「っ!?」
近づく足音には気づいていた。それが桐子のものでも愛莉のものでもないことはわかっていた。
だから早く身を隠さなくてはと思っていたのに。
「あ……え、っと……」
足元にまとわりつく小鬼たちを追い払うこともできず、開け放たれた木戸の向こうの光景に遠羽は息を飲んだ。
まだ薄れぬ記憶の中の人物の風貌が、目の前に現れた男にぴったりと重なる。
(この人……あの晩の……!)
もう一度、会いたいと願っていた。話をしてみたいと。
だが予想だにしなかった展開によろこぶ隙もなく、遠羽は面の下で呼吸を止めて一気に青ざめた。
男の後方で、桐子と愛莉が鬼の形相でこちらを見ている。
(どうしよう……どうしよう……!)
言いつけを破ってしまった。隠れられず人前に出てしまった。
彼がここにいるということは、外で出会ってしまったことも、それを報告しなかったことも、すでに知られてしまったあとなのだろう。
(ああ……もしかしたら、顔を……この瞳を見られたことも……)
ひと晩にして破ってしまった言いつけの数を思い返して、遠羽は身を固くした。
これはあとでどんな仕打ちを受けるかわからない。
(どうして……正直に言わなかったの、わたし……)
途方に暮れる遠羽に構わず、燐の足がゆっくりと近づいてくる。
彼が目の前に来ても動けずにいる遠羽の指先を、燐の手がふわりとすくい取った。
「また会ったな、俺の花嫁」
次の瞬間、指先にふれるぬくもり。
それが燐の唇の熱だと理解したとたん、遠羽は反射的に手を引っ込めた。
「えっ……! あ……え……?」
(この人……今、わたしの手に……!)
目の前で起きたできごとを信じられなかった。
内心ひどく狼狽する遠羽に、燐がふっと笑みをこぼす。
「お前、名はなんという?」
「あ、の……遠羽、です……」
「遠羽、か……」
すると、燐は手にしたままの手ぬぐいをおもむろに遠羽に差し出した。
「遠羽、これはきみの手ぬぐいだろ?」
「あ……!」
差し出された手ぬぐいの、桃色のスズランの刺繍に目を留める。
それは見慣れたたたずまいで、たしかに遠羽が愛用していたもの。
「そ、れじゃあ……あの猫又は……!」
おもわず顔を上げた遠羽の目に、燐のまなざしがまっすぐに飛び込んできた。
口元の笑みが遠羽の言わんとすることを肯定しているような気がする。
だがそれ以上に、真摯に向けられる目の奥深さに見透かされそうな気がして、遠羽はすぐに目線を手ぬぐいへと戻した。
「きみにはずいぶんと世話になったようだ。感謝する」
「い、いえ……」
人から感謝を伝えられるなど、母が亡くなってからは初めてかもしれない。
頭上から降る声のやわらかい響きにふんわりと心が満たされ、遠羽は短く応えるだけで精一杯だった。
ついと差し出された手ぬぐいをそっと受け取り、大事そうに胸にいだく。
(まさか、戻ってくるなんて思ってなかった……)
意図せず手元に帰ってきた母の形見。もう戻らぬことを覚悟していたのに。
遠羽はこみ上げるよろこびに、面の下でわずかに瞳を潤ませた。
(できれば面をはずしてやりてーが、ここじゃあな……)
桐子が遠羽の存在を隠そうとしていたことから、ここで彼女の素顔をさらしてしまうのは得策ではないだろう。
面越しでも伝わる遠羽の様子を満足そうに眺めたあと、燐は遠羽の肩を抱くようにして厨の出入口へと体を向けた。
「先にも申しましたとおり、手ぬぐいの持ち主である彼女を、当家に迎え入れます」
「え……?」
「お待ち下さい! その子は……!」
驚く遠羽の声を遮って、桐子の焦りが響き渡った。
だがそれを意に介さぬように、燐の口調は至極淡々としたものだった。
「こちらの都合で申し訳ありませんが、結納等、婚姻に際しての行事は省略させていただきます。急なことですので、支度金には十分な額を用意するつもりです」
「そういうことではなく……!」
「どうやら御主人が不在のようですので、正式な書状はのちほど届けさせます。くわしいことはそちらをご確認ください」
「ですから……!」
「これは五行宗家が筆頭、宝来家。嫡弟、宝来燐からの正式な申し入れです」
そのひと言で、桐子は完全に押し黙った。五行宗家に逆らうことがどういうことか、彼女にわからぬはずがない。
燐はあっけにとられて立ち尽くす遠羽に向き直ると、冷たい戌面にそっと指先を這わせた。
「三日後、かならず迎えに来る。それまでに準備をしておいてくれ」
「っは、い……」
遠羽が反射的に返事をするのを見届けて、燐は颯爽と来た道を戻っていく。
慌ててあとを追っていった桐子が玄関先で彼を見送るの気配を感じながら、胸元の手ぬぐいを握りしめた。
たった今起きたできごとは、夢なんじゃないか。
もう一度あの人に会いたいと願った自分の、都合のいい幻想なんじゃないか。
(……結婚……? わたしが、あの方と……? 本当に……?)
想像もしなかった事態に、心が弾んで落ち着かない。
ふわふわとした気持ちで呆然とする遠羽を、愛莉が奥歯を噛み締めながら睨みつけていた。
近づく足音には気づいていた。それが桐子のものでも愛莉のものでもないことはわかっていた。
だから早く身を隠さなくてはと思っていたのに。
「あ……え、っと……」
足元にまとわりつく小鬼たちを追い払うこともできず、開け放たれた木戸の向こうの光景に遠羽は息を飲んだ。
まだ薄れぬ記憶の中の人物の風貌が、目の前に現れた男にぴったりと重なる。
(この人……あの晩の……!)
もう一度、会いたいと願っていた。話をしてみたいと。
だが予想だにしなかった展開によろこぶ隙もなく、遠羽は面の下で呼吸を止めて一気に青ざめた。
男の後方で、桐子と愛莉が鬼の形相でこちらを見ている。
(どうしよう……どうしよう……!)
言いつけを破ってしまった。隠れられず人前に出てしまった。
彼がここにいるということは、外で出会ってしまったことも、それを報告しなかったことも、すでに知られてしまったあとなのだろう。
(ああ……もしかしたら、顔を……この瞳を見られたことも……)
ひと晩にして破ってしまった言いつけの数を思い返して、遠羽は身を固くした。
これはあとでどんな仕打ちを受けるかわからない。
(どうして……正直に言わなかったの、わたし……)
途方に暮れる遠羽に構わず、燐の足がゆっくりと近づいてくる。
彼が目の前に来ても動けずにいる遠羽の指先を、燐の手がふわりとすくい取った。
「また会ったな、俺の花嫁」
次の瞬間、指先にふれるぬくもり。
それが燐の唇の熱だと理解したとたん、遠羽は反射的に手を引っ込めた。
「えっ……! あ……え……?」
(この人……今、わたしの手に……!)
目の前で起きたできごとを信じられなかった。
内心ひどく狼狽する遠羽に、燐がふっと笑みをこぼす。
「お前、名はなんという?」
「あ、の……遠羽、です……」
「遠羽、か……」
すると、燐は手にしたままの手ぬぐいをおもむろに遠羽に差し出した。
「遠羽、これはきみの手ぬぐいだろ?」
「あ……!」
差し出された手ぬぐいの、桃色のスズランの刺繍に目を留める。
それは見慣れたたたずまいで、たしかに遠羽が愛用していたもの。
「そ、れじゃあ……あの猫又は……!」
おもわず顔を上げた遠羽の目に、燐のまなざしがまっすぐに飛び込んできた。
口元の笑みが遠羽の言わんとすることを肯定しているような気がする。
だがそれ以上に、真摯に向けられる目の奥深さに見透かされそうな気がして、遠羽はすぐに目線を手ぬぐいへと戻した。
「きみにはずいぶんと世話になったようだ。感謝する」
「い、いえ……」
人から感謝を伝えられるなど、母が亡くなってからは初めてかもしれない。
頭上から降る声のやわらかい響きにふんわりと心が満たされ、遠羽は短く応えるだけで精一杯だった。
ついと差し出された手ぬぐいをそっと受け取り、大事そうに胸にいだく。
(まさか、戻ってくるなんて思ってなかった……)
意図せず手元に帰ってきた母の形見。もう戻らぬことを覚悟していたのに。
遠羽はこみ上げるよろこびに、面の下でわずかに瞳を潤ませた。
(できれば面をはずしてやりてーが、ここじゃあな……)
桐子が遠羽の存在を隠そうとしていたことから、ここで彼女の素顔をさらしてしまうのは得策ではないだろう。
面越しでも伝わる遠羽の様子を満足そうに眺めたあと、燐は遠羽の肩を抱くようにして厨の出入口へと体を向けた。
「先にも申しましたとおり、手ぬぐいの持ち主である彼女を、当家に迎え入れます」
「え……?」
「お待ち下さい! その子は……!」
驚く遠羽の声を遮って、桐子の焦りが響き渡った。
だがそれを意に介さぬように、燐の口調は至極淡々としたものだった。
「こちらの都合で申し訳ありませんが、結納等、婚姻に際しての行事は省略させていただきます。急なことですので、支度金には十分な額を用意するつもりです」
「そういうことではなく……!」
「どうやら御主人が不在のようですので、正式な書状はのちほど届けさせます。くわしいことはそちらをご確認ください」
「ですから……!」
「これは五行宗家が筆頭、宝来家。嫡弟、宝来燐からの正式な申し入れです」
そのひと言で、桐子は完全に押し黙った。五行宗家に逆らうことがどういうことか、彼女にわからぬはずがない。
燐はあっけにとられて立ち尽くす遠羽に向き直ると、冷たい戌面にそっと指先を這わせた。
「三日後、かならず迎えに来る。それまでに準備をしておいてくれ」
「っは、い……」
遠羽が反射的に返事をするのを見届けて、燐は颯爽と来た道を戻っていく。
慌ててあとを追っていった桐子が玄関先で彼を見送るの気配を感じながら、胸元の手ぬぐいを握りしめた。
たった今起きたできごとは、夢なんじゃないか。
もう一度あの人に会いたいと願った自分の、都合のいい幻想なんじゃないか。
(……結婚……? わたしが、あの方と……? 本当に……?)
想像もしなかった事態に、心が弾んで落ち着かない。
ふわふわとした気持ちで呆然とする遠羽を、愛莉が奥歯を噛み締めながら睨みつけていた。
