◇◇◇◇◇
昼前に馬車を呼んで出ていった康之と桐子は、おそらく女学校まで愛莉を迎えに行って帝都へと向かったのだろう。
当然置いていかれた遠羽は、もはやそのことを悲観することもなかった。
(わたしは、存在しちゃいけない子だから……だから、人に見られちゃいけない……)
耳にタコができるほどに聞かされた言葉。
母亡きあと、さんざん浴びせれらた言葉は遠羽の行動を縛るには十分だった。
外への憧れがないわけではない。だがそれ以上に、言いつけを破って叱責されることのほうが遠羽にとっては何倍も恐ろしい。
「……誰もいないと、静かでいいね……」
風に揺れる洗濯物の影で、小鬼たちが黄色い蝶を追いかけて転んでいた。
この家に住む小さきモノたち。
遠羽にしか見えない彼らのことを口に出して言ったのはただ一度きり。それもずいぶんと昔のことである。
(あの頃は、見えざるモノたちとの区別がつかなかったから……)
みんな当たり前に見えているのだとばかり思っていた。それが間違いで、自分だけがおかしいのだと気づいたのはひどい叱責を受けたあとだった。
気味の悪い子。頭のおかしい子。
戌面をつけるように強要されたのもその頃だったかと思い返すと同時に、遠羽は空を見上げた。
「……雨、降りそう……」
今朝は青々と突き抜けていた空は、今は雲がかかって沈みかけている。遠くの山手からは、黒い雲が厚く重なり迫ってきているらしかった。
「降り出す前に、取り込まなくちゃ……」
せっかく洗濯したものを雨に濡らしでもしたら、それこそ愛莉に良い口実を与えてしまう。とかく彼女は、遠羽をいたぶるためだけに目を光らせているのだから。
「……うん、ちゃんと乾いてる」
遠羽は風になびく洗濯物をぱたぱたと両手ではさんでまわった。
すると、どこからともなく鈴の音が風に乗って流れてくる。
普段なら気にならないはずのその音が、今日にかぎってやけに耳に残って仕方がない。
「いったい、どこから……」
断続的に鳴る鈴の音に、遠羽は引き寄せられるようにその場を離れた。
耳を澄ましてみれば、その音は庭の隅にあるツゲの茂みあたりから聞こえてくるらしい。
「……誰かいるの……?」
遠羽が声をかけると、鈴の音がぴたりとやむ。
膝をついて茂みの下を覗き込めば、白い毛玉がゆっくりと姿を見せた。
「ねこ……?」
野良猫でも迷い込んだのかと小首をかしげた遠羽は、すぐにそれがただの白猫ではないことに気がついた。
鈴の音を奏でる白猫の尾が、根本から二股にわかれている。
「どうして……猫又がこんなところに……?」
遠羽の戌面を怖がるでもなく、猫又の深紅の目がじっと見つめていた。
家の周囲に現れるあやかしは、いつも遠羽のまわりで遊んでいる二匹の小鬼だけ。
たまに通りすがりあやかしが迷い込むこともあるが、猫又ともなれば話は別である。
尻尾の鈴や艷やかな毛並みを見るに、きっと誰かに使役されているに違いない。
にもかかわらず猫又が一匹だけで逃げもせずにこんなところにいるなんて。
「……あなた……ケガ、してるの?」
遠羽の言葉に、猫又は返事をするように小さく鳴いた。
片方の前足を上げたままひょこひょこと進み出る白猫を、遠羽は自然と抱き上げていた。
前足に刻まれたひとすじの赤い線が、真っ白な毛並みを汚している。
「ちょっと待ってね……! すぐに手当てを……!」
遠羽は白猫を抱いたまま、なにか使えるものはないかと懐をまさぐった。
掴み出したのは使い古した一枚の手ぬぐい。
ひかえめに施された桃色のスズランの刺繍を見つめ、遠羽はぎゅっと手ぬぐいを握った。
(母さまの手ぬぐい……)
数少ない母の形見の品を手放したくはない。けれど。
「ごめんね……今はこれしか持ってないの……」
ケガを負った猫又を放っておくことも、遠羽にはできなかった。
(きっと、母さまも、許してくれるよね……)
遠羽は手早く猫又の前足に手ぬぐいを巻きつけると、端をきゅっと結んでやった。
「これで、止血はできると思うけど……帰ったらちゃんと、ご主人様に手当てしてもらってね」
面の下で口元をゆるめた遠羽の表情が見えているかのように、猫又はきれいな響きでひと声鳴くと、ぐんっと体を伸ばした。
「ふふっ……くすぐったいよ」
首すじに顔をすり寄せる猫又に、遠羽は小さく声を転がした。まるで礼を言うような猫又の仕草に、心が少しだけ暖かくなる。
「ほら、帰らないと、ご主人様が心配するよ?」
ぐるりと首のうしろにまわった猫又が、軽やかに地面へと着地する。
次の瞬間、湿った風とともに重低音が上空から轟いた。
「大変……! 洗濯物が……!」
空はすっかりぶ厚い雨雲が垂れこめていて、遠羽は真っ青になって立ち上がった。
急いで洗濯物を取り込まなくては取り返しのつかないことになりかねない。
慌ててその場から走り去る遠羽のうしろ姿を、猫又はまばたきもせずにじっと見つめていた。
昼前に馬車を呼んで出ていった康之と桐子は、おそらく女学校まで愛莉を迎えに行って帝都へと向かったのだろう。
当然置いていかれた遠羽は、もはやそのことを悲観することもなかった。
(わたしは、存在しちゃいけない子だから……だから、人に見られちゃいけない……)
耳にタコができるほどに聞かされた言葉。
母亡きあと、さんざん浴びせれらた言葉は遠羽の行動を縛るには十分だった。
外への憧れがないわけではない。だがそれ以上に、言いつけを破って叱責されることのほうが遠羽にとっては何倍も恐ろしい。
「……誰もいないと、静かでいいね……」
風に揺れる洗濯物の影で、小鬼たちが黄色い蝶を追いかけて転んでいた。
この家に住む小さきモノたち。
遠羽にしか見えない彼らのことを口に出して言ったのはただ一度きり。それもずいぶんと昔のことである。
(あの頃は、見えざるモノたちとの区別がつかなかったから……)
みんな当たり前に見えているのだとばかり思っていた。それが間違いで、自分だけがおかしいのだと気づいたのはひどい叱責を受けたあとだった。
気味の悪い子。頭のおかしい子。
戌面をつけるように強要されたのもその頃だったかと思い返すと同時に、遠羽は空を見上げた。
「……雨、降りそう……」
今朝は青々と突き抜けていた空は、今は雲がかかって沈みかけている。遠くの山手からは、黒い雲が厚く重なり迫ってきているらしかった。
「降り出す前に、取り込まなくちゃ……」
せっかく洗濯したものを雨に濡らしでもしたら、それこそ愛莉に良い口実を与えてしまう。とかく彼女は、遠羽をいたぶるためだけに目を光らせているのだから。
「……うん、ちゃんと乾いてる」
遠羽は風になびく洗濯物をぱたぱたと両手ではさんでまわった。
すると、どこからともなく鈴の音が風に乗って流れてくる。
普段なら気にならないはずのその音が、今日にかぎってやけに耳に残って仕方がない。
「いったい、どこから……」
断続的に鳴る鈴の音に、遠羽は引き寄せられるようにその場を離れた。
耳を澄ましてみれば、その音は庭の隅にあるツゲの茂みあたりから聞こえてくるらしい。
「……誰かいるの……?」
遠羽が声をかけると、鈴の音がぴたりとやむ。
膝をついて茂みの下を覗き込めば、白い毛玉がゆっくりと姿を見せた。
「ねこ……?」
野良猫でも迷い込んだのかと小首をかしげた遠羽は、すぐにそれがただの白猫ではないことに気がついた。
鈴の音を奏でる白猫の尾が、根本から二股にわかれている。
「どうして……猫又がこんなところに……?」
遠羽の戌面を怖がるでもなく、猫又の深紅の目がじっと見つめていた。
家の周囲に現れるあやかしは、いつも遠羽のまわりで遊んでいる二匹の小鬼だけ。
たまに通りすがりあやかしが迷い込むこともあるが、猫又ともなれば話は別である。
尻尾の鈴や艷やかな毛並みを見るに、きっと誰かに使役されているに違いない。
にもかかわらず猫又が一匹だけで逃げもせずにこんなところにいるなんて。
「……あなた……ケガ、してるの?」
遠羽の言葉に、猫又は返事をするように小さく鳴いた。
片方の前足を上げたままひょこひょこと進み出る白猫を、遠羽は自然と抱き上げていた。
前足に刻まれたひとすじの赤い線が、真っ白な毛並みを汚している。
「ちょっと待ってね……! すぐに手当てを……!」
遠羽は白猫を抱いたまま、なにか使えるものはないかと懐をまさぐった。
掴み出したのは使い古した一枚の手ぬぐい。
ひかえめに施された桃色のスズランの刺繍を見つめ、遠羽はぎゅっと手ぬぐいを握った。
(母さまの手ぬぐい……)
数少ない母の形見の品を手放したくはない。けれど。
「ごめんね……今はこれしか持ってないの……」
ケガを負った猫又を放っておくことも、遠羽にはできなかった。
(きっと、母さまも、許してくれるよね……)
遠羽は手早く猫又の前足に手ぬぐいを巻きつけると、端をきゅっと結んでやった。
「これで、止血はできると思うけど……帰ったらちゃんと、ご主人様に手当てしてもらってね」
面の下で口元をゆるめた遠羽の表情が見えているかのように、猫又はきれいな響きでひと声鳴くと、ぐんっと体を伸ばした。
「ふふっ……くすぐったいよ」
首すじに顔をすり寄せる猫又に、遠羽は小さく声を転がした。まるで礼を言うような猫又の仕草に、心が少しだけ暖かくなる。
「ほら、帰らないと、ご主人様が心配するよ?」
ぐるりと首のうしろにまわった猫又が、軽やかに地面へと着地する。
次の瞬間、湿った風とともに重低音が上空から轟いた。
「大変……! 洗濯物が……!」
空はすっかりぶ厚い雨雲が垂れこめていて、遠羽は真っ青になって立ち上がった。
急いで洗濯物を取り込まなくては取り返しのつかないことになりかねない。
慌ててその場から走り去る遠羽のうしろ姿を、猫又はまばたきもせずにじっと見つめていた。
