えた。

 ハンバーガー屋で藤の転校理由を聞いてからというもの、海人の頭の隅にはずっと藤とセミの奇妙な関係のことが引っかかっていた。考えたところで答えがでるわけではないけれど、もしも自分が藤だったら……という妄想をつい、膨らませてしまう。
 海人は生まれも育ちも東京都で自然と触れる機会は少なかった。母方の祖母が岡山県に居るので夏休みに遊びに行ったりもしたが、中学で入部したサッカー部の練習量が多く、長期休暇だろうが練習優先で遠出をしなくなり今となっては自然と触れ合った思い出は遠く薄い。さらに、これはほとんどの人がそうだとは思うが、怪奇現象に遭遇したこともない。都市伝説の噂は耳にすれどあくまで噂でしかなく、エンターテイメントの域をでなかった。むしろ科学的に説明がつかないものよりもひったくりや詐欺、痴漢冤罪のほうが身近な恐怖だ。職務質問を受けている人を見かけることは度々あるし、いきなり大柄な外国人に話しかけられて行く手を阻まれたりしたこともある。人工物と自然。都会と田舎。事件と怪奇現象。海人と藤はまるで真逆の存在だ。
 対になるほど真逆の存在だとしても、理解できる箇所もある。それは家の周りにセミの死骸が散乱していることに対する不気味さや、夜中でもセミの鳴き声が聞こえるという異常さだ。いくら都会に虫が少ないとはいえ、ゼロなどということはない。近年インターネットでは夏の風物詩としてセミならぬセミファイナルという単語が上がるくらだ。これは生死の判別がつかぬセミのことを指す。毎年このセミファイナルに肝を冷やす人は多く、セミが生きているのか死んでいるのかを判断するポイントが解説されるほどである。
海人の家にも毎年とは言わないが、セミの死骸が玄関先に転がっているときがある。それを母や妹が見つけたとなれば家にゴキブリが出たときと同じくらいの大騒ぎになる。たった一匹でそれなのだから、いくら田舎住まいでセミに慣れているとはいえ、大量のと言いたくなるほどセミの死骸があったら泡を吹いて倒れてしまうかもしれない。夜中までセミの鳴き声が聞こえるというのも不気味だろう。
 夜中でもセミの声が聞こえるというのも妙な話である。海人の知る限りセミは日中に鳴く昆虫で、夜は静かなものだ。単純に生き物としての道理に反しているという不気味さもあるが、それよりも夜間にセミの鳴き声がし続けたのでは寝不足になりそうなものである。セミではないが、海人の部屋の真上に住む住人が夜中にトレーニングをしていたことがあり、まったく寝つけなかったり眠りが浅かったことがある。これに関しては管理会社を通して忠告が入り改善したが、相手が人間ではなく得体のしれない昆虫……例えそれが本来のセミであったとしても苦情を伝えて鳴くのを止めてもらうということはできない話だ。
 言葉が通じるというアドバンテージを噛みしめたところで手元に影ができていることに気がついた。顔を上げると担任の高野が海人を見下ろすように立っている。
「久芍井。俺の声が聞こえないくらい真剣に何を考えてたんだ? ん?」
 高野の手には教科書がある。海人は今が授業中だということも忘れて妄想に没頭してしまっていたことに気づき耳がかっと熱くなる。
「すみません……」
 頭の中で繰り広げていたことを正直に答えられるはずもなく、そう絞り出すのがやっとだった。
「夏休み目前だからって浮かれるのは早いぞ」
 教室内にくすくすと小さな笑い声が舞う。
 明日の終業式を終えたら、夏休みがやってくる。
藤はどうするのだろう。
注意されたばかりだというのに、海人の頭はすぐに思考の海へと沈みだした。

翌日、藤は学校を休んだ。



 夏休みがはじまり、海人は予定通りバイトに勤しんだ。
 海人のバイト先は学校からほど近い場所にあるコンビニだ。
普段は週四日・四時間勤務なのだが、夏休みの間は出勤時間を二時間前倒しにしてもらい、週四日の六時間勤務でシフトで勤務している。
 買いたいものがあるとか、遠くに旅行に行きたいとか、そういった目標のようなものは無い。家にいてもしかたがないしかといって友達と頻繁に出かけられるほど海人の家は太くない。高校に入ってからも部活でサッカーを続けるということもできたが、海人の予想以上に大玉平高校サッカー部は部活に熱心だった。すると必然、時間を消費しながら賃金を得られるバイトに比重が傾くというもの。それに目標はなくとも、通帳にゼロが増えていくさまを見るのは気分が良かった。

 夏休みということもありコンビニに来る客は学生が多かった。先ほどから小学生グループが数組アイスを買いに来店している。
 海人はレジに立ちながら楽しそうにアイスを吟味する小学生を眺めた。
 日焼けをしている子は少なく、帽子や日傘を持っている子が目立つ。今年は例年に比べて涼しいが、やはり昨年のような猛暑が記憶にこびりついているのだろう、室内で遊ぶ子が多いように感じた。それでもやはり溌剌とした子は小さな虫かごを持っている。少し離れたところに新宿御苑はあるが、あそこは確か昆虫採集などはできなかったはず……となると、この近辺で観察できる虫などたかが知れている。海人の記憶に強くあるのはガやハエなどの害虫ばかりだ。季節を踏まえればセミの声くらいは聞こえるかもしれない。
 セミ――海人の記憶が連鎖して藤の顔が浮かぶ。
 藤と顔を会わせたのは終業式の前日が最後になっている。
 終業式を休んだ理由は気になったのだが海人は藤と連絡先の交換をしていなかったし、夏休みが始まるまさにその前日に突然休むなんて思いもしなかった。
 気がかりというものは厄介で、ついさっきまではすっかり記憶から抜け落ちていたというのに途端に藤のことが気になって仕方がなくなった。仕事に集中しようとしてもふとしたことをきっかけに思考がセミや藤に収斂する。
 藤は大丈夫なのだろうか……。
 結局退勤するまで気もそぞろだった海人はレジ誤差が無かったことにほっとしつつ、足を自宅方面ではなく学校へと向けた。
 遠くでジジジジとノイズのような音が聞こえた。

 サッカー部をはじめとした熱心な部活が多いおかげで校門はまだ開いていた。先に見える校舎にも明かりが灯っているので、教師はまだ残っていそうだ。
 海人は私服であることに躊躇いを感じながら昇降口を抜け、来客用のスリッパを拝借して廊下を進んだ。職員室は昇降口を左に折れてすぐである。
「失礼します」
 引き戸を開けると数人の教師が顔を上げた。普段と比べると教師の数はうんと少ないが、幸いなことに顔を上げた教師のなかに担任の高野もいた。
「久芍井。どうした」
 こいこいと手招きをされ、教科書やら書類やらが山と積まれた高野の席まで向かった。
「なんだ。宿題でも忘れていったのか?」
「いえ、宿題は全部持って帰ってます――今日はちょっと、訊きたいことがあって」
「訊きたいことときたか。困りごとか?」
「えと、瀬見川のことなんですけど」
 藤の名前が出ると高野の眉が僅かに動いた。
「瀬見川、終業式の日に休んだじゃないですか。それで俺、あいつに貸してたものがあって、それを返してもらいたいんですよね。でも連絡先を知らなくて、ダメ元なんですけど、瀬見川の住所とか教えてもらえないかな……って」
 海人は高野の様子を伺いながら話をでっちあげた。藤には何も貸していないのだから返してもらうものないのだが、これが一番手っ取り早く藤の連絡先を知る方法だと思ったからだ。それに加え、海人は高野から直々に転校生である藤のサポートを頼まれているという強みもあった。
 高野は天井を仰ぎしばらく顎を撫でた。個人情報の取り扱いが厳しいこのご時世である。いくら自分が担任として受け持っているクラスの生徒が同じクラスの生徒の連絡先を知りたいと言ってもそう軽々と電話番号やら住所やらを教えるわけにはいかない。それは海人も理解していた。理解してはいたが、季節外れの転校生とそのサポートを積極的に行っている生徒というイメージに流されてほしいとも願った。
「そうだなあ。イエスかノーかで言えば、ノーだ。久芍井が瀬見川のサポートをしてくれて助かってはいるが、だからと言って瀬見川に無断で個人情報を教えることはできない」
 近年の教師はやはり規則に従順――に思われた。
「あー……そうそう。ちょうど瀬見川に渡したいプリントがあってな。それをこの後持っていくんだ。少し待ってもらうことになるけど、一緒に来るか?」
「はい……! 俺、待ってます!」
 高野の機転に頭を深々と下げた。

 大玉平高校を出て歩き、丸の内線の改札を抜ける。海人が普段使う方向とは逆方向のホームで電車に乗りこんで三駅先が藤の最寄り駅だった。
 近場と言えば近場だが、海人はあまり来ない方面だ。高野の後に続いて道を進む。
 駅から歩いて十分程度のところにある住宅街に入りこんだ。坂道が多く、モダンな造りの住宅や集合住宅が目立つ。高野が足を止めたのはそんな小洒落た家々の間にちらほらと残っていた古ぼけた家のうちのひとつだった。

 家は狭い土地に窮屈そうに立っていた。
 海人は建築物に興味がないので詳しくは分からないが、築年数はかなりのものに見える。
 二階建ての家で、向かって左手に軽自動車ならなんとか停められそうな駐車場があり、反対側には一階の掃き出し窓のおまけのような庭がある。庭とは言ったものの、実際は一面に雑草が生い茂っているので空き地と言ったほうがイメージは近い。外壁は薄汚れて白さを失っており、庭に突き出すように飛び出たベランダは柵の一部が折れている。人が住まなくなった家を解体するより、なんとかして金を得る装置にしたくて借家にしたという雰囲気がぷんぷんする。玄関口に近いところには控え目な花壇がある。ここはコンクリートブロックがあるせいか、雑草に浸食されていないけれど、しかしその中にあるのは乾ききって白っぽくなった土だけだ。インターホンの隣に埋めこまれた表札の上には手書きで『瀬見川』と書かれた、表札代わりの白いプラ板が貼られている。ここが現在の藤の住居であることは間違いない。
 高野の太い指がインターホンを押した。家の中からどこか懐かしさを感じるメロディーが流れ、少ししてから安っぽいマイクを通して女性の声がした。
『はい、どちら様でしょうか』
「こんばんは、瀬見川君の担任をしております高野です」
『あら、あらあら。少々お待ちくださいね。藤、ふじー! 先生が来てるわよぉ』
 藤の母親と思われる声の主はインターホンを切らぬまま藤を呼び出した。
『先生が? え? ちょっと、これ、切れてないじゃん』
 ガサガサとした藤の声がして、それからすぐにどたどたと慌ただしい足音共に玄関が手前側に開かれる。
「すみません母が……え? 海人……?」
 モスグリーン色のTシャツに黒い半ズボン姿で現れた藤は分かりやすく狼狽えた。学校では下ろしている長い前髪を横に流しているのでいつもより感情が掴みやすい。
「よお」
 高野のななめ後ろに控えていた海人はぎこちなく手を上げたが、藤からのリアクションは返ってこなかった。
「瀬見川。これ、渡しておかなきゃなと思ってなあ」
 肩掛けカバンから取り出したプリントを受け取った藤の眉間に皺が寄る。
「先生、このプリントもう貰ってますよ」
「ありゃ、そうだったか! じゃあ俺の勘違いだったな。万が一、と思って持ってきたが杞憂で良かったよかった。じゃあ俺はこれで帰るから」
 あっはっはと大げさに笑ってみせると、高野は踵を返して海人に向かってウインクを飛ばしてきた。高野は普段から軽いイメージの教師だが、今日は一段と茶目っ気が強い。海人はそんな高野の行動にやや困りながらも会釈をして高野を見送った。
 玄関先には海人と藤だけが取り残された。
「プリントは建前で、用があったのは海人ってことね」
 深い溜息を吐いた藤はじろりと海人を睨んだ。
「そんな怖い顔するなって。急に休んだら気になるだろ、普通。連絡先も知らなかったし」
「だからって先生を使って家を突き止めるのはやりすぎじゃない?」
「ダメ元が通っちゃったんだよね、これが」
 相変わらずじっとりとした目を止めない藤を前に、もはや海人は開き直るしかなかった。
「まあ、藤が元気そうでよかったわ。バイト中に急に気になっちゃってさぁ」
「海人が気にしたってしかたないのに」
「それがそうでもないんだなぁ。ひょっとして、と思うとバイトに集中できなくて大変なんだよ」
「クラスメイトのことが気になって仕事が手につかないって変だろ。もっと仕事熱心になったほうがいいんじゃない?」
「そうやってつんけんするってことはやっぱり……アレ関係で休んだってこと?」
 自然と声のトーンが低くなる。藤の顔に分かりやすく影が落ちた。
「そうだよ」
 藤は吐き捨てるように言うと、おもむろに指をさした。それが何を示しているのかと海人が視線をやると、指の先にはあの土だけの花壇があった。
「花壇? 何かあるの?」
「出てきたんだ、そこから」
 藤は何がとは言わなかったが、それは十中八九セミだろう。
 花壇のわきにしゃがみこんで改めてじっくりと花壇を観察する。
 じっくりと観察してみても印象は特に変わらず簡素な花壇だとしか思えない。コンクリートブロックを二段に積み上げて囲いを作り、その中に土を入れているだけの簡単な造りをしている。大きさもチューリップが三株も入ればいい程度しかなく、土が入っていなかったらこれを花壇だとは誰も思わないだろう。完全に干上がっている土は白っぽくなっていて、ここに草花を植えたとしてもすぐに枯れてしまいそうだ。家自体もそうだが、この花壇も時の流れと長年人が住んでいなかったことを物語っている。
「ん?」
 とても生命を育めるとは思えないその花壇の中に丸い穴を見つけた。陽が傾いてきたせいでよく見ないと分からないのだが、親指くらいの太さの穴が二つぽっかりと空いている。
「普通さ、セミの幼虫は公園みたいな木が多いところにいるんだ。間違ってもこんなところにいるわけがないんだ。なのにこの花壇からはセミの幼虫が出てきた」
「似たような虫の幼虫だったんじゃなくて?」
「コガネムシの幼虫が似てなくもないけど、コガネムシはセミと違って土の中で羽化するから、蛹の段階でわざわざ地上に出たりしないよ」
「なるほどね? じゃあ藤が見たのは間違いなくセミの幼虫だったわけだ。で、その出てきたセミはどうしたんだよ」
「どうするもこうするも、何もできなかったよ。学校に行こうとしたら花壇から這い出てくる幼虫が目に入ってさ……怖くて玄関を閉めてそれっきり。昼過ぎに覗いたら幼虫は玄関の前で死んでたし、気がついたらそれも無くなってたよ」
 自然と二人の視線は玄関口に向いた。
「えーと、それはつまり……藤のことを追いかけて来てるってこと……?」
 気温が下がったとはいえ、まだ七月の後半である。それなのに海人は首の周りがやけに冷やっこいきがしてぶるりと体を震わせた。その振動で頭皮から垂れた汗が首を伝い背中に流れた。
 つう、と滑り落ちる汗に合わせるようにして音がした。
 鼓膜を震わせる音はモーターが回転数を上げるように徐々に強く、そして速くなっていく。
「これって……」
 ジジジと激しく響く音は紛れもなくセミの鳴き声だが、いまや耳を手で塞ぎたくなるほどのボリュームだ。セミが何匹も集まればこれくらいうるさくなるのかもしれないが、音の上がり下がりは一定で複数匹が自由に鳴いているとは思えない。
 音の出所を探そうと辺りを見回したが、辺りはどんどん暗くなるのでとてもじゃないけれどセミを探すことなどできなかった。
「あっ」
 しかしそれは海人だけだったようである。
 顔を真っ青にした藤が一点を見つめている。玄関から見て右手――控え目な駐車場がある方向に藤の顔が向いている。海人が振り返るようにして視線の先を見る。隣の家のサンルーフの上だ。そこに大きな影がある。
「は?」
 じっと目を凝らすと、影がひし形のような形をしていることに気がついた。横に長いひし形で、左右の端はもう途切れてしまいそうな僅かな夕陽をぬらぬらと反射する球体がくっついている。中央下部は少し膨らんでいて、細いものが下に向かって伸びている。反対に、上部は奥に向かって緩やかに膨らんでいた。
 セミだ。
 セミのバケモノがいる。
 サンルーフに載っているものは、桁違いに大きなセミだった。
 海人の記憶にあるセミは木の幹にくっつくようにして縦に止まっている姿だったため、すぐに影の正体に気がつかなかったのだが、腹這いの恰好でこちらを見下ろすような姿勢でセミがサンルーフの上にいる。頭の大きさから考えると、最低でも二メートルはありそうなほどに大きい。
「こ、これ? ねえ、藤?」
 巨大な眼球に見つめられて体が竦む。恐怖で固まった体を動かすことは容易ではなかったが、自分以上に藤のほうが鮮烈に恐怖を感じているはずだと信じた海人は嫌がる体を無理やり動かして藤の方に顔を向けた。
 藤は喉元を手で押さえていた。暗がりでも分かるほどびっしりと汗が顔に浮かんでいることが分かる。体が不自然に震えており、ひゅっひゅっとできているのか怪しい呼吸音がどんどん速くなる。
 藤を見る海人の頬にセミから視線が突き刺さる。鳴き声は止まず、世界がその音で覆いつくされたようにすら感じる。音の重圧で潰されそうだ。
「藤……っ」
 かくんと藤の膝が折れたのと、海人が地面を蹴ったのは殆ど同時だった。
 藤とコンクリートの間に殆どスライディングのようにして体を滑りこませた。意識の無い人体が容赦なく海人の背骨に負荷をかけた。
「藤! 大丈夫か!」
 下敷きになったまま声をかけるが返事は無い。せめて家の中に藤を非難させたいのだが、海人の左手は体の下で圧迫されておりうまく立ち上がれない。
 海人が声を張り上げて藤を呼ぶ間もセミは鳴き止まないでいる。
 激しく鳴るモーター音のような鳴き声に、もう一つ音が混ざった。どるどると車のエンジンを吹かすような低い音……可動域が限られた中で海人は音のする方向へと顔を向ける。
「嘘だろ……」
 薄暗い空に大きな黒い影が浮かんでいる。
 セミが羽ばたいたのだ。四枚の薄い翅を忙しなく動かし宙に浮いたセミは六本の脚をクレーンゲームのアームのように曲げ、翅の動きに見合わないほどゆっくりと海人の方へ飛んでくる。血管のように張り巡らされた翅脈が光に透けた。そのセミの翅脈はまるで無数の眼球が並んでいるようで、海人の全身に一斉に鳥肌が浮かぶ。
 セミはゆっくりと飛来し、そして海人の上に横たわる藤の上に着地した。まるで不格好な寿司のようだ。
 その不格好な寿司のシャリ――つまり海人からは何が起きているのかが全く見えないのだが、不安定な背の上で藤とセミがぐらぐらと揺れ、さらには藤の叫び声まで聞こえてきた。
「藤! 大丈夫か? 藤!」
 名前を呼ぶが藤は応答せず、ただ苦し気に声を漏らすばかりだ。このままでは藤を助けることはおろか、自分まで圧迫によるダメージで最悪死に至る。海人はだんだんと痺れだした左手に無理やり力をこめて上体を僅かに起こす。
「くそっ、重てえっ……」
 腕はすぐさま震えだしたが、気づかないふりをして肘を伸ばしきる。傾斜のついた背中から藤の体がずり落ちた。ジ、と大きな声もした。
「藤!」
 セミと藤の下から這い出した海人が見た光景はこの世のものとは思えなかった。
 横倒しになった藤とセミがくっついている。
 人間よりも大きく、乾いた血のように濃い赤色をしたセミが毛の生えた脚で藤の体をむんずと掴み、腹をしきりに藤の下半身に押しつけている。
「うえ、えぇっ」
 海人はセミの交尾を見たことがなかったが、いま目の前で繰り広げられている行為が交尾であると本能的に確信した。

 その異質さに、
 その不可解さに、
 その生々しさに、
 その妖艶さに、

 海人の脳は情報を処理しきれず体が拒否反応を示し、胃の中身を一気に吐き出した。周囲に鼻を突く胃酸の臭いが漂う。その臭いでもう一度胃が痙攣し胃酸が喉を焼いた。汚れた口元を手の甲で拭う。
「離れろっ! この……っ!」
 海人は靴を脱ぐとセミのバケモノに向かって投げつけた。的が大きいのでコントロールがあやふやでもセミの羽にぼんと当たった。
 靴をぶつけられたセミはジジと声を上げると動きを止め、真っ黒な目を海人に向けた。
 二つの眼球に見つめられているのに、どうしてかそれ以上……クラスの前で発表をするときよりも、中学時代、サッカー部が地区のベスト十六に入った時に全校集会で登壇させられた時よりもずっとずっと視線の数が多いと感じた。生唾を飲みこむ喉がひりひりと痛む。
「離れろよ……!」
 泣き出したくなるほどの視線の重圧になんとか耐え、もう片方の靴も脱いで投げた。二足目はきれいに弧を描きセミの眼と眼の間――人ならば眉間にあたる位置にヒットした。途端、セミの大きくて薄い翅がばっと広がった。海人に目玉模様の影が落ちる。セミはまるで捨て台詞のように一際大きくジ、と鳴くと低い羽音を響かせながらすっかり暗くなった夜空へ飛び上がった。その姿は瞬く間に夜と同化して海人はすぐにセミを見失った。羽音はしばらく聞こえていたが、じっと身を固めているうちにそれも聞こえなくなった。

 おそろしく、またおぞましい存在が去ったことは体の力が自然と抜けたことで分かった。
 海人は横たわったままの藤へと駆け寄った。目は開いているが茫然としておりちっとも海人の方を見ようとしない。セミに掴まれていた箇所は無残なもので服は破れ、肌も長い擦り傷がいくつもついている。特に下半身の傷は酷く、ズボンはびりびりに裂かれたぼろきれ状態で、その下に覗く尻からは血が出ていた。
「おい藤! しっかりしろ!」
 体を揺すぶると、藤は小さく呻き声をあげた。ひとまず命は無事のようだ。
「かい、と……」
 ぼんやりしていた瞳に生気が戻り海人の目を捉えた。藤は全身が痛むのか顔を顰めながらゆっくりとその身を起こした。
「夢じゃ、ないよね」
 自分の体についた生々しい傷跡を眺めながら言う藤に、海人はなんと言葉をかけていいものかさっぱり思い浮かばなかった。
「やっぱり追いかけて来たんだ」
「みたいだな……」
「海人が追い払ってくれたの?」
「靴投げて、なんとか……それより先に傷の手当しないと」
 地面にへたりこんだままの藤に肩を貸して立ち上がらせると、藤の案内で瀬見川家のリビングまでお邪魔することになった。



 傷だらけの息子を見た藤の母――千草は二人を見るやいなや声も無く叫んだ。海人は先ほどの藤のように母親も倒れるのではないかとひやひやしたが、そのままふらふらとリビングを出、次に現れたときには救急箱を手に持っていた。母親の胆力、だろうか。
 傷口の消毒をしながら事の経緯を説明した。
 夕陽が落ちきるほどの時間が経っていたし、玄関は開けっ放しにしていたのだが、千草はセミの声はおろか海人の声も聞いていないという。ただ友人と長話に耽っていると思っていた息子が傷まみれで戻ってきた時の驚きは計り知れないだろう。
「少しも変だとは思わなかったの?」
 いてて、と漏らしながら藤が問うと、千草は手当の手を止めて首を傾げた。
「そうねえ。おしゃべりにしてはやけに静かだな、とは思ったけど、それがまさかセミに襲われてるなんて思うわけないでしょ? 母さんが見たのは長瀞の家がセミ屋敷みたいになったことだけなんだから。アンタはずっとセミのバケモノがいるって言い続けてたけど、そんな大きいなんて思わないじゃない。バケモノでも小さいと思ってたわ」
「中学の時から大きいセミを見たって言ってたのに?」
「公園で倒れたときのやつでしょう? あの時アンタがあんまりいうもんだからお父さんと一緒に見に行ったけどそんな大きなセミの幼虫なんていなかったんだもん。熱中症で幻覚を見たんだとばっかり……それがまさか、こんな、ねえ……」
 千草は吐き出した息と共に肩を落とした。
「家の周りがセミの死骸だらけになったり、夜中なのにセミがうるさかったりしてアタシも不気味だったからこっちに越してきたけど、こんな実害がでるなんて思ってもみなかったよ」
「それは僕もだよ。そもそもどうして僕が異様に大きなセミに会ったのかも分からないし、セミに付け回されて嫌がらせを受けてるかもさっぱり」
「アンタ小さい頃から虫取りが好きだったし、セミの神様を怒らせるようなことしたんじゃないでしょうね」
「なんだよセミの神様って……ファンタジーじゃあるまいし」
 襲われ傷を負うという分かりやすい被害を受けているのに、実母から疑惑の目を向けられた藤は口を尖らせた。空気がずんと重くなる。
「まあまあ、二人ともちょっと落ち着きましょ?」
 親子喧嘩が本格的になる前に海人が口を挟んだ。
「藤はケガもしたし怖い目に遭った張本人で、おかあさんも自分の息子が意味わかんない理由で傷だらけになっててびっくりしてますよね? 二人とも信じたくはないと思いますが、俺も見てますし、理解できないようなデカいセミのバケモノが居るっていうのはファンタジーじゃなくて現実だと思います……それが神様なのかはわからないけど」
「そうね……こんな傷見せられて夢なんて思わないわよ」
 吐き出された短く重い吐息が千草の全てを物語っていた。



 藤の体にできた傷は数こそ多いもののどれも深手にはなっていなかったそうで、三日もすればほとんどがかさぶたになったそうだ。
 海人はあの日、藤と連絡先を交換して帰宅した。それ以降はメッセージのやりとりをするだけで藤と直接対面はしていない。海人は何度か藤に会おうとしたのだが、それは全て断られてしまった。藤の気持ちを考えると無理もないのだが、海人は巻きこまれたとはいえ藤以外で直接巨大なセミを見た唯一の存在として何か力になりたいとも思っていた。何ができるかという具体案はなかったけれど。
 バイト中にふっと客が途切れたときや湯船に浸かりぼんやりしたとき、そして眠りに落ちるいまこの時にも、度々浮かび上がる光景がある。それは藤が転校してきた日のことである。

瀬見川藤(せみかわふじ)です。長瀞から来ました。あの……僕のことは、あんまり気にしないでください。友達作るの、うまくないし、皆さんに嫌な思いをさせてしまうかもしれないので』

 人との関りを作りたくない内気なヤツという印象だったが、思い返せばあれは、容易には理解できない状況に置かれた自分を守るため、そして万が一にも自分の周囲に被害が及ばないようにするための言葉だったのではないか……。
 ひょんなことから藤との距離が縮まり、半ば強引にとはいえ、藤が秘めていたことを共有するようになった海人は瀬見川藤という人間ならそういう選択肢を取るという根拠の無い確信があった。
 およそ八年という長い期間、藤は一人で悩んできたことになる。母親である千草の口ぶりからして、親族が、藤が、理屈の外側で起きている問題に巻きこまれていると知ったのはほんとうについ最近なのだろう。
 もしも自分が得体のしれないバケモノに付け回されたとしたら、八年間も耐えられるだろうか……。海人は自室のベッドに寝転がりながらシミュレーションをしてみたけれど、あまりピンとこなかった。バケモノに狙われるということはもちろん、長期間特定の相手を避けるようなこともなかったのでしかたのないことではある。
 人間を超える大きさの虫。これまで学んできたことはまるで通用せず、現実で起きているというよりも、特撮映画に出演しているような気分だ。先日目の当たりにした藤がセミに襲われている光景すらも。
 鉤のような先端をした細く鋭い足が意識の無い藤の体にしがみつき、蛇腹のような太い体をしきりに藤の体に押しつけていた。セミの腹をぶつけられた藤は力なく体を揺らすばかりだった。
 その光景がどうにも海人の胸を騒がせる。
 直接見た時は恐ろしくてしかたなかったはずなのに、記憶になってしまったからか、他人の性交を覗き見したような背徳感と興奮ばかり沸き上がってくる。真剣に悩む友人が悩みの種に襲われている場面だというのに妙に血が騒いでしかたない。不謹慎だと知りながらも海人の手は無意識に下半身に伸びていた。いつの間にか緩く勃ち上がった陰茎に指先が触れる。
「うわっ!」
 微睡のなか快感に沈みかけた海人の耳に突然破裂音が飛びこんできた。
 音は窓のほうからで、固い物がぶつかったようだった。
 海人の部屋は五建てマンションの四階、角部屋にあたる四〇七号室にある。マンションの駐車場に面した一部屋を宛がわれており、腰窓からその音が聞こえたのだ。
 海人が恐るおそるそちらに顔を向けると、ばちっと同じような音が聞こえた。首の後ろに嫌な汗が浮かんでくる。
 確認すべきかどうか……。海人が悩んでいる間にも音は鳴りやまない。むしろ音の感覚がどんどん短くなってきている。このまま放置していても鳴りやむ可能性が低いとなると、嫌だとしても何が起きているのかを確認しなければならない。意を決してベッドから立ち上がった回との下半身はすっかり萎んでいた。
 遮光カーテンとレースカーテンをいっぺんに掴み、そろりと捲ってみた。外が暗いせいで反射した自分の姿しか映っていない。
「ん?」
 そこでふと、海人は違和感を覚えた。
 海人の部屋はマンションの駐車場側にあり、外は比較的開けている。車が止めやすいように毎夜街灯が煌々と灯っているし、駐車場はマンションのすぐ前を通る比較的大きな道に出入りができるようになっているので車のライトも度々光る。それなのに今夜は一切光が無いのだ。
 手が震えている。カーテンを開けるべきではないと訴える本能と、それでも確認しなければいけないと諭す理性がせめぎ合う。心臓が張り裂けそうなほど痛い。
 深く息を吸いこんでから、海人は思い切ってカーテンをいっぺんに開け、そしてすぐにカーテンを開けたことを後悔した。
「ひっ!」
 海人の全身に鳥肌が浮かび、後ろによろめいた。
 窓の外が蠢いている。
 窓がびっしりと覆われている。
 ばちっと音がして窓を覆うモノが鳴いた。

 ジッ。

 セミだ。
 数えきれないほどのセミが部屋の窓にぶつかっては張りついている。
 先ほどの一匹の鳴き声に釣られたのか、セミが一斉に声を上げた。その音はまさしく大合唱であり、海人は力なくその場にへたりこんだ。
 考えなくても分かる。海人もまた、藤と同じようにセミに目をつけられてしまったのだ。この場から逃げ出したかったが、体はぴくりとも動かない。ただセミが押し寄せる窓を見て、様々なセミの鳴き声を茫然と聞くことしかできない。
 虫に詳しくない海人はどの声がどのセミのものかなんてまるで分からなかったが、しかしセミ達が何を訴えて鳴いているのかだけは分かった気がした……というより、理解させられたのだ。

――藤にかまうな。

 それはあの巨大なセミからの言葉に思えた。



 巨大なセミに襲われた外傷は三日もすればほとんど消えてしまった。
 しかしひとつだけ藤の体に異変が起きたままちっとも治らない箇所がある。
「うえっ、ぐっ……うぅっ」
 酷い吐き気と腹痛、それから、尻から出てくる異物。

 初めにおかしいと感じたのは母の手当てを受け、風呂に入ったときだった。腹の奥がざらざらするような、ごろごろするような違和感があった。便意とも違う初めての痛みに体を丸めていると腹の中で何かが動いた。
 まずい。
 そう思った瞬間、尻の穴に激痛が走った。
「ううぅっ」
 肛門をむりやり拡げるようにして何かが体の中から出ようとしている。肛門の拡張限界を超えたサイズのそれは肛門周りのシワを裂きながらじつにゆっくりと体の中から零れ落ちた。ズボンも下着も履いたままだったので、それは尻のすぐ下に留まった。見たくなかったけれど、確認しないわけにもいかない。藤は震える手でズボンを下ろした。抑えがなくなった異物は自然とベッドへ転がり落ちる。
「なんだよ、これ……っ」
 ベッドの上、尻があった付近にあったものはやはり便ではなかった。
 白濁色の細い米粒のような形をしている。十センチ程度の長さで艶があり、一番太いところは六センチ程だろうか。
 こんなものが人体から出てくるなどありえない。
 藤はこの異物がほんとうに自分の体から出たとは信じられなかった。しかし尻はまだ無理に拡げられたせいでジンジンと熱を持っているし、ベッドに転がる謎の物体は妙な温かさを放っている。間違いなく今しがた自分の体の中から排出されたことを物語っている。
 ぐらりと目の前が回転した。藤は床に力なく座りこむと、上半身をベッドに預けた。ツンと鼻を刺す臭いが排出物から漂っている。その臭いに当てられたか、はたまた体からでてきた不気味な物体のせいか、藤の体を強烈な吐き気が襲う。
「うげっ、えっ、おえっ」
 布団が使い物にならなくなる――なんてあまりにも日常的なことを思いながら胃の中身をぶちまけた。吐瀉物を吐き出す過程で腹に力が入り、先ほどの排出で拡がってしまった肛門がスムーズに動いた。少し、腹の中がすっきりしている。嘔吐による酸欠で朦朧とした視界で床を見た藤は床に転がるもう一つの異物を見てまた吐いた。喉と尻がひりひりと痛む。
 藤の目からは勝手に涙が流れていた。
 苦しい、痛い、怖い、嫌だ……この世に存在する不の感情が全て自分にのしかかってきているような息苦しさ。
 頼れるものもなければ解決策もない。
 闇のなか手を伸ばしているような孤独。
 自分自身を呪うことでしか自分を救えない。
 藤は汚れた衣服も剥き出しの下半身もそのままに床の上で丸まって泣いた。何が原因で自分がこんな目に遭っているのかが分からず泣いた。常識の外側からやってくるものが怖くて泣いた。
 わんわんと声をあげて泣いて、泣いて、そのまま力尽きて眠るまで泣きとおした。



 海人の部屋の窓にセミがびっしりと張りついた日以来、海人はセミによる嫌がらせを受け続けていた。部屋の窓が覆われることもそうだし、バイト先のコンビニに何度もセミが入ってきては客や女性店員がパニックになったり、外を歩けば度々セミがぶつかってきた。屋外に足を踏み出した一歩目の足の下にセミが飛びこんできて、それを踏み潰してしまったりすることもしばしばあった。
 正直に言って、海人はノイローゼになっていた。海人が自室に居る限り窓に張りついたセミが鳴き続けるせいで夜もほとんど眠れず日中はちくちくと刺すようなセミからの嫌がらせに神経を尖らせているのだから無理もない。家族にはセミの声がうるさい程度の被害しか出ていないことは幸いだが、目に見えてやつれていく姿を心配されていることもまた海人を悩ませる種になっていた。
 セミの声がうるさいという点は同じだが、瀬見川家と違って海人の住まいはマンションなのでセミがびっしり家を覆うことはないし、セミの死骸についても管理人の清掃がこまめに入るので家族が被害に気付くのは難しい。つまりセミが海人を狙って嫌がらせをしていると主張したところで理解してもらえる可能性は無いということである。
 セミからの嫌がらせを受けるようになって四日。
 我慢の限界に達した海人はスマートフォンと財布だけを握りしめて家を飛び出した。母親が何事か叫んでいたような気もするが、今の海人はそんなことに構える余裕はなかった。



 月も星も無いが、都会の夜は明かりを持たなくても十分に明るい。
 すっかり人の少なくなった地下鉄に乗った海人は学校の最寄り駅を通り過ぎ、高野と一緒に下りた藤の自宅のある駅で下車した。
 薄暗い地下道を駆け上がり、狭い住宅街を走った。
 一度しか行ったことのない場所だったし暗がりということもあり、無事に辿り着けるか不安だったが、海人は無事に瀬見川家を見つけることができた。家の外観は前回来たときと変わっていない。セミの幼虫が涌き出てきた花壇の穴は増えておらず、隣家のサンルーフに巨大なセミがいる様子もない。改めて見てみると、ほんとうにあんなことが起きたのかと首を傾げたくなるが、ここに来るまでも何匹かのセミがぶつかってきたことが現実に起きたことであるという証明になっていた。
 玄関の前、海人の指はインターホンを押せずにいる。
 勢いで飛び出してきてしまったので藤に一切の連絡を入れていないし、会いに来た理由を言ったところで藤がどうすることもできないことは知っていた。一人で抱えきれなくて、という本音を藤に伝えてもいいのかも分からない。しかしこのまま家に戻ることはしたくなかった。
 オレンジ色の玄関証明に照らされながらじっと動けずにいると、足音が近づいてきた。このまま家の前でじっとしていては不審者だと思われるかもしれない。そんな一般的な恐怖が海人の指を動かした。
『はい、どちらさまですか』
 応答したのは千草だった。
「久芍井です。藤君と同じクラスで、この前も来た……」
『あら! こんな時間にどうしたの? 藤、体調が悪くていまちょっと会えないのよ……用件があれば伝えておくけど』
「あっ、そうだったんですね。じゃあ、大丈夫です。メッセージ入れておくんで。こんな時間に来ちゃってすみませんでした」
 海人はインターホンに向かって頭を下げた。
人と話したことによって急速に理性が戻って来て、顔が耳まで熱くなる。
 来たときよりもゆっくりと駅までの道を戻る。一歩進むごとに自分のしたことがいかに軽率だったかを思い知らされるようで、何度か叫びたくなった。しかしそんなことをしては余計に羞恥を煽るだけなのでぐっと堪えて黙々と足を進める。
 走っていたときは気にしていなかったが、瀬見川家から駅までの道は細く街灯が少ない。車が通ろうものなら近くの家の外壁にぴたりと身を寄せないと危ないほどだ。そして外壁の側には自転車やら植木やらが置かれているので、海人はそれらにつまずかないようにスマートフォンを懐中電灯代わりに道を照らしながら歩いた。
 手にスマートフォンがあればつい触ってしまうのは現代人の悪い癖だ。海人もまたこの悪癖に抗えず、藤に突然家に押しかけたことの謝罪と、自分の身に起きていることを簡潔に伝えることにした。

【おばさんから聞かされたと思うけど、さっきお前ん家行ったんだ。ごめん。
 なんか俺の家にもめっちゃセミが来るようになったり、歩いてるとセミにぶつかられるようになってパニクってさ……。藤に相談しようと思ったんだけど、相談されても困るよな! ほんとごめん。
 体調悪いって聞いたけど大丈夫か? 俺にできることはまあ、無いと思うけど、何かあったら遠慮なく連絡して。いまなら藤の気持ち、前よりわかるかもしんねーし、話聞くだけならいつでもできるし】

 このメッセージを見た藤がどう思うかは海人には分からなかった。半分は自己満足のためのメッセージであり、残りの半分は千草から藤に話が行ったときに目的が分からないのは気持ち悪がられると思っての保身のためだった。
 そんな自己中心的なメッセージは意外なことにすぐに〝既読〟の文字がついた。
 手の中でスマートフォンが震え、海人のメッセージの下に藤からの返信が表示された。
 海人の足が止まる。

【いまどこもうでんしゃのった?】

 変換せず、読点もない文章は焦って入力されたからだろうか。

【まだ半分くらいのところ。乗ってないよ】
【よかった。話したいことあるから、そこ居て】
【まじ? いいよ。俺が戻る】

 進行方向を百八十度変えながらそう返信すると申し訳なさそうに手を合わせて〝助かる〟と言っているタガメのスタンプが送られてきた。昆虫に悩まされていながらも昆虫を嫌いになり切れない藤の昆虫好きに少し呆れながらも、そういうところがおもしろいんだよなと海人の心は少し軽くなった。

 千草はなんども「ごめんね」と言って息子の気まぐれを謝りながら藤の自室へと案内してくれた。案内と言っても、階段を上って右の部屋と言われただけではあるが。
 やけに急な階段を上ると、左右にそれぞれ引き戸があった。言われた通り右の扉にノックをすると、中から藤の声がした。
「はい、どうぞ」
 滑りが悪く重い扉を開けると、六畳程度の部屋があった。入って正面にベッドがあり、その上に藤が座っていた。千草からは体調が悪いと聞いていたがベッドにあぐらをかいている姿はあまり辛くはなさそうだ。ただ、海人の記憶にあるよりも全体的に細くなっているように見えるし、顔が白い。
「よっ……よかったのかよ、おじゃまして」
「うん。こっちも話したいことがあったし――その辺、適当に座ってよ」
 海人は勧められるまま部屋に入ると、ベッドの足元側に腰を下ろした。
「メッセージ見たけど、海人のほうも大変そうだね」
「あぁ、なんか急にセミが窓にびっしり張りつくようになってさ。バイト中も店ン中に入ってくるからもう仕事になんなくて! なんかセミから『藤に手をだすなー!』って言われてるような気がしてさぁ。いやあ、まいったね」
 海人はあえておどけてみせたが藤の反応は芳しくない。
「別に藤のせいだって言ってるワケじゃねえから。家に来たのも、セミ対策のアドバイスとかあるかなって軽い気持ちだったし」
「いや、僕のせいではあるだろ。やっぱり話すべきじゃなかったんだよ」
 眉間に皺を寄せた藤は重い吐息を吐き出した。
「ごめん。変なことに巻きこんで」
「だから藤のせいじゃないだろ。藤が話そうとしなかったことを無理言って聞き出したのは俺だし自業自得だよ。それにこうやって愚痴聞いてもらえてるんだし、藤が謝ることはひとつもないって。な?」
「ありがと……海人の心が広くて助かるよ」
「そうか? まあ、俺のことは一旦置いておくとして、そっちの体調不良ってのはやっぱりセミ絡み?」
 藤は小さく首肯した。
「あの時がっしり掴まれて傷だらけになってたもんなぁ。傷口が化膿したとか?」
 少し背筋を伸ばしてベッドに座る藤の体を頭から足まで見る。しかし海人の目には肌はすっかりきれいに治っているように見えた。
「傷はすぐに治ったんだけど、なんていうか……卵みたいなものがさ、出てくるんだ」
 卵。
 その単語を聞いたとき、海人の胸がドキリと跳ねた。あの日目撃した光景は直感的に交尾だと思っただけで、本当に交尾をしていたという確証がなかったからだ。喘ぎ声が聞こえるからとドキドキしながら扉を開けてみれば実際はストレッチをしていただけ、とか実はネコが鳴いていただけという下心由来の勘違いはよくあることだ。一度はセミと藤の不埒な行いを妄想して下半身を膨らませてしまった海人だが、心の底では友達がそんな目に遭っていてほしくはないと思っていた。しかし現実は海人の下品な妄想の通りであり、さらに悲しむべきは妄想よりも一段上のことが起こってしまっていることだ。
「たまご?」
 海人の声は裏返ってしまった。
「これなんだけど……」
 そう言った藤はベッドから降り、海人の背側にある襖を開けた。上下に分かれた押し入れの下部に四十リットルはあろう大きな黒いビニール袋が二つ置いてあった。藤はそのうちの一つを引きずるようにして海人の前に持ってきた。
 きつく縛られた口が藤の手によって解かれる。外からは分からなかった中身が蛍光灯の光を浴びた。
「なんだよこれ」
 瞬間、海人の腕にぞわぞわと鳥肌が何度も浮き上がる。
 袋の中には両端の尖った白っぽい色の何かがみっしりと詰まっている。インディカ米を思い出すが、それよりははるかに大きい。
「たぶん、セミの卵……なんだよね。引かないでほしいんだけど、全部……僕から出てきたんだ」
「え? なに? どういうこと?」
 海人は自分の耳を疑った。聞き間違いであってほしかった。
「セミに捕まったあとからずっと気持ち悪かったんだ。お腹も変な違和感があって。それで、三日か四日かしたら急にお腹が痛くなってこれが出てきた。最初は驚いたし信じたくなかったけど、これはかなりセミの卵に形が近いんだ。
 セミに捕まった時のことは覚えていないんだけど、僕、あの時、セミのゲニ――生殖器をお尻に挿入されたんじゃないかって……セミが僕を追いかけて来たのは番にするためだったんじゃないかって考えたんだ」
 途切れとぎれに話す藤の顔は真っ青になっている。海人はもう藤に説明をさせたくなくて止めようとしたのだが、それを藤自身が制止した。
「セミは平均して三百から八百個の卵を産むんだ。あのセミを普通のセミと同列で考えていいのかは分からないけど、僕の体からはこの大きなゴミ袋が二つ満杯になるくらい卵が出てきてる。正直、これ以上は体がもたないよ……」
 海人は恐るおそる袋の中をじっくりと観察してみた。
 大きさはだいたい十センチくらいだろうか。こんなもの、体のなかで一番大きな穴である口から出すにしたって苦しいに決まっている。
 藤は口にしなかったが、セミが自分の体を藤のどこに押しつけていたかを考えれば、この卵がどこから出てきたかは想像に易い。尻だ。男の下半身にある穴は肛門か尿道しかない。もしも尿道からこんなものが出ていたら、きっと藤とこうして会話をしていることは不可能だ。
 みっちりと詰まっているので底までは見えないが、この一袋でどれほどの数があるのだろう。このぬらぬらとした照りのある不気味な物体が自分の体から出てくるなんて、一ミリだって考えたくない。が、藤はもうこれだけの数の卵を排出しているのだ。海人は改めて藤の精神力の強さに舌を巻いた。
「これでどれくらいあるの……?」
「途中から数えるのを止めちゃったけど、うぅん……百は超えてるかな? いや、二百くらいあるかも。一回に出てくる個数がばらばらだからあんまり覚えてないなあ」
「じゃあ最低でもまだあと百個は出る可能性があるってことかよ! そんなの、ほんとうに死んじまうぞ」
「僕もそう思う。だから、海人が前に言ってた作戦を実行しようと思うんだ」
 袋の口を縛り直した藤はいつになく真剣な瞳で海人を見た。
「さ、作戦?」
「僕が転校してきた日に言ってくれたじゃん。昆虫標本にしてやればいいって」
 海人の記憶がぎゅるりと巻き戻る。
 藤が転校してきたその日の帰り。人と関わらないようにしようとしていた藤にしつこく食い下がり、ハンバーガーを奢ることと引き換えに聞き出した藤の秘密。そして事の重大さをまるで分かっていなかった自分が提案した冗談のような解決策。
「ま……じで言ってる?」
「まじで言ってる。海人に相談したかったのは、この作戦のことだよ」
 確かに藤の体のことを考えるとすぐにでも対策をしたほうがいい。理解の外で起きている出来事にこれまでの常識が通用するかは分からない。生物の生態を超えた個体がのさばっていて、人の認知が歪んでしまうような現象も起きている。ならば、一見すると突飛な発想である昆虫標本にしてしまえという海人の提案も現実的に思えてくる。思えてくるのだが、それで事態が改善するのだろうか……。もしも失敗して、今より酷い状況になる可能性はないか? 探せば似たような境遇の人がいてその人物が打開策を知っているのではないか? もっと簡単なところで医師に診せたら全てが解決するのではないか?
 海人のシナプスは未だかつてないほどのスピードで弾けるように思考を巡らせた。しかし答えがでることは無かった。
「海人。わかるよ。僕だってこれが正解だとは思ってない。でも、やってみないと分からないだろ? 無茶苦茶だって分かってる。でも、できることは全部試したいんだ」
 力は籠っているが、藤の声は酷く震えていた。海人の膝に縋るように置かれた手もがたがたと震えている。藤はセミの前に無力であり、海人もまた同じである。二メートルを超えた昆虫に人間が敵うのかは分からない。けれどだからと言って、藤がただ衰弱していくのは間違っていると思うし、何もかもセミの思い通りになることには腹が立った。
「わかった。やってみよう」
 海人は震える藤の手に同じように震える自分の手を重ねた。



 海人はその晩、瀬見川家に泊まることになった。
 夜も遅いということもあるが、藤たっての希望で作戦会議を行うからというのが一番の理由だ。さすがに突然のことだったのでどちらかの親は渋るかと思いきや、海人の母親も千草もあっけなく許可を出した。バイトの残業や友人たちとのカラオケで帰りが遅くなることがしばしばある自身のことはともかくとして、現在進行形で息子の身が危険に晒されている藤の母親までも二つ返事をするとは思っていなかった海人は拍子抜けした。千草の意見としては「藤がいいならいいよ」らしい。その答えは淡泊にも息子に信頼を置いているようにもとれた。かくして海人は急遽の外泊となったのである。

 生まれたときからマンションで暮らしている海人にとって、一軒家というものは少し落ち着かなかった。家の中に階段があるのも、窓のない部屋が無いことも、なんだか変な感じがする。藤が風呂に入っている間は特に落ち着かなかった。
 勝手に物を弄ったりはしなかったが、手持ち無沙汰と好奇心から藤の部屋をぐるりと一周してみた。大きな家具はベッドと机があるだけのとてもシンプルな部屋だ。必要最低限の物しか見当たらないことから、慌てて引っ越しをしてきたことが伺える。残してきたものは地元である長瀞にあるのだろうか。ひょっとするとこのベッドや机も元々ここにあったものかもしれない。それとも単に、藤がミニマリストなだけということもあるが……。
 非常識な秘密を知れたからといっても、海人と藤の関係は浅い。転校してきてから夏休みに入るまでの四日ぽっちだ。そんな短期間で何が知れるというのだろう。しかしそんな短期間にも関わらず、海人が猛烈に瀬見川藤という存在に惹かれたこともまた事実である。
「うおっ」
 他人の家で物思いに耽っていた海人の思考を聞きなれた音が邪魔してきた。窓にセミがぶつかる音だ。
「やっぱりここに居てもセミ攻撃は続くんだねぇ」
 ノイローゼになるほど追い詰められていたはずの海人だが、藤に会い、話をすることができたからだろうか。今はセミに対する憎悪の気持ちよりも呆れのほうが大きい。机のわきにあるカーテンが引かれたままの腰窓に手を伸ばす。そっとめくってみると、案の定窓にはセミが張りついているが、海人の自室よりは数が少なく、止まっているセミの中には今にも力尽きそうな個体もある。
「何してるの?」
 背後から声がして、海人の心臓は見事に跳ね上がった。
「なっ、ふっ、藤! 驚かすなよ!」
 自分でも気づかない程集中してセミを見ていたらしい。
「驚かしたつもりはなかったんだけど」
 部屋の主は首にバスタオルを引っかけたままベッドに腰かけた。
「セミ?」
「あぁ、うん……窓にぶつかってきた」
「ここのところセミは見てないし声も聞いてなかったから、海人が狙われてるのかも」
「勘弁してくれよ――てか、気になったことがあるんだけどさ」
「うん」
「この死にそうなセミって、寿命が来てるってこと? 俺ン家のセミはなんかもう、網戸を破りそうな勢いでしがみついてたんだけど、ここのセミは元気ないやつが多いなって思って」
 驚いたときに手を離してしまったカーテンをもう一度めくり、セミを見る。先ほど力尽きそうだと感じたセミはさらに容態が悪化したのか、足数本を網戸にひっかけて宙ぶらりんになっていた。
「あぁ、それは母さんが蒔いた殺虫剤のせいだよ。よく見る殺虫剤はカとかハエを対象に作られているんだけど、それはカやハエが衛生害虫だからなんだ。セミは害虫じゃないからセミに対して有効な殺虫剤は少ないんだ。それでもプラレトリンっていう成分が配合されたものなら効くけど、業務用とかになりがちで……母さんが使ってるやつも二千円くらいのやつでさ。それをブシュブシュ噴きまくるわけだから、先月は大変だったよ」
 一本二千円の殺虫剤は確かにセミに有効なのだろうが、財布へのダメージも深刻だろう。六月の時点でセミに囲まれていたとなると、その殺虫剤を買うだけでかなりの金額が吹き飛んだであろうことは想像に易い。であれば、セミの少ない都内に引っ越したほうが結果的に節約になるのかもしれない。
「あの窓には特に何回も噴いてるから成分が残ってるんじゃないかな」
「なるほどね。問題が解決しなかったら、うちでもその殺虫剤を導入したほうがいいかも」
「そうならないための作戦会議だろ? で、どうする?」
「どうするって言ったってなぁ、うぅん……本当に標本にするのか?」
 海人は窓の側を離れ、口元に手をやり考えこんでいる藤の隣に腰かけた。シングルサイズのパイプベッドがミシ、と音を立てる。
「藤も見たと思うけどあのセミ、二メートルはあったぞ。それを抑えるピンもないし、ケースもないだろ」
「そうだね。二人で竹を削って槍にしてそれを虫ピンにしてもいいけど」
「そんなにデカいモン、持ち運べないだろ。だったら車で轢いたほうが早い」
「免許持ってないだろ?」
 作戦会議は冗談交じりでゆっくりと開始した。
「一番現実的な方法はなんだろう。僕たちより大きいんだもんなぁ……」
「あー、そういえば靴をぶつけたら逃げてったな」
「物理攻撃か。でも逃げられたら振り出しに戻りそうだし……とりあえずは動きを止めるのがいいか」
「セミの動きを止めるって、翅をちぎるとか?」
「二メートルもある大きなセミの翅をちぎるのは大変だから水浸しにしよう。本来翅には撥水効果があるけど、それにも限度があるし、翅が濡れきるとセミは飛べなくなるから。水の用意が大変だけどね」
「竹槍よりは用意しやすいから採用かな。とりあえずセミを見つけて、びしょ濡れにして……そこからはどうしような」

 作戦会議を初めて三十分が過ぎたくらいから、藤の様子がおかしくなりはじめた。
 それまではスムーズに喋っていたのに言葉が途切れとぎれになったり、苦しそうに体を丸めたりしている。
「おい、大丈夫か?」
 隣にいて分かるほど呼吸が荒くなった藤を覗きこむと、額に汗がびっしり浮いている。
「ちょっと、おなかいたく、て……」
「腹痛いならトイレ行くか?」
 その問いに藤の返事はなく、代わりに首がゆるゆると左右に揺れた。
「だったら横になれよ、ほら」
 海人はベッドから立ち上がって腹を抱えた藤の体を寝かせる手伝いをした。しゃがんで触れた体は熱っぽく、顔色は白くなっているのに頬だけは赤く染まっており、海人の視線はどうしてかその苦しそうな藤の姿に釘付けになっていた。
「ごめ……、ちょっと、そと………っ、に、」
「え? なに?」
 藤の声は荒い呼吸に阻まれて聞き取りづらく、海人は顔を寄せたが熱っぽい息が頬にかかるばかりで肝心の内容が聞き取れない。
「ふっ、うっ、う……、そ、と……で、てっ、うぐっ、うぅっ」
 聞き返しているうちに藤はさらに苦しみだし、体をぎゅうと丸めた。
「あっ! やだ、みな、で……! みないっ、でっ!」
 突然がばりと藤の顔があがり、海人の鼻とぶつかりそうになった。
 ピントが合う、ぎりぎりの距離。
 視界いっぱいに藤の顔がある。風呂上りなうえに額の汗で前髪が張りついているせいで苦し気な顔が良く見えた。
 意外にも長い睫毛で閉じられた瞳。
 汗を湛えた赤い頬。
 呼吸のために中途半端に開かれた口。
 耐えるように唾液を飲むときに上下する小さな喉仏。
 熱い呼気。
 視界に映るものすべて、聞こえてくる音のすべて、肌で捉えるものすべてが鋭く海人を刺激する。まるで幻覚剤にどっぷり浸かったかのような酩酊。藤の動作がひどく遅く感じられる。
「うぅっ、うっ、ふぅぅっ」
 海人の腕を藤の手がきつく握っている。それは握ると言うより耐えると言ったほうが適切なほど強く力がこめられている。その力はだんだんと強くなり、藤の体全体が力んでいることが海人に伝わってきた。
「あぁっ!」
 短い悲鳴の後、手の力も体の力も抜けたのか藤はベッドにだらりと横たわった。
「藤? おい、大丈夫か⁉」
 浅く呼吸はしているものの、藤の体は汗でぐっしょりと濡れている。軽く揺すぶってみても呻くばかりで安否は分からない。
 困り果てた海人が千草を呼びに行こうと床から立ち上がったとき、藤の体の異変に気がついた。海人側に腹をむけて横たわる藤の下半身、尻の部分が妙に膨らんでいるのだ。
「ちょっと、ごめんな」
 返事が返ってこないことは知っていたが、最低限のマナーとして声をかけてから藤のズボンに手をかけた。ズボンのゴムとパンツのゴムをまとめて持ち、ゆっくりと下ろす。
「あっ、だ……めっ」
 海人の行動を藤が拒否したのは、もうズボンとパンツが膝まで下げられた後だった。
「こっ、これ……さっき、の……?」
 藤の尻を膨らませていたものは藤本人から巨大セミの卵だと説明されたものとそっくりな色形をしていた。つい先ほど見せられたので間違えようがない。
「昨日たくさん出たから、今日は大丈夫だとおもったのに……」
 まだ呼吸の整わない藤は喘ぎあえぎそう言った。
 海人は何度も藤と藤の尻の傍らに転がる白く細い卵を交互に見ては、自分の下半身がどんどん勃起していくことに焦っていた。早く落ち着けなければいけないのだが、目の前で煽情的な光景が広がったままではそうともいかない。
 口内に溢れてくる生唾を飲み下す。
「おばさん呼んでくるわ」
 ベッドの足元に溜まっていたタオルケットを掴んで藤の下半身と卵を隠すようにそれを掛けた海人は素早く背を向けて藤の部屋を出た。
 重たい引き戸を後ろ手に閉めたところで小さな踊り場に座りこむ。
「はあ……」
 この十七年の人生で最も深く大きなため息が出る。
 強力で強大な欲望に打ち勝った己の精神力を褒めると同時に、ずくずくと痛むほどに張りつめた下半身に舌打ちをしたくなる。
 海人の中の欲望と理性がうねるようにねじれ、なかなか陰茎を落ち着かせることができなかった。

 深呼吸をしながら去年の文化祭でふざけてメイド服を着た寅雄のことを思い出すことでなんとか勃起を鎮めた海人は急いで千草を呼びに行った。千草はもう慣れっこになっているのか、すぐ手に取れる場所に用意してあった洗面器に水を張り、タオルを持って二階へと向かった。
 海人も着いていきたかったが、先ほどのこともあるのでリビングで待つことにした。
 ちょうど藤の部屋の真下にあるリビングもやはり、最低限のものだけがある印象だ。カーペットが敷いてある床の真ん中に座椅子が置いてあり、千草が今しがたまでそれに座ってテレビを見ていた。リビングとダイニングを兼用している都合なのか座卓が奥にある襖側に横倒しに立てかけられており、隣にはガラスの引き戸のあるタンスがある。その引き戸の中にはずらりとスプレー缶が並んでいた。海人は見たことが無い柄だったが、これこそセミをも駆除できるという一本二千円ほどの殺虫剤だろう。全てが未使用品かは分からないが、使用済みの是非に関わらずとも相当の金額を注ぎこんでいることに変わりない。
 瀬見川家の人間が様々な形で苦労や苦痛を強いられているというのに、しかたがないとはいえ苦しむ藤の姿で勃起をしてしまったことを一人内省する。
 まだ千草は戻ってこない。
 千草が使っていた座椅子に勝手に座ることも憚られたので、海人はもう一度リビングの中に目をやった。しかし目立つ家具は藤の部屋と同様、座卓とタンスくらいだ。タンスの引き出しを開けるわけにもいかずぼんやりと引き戸を眺めていると、ガラスに何かが反射していることに気がついた。
「ん?」
 反射したものが何かを確かめるために海人が振り返ると、タンスの向かいにある長押に額に入れられた写真が飾られている。この家の持ち主の残置物かと思ったが、近くによって見て見ればそれが瀬見川家の家族写真であることが分かった。
「それねぇ、こっちに越してきた時に飾る場所が思いつかなくてそこに一旦置いたんだけど、結局そのままにしちゃってるんだよね」
 低い声のするほうを向けば、写真に写る父親と思しき男の面影を持った人物がリビングの入り口に立っていた。
「海人君、だよね。千草と藤から聞いてるよ」
 作業着姿の藤の父――健治はのそのそとリビングに入ると海人の隣までやってきた。汗と油の香りが鼻を掠める。
「いい写真でしょう? 藤は嫌がるんだけど、私はこの写真がすごく好きでね」
 写真を眺める賢治につられ、海人の視線も写真に向く。
 ご入学おめでとう、と筆で書かれた看板の前に若かりし頃の千草と賢治、そして黄色い帽子と黒いランドセルを背負った藤がいる。藤は真剣な顔をで右手に虫取り網を持ち、左手はピースの形にして前に突き出している。海人の知る藤からは想像がつかない程活発な印象を受ける。
「見ての通り小学校の入学式のときの写真なんだけどね、絶対に虫取り網を持っていくってきかなくて。先生たち困ってたなぁ……ここで写真を撮ったら預けようねってことで一応は丸く収まったんだけど、面白いでしょう? この写真を見てると自然と頑張ろうって気持ちになるんだ」
 写真を見つめる賢治の目は昔を懐かしむように細められている。
「俺はまだ藤とは知り合ったばかりなんですけど、小さい頃はどんな子だったんですか? 学校だと、俺含めてクラスメイトと距離をとってるみたいで、あんまり昔の話はしてくれないんですよね」
「だろうねぇ。海人君も知ってると思うけど、あの子の周り、今おかしなことになってるでしょ? そのことで精一杯だし、周りを巻きこみたくないんだと思う。
 長瀞にいた時にもっと私達が藤の言うことを聞いてあげられてたら何か変わっていたのかもしれないけど、私達は家の壁がセミだらけになるまで藤の言うことを信じてあげられなかった……。それなのに藤は私と千草に謝るんだよね。大変なことに巻きこんじゃってごめんって。藤だって巻きこまれてる側、謂わば被害者なのにね。
 でも、海人君は藤の話をちゃんと聞いてくれたし、信じてくれた。藤はそれがすごく嬉しかったみたいでね。こっちに引っ越してきて、初めて学校に行った日の夜には海人君のことを一番に教えてくれたよ。ヘンだけどいい友達ができたんだって」
「藤が、そんなこと言ってたんですか……」
「今年の六月ごろからセミの異常行動がエスカレートして、藤は自責の念に駆られてる。でもこんなことになる前はすごく活発でアウトドアが大好きな子だったんだ。
 このおかしな問題を誰がどんな風に解決できるかは分からないけど、今は藤の気持ちが少しでも軽くなって、昔みたいに笑えるようになってほしいと思ってる……こんなこと、高校生の親が頼むことじゃないんだろうけど、海人君。君の負担になることも分かってる。だけど、もう少しだけ藤に付き合ってもらえないかな」
 写真を見つめていた健治はすっと海人のほうへ向き直ると深く頭を垂れた。
「えっ! いや、止めてくださいよ、そんな!」
 大人からそれも友人の父親から頭を下げられるなんて経験の無い海人は、健治にどう対応すべきか分からず慌てふためいた。
「俺が無理言って藤からセミのこと教えてもらったんです。だから、できる限り藤の気持ちが軽くなるように協力しようと思ってます。藤がもっと気楽に学校を楽しめるようになったら俺も嬉しいですし。あぁ、でもセミの問題が解決したら長瀞に戻っちゃいますよね」
「ここはとりあえず夏の間だけ借りてる家だしね、問題が解決してもしなくても、九月くらいには長瀞に戻るよ――でも、これだけ藤が信頼してる友達は向こうにもほとんどいないから、学校を離れたとしても藤と海人君はずっと友達でいるんじゃないかなって思うよ」
 ほんの四日である。
 交流を深めるには短すぎると思っていた海人だが、海人が藤のことを友人として好意的に思っているのと同じくらい藤も友人として自分を認めてくれていることが嬉しかった。じわじわと炎が大きくなるようにゆっくりと海人の胸が熱くなる。
 脳の片隅にセミの卵を産み苦しむ藤の姿が浮かび上がった。あの苦しさから解放してやりたい。得体の知れないものに付きまとわれる恐怖から解放してやりたい。同じように藤を苦しめるのなら、それは自分がいい……。
「俺は藤の力になりたいです。何ができるかなんて分からないけど、俺にできることで藤の気持ちが軽くなるなら嬉しいんで」
 言い終えてから、それが告白のような雰囲気を纏っていることに気づいた海人の耳はぐんぐん熱を持った。
「ありがとう」
 顔を赤くして慌てふためく海人に、健治はそっと微笑んでくれた。



 海人と健治がカーペットに胡坐をかいて健治から藤がいかに幼少期から昆虫博士だったかという話に花を咲かせていると、千草がリビングに戻ってきた。その後ろには少し顔色の戻った藤もいる。
「ごめん。急にあんなとこ見せて……引いたよね」
 卵を産むまでは隠れていなかった顔を前髪が覆っている。それは汗で張りついているのではなく、意図的に藤が前髪で顔を隠しているように見えた。縮まったはずの距離が少し開いたように感じ、海人の胸がずき、と痛んだ。
「まあ、びっくりしたけど引いちゃないよ。前もって卵は見せてもらってたし。それより体は大丈夫なのかよ」
「うん、落ち着いたから。汗かいちゃったからもう一回シャワー浴びてくる。海人は僕の部屋に居てもいいし、ここに居てもいいよ」
 確かに藤の着ているTシャツは体に貼りついているし、脇のところは少し変色していた。
「じゃあ部屋で待たせてもらおうかな。ここに居たらおばさん達もくつろぎにくいと思うし」
 どれくらい話しこんでいたのだろう。海人が立ち上がると小さく膝が鳴った。
「あら、そんなこと気にしなくていいのに。お父さんとの話、盛り上がってたみたいだし」
「それは楽しかったんですけど藤の子供の頃の話だから、藤が聞いたら嫌がるかもしれないんで。ほんと、おかまいなく」
「そぉお? 藤の部屋、何もないからつまらなくなったらいつでもリビングに来ていいからね」
「ありがとうございます。じゃあ藤、部屋で待たせてもらうわ」
 勝手に過去を明かされた藤は父親を問い詰めることに忙しく、海人の言葉に適当に返事をすると、再び健治に詰め寄っていた。

「まったく! いくら家族だからって勝手に昔のことを話すなんてコンプライアンスがどうかしてるよ、父さんは!」
 シャワーを浴びて部屋へと戻って来た藤は服も着替えてさっぱりしたはずだろうに、依然として健治に対する怒りを収めていなかった。
「許してやってよ。俺が気になっていろいろ聞いちゃったんだし」
 無断でベッドに座って待っていた海人の隣に荒々しく藤が座った。
「そりゃ海人はおもしろおかしく話を聞けただろうけど、立場が逆だったとしても同じこと言える?」
 湿気を帯びて垂れる前髪を大胆にかき上げて藤は海人に詰め寄った。他人の家のシャンプーの香りが柔らかく海人の鼻をくすぐる。途端、海人の心拍数が上がり始める。
 セミのことや藤の体のことをはじめ今この瞬間に考えるべきこと、すべきことはたくさんある。しかも階下には藤の両親がいて、ついさっき父親に友人として藤を助けたいと啖呵を切ったばかりでもある。それだというのに、その全てを押しのけて欲望が海人の胸に駆け上がる。
 つい数日前の自分が分からない。ただの転校生だった藤と今目の前にいる藤は同じはずなのに、決定的な違いもある。それは――

 見せつけられたセミとの交尾。
 目のまえで行われた卵の産卵。

 体の芯が凍るような恐ろしい場面であると同時に、脳に直接電流を流されるような衝撃。
 海人のシナプスがおかしな繋がり方をしてしまった結果、心は藤に囚われてしまっていた。
 藤だけならず自分の身にもセミを原因とした危害が加わっているのだが、意図なく香ってきたシャンプーの匂いひとつが全てを押さえつけた。それは強烈で強固な下心である。しかし海人はそれを恋心だと誤認していた。秘密の共有やあられもない姿、無防備な姿を短期間かつ高頻度で見せられては勘違いしてしまっても無理はない。それに海人はまだ若い――
「なにぼけっとしてるんだよ」
 額に痛みを感じて海人は自我を取り戻した。目の前には不機嫌そうな藤がいる。
「父さんから勝手に話を聞いたことはこれでチャラにしてあげる」
 そう言うが早いか、藤の指がぴしりと海人の額を打った。先ほどと同じ痛みである。
「チャラって……まあ、いいけど……」
 痛む額をさする海人は、自分が欲求に飲まれずに済んだことに胸の中でほっと息をついた。
「で、どうする? セミの翅を濡らすって話してたけど」
 海人は少し藤から離れ、気持ちを入れ替えてから本題に戻る。
「うん。動きを止める方法はそれでいいと思う」
「俺はセミの翅の撥水力がどれくらいかは分からないけど、ホースがあればいけそうか……? あぁ、でも水をかけても飛べなくなるだけで致命傷ってわけじゃないもんなぁ。スプレー缶一本で死ぬとも思えないし」
「スプレーを使うならかなりの本数がいるだろうね。でも考えてみるとさ、あのセミってもう死ぬんじゃないかな」
 予想していなかった藤の言葉に海人は素っ頓狂な声を出してしまった。
「どうして分かるんだよ」
「だってセミなんだよ」
「そりゃあれはどう見たってセミだったけど……」
「うん。あれはセミとは思えない程大きくておかしなことを巻き起こしてくるけど、その生態は疑いようがないくらいセミそのものなんだ。
 初めて会ったのはきっと九歳の時。次が十三歳。それから今年。きれいに四年周期で夏にだけ現れる。あんまり思い出したくないけど半翅目の特徴である口吻もあったし、終齢幼虫が地上に這い出るところも卵の形も、基本的なところは全部セミなんだ。つまり――」
「つまり……?」
「――僕達が直接手を下さなくても、夏の間に死ぬ」
 その答えはあまりにも当たり前すぎて海人は考慮していないものだった。
「そりゃ、そうだろうけど……それまで耐えるつもりか? まだまだ卵を産まなきゃいけないかもしれないんだぞ? セミがくたばる前に、藤の体がもたないだろ」
「それは分かってるよ。僕だってそう何回もあんな目に遭いたいわけないんだから。僕がいいたいことはつまり、セミは確実に弱っていってるってこと!
 メスのセミなら交尾後に産卵が始まるんだけど、オスは産卵しないから交尾が終わったらあとは死ぬだけなんだ。十日くらいかな。その間にも交尾はできるんだけど、どんどん弱ってもいく……だから海人が思ってるほど大量の水を用意したり、大量の殺虫剤を用意したりっていう大捕り物は必要ないってことだよ」
「なるほど……なるほどな……。確かに相手が弱ってくれてるならこっちとしては大助かりだ。だけど、本当にそうなのか?」
 藤の語った内容は二人にとっては夢のような内容だ。打倒を目論んでいる未知の相手が自ら死の淵に立ってくれるなんて、ゲームだったらコントローラーを捨てたくなるような接待プレイではないか? そんな、あまりにも都合の良すぎることが起こるのだろうか。
「だって、そうじゃなきゃアレがセミの形に執着する必要はないだろ? セミでいたいんだよ。きっと。セミであることに意味があるっていうか……まあ、存在自体が非現実的なものだから答えなんて出せるわけがないんだけど、答えが出せないからこそ思いついたことは試していくべきだと思うんだ。それでセミを捕まえて退治するなり剥製にするなりして問題が解決したらオッケーってことで」
 にゅ、と親指を立てた藤の手が海人の鼻先に突きつけられた。
 藤の言わんとすることも分からなくはないけれど、果たしてほんとうにそれで万事解決するのだろうか。海人の胸には疑問が残っていたが、かといって効果的な代替案も浮かばないので藤の提案に乗るほかない。
「わかった。とりあえずセミが弱っていく理論でいこう――でも弱ってるセミの動きを封じてからはどうする? さっきもここまでは話してたんだよな」
「そのまま死ぬのを待つのは最終手段かな。僕だって早く解放されるならそれに越したことはないわけだし」
「じゃあやっぱり、なんとかして殺すっきゃないよなぁ。でもセミなんてどうやって殺せばいいんだ? 死んでるセミは見たことあるけど、明確な意思をもってセミを殺したことってないかも」
「まあ、セミは害虫じゃないからね。それに普段見かける虫の中では大きいから簡単には死なないし、早死にするイメージもあるからわざわざ殺そうとはしないよね」
「だよなあ。まあでも、靴をぶつけたら嫌がってたことを思えば攻撃は通るってことだよな。とにかく叩いて殺す……か?」
「それも一つの手ではあるけど、セミも外殻が硬いからなぁ。こっちが疲れちゃうかも」
「うぅん……じゃあ工具を使うのは? 電動ドリルとか」
「悪くないと思うけど、僕はもう電気を流しちゃおうかなって」
「電気を流す? セミに?」
 海人は藤の提案をイメージに起こすことに苦戦した。電気を流すとは、セミに電極でもつけるのだろうか。
「電気ラケットって知ってる? 家に入って来たカとかハエとかを殺すためのやつ」
 手を軽く握った藤が腕をスイングさせる。その動作に誘引されて海人の頭の奥底から懐かしい記憶が浮かび上がってきた。
「あぁ、ばあちゃんの家にあったかも。虫に当たるとバチってなるやつだよな。でも、カやハエだから効く威力ってセミにも効果あるのか?」
 おもしろそうなものだったので幼かった海人はそれで遊びたかったが、危ないからと触らせてもらえなかった物だ。
「普通のセミも退治できるらしいけど、実際に死ぬかは分からない。痛くて逃げていくだけかもしれないし――でも、僕達はまずセミの動きを封じるために水をかけるでしょ? セミだって濡れたら電気抵抗が減って感電する」
「感電なら叩いて殺すよりは早い……か」
「まあでも、電気ラケットの出力をあげなきゃダメだろうけど」
 仰向けにベッドに倒れた藤が「僕、電気系は苦手なんだよね」と呟いた。
「それなら大丈夫。そんなことしなくても、スタンガンを使えばいいんじゃない? 電気ラケットは虫用だけど、スタンガンは対人間用だし」
「スタンガンか……盲点だったかも。でもそれってどこで買えるんだろ。普通に通販でいけるのかな」
 身を起こした藤はベッドから立ち上がると、机の上に置いてあったスマートフォンを取ると再び海人の横に腰を下ろした。
「あるね。あるある! 即日配送もしてくれるって」
「さらに。俺は通販より早くスタンガンをゲットできる方法を知っています」
 がばりと藤の顔が画面から上がり、海人の方を見た。目を大きく開きつられて口も少し開いているその顔は、健治から教えてもらった話にあった期待を隠し切れない時の表情そのものだった。
「なんで? 海人、スタンガン持ってるの?」
 まだ見ぬ藤の表情を引き出せた優越感と、しかしその顔を自らの手で喪失させてしまうであろう罪悪感が海人に襲い掛かる。
「俺が持ってるんじゃなくて、トラが持ってるんだよね。事情を説明したら貸してくれるとは思うんだけど……どうする?」
 トラ。その名前が出た瞬間、やはり藤の顔は瞬く間に険しくなった。
「やっぱりトラのこと苦手?」
「苦手っていうか……第一印象が良くないっていうか……」
 第一印象というと、転校初日のことか。確かにあの時、寅雄はいきなり藤の肩を組んだのだ。
「あー、あの時のね。でもそれだと俺も大概悪くないか? だってたしか、藤の転校理由を探ろうとしたし」
「うん。海人の印象も良くなかったけど、音楽準備室のこと教えてくれたから」
「それだけ? それだけで印象って変わるもんか?」
「ハンバーガーも奢ってくれたし」
「こっちに来た理由、どうしても知りたかったからなぁ……」
「でもいいよ。瞠目に借りにいこう」

 海人と藤は地下鉄に乗り、藤の家の最寄り駅から海人の家の最寄り駅へと移動した。寅雄の家と海人の家は比較的距離が近いところにあるからだ。
 通いなれた道を進み、瞠目家のある高層マンションに向かう。
「瞠目の家ってもしかしてお金持ち?」
 光り輝く床や洗練されたデザインのエントランスの内装を見た藤が驚きを隠せない様子で海人に問う。
「らしいねぇ。俺もトラの親がどんな仕事をしているかは知らないけど、トラは自分のことを準ボンボンって言ってるよ」
「じゅんぼんぼん?」
「たしか……元から金持ちだったわけじゃなくて成金のボンボンだからって、言ってたかな」
「あの瞠目が、ね……」
 藤はまだ納得がいかないようだがいつまでもエントランスにいるわけにもいかないので、海人は何度も首を傾げてはぶつぶつと何事かをぼやく藤を無視してインターホンを鳴らした。
『海人と、瀬見川?』
 インターホンに出たのは寅雄だった。海人が名乗るより先に寅雄の大きな声がマイクから聞こえてくる。
「突然悪ぃ。ちょっと話せるか?」
『もちろん! 上がって、あがって』
 エントランスのロックが外された。

 エレベーターで八階まで行き、瞠目家のある八〇三号室のチャイムを鳴らす。
「久しぶりだな、海人! 瀬見川も!」
 すぐに開いた玄関扉の中から寅雄が出てきた。学校とひとつも変わらないテンションの高さに藤は海人の身に隠れるように半歩後ろに下がった。
「おじさん達は?」
「どっちも夜勤だから平気。ほら、上がれよ」
 玄関が大きく開かれ、海人と藤は瞠目家に上がった。

「それで突然二人で押しかけてくるような話しってなによ」
 まるでモデルルームのようなリビングにある一人掛けソファにどかりと腰かけた寅雄に習い、海人は寅雄の対面にある二人掛けソファに藤と並んで腰を下ろした。尻がぐんぐん沈むような柔らかさだ。
「話せば長くなるんだけど、今日はトラのスタンガンを貸してもらいたくて来たんだよ。確かいくつか持ってたよな」
「あるある。護身用にとか言って親父がいろいろ買ってくるんだよ。ちょっと金持ちになったくらいで大袈裟だよな――けど、なんでまたそんなモンをほしがるんだよ」
「えぇと……まあ、電気を通したい相手がいるっていうか……?」
 藤のことを素直に寅雄に伝えるわけにいかず、かといって藤が寅雄と和気あいあいと話すとも思えない海人はしどろもどろに説明をした。が、そんな説明で寅雄が納得するわけも無く、追及は増した。
「犯罪に使うんだったら貸せないからな。あれ、マジで痛いし」
「犯罪には使わないって!」
「じゃあ何に使うのか教えろよ」
 その繰り返しになりかけたとき、藤が口を開いた。
「僕が使いたいんだ。説明すると長くなるし信じてもらえないかもしれないけど、身の危険に晒されてるんだ。転校してきたのも、それが理由」
 まさか藤が自分のことを切り出すとは思っていなかった海人はぎょっとして藤のほうを見たが、藤は助けを出そうとする海人を手で牽制した。
「瀬見川が? 身の危険?」
「うん。ストーカーみたいなヤツでさ……色んな人と仲良くしたくなかったのもそれが原因っていうか。で、その相手に直談判つけに行くのに手ぶらだと怖いからって海人に相談したら瞠目がスタンガンを持ってるって教えてくれたんだよ」
「ふぅん……ストーカーねぇ」
 寅雄は真偽を計るように藤のことをじっと見つめる。藤の話した内容は嘘ではないけれど、事実でもない。上手く誤魔化したものだ。
「よっしゃ。それなら一肌脱ぐか! 無事に解決したら全部すっきり教えてくれよな、瀬見川! てか、俺も藤って呼んでいい? 俺のこともトラって呼んでくれていいからさ!」
「あっ、うん……分かったよ、と、トラ……」
 にかりと笑ったトラの勢いはやはり苦手なようで、身を乗り出したトラに藤はやや引いていた。

 寅雄の自室、勉強机の下からサブレー缶が引っ張り出された。大きな黄色い缶を開けると、中にはスタンガンや催涙スプレーといった護身用具がぎっしりと詰まっていた。
「すごい量だな、これ」
 護身用具を持っていると聞いていた海人ですらこの量があるとは思っておらず、大量の護身具に驚きを隠せない。
「俺はあんまり覚えてないんだけど、ちょうど親父が金を稼げるようになったくらいの頃、俺が誘拐されかけたらしいんだよな。小学二年とかそれくらいだったか? で、母ちゃんもそうだけど親父がかなり神経質になっちまったらしくって。小さい頃から防犯ブザーだの催涙スプレーだの持たされてたよ。高二にもなってもういらないって言ってるんだけどさー」
 缶の中身はほとんどが未使用品のようだ。
「スタンガンがほしいんだっけ。好きなの持っていっていいよ」
 そう言われても、海人にも藤にもどのスタンガンがいいのを見た目だけで判断することはできなかった。
「このなかで一番出力が強いのって、どれ?」
 缶の中身をいろいろと漁っていた藤が問うと、寅雄が缶をガンガンと鳴らしながら次々と豪新用具を床に並べていく。
「使ったことがないから俺もどれが一番強いかは分からないけど、これとかこの辺かな」
 スタンガンと一口に言ってもその形は様々だった。マンガや映画で見るような黒いボディの先端が弧を描いているもの。マグライトと一体型になっているもの。警棒のような形をしたものもあった。マグライトと一体型になっているものはともかく、高校二年生の男子がこれらのスタンガンを所持していたら護身用だとは思われないだろう。寅雄が誘拐されかけた過去を持ちながらも護身用としてスタンガンを固辞する理由が海人にはなんとなく分かった。
「充電式とか一回スイッチを押したら通電しっぱなしのやつとかいろいろあるから、使いやすそうなの選んでいいよ」
「そうだなぁ……」
 まるで武器屋のようになった床を眺めた藤が最終的に手に取ったものは警棒のような形をしたスタンガンだった。細い円柱型のスタンガンの先端には金色の電極が二本突き出している。また、側面も先端から中腹にかけて黄色く着色された部分があった。持ち手は握りやすくグリップ式になっていて、ハンドストラップも付いている。
「藤ぃ! お前またゴツいの選んだな! それ、側面も通電できるヤバイやつだよ」
 もっと小型のやつを選ぶと思っていたのだろう。寅雄は藤の選択したスタンガンを見るとゲラゲラと笑いだした。
「好きなの選べって言ったのはトラだろ……」
 藤があからさまに口を尖らせたが寅雄はお構いなしである。
「いやぁ、あまりにもイメージと違ったからさ。どんだけヤバいやつがストーカーに付いてるのか気になってしかたねえわ」
「これでも不安になるくらいヤバいやつだよ、とにかくこれ、借りていくよ」
「どうぞどうぞ。無期限で貸してやるよ」
 海人と藤は対セミの強力な武器を手に入れることができた。
「問題が解決したらでいいからさ、何があったか教えてくれよ」
 瞠目家から帰る間際、珍しく寅雄が真剣な顔で海人と藤を見た。
「うん。すぐに返せるように頑張るよ」
「ありがとな、トラ」



 セミを無力化する具体的な策が固まりつつあったが、しかし大きな問題が一つ残っていた。
 それはあのセミがどこにいるのかということである。いくら策を講じ、武器を用意したとしても、肝心の相手がいないのでは独り相撲でしかない。
 終電ぎりぎりのところで地下鉄に乗りこみ瀬見川家へと戻った二人は改めてセミがいそうな場所を検討することにした。
「正直にいうと、セミはどこにでもいる」
「そりゃあそうかもしれないけど、なんとか絞りこめないのかよ」
「基本的には長瀞にいた頃に会ったセミだから雑木林や山のほうが住みやすいんだとは思う。でもこの前はこっちのほうまで来てたし……でも、セミはあんまり長距離移動はしないはずなんだよね。長瀞と新宿は直線距離でだいたい七十キロはあるから、普通は無理だと思う」
「普通は、ね。二メートルもあるなら余裕で飛んできそうだし、そもそも突然現れてる可能性もあるよなぁ。ほとんど怪異じゃん」
「虫の怪異ってあんまり聞かないかも。なんでだろう。牛鬼はクモっぽいけどクモじゃないもんね」
「そりゃあ、わざわざ怖い設定を足さなくても気持ち悪いからじゃね? ムカデとか普通に存在するのに意味わかんないくらい足がついてるし」
「そうなのかな。僕は面白いとおもっちゃうからその辺の感覚は分からないや」
「これだけセミに迷惑かけられててもやっぱり好きなの?」
 考えるより先に言葉が口から零れていた。
「うん。昆虫は好きだよ。セミはまあ、少し苦手になったけど」
 力なく笑う藤の顔があまりにも悲しそうで、海人は自分の軽率な発言を恥じた。今夜は失態だらけだ。自分の頬をぶん殴りたい気持ちでいっぱいになったが、そんなことをしてはますます藤を困らせるばかりなので、不甲斐なさを無理やり飲みこんだ。
「意地悪なこと言ったよな。ごめん。話、戻すわ」
 殴る代わりに自分の頬をぺちぺちと叩いて喝を入れた。
「これまでセミに会ったのは基本的に長瀞で今回四ツ谷まで来たことがイレギュラーと考えると、セミの本拠地は長瀞ってことになるよな」
「こっちの環境よりは向こうのほうが住みやすいだろうしね。長瀞に探しに行くのがいいと思う」
「そこで無事にセミを見つけて殺すことができたとして、その後はどうする? 卵はもう、何個もできちゃってるし、そこから復活する……とかなったら」
「それはなんとも言えないけど、海人の仮説通り卵から復活するとしても、卵はこっちの手にあるんだから先に処分しちゃえばいいよ。明日、卵は全部潰そう」
 自然と視線が押し入れに向く。あの中にはゴミ袋二つぶんのセミの卵が入っている。あの量を全て潰すのはなかなかに骨が折れそうだ。
「足で踏み潰したとしてもしばらくは感触が残りそうな量だよなぁ」
「この家の物置に高枝切狭があったからそれで潰そう。スタンガンの威力も見たいし、半分は電気を通してもいいかも」
 意外と気に入っているのか、藤は寅雄から借りたスタンガンを手のひらにぺちぺちと当ててやる気を見せた。
「じゃあ卵の処理問題は解決したな。殺してかつ動きを止める方法って何があるんだろうな。普通に考えたら死んだら動かなくなるもんだし、それでいいような気もするし、でもあのバケモンみたいなセミだから手は抜かないほうがいい気もするし」
「川にさ、落としちゃうのはどう?」
「海まで流すってこと?」
「うまく海まで行ってくれたらいいけど途中で岸に打ち上げられたら困るから、水浸しにして感電させたセミと岩を紐で括って川に落とす。これならもしも驚異的な力でセミが復活しても翅が濡れっぱなしだから飛べないし、そもそも川底にいるから呼吸ができなくてもう一度死ぬ……って考えたんだけど」
 どうかな、と藤が上目に海人に訊ねた。話はしっかり聞いていたし、アイディアにも大賛成なのだが、言葉よりも先に海人の体が動いていた。
「わあっ!」
 海人は藤を抱きしめていた。
「いいじゃん。ナイスアイディアだと思う!」
 突然のハグに一番驚いたのは海人だったが、それをオーバーリアクションとして誤魔化しつつもう一度大げさに藤のアイディアを褒めて強く体を抱きしめた。腕の中の体は柔らかくもないし細くもないけれど、海人にこれ以上ないほどの多幸感を味わわせた。
「明日……って言ってももう日付が変わってるから今日だけど、起きて卵を処分したら長瀞に行こう」
「そんな急にいいの? 海人、バイトがあるでしょ」
「急病だって言っておけばいいよ。連絡入れずに飛ぶヤツが多いから、ちゃんと事情を話せば問題ないよ」
「じゃあ、お言葉に甘えようかな――それといい加減離してくれる?」
 言われてようやく自分が何をしているのか気づいた海人は慌てて藤を腕の中から解放した。



 埼玉県長瀞町(さいたまけんながとろまち)
 埼玉県西部に位置する町で秩父盆地の北側に位置し、長瀞渓谷を筆頭に秩父鉄道荒川橋梁や宝登山などが目玉の観光地である。秩父赤壁とも呼ばれる長瀞渓谷ではカヌーやラフティングができ、紅葉も美しい。一年中いつ来ても四季折々の表情を楽しめる町だ。都心から電車でおよそ二時間という距離のため観光客も足を伸ばしやすい。

 新宿から湘南新宿ラインでまずは熊谷まで行き、そこで秩父本線に乗り換えて二人はやっと長瀞駅に到着した。
 眠るのが遅かった割に卵の処理のために早起きをしたため、海人も藤も電車の中ではほとんど眠っていた。
 長瀞駅は白い壁に赤い屋根のレトロな雰囲気を漂わせる木造建築だった。
 海人にとって鉄道駅とは新宿駅のような都心主要の巨大なものか、もしくは通学にも使う地下鉄の駅がなじみ深いものだったので、この駅はとても新鮮に映った。
 駅舎を出てすぐ目の前には大きな松の木が一本生えている。その松からセミが一匹飛び立ったように見えた。
「セミのネットワークとかあんのかな」
 抜けるように青い空に飛び去ったセミを見ながらぼやく。
「鳴いて交尾相手を探すくらいだから、人間には分からないコミュニケーション能力があるのかもね。まあ、だとしたら僕らがここにいることがバレたってことになるのか……繁殖目的しかないといいなぁ」
 寝不足の体での電車旅はなかなかに堪えた。うっすら頭痛の残る頭を振り、都心よりも眩しく感じる光に目を細めてまずは腹ごしらえをすることにした。

 夏休みの昼時はどの店も賑わいを見せていたが、藤の案内で穴場の店に行くことになった。駅周りの観光地から少し離れたところにぽつんとある蕎麦屋の暖簾をくぐる。
「ここの蕎麦、おいしいんだ」
 駅舎もそうだったが、この蕎麦屋もかなり年季の入った造りをしている。外観もそうだが、内装も百年は昔からあるような荘厳さがある。ガイドブックに載っていても良さそうなほどなのに、客は海人と藤以外には二人しかいない。
「ここからはどうするんだ?」
 店内に客が少ないからか、もしくは店の出で立ちか。後ろめたさなど無いのに、海人はどうしても声を潜めてしまう。
「とりあえず荒川沿いに歩いて公園に行ってみようかと思ってる。そこで初めてセミの羽化を見たし、巨大な終齢幼虫に会った場所だから」
「良くも悪くも思い出の場所ってことか」
 見知らぬ土地にやってきたという緊張感だろうか。海人はやけに喉が渇く気がして、一気に水を飲みほした。
 海人はざるそばを。藤は天せいろを注文した。自分を長年苦しめてきた存在と直接対決をしようというのに天せいろを選ぶ藤の胃の強さに呆れながらも、ハンバーガー屋に誘った時もポテトを追加注文していたことを思い出した。カレンダーで見たらそれはほんの一、二週間以内の出来事なのに、海人にはそれが遥か昔の懐かしい記憶に思えてしかたがなかった。
「うまくいくかな……」
 ここまで来ておきながら、海人の胸には急速に不安が立ちこめた。
 かつて藤はこの夏を乗り越えられたらひとまず四年は安心だと言っていた。四年後はどうなっているか分からないけど、関西の方に引っ越すとか、最終的にはノルウェーに行くのもいいとも言っていた。巨大セミの存在がある限り藤は四年おきに……いや、その間もずっとセミにつけ狙われているというストレスを抱えたまま生きなくてはいけないのだ。それこそ、遠い外国の地を選んでしまうほどに。
 この夏で全てを終わらせてやりたいという気持ちは強い。しかし二人で立てた策が通用するかは全く分からないのだ。海人が不安に思うのは当然の感情とも言える。
 初めてできた愛おしい存在。離したくないし、離れたくないと強く思う。例えそれが独りよがりなものであり、海人と藤で異なる名前のついたものだったとしても、海人は藤を諦めたくはなかった。そしてそのためには、未知の存在であるあのセミを打ち倒し、藤を自由にする必要がある。
 しなければならないが、完遂できる保証は無い。
 その先の見えなさが海人の足を竦ませた。
「ここまで来ておいて弱音吐くなよ。朝早くから卵処理して、トラからこんなものまで借りてきたんだから、成功するイメージだけ持っていよう。だいたい、先にセミを標本にするとか言って焚きつけたのは海人なんだから、そっちが弱気になられても困るんだけど」
 天ぷらを摘まんでいたせいで先に妙な照りのある箸が海人の顔に向けられた。その先にある藤の顔は眉を上げて厳しさを装っているが、声のトーンで怒っていないことがよく分かる。
「そうだよな。成功のイメージが大切だよな!」
 遠回しな励ましを受け、海人は気持ちを切り替えた。

 目的地となる公園は徒歩でおよそ十五分の距離にあるという。その道のりは地図で見るとほとんど直線なのだが、岩畳の続く川べりを歩くことにしたので軽微な起伏がいくつもあり、平坦な道を十五分歩くよりもずっと足腰に負担がかかった。肩に食いこむ大きなリュックを背負い直しながら、海人は先を行く藤を見た。藤はやはり地元ということもあって慣れているようですいすいと先を進むのだが、海人は何度か岩畳に足を取られて転びそうになった。
「足元見るのも大事だけど、景色も見なよ」
 健治から聞いていた幼少期の藤はアウトドアが大好きで、セミのことがあるまではトレッキングが趣味だったらしい。明るい声と軽い足取りは生まれ育った土地に帰ってきたからではなく、コンクリートだらけの都会から緑あふるる自然の中にいるからかもしれない。
「すごいな、ほんとうに」
 国の天然記念物にもなっている岩畳はその名と通り岩が畳を敷き詰めたように露出しており、その岩も一枚一枚が薄く層になっている不思議な造りをしていた。岩畳の脇を流れる荒川は深い緑色をしてゆったりと流れていて、時折ライン下り体験の木製の和船が通り過ぎていく。これからスタンガンを使ってセミを仕留めようとしていることなど忘れてしまいそうなほどに美しく長閑だ。
 さらに不思議なことに、長瀞に到着して駅前で一匹のセミが飛び立ったのを見たっきりそれ以降は一匹もセミを見ていないし、声も聞いていない。新宿を出て熊谷に行くまではホームに立っているだけで海人にセミがぶつかってきたり、車両が駅に止まるごとに窓にセミが張りついたりしていたというのに、熊谷から長瀞に向かうごとにセミの数が減っていった。
これまでの出来事が全て夢だと思えてしまうくらい静かだ。耳に届くのは観光客の楽し気な声と川の音、木々のざわめきばかり。周りの人々がセミの声が聞こえないことを気にしていないのは、単に興味がないだけか、はたまた海人と藤だけに声が届いていないのか……。いずれにせよ海人は胸の中に拭えない不安を抱えたまま岩畳を進んだ。

 岩畳沿いに荒川を進むこと十五分。藤とセミの因縁が生まれた公園に到着した。
 ただ単に公園と聞いてせいぜい四方が見渡せる程度のものだと考えていた海人はその敷地の広大さにまず驚いた。舗装された通路もあるが、芝の上で木々が伸びのびと枝葉を伸ばしている。公園というより、比較的平坦な箇所地図上で囲っただけといった印象だ。岩畳の歩きにくさから解放されると考えていた海人は勝手に裏切られた気持ちになった。
「なんだよここ、めちゃくちゃ広いじゃん」
「ここも観光の目玉の一つだからね。そのぶん手入れもしっかりされていて綺麗でしょ?」
 確かに良く剪定されてはいる。植えられている木は広葉樹が目立つので、秋にはさぞ美しい光景が広がるのだろう。しかし今日ここにやってきた目的は紅葉に向けた下見などではない。巨大なセミを討つためだ。
「こっちだよ」
 さくさくと進む藤の後に続き、公園を奥の方へと移動する。
 広大な敷地の公園は人気なスポットが決まっているらしい。藤によれば紅葉が始まると漫勉なくぎゅうぎゅう詰めになるそうだが、それ以外の季節は公園入口の付近や芝の広場、敷地の隣を流れる荒川の側まで下りれる場所が人気で人がよく集まっているが、それ以外の箇所は閑散としているという。
 二人はどんどん人気のない方へと足を進める。
 午後二時を少し過ぎたくらいなのでまだ日は高いはずなのだが、生い茂った木々に光が遮られているせいか進めば進むほどに辺りが暗くなっていくように感じる。振り返り遠くに見える人気スポットは、やはり明るいままに見えた。
「ほんとうにここも公園? なんか、自然がいっぱいっていうより森の中に来ちゃったって感じするんだけど」
 なんだか空気も冷えてきたような気がして、海人は半袖から剥き出しになっている腕を抱くような形で擦った。
「公園……のはずなんだけど、おかしいなぁ。二年くらい来ないだけでこんなに変わると思う?」
 辺りを見渡す。
 海人と藤を囲む木々の背はかなり高く、間違ってもたった二年で成長したようには見えない。
「道、間違えたとか?」
「そうかも。ごめん、先導きっておきながら。一旦引き返そうか」
 藤から見ても目的とは異なる場所だったらしい。二年も空白の期間があれば行政の都合とか、森林保護のためとか、公園内の散歩道や区画が制限されて見知らぬ場所に繋げられることは十分考えられる。
 分かる所まで戻ろうとした二人が体の向きを変えた瞬間、聞きなれてしまった音が鼓膜を震わせた。

ジーッ。

 セミの鳴き声。
 長瀞に到着して一、二時間は聞いていなかった声が、突然鳴り始めた。

 ジジ、ジジジ、シャンシャン、カナカナにぃにぃちっち……
 声は一つに留まらず大きくなり、種類もどんどん増えていく。音は二人をぐるりと囲むように全方位から聞こえていた。
「なんだよこれ……?」
 ボリュームのつまみを上げるようにだんだんと大きくなる音は嫌でもあの日の記憶を呼び起こす。巨大なセミが現れた、あの夜の。
 二人が一歩も動けずにいる間にもどんどんセミの声は大きくなり、海人も藤も耳を抑えてその場にうずくまるほどになっていた。
 鼓膜を自ら破ったほうが楽になるのではないか。そんな恐ろしい考えが頭を掠めた時、一斉に音が鳴りやんだ。
 体に響く衝撃が消えたことで海人はそっと耳から手を離し、周囲に目を凝らした。耳の奥ではまだ、セミの鳴き声が小さく響いている。
 海人と藤がしゃがんでいる場所のちょうど正面にあたるクヌギの木。その太い幹からはみ出す影があった。赤黒いその影は長い手足を動かしてのそのそと幹の上を移動している。紛れもなく海人と藤が探していた巨大セミである。
「藤、いたぞ」
 隣でうずくまったままの藤は顔を上げようとせず、その体は目で見て分かるほどに震えていた。
 まだ巨大なセミとの距離はあるとはいえ、逃げ出したくなるような重圧はすでに伝わってきている。海人だってできることなら荷物を投げ出し、後ろを振り向かず逃げ出したい気持ちでいっぱいだ。けれどそれをしないのは、できないのは、隣に藤がいるからだ。
 泣きたくなるような圧迫感に堪えながら、海人はゆっくりと背負っていたリュックを下ろした。体がぐんと軽くなる。リュックの中に入れてきたものは防災用のウォータータンクだ。十リットルのものと六リットルのものを一つずつ。セミの翅を完全に濡らすために合計十六リットルの水を背負ってきたのだ。
「リュック、開けるからな」
 うずくまり震えたままの藤の背負っていたリュックを開け、充電式の高圧洗浄機と寅雄から借りたスタンガンを取り出した。
ウォータータンクも高圧洗浄機も瀬見川家が借りている家の物置にあったものだ。今朝、庭でセミの卵を処分するときに見つけたものを拝借してきていた。
 周囲は鎮まったままだ。その静けさがかえって海人の焦燥感を煽る。高圧洗浄機を組み立て、ウォータータンクとホースを繋げる動作にすら苦戦するほどに。
 手から何度もホースやキャップを取り落としていると、頭上でがさりと音がした。恐るおそる視線だけを音がしたほうへ向ける。巨大なセミはすっかりクヌギの木の前面に移動しており、今は頭を地面側に向けていた。その姿は藤を見つめているように見えた。
――急がなければ。
 海人の心の内を読んだかのようなタイミングでセミの翅が広がった。四枚の翅が震え、ぶうぅん、と耳障りな音が響く。巨大なセミの体が浮かび、脚が幹から離れた。
「くっそ……、藤! 手伝えるか⁉」
 なかなか接続できないホースに舌打ちを飛ばして藤の方を確認する。藤はセミの羽音には気づいていたようで、宙に浮かんだセミを凝視していた。顔は真っ白になっている。
「おい! しっかりしろ!」
 手を止めずに叫んだが、海人の声は羽音にかき消されてしまって藤には届かない。しかしここでやっと高圧洗浄機にホースが接続できた。海人は急いでスイッチを入れ、ワイド噴射に設定していたノズルをセミに向けて水を放った。高圧洗浄機のモーターが唸り、水が勢いよく飛び出した。広い幅で噴射された水は見事にセミにかかったが、激しく動いている翅は水を弾いてしまっている。
 突然重圧感が増し、セミの眼が海人の方を向いた気がした。ゆっくりとセミの正面が藤から海人へと移動する。セミに捉えられたと分かり海人の膝が激しく震えるが、水の噴射を止めるわけにもいかずセミの正面から水をぶつけてみた。しかし翅に当たらない限り動きを抑制することは叶わず、耳障りな羽音を響かせてゆらゆらと水から逃げ回られた。このまま無闇に水を噴出していては、水もバッテリーも尽きてしまう。
 元々海人と藤が立てた作戦は、まず第一にセミに見つかるより先にセミを見つけること。そしてセミを見つけたら海人がセミの気を引いてその隙に隠れていた藤がセミの翅めがけて水を噴射して行動不能にし、そこでスタンガンを突きつけるというものだった。そもそもの作戦の第一段階が巨大セミには見つからずにセミを見つけるという前提だったため、無数のセミに囲まれた上に正面から巨大セミが現れた時点で作戦は破綻していた。仕切り直しができるほどの余裕は無いし、このような場合に陥った場合のリカバリーを考えていなかったのは、ほとんど明け方まで起きて作戦を練り、朝は早くから卵の処理に追われていたのでしかたのないことではある。が、そのある種の怠慢が招いた窮地でもある。
 誰にも責任転嫁はできないし、頼ることもできないこの状況で海人は必死に頭を回した。ここからの逆転の一手、もしくは元の作戦が遂行できるような軌道修正を懸命に考える。
 頭の回路が焼ききれそうなほど思考を巡らせて、やっと一つの希望が見つかった。
 海人はゆっくりと藤を見て、それから水を嫌ってクヌギの木の方へ後退した巨大セミを見た。セミは様子を伺っているように見える。
 今なら海人が絞り出した打開の一手を実行できる。けれど、それをするには良心を捨てなければならない。ばくばくと心臓が高鳴る。背に腹は代えられない。
「藤、ごめんっ」
 海人は変わらず巨大セミのほうを見て固まっていた藤をクヌギの木に向かって突き飛ばした。
「えっ」
 短い悲鳴と共に藤の体はぐらりと傾き、腹を下にして地面に倒れこんだ。
 海人の考えた打開の一手とは、藤をセミの前に突き出して囮にすることだった。これが上手くいけば、海人と藤の役割を挿げ替えることによって元の作戦が再び機能すると考えたのだ。
 巨大セミは無防備に転がる藤にすぐさま反応し、ものすごい勢いで藤へと降下する。
「うわあぁあっ!」
 藤は地面から立ち上がり逃げようとしたが縮こまり震える体では間に合わず、大きなセミにのしかかられた。セミは藤の体を確認するように藤の上で足踏みをしたり顔をぐっと藤の後頭部に近づけたりしている。
「あっ、あぁっ! たすッ、たすけてっ!」
 あの日と異なり意識のあるままセミに組み敷かれた藤はセミから逃げようと手足をばたつかせるが、人間よりも手足の本数が多いセミに敵うはずもなくあっという間に動きを封じられてしまった。セミが尻をくいくいと振る。それが何を意味しているのかは分からなかったが、海人にはそれが交尾が待ちきれないといった様子に見て取れた。
「海人ッ! 助けてよ!」
 ほとんど悲鳴のような声で懇願する藤だが、海人はその声に応えない。セミに組み敷かれ、今まさにセミに襲われようとしている藤をただじっと見つめていた。ぐい、とセミの尻が一層高く持ち上げられた。その先端になにか、細く鋭いものが見えた。
「かいとぉっ!」
 海人は高圧洗浄機を構えなおしてトリガーを引いた。水が勢いよく噴出されてこちらに背を向けていたセミの翅を勢いよく濡らしていく。驚いたセミが翅を広げたが海人はトリガーを離さず大きな前翅に隠れていた小さな後翅にも水を浴びせていく。
藤にしがみついたまま素早く羽ばたく翅に弾かれた水が海人のほうまで飛んでくるが、その動きもだんだんと勢いを失っている。しかし高圧洗浄機のほうも十リットルもあったはずの水が少なくなってきたせいで勢いが弱まっていた。海人はセミから目を離さず足先で次のウォータータンクを探り、ホースをそちらに付け替えた。がぼがぼと空気を吸いこむ音がした後、再び勢いよく水が噴き出した。動きが鈍くなっていたセミの体が水圧に負けて藤の体から転がり落ちた。仰向けに転がったセミは六本の手足をがむしゃらにばたつかせている。
「藤っ!」
 海人は勢いよく噴き出す水を片手で制御しながら、ウォータータンクの側においてあった寅雄から借りてきたスタンガンを手に取り藤に向かって投げた。放物線を描いたスタンガンは見事に藤の手元に着地した。
「とどめをさせ!」
 高圧洗浄機のモーター音もセミの鳴き声も羽音も無くなった空間で海人の声はよく通った。
 その声に我を取り戻した藤は無我夢中でスタンガンを掴むと、土の上で仰向けに転がって暴れる巨大セミに閃光を上げるスタンガンを押しつけた。チチチッと高い音がして巨大セミの体が跳ねた。
「うわああああっ!」
 六本の脚をピンと伸ばしたままばたつかせ、最後の抵抗をはかるセミはまるで断末魔だとでも言わんばかりに腹を震わせた。

 ジィィィィィッ……

 空に突き抜けるような鳴き声が消えると同時に巨大なセミの脚がぱったりと動きを止めた。
「やった……のか?」
 いきなり訪れた静寂。海人は高圧洗浄機を地面に放り出し、動かなくなったセミにスタンガンを当て続ける藤の元へと駆け寄った。
「藤!」
 スタンガンを当て続ける藤の肩を掴んでむりやりセミから離す。藤の顔がゆっくりと振り返り、興奮で真っ黒になった瞳に海人を写した。
「セミ、もう死んだんじゃないか? ぜんぜん動かなくなってるし」
 そう言ってやると藤はもう一度顔をセミへ向け、それからまた海人へと視線を戻した。巨大セミはぴくりとも動かない。
「僕ら、やりきった……ってこと?」
「うん。セミは死んだよ、藤がやっつけた」
 腕の中で藤の体の力が抜けた。ずしりと重たくなった体を支えきれず、藤も海人も地面にへたりこんだ。
「これで安心……かな」
 藤は海人の腕の中に収まったままぽつりと呟いた。
「いや、まだやらなきゃいけないことがあるから安心とは言えないけど、休憩するくらいはいいんじゃね?」
 セミを濡らしたときに一緒に濡れてしまった藤の体を抱きしめた。それが友達にする行為ではないと分かってはいたけれど、そうせずにはいられなかったからだ。
「か、海人?」
 きつく抱きしめられた藤は体を強張らせたが、海人はそれに知らないふりをしてさらに強く力をこめた。衣服越しに藤の体温と鼓動が伝わってくる。
「藤が無事でよかった。ほんとうに……無事で……よかったよ」
 声が詰まる。腕の中にいる藤が温かいというだけで目頭が焼けるように熱くなった。
「なに? もしかして海人、泣いてるの?」
「だったら悪いかよ。友達が……あぁ、違うなぁ。好きな相手がやっと自由になれたんだから安心して喜んだっていいだろ」
「はっ⁉ 好きッ、って言った⁉」
 腕の中の藤は海人の言葉に動揺し振り返ろうとしたが、がっちりと体を抱きしめられているせいでそれは叶わなかった。自分の首筋に埋められた海人の体温がやけに高く感じる。
「言った。俺、藤のこと好きになってた。絶対にセミから奪ってやるって思ってた」
「は……なに、それ……」
「これは俺の勝手な気持ちだから、受け取るかどうかは藤が決めて。本当は言うつもりは無かったんだけど、ちゃんと言っておかないとダメだなって、思っただけだから。藤が俺のことをキモいと思うならそれでいいし、でも、もし……もしも俺のこと、いいなって――うわっ」
 海人の腕がものすごい力でこじ開けられた。
「予防線張りすぎ」
 振り返った藤は言い終えると同時に海人の唇に自分の唇をぶつけるように重ねた。
「あっ、えッ⁉」
 ふにゃりとした感触が唇を通じ脳で弾ける。自分の身に起きた出来事を理解するまでに数秒の間を要し、そして海人は弾かれたように藤から飛び退った。
「なっ、なにしてんだよ!」
「何って、僕なりの答え……なんだけど」
「こたえ⁉」
 藤の唇が触れた箇所を両手で押さえた海人の声はくぐもっていた。
「それって、つまり……その、あーっと……」
 先ほどの頭の回転の速さはどこへやら。海人の頭はうまく思考回路を繋げずに混乱するばかりだった。
「海人が告白してきたのになんでそっちが動揺するんだよ! オッケーしたこっちがバカみたいじゃん!」
「ごめっ、ごめん!」
 顔を真っ赤にした藤がほとんど寄りかかるようにして海人の胸ぐらを掴み詰め寄ってくる。ここまで十六キロの水を背負って移動したり、重い高圧洗浄機を振り回していたせいで海人の肉体的疲労は限界に達しており、藤を受け止めきれずに二人で地面に倒れこんだ。
「ほんとうに、いいんだな? つまりそれは、俺と藤が付き合うってことで」
「ほんとうにいいって言ってるだろ」
 巨大なセミの死骸が真横にあることなんてすっかり忘れた二人は互いの気持ちを確認しあうと、今度はゆっくりと唇を重ねた。先ほどよりもしっかりと唇の柔らかさが伝わってくる。ちゅ、と小さな音がして唇が離れたが、その距離はすぐに縮まった。。



 初めてフジという少年にあったのは、八年前だ。
 長い長い土中での生活を終え、終齢幼虫となった私はやっと地上に這い出ることができた。
 雨上がりの土は柔らかく、地上にでるまでそう時間はかからなかった。土の上を進み、本能で羽化に良さそうな木を選んで足を幹の根元にかけた。
 大きなクヌギの木は小さな体で登るには果てしない高さに見えたが、この木でなければいけないと直感していた。六本の手足を必死に動かして木の幹を登り進めていると視線を感じた。羽化に適した場所を探しているだけなのにじっと見つめられた私はあまりの視線の熱さに戸惑い、幹の上を右往左往した。私がいくらうろうろしても視線はじぃっとついてくる。
 あまりにも視線が外れず注がれるので、私は複眼のいくつかをそちらに向けた。
 そこにいたのがフジだ。
 フジの視線と私がいる高さがちょうど同じ高さにあった。
 暗いなかでもきらきらと輝く瞳がよく見えた。気がづけば私の眼は全てがフジを捉えていた。期待に満ちた瞳で私を見るその大きな丸い瞳に、私の心はすっかり奪われていた。
 フジの表情から目を離せなくなった私の背をフジの指がそっとつついた。温かくて柔らかい感触に驚いたけれど、土以外の温かさを初めて感じた私はあまりの嬉しさで体が張り裂けそうな気持になったし、実際に背がばくりと裂けた。
 羽化だ。
 羽化が始まったら止めることは難しい。本能のままに背の亀裂から新しい体をゆっくりと出していく。
 まだ柔らかい体を見られるのは恥ずかしかったが、フジは変わらず熱の籠った目で私を見ていた。
 体を全て出すために私は一旦宙づりのような形になる必要があった。身を反らすとますますフジの顔が良く見えた。人間の目の造りがどうなっているかは知らないけれど、どうやらフジはこの時にやっと私がフジを見ていることに気がついたらしい。ただでさえ歓喜に満ちていたのに、輪をかけてフジの表情が明るくなったことをしっかりと覚えている。
 しかしフジは私の体が完全になる前にいなくなってしまった。
 いま思えば殻から抜け出して体を乾かす段階に入った私は少しも動かなかったので、幼いフジには退屈だったのだろう。しかしその時の私もまだフジと同じように幼かったので、どうしてあんなに目を輝かせて私を見てくれていたフジが居なくなってしまったのか、それが不思議でたまらなかったし、なんだか裏切られたような気持もあった。
 数時間の後、体が完全に乾いて立派なアブラゼミとなった私はしかし、心にぽっかりと穴が開いたまま茫然と木にしがみついていることしかできなかった。
 本来ならばメスを求めて鳴く必要があるのだけれど、心に穴が開いた私にはまったく鳴く気力が沸いてこなかった。私の番う相手はフジしかいないからだ。しかしどのように鳴けばフジに想いが伝わるのかが分からなかったし、闇雲に鳴いてみて余計なメスが寄ってくるのは避けたかった。そうして私はついぞ番うことなく生涯を終えた。
 死の間際ですら私の心はフジを求めていた。またあの輝く瞳で見てほしいと強く願った。意識が無くなるその瞬間までフジのことを想っていたことが幸いしたのか、私の魂はセミの体を抜け出していた。
 最初は何が起きたのか分からなかった。
 だって自分の体だったものがそこに落ちているのだから。転がっている体はまるで羽化をした後の抜け殻のように背中がばっくりと裂けていた。二回目の羽化だろうか。けれど次第にそんなことはどうでもよくなった。なぜならば体を捨てたことによってフジを待つ時間ができたからだ。体が無いのであれば、私は無限にフジを待つことができる。
 私はフジと出会ったクヌギの木にとまってフジを待ち続けた。
 数日が経ったころフジがやってきたが、その目は私を捉えなかった――いや、捉えられなかったのだ。私はそこではじめて、フジに認識してもらうには肉体が必要なことに気がついた。

 肉体を得るためには実に四年の年月がかかった。
 私は他のセミの体を乗っ取ることに成功し、また、近くにいるセミの意識を操れるようになったのだ。セミにこのようなことが可能なのかは分からないが、これもまたフジに会いたいという気持ちが成したものだと思っている。
 絶対にフジに見つけてもらう必要があった私は、核となるセミの幼虫の体を乗っ取り、そして他の幼虫を操って大きな一つの終齢幼虫の形を作り上げた。これならば私もフジを見つけやすいし、フジにも見つけてもらいやすいと考えたからだ。しかしこれは失敗に終わった。フジと再会を果たすことはできたのだが、どうしてかフジは私を見て怯えてしまったのだ。
 何が良くなかったのかは分からないが、この年、私が生きている間にフジと再会することは叶わなかった。
乗っ取った体は本能に従い羽化そして成虫へと変化したけれど、やはり私は鳴く気になれずひとりその命を燃やし尽くした。
 私は考えた。何年も考え、考え、考え抜いて答えを出した。その答えとは、絶対にフジが見つけられるくらい大きくなり、逃がさないようにすることだった。
 私は毎年なるべく大きな幼虫を乗っ取り、試行錯誤を繰り返した。理想体を得る間にフジが他のものに取られることを恐れたので他のセミを操りフジを監視した。操ったセミからさらにセミを操り、フジの居場所を完全に把握したし、フジに私の存在を知らせるためにあらゆるセミを使って求婚をした。けれどなかなかフジは私の存在に気づかなかった。
フジと初めて会ってから私が理想の体を得るまでに、さらに八年の月日を要した。

 これでようやくフジを我が物にできると思ったのに……
 もうほとんど動かない体をよじって私に水をかけた人間のオスを見た。あぁ、憎い。私のほうがずっとずっと昔からフジのことを知っていて、フジだって私のことを気に入ってくれているというのに。こんなぽっと出の人間にフジが靡くことが許せない。フジの気持ちを私から奪うこのオスが許せない。
 憎いという気持ちは沸いてくるが、私はどうしたら目の前のオスの命を奪えるのかが分からない。もしもその方法が分かるなら、今すぐにでもこのオスを殺してやるというのに……。
 どれだけ切に願っても、いまの私の感情が消化されることはない。けれどこの体の作り方はもう熟知している。いまこの体を失ったとしても、私には次がある。
 何年かかろうと、私はフジを諦めないつもりだ。



 地面に横になったままキスを繰り返していた二人は体力が少し戻ったところでやっと体を起こした。
「最後の一仕事、するか――わあっ」
 ぐ、と伸びをした海人が巨大セミの死骸の方に目を向けると、仰向けになっていたはずのセミの死骸がまるで二人を見るように体を斜めにずらしていたことに驚いた。
「完全に死んだと思ってたのに、まだ動いたのか……?」
 一瞬にして跳ね上がったせいで痛む心臓を撫でながら、海人はセミを覗きこんだ。地面に落ちていた長い木の枝で足をつついてみても反応はない。
「足が閉じてるから死んでるはずだけど、早いところ沈めちゃったほうがいいかもね」
「そうだな……念には念を入れないとだもんな」

 じゃんけんで負けたほうがセミの見張りを。勝った方がセミにくくりつける重石を探してくるという取り決めの元行われたじゃんけんの結果、重石を探すのは藤、セミの見張りが海人の担当になった。
 藤とセミを二人きりにすることは避けたかったのでこの結果は海人にとって良いものだったが、死骸の番をするというのも気味が悪い。
 昆虫に詳しい藤が死んでいると言ったし、ちっとも動かない姿を見ると本当に死んでいるのだろうけど、スタンガンを当てていた藤をセミから引き離した時とキスをした後でセミの位置が微妙に変わっていたことが気になってしまう。
 人間は首を切り落とされてもしばらくは意識があるとか筋肉の硬直などで動くことはあるが、果たして昆虫も同じなのだろうか。生き物に詳しくない海人には考えても分からないことだ。
 海人はそんなことを思いながら動かないセミを見つめた。
「なんでお前は藤に執着してたんだ?」
 これもまた、答えのない質問である。
 もう圧を感じない真っ黒な眼と見つめ合う。
 抜け殻のセミは答えはしないけれど、海人にはセミが心から藤を想っていたように感じた。

 藤はどこから見つけてきたのか、リュック二つに大きな石をいっぱいに詰めて戻ってきた。
「これだけあれば、浮かんでこないでしょ」
「そうであるように信じよう」
 不気味ではあったが、大きな石をセミの体にくくりつけていく。万が一動いたりしたら怖いので、六本ある足の付け根に中くらいの石を。顔、腹、尻には大き目のものを置いて持参していたビニール紐で何重にも縛りつけた。
 飛ぶために軽い体をしているとはいえ、二メートル強もあるセミにいくつもの石をくくった体はかなり重たかった。二人がかりでも激しく息が上がるほどの重さだ。
 いつの間にか明るさが戻っていた公園を進み、岩畳を越えてごうごうと水が流れる荒川が見えるところまでやってきた。水は深い緑色をしている。
「これ、結構深そうだな」
「そうだね……たしか、深いところだと五メートルくらいはあったかも」
「五メートルかぁ。なんか、こいつだったら浮かんできそうな気がしてきた」
「ちょっと! 冗談でもそういうことは言わないでよ。本当にそうなったらどうするつもり?」
 汗と泥にまみれた藤がぎっ、と海人を睨みつける。
「ごめん、ごめん。これだけ重石をつけたんだし、信じるよ。さっきもなんとか作戦通り進んだし、きっとこれもうまくいく!」
 巨大セミの死骸を岩畳のへりに置いた海人と藤は、渾身の力をこめてセミの体を押した。
「うおおぉっ」
「あぁあぁつ」
 最後のひと踏ん張りだと言い聞かせて押すと、ゆっくりとセミの体は傾いていき、そして引力に従って川へとその身を落下させた。
 ごぼん。と低い音がして水しぶきが飛ぶ。
 セミの体はしばらくはその場に浮かんでいたが、やがて水の奥へと沈んで行った。
「これでおしまい、だよな……」
 セミが沈んだ箇所から小さな泡がぽこぽこと上がってくるので海人は気が気ではなかった。
「うん。あの泡はセミの体にある空洞に入っていた空気が漏れてるだけだと思う。それが抜けきったら絶対に浮かんでこないよ」
 絶対に、と藤は言うけれど、その声は少し震えていた。
 海人と藤は泡が見えなくなるまで川を覗きこんだ。

 泡が消えるのを待ち、セミが上がってこないことを確認し終える頃にはとっぷりと日が暮れていた。
「あーぁ。これ、帰れるかな」
「熊谷まで戻れたら終電までは時間があるだろうけど、疲れたよね」
「なー。でもここで野宿するのも怖いし、頑張って帰るしかないか」
 海人は何時間も川を覗いていたせいで赤くなってしまった膝を撫でながら愚痴をこぼした。
「だったら、うちに来る?」
「四ツ谷の?」
「ううん。長瀞の。鍵はあるから大丈夫だよ。食べる物も、カップ麺くらいならあったはずだし。海人が嫌じゃなかったら服も貸せる」
「おぉ……! まじかよ! あっ、でもまって。でもそれってお誘いだったりする? さすがに告白初日でそういうのはちょっとどうかと思うんだけど……」
「はあっ⁉ 僕は親切心で言ってるの! なんでそっちに話を繋げようとするんだよ!」
「だよな、だよな! いや、悪い。親のいない家に行くってなったらやることはひとつかなーって考えちまって」

 体はすっかり疲れ果てていたが、荷物が軽くなったことに加えてじゃれ合いながら進んだおかげか、藤の実家に着くまでにかかった時間は行きの半分程度に感じた。
 本来の瀬見川家は、腹ごしらえのために入った蕎麦屋の裏手側に位置していた。
 二階建ての戸建てというところは四ツ谷の借家と変わりないが、つい先月まで人が住んでいたせいか朽ちた印象はない。それなりの広さがある庭には様々な木が植わっており、芝もみずみずしい。庭の隅には小さなビオトープもあった。この庭のある家で育ったのであれば、藤が昆虫少年になったのも頷ける。
 四ツ谷の家とは対照的なのは外観だけではなく、内装もそうだった。この家で生まれ育ったという歴史と生活感がぎっしりと詰まっていた。
「これが本当の藤の家かぁ……」
 家の中はフローリングが敷かれており、洋風の造りになっていた。リビングはダイニングと続きになっており、収納棚と一体型になっているテレビ台に薄型テレビが置いてあり、ダイニング側には四人掛けのテーブルが置かれている。海人は勧められるままダイニングテーブルの一角に腰を下ろした。
「あんまりじろじろ見るのやめてよ。なんか恥ずかしい」
「だってあっちの家って古いのに全然物がなくってヘンな感じだったんだよ。んー。他人の家の匂いがする」
 海人がこれ見よがしに深呼吸をしてみると、隣に座った藤が海人の脇腹を強めに小突いた。
「いてぇっ――けど、それで思い出したわ。藤、腹の調子はどうなんだよ。今朝から発作みたいなのもないみたいだけど」
「あぁ、そう言えば今はすっかり。今朝がたはまだごろごろした嫌な感じがあったけど、もう平気そう。やっぱりセミの存在が影響してた――ってことなのかな」
「真相は分からないけど、そう言うことにしておこうぜ。セミを殺しても藤の体に不調が残ったままになるっていうのが一番最悪のケースだったから、これにて完全解決、だな」
 にぃっと海人が笑うと、藤もつられて歯を見せた。
「あれ、すっごい苦しくて最悪だったから、これで解放されたと思うとせいせいするなぁ。やっと自由がやってきたって感じ」
「これで趣味も再開できるんじゃない? おじさんから聞いたよ。トレッキングが趣味だって」
「父さんそんなことまで話してたのかよ」
「それくらいはいいじゃん。だっておじさんの話をきいて俺、もっと藤のことを知りたいと思ったし、藤のこと絶対に守らなきゃって誓ったんだよ」
 テーブルに載っていた藤の手に自分の手を重ねると、藤の顔がぱっと赤くなる。
「おじさんに聞かれたくなかったら、藤が俺に藤のことを教えてよ。俺も藤に俺のこといっぱい教えるから」
「海人の昔の話が聞けるなら……、まあ、いいかな」
「よっしゃ。今夜は徹夜で話そうな」
「えぇ? だったら電車で帰ってもよかったんじゃない?」
「ばっか。おまえ、藤の家で藤んちの布団に入って話すからいいんだろ?」
 リビングダイニングに二人の笑い声が明るく響き渡った。



 冷たい水が絶えず体を覆っている。
 石がくくりつけられた体は重く、引きずられたせいで翅もぼろぼろだ。
 これまで何度も死を経験してきた私だが、水の中で死ぬことは初めてだ。
 私は現在の体の背を裂いて羽化をすることによって魂を継ぎの幼虫へと移す方法で生きながらえている。試したことはないけれど、この体から抜け出すことができたのなら、例えそれが水のなかであれど魂は無事であるだろう。
 八年の歳月のなかで得たコツを用いて背中を開こうとしたが、途中までしか動かなかった。何度試しても背中がうまく開かない。
 死んで時間が経ち、固くなった体で羽化をしたことは何度もあった。そのため羽化が成功しないのは死後硬直によるものではない。
 そこで私は体にくくりつけられている紐のことを思い出した。紐は体に石をくくりつけているものなのだが、それが翅の上を通ってしまっているのだ。紐によって強制的に翅と背を閉じられているせいでうまく背中が裂けないでいる。
 これはセミとしては長く生きている私の人生で最大のピンチだ。
 一つの死骸に長くとどまったことがないので、紐が劣化するまで持ちこたえられるのかがわからないし、紐より先にこの肉体が劣化することも考えられる。完全に肉体が朽ちてしまったら私の魂はどうなってしまうのだろうか。
紐が劣化するまで時間を要しても、肉体が劣化しても私は変わらず私でいられるかもしれない。保障はないが、私のフジへの想いは変わるどころかより強くなっているのだから可能性はある。ならば、可能性に賭ける以外の選択肢は無い。

 ごうごうと流れる水が足を一本持ち去った。背中はまだ裂けず、紐も健在だ。
 フジの様子を探りたかったが、水底にセミの幼虫がいないため意識を共有することができなかった。
 これまでも長く土の中にひとり閉じこめられていたけれど、周りの幼虫を通じてフジの様子を知ることができたので苦にはならなかった。しかし今はフジの様子を知る手立てがなく、それは無限の孤独に感じられた。水中に留められることが、こんなにも苦しいとは……。
 フジのことだけを考えていたら、眼がひとつ水に流された。
 もとより見えてはいないので問題ないが、気分はよくない。紐はまだまだしっかりと体に巻きついている。
 フジ…… フジはいま、どこで何をしているのか。それさえ分かれば私は耐えられる。
 次々に体が崩れていく。外側から順に体を失っていく間に、私の中にもうこのまま消えてしまうのではないかという恐怖が芽生えていた。意識ももう、ぼんやりとしている。
 最後のチャンス。
 私は僅かに残った意識を集中させて背中に力をこめた。
 体が崩れ去り、意識が消えるその寸前、ぴっ、と背中が割れる感覚があった。