あやかし瞳の花嫁

 遠羽の胸がよろこびに満たされたのもつかの間、父が帰って来るなり遠羽は針の(むしろ)に座らされているような心地だった。
 宝来家からの書状は予告通り康之の帰宅と同時に届けられ、不測の事態にすぐさま遠羽は居間に呼びつけられた次第である。

 正面に座する康之の前には書状が座卓に広げられ、同封された支度金の小切手には想像もつかないほどの金額が記されているらしかった。

「これで我が家にも五行宗家との縁ができるぞ!」

 居間に集まる家族の中で、康之だけがひどく上機嫌である。
 眉間にしわを寄せた険しい表情の桐子と、あからさまに不満をにじませる愛莉から嫌悪に満ちた視線を向けられ、遠羽は正座をしたまま小さく背を丸めた。

(あの人が、宝来家の方だったなんて……)

 学のない遠羽だって耳にしたことくらいはある。
 代々、帝からのお役目を担う華族の名門の家の中でも特に高い地位と権力を有し、帝の家元との繋がりも深いとされる五つの家。

 その筆頭とも名高い宝来家から、華族の端くれである椛山家にまさか婚姻の申し出があるなんて誰が想像しただろうか。

「しかも相手はあの特公課の隊長ともなれば、異能の力は計り知れん! 地位も財力も申し分ないし、我が家の将来は安泰が約束されたも同然だな!」
「五行宗家との縁ならば、わたくしにもございます!」

 興奮冷めやらぬ康之に、桐子はおもわず腰を浮かせた。

「だがお前は遠縁だろう? 直系の婚家であれば、その恩恵は比較にならん」
「ですが! こんな卑しい子が宝来家に嫁入りだなんて! うちには年頃の愛莉もいるんですよ!?」

 桐子とてこの縁談に不満があるわけではない。宝来家との縁ができることは願ってもないことである。
 ただ、その相手が愛莉ではないことだけが不服だった。

「お母様のおっしゃるとおりよ。こんなのを嫁がせたら、我が家の恥をさらすようなものでしょう? 妾の子に名家の嫁がつとまるはずがないわ」

 母よりもいくらか冷静な物言いで愛莉が口を出す。
 蔑むような視線を横目で遠羽にくれてやり、ますます小さくなる異母姉(あね)の姿に短く鼻息を漏らした。

「それに比べてあたしなら、名家の令嬢としての教養もふるまいも身についてるし、燐様と並んでも見劣りしないでしょ? お互いの家のことを思えば、どこの馬の骨かもわからない女から産まれた子より、あたしのほうがよっぽど燐様にふさわしいと思わない?」

(愛莉様の言うとおり……わたしなんかじゃ、釣り合うわけない……)

 うつむいたままの遠羽は膝の上でぎゅっとこぶしを握った。手の中の手ぬぐいにくしゃりとしわが寄る。
 娘の言葉に父は返す言葉もない様子で、居心地が悪そうに顔をしかめるばかりだった。

 妾を囲うこと自体は華族社会では一般的だ。だがそれは正妻の許諾があってのことで、康之の場合は桐子になんの承諾も得なかったことに問題がある。
 みずからの不貞行為を槍玉に上げられては、康之も立つ瀬がない。

 居間に流れる沈黙は重く、振り子時計のカチカチと鳴る規則正しい音だけがやけに室内に響いていた。

「ねえお父様、今からでも遅くないわ。宝来家の嫁にふさわしいのはあたしだって、燐様に言ってちょうだい。いいでしょ?」
「そうですよ、あなた! どう考えても、愛莉のほうがいいに決まってます!」
「だ、だが、今さら五行宗家の申し出を断るなど……」
「断るのではありません! より良い提案をするのです!」

 妻にも娘にも頭が上がらない父が遠羽の味方をするでもなく口ごもるのを聞きながら、遠羽は膝の上の手ぬぐいをじっと見つめていた。

「遠羽!」
「っ!」
「あんた、いったいいつの間に燐様と知り合ったのよ!」

 突然立ち上がった愛莉が畳を踏み鳴らしながら、ずかずかと遠羽に詰め寄った。
 おもわず顔を上げた遠羽に侮蔑のまなざしが降り注ぐ。
 言葉に詰まった遠羽は咄嗟に返事をすることもできず、頭ごなしに浴びせられる怒声に体は反射的にこわばってしまう。

「こんなもので燐様の気を引くなんて!」
「っあ……!」

 動けない遠羽の手から、手ぬぐいが乱暴に奪い取られる。
 はためいた手ぬぐいの桃色のスズランに向かって、遠羽は咄嗟に手を伸ばしていた。

「このあたしを差し置いて燐様とお近づきになるなんて! 図々しいにもほどがあるのよ!」

 反響する愛莉の声。混じるのは布がちぎれる音。

「っあ……! ぁあ……!」

 目の前で真っ二つに裂かれた手ぬぐいが無造作に投げ捨てられ、遠羽は小さく悲鳴を上げて両手で口元を覆った。
 面のせいか呼吸が浅く苦しい。
 こわばった肩を震わせて、遠羽はおそるおそる打ち捨てられた手ぬぐいに手を伸ばした。
 けれどもその手は容赦なく愛莉に踏みつけられ、遠羽は痛みに顔をゆがめた。

(母さまの、スズランが……!)

 今までどんな仕打ちをされても耐えてきた。それは数少ない遺された母の形見があったからこそ。
 だが大切な品をぞんざいに扱われ、壊され打ち捨てられて、黙っていられようか。

 遠羽は無意識に奥歯を噛み締めて、面越しに愛莉を睨みつけた。
 居間の襖が遠羽の感情に呼応するかのように、ガタガタと風に揺れる。

「なによ! その反抗的な態度は!」

 次の瞬間、愛莉の足が浮いたかと思うと同時に足裏が遠羽の顔に直撃する。
 勢いのままに座卓に頭をぶつけた拍子に、戌面に小さく亀裂が走った。

「愛莉! おやめなさい!」

 さすがにこれ以上はまずいと思ったのか、桐子が咄嗟に止めに入る。
 万が一遠羽を死なせてしまっては、それこそ宝来家との縁談が破談になりかねない。
 事を穏便に済ませ、うまいこと縁談相手を愛莉にすげ替えるには、遠羽には生きていてもらわなければ。

「この子は離れに閉じ込めておきましょう。三日後、この子がおらず結婚に乗り気でないとわかれば、宝来様もお考えを改めるはずです」

 継母の声が、耳の奥に響いていた。
 くらくらとする頭を持ち上げて、遠羽はゆっくりと上体を起こす。
 面のおかげで衝撃がやわらいだのか大きなケガをすることはなかったが、それでもぶつけたひたいの部分がズキズキと痛んだ。

「それでいいですわね? あなた」
「…………」

 遠羽をかばうわけでもなく、桐子に同調するでもなく、父は黙っているばかり。

(……お父様……わたしのほうを、見ようともしないなんて……)

 はなから期待などしていなかったが、それでも血をわけた娘のためにここぞという時には桐子と愛莉をたしなめてくれるのではないかと思っていたのに。