街道から離れ郊外の路地にある喫茶店に到着したのは、それから間もなくのことである。
アンティーク調の落ち着いた雰囲気の店内を見回しながら、遠羽は窓際のイスに座って不安そうに身を小さくしていた。
(どうしよう……お作法とか、わからない……)
こんなことなら事前に木蓮から行き先を聞き出して、恥ずかしくない程度の所作を身につけておくべきだった。
「なんでも好きなもん頼め。遠慮はすんなよ?」
丸いテーブルの上に差し出されたメニュー表を前に、遠羽はすっかりと固まってしまった。
文字は読めても、それがどういったものなのか想像ができない。
「あの……わたし、こういうところは、初めてで……その……」
「じゃあ勝手に頼んでいいか?」
「お願いします……」
おそるおそる上げた視線の先で、燐が慣れた仕草で店員を呼んで注文をしていた。
周囲を見回せば、ほかの客たちはそれぞれが思い思いのまま優雅なひとときを過ごしているらしい。
(わたし、場違いな気がする……?)
馬子にも衣装とはよく言ったもので、せっかく燐から贈られたワンピースも着こなせているとはとても言いがたく、服に着られてしまっている。
さらに首をすくめて視線を泳がせる遠羽の向かいで、燐が喉の奥でくつくつと笑っていた。
「くくっ……悪い」
手の甲で口元を隠していても、笑いをこらえているのは一目瞭然である。
遠羽が恨めしそうに燐を上目づかいに見ていれば、ちょうど注文した品が届いた。
コトン、と目の前に置かれたのは、店自慢のショートケーキだと店員が教えてくれる。
(これが、『ケーキ』……)
いつぞやに帝都へ出かけた異母妹が話していた洋菓子。「どうせあんたは食べることなんて一生ないでしょうけどね」と嫌味も一緒に自慢されたのは一回ではないが。
大きないちごがひと粒まるごと乗ったケーキを前に、遠羽は眉間にしわを寄せて凝視していた。
(これは……どこから食べるのが正解……?)
「んな固くならなくても大丈夫だ。作法なんかねぇから気にすんな」
本当だろうかと思い黙って燐を見れば、彼は皿に添えられたフォークを手に取っておもむろにケーキの端をひと掬いした。
「ほら」
「え? あ……」
差し出されたフォークの先にちょこんと乗るケーキを見て、次いで燐を見る。
頬づえをついた彼は微笑みを浮かべていて、催促するようにフォークの先端をわずかに揺らした。
(こ、このまま食べていいんだよね……?)
遠羽はおずおずと唇をひらくと、ケーキの欠片をぱくんと口に含んだ。
とたんに口内に広がる甘さに、遠羽は大きく目を丸くしてぱちぱちとまばたきを繰り返した。
「うまいか?」
「っこんなにおいしいもの、初めて食べました……!」
目を輝かせてぱあっと表情に花を咲かせた遠羽に、燐も自然と頬が緩む。
ここに来るまであれこれと心配はあったが、どうやら杞憂で終わりそうである。
(こんなことなら、もっと早く連れてきてやればよかったな)
遠羽の境遇を鑑みて、変化に慣れるまではと外出は控えていたが、この様子なら問題なさそうである。
むしろ道中の彼女の様子を見るに、新しいものに対する好奇心は人一倍ありそうだ。
(積極的なのは、こっちとしてもありがたいな)
「燐さんは召し上がらないんですか?」
ひと口ひと口を味わうようにゆっくりとフォークを口に運んでいた遠羽が、小首をかしげて燐に問うた。
テーブルに運ばれてきたケーキはひと皿だけで、燐の前には洒落たコーヒーカップが置かれているだけである。
「ああ……俺はいい。お前を連れてきてやりたかっただけだからな」
そう言ってカップを持ち上げた燐に、遠羽は迷いなくフォークの先を差し出した。
自分がしてもらったように、ケーキの欠片を掬って。
遠羽のその行動に、おもわず燐も手を止める。黙って遠羽を見れば、彼女はまっすぐな視線を燐に向けていた。
「燐さんにも、食べてほしいです……」
遠慮がちにつぶやいた遠羽の頬が少しだけ赤く染まっていて、そのいじらしくてかわいらしいまなざしに、燐はくすぐったさを覚えた。
(そんなふうに言われたらな……)
遠羽にお願いされると、どうやら自分は断れないらしい。
燐はおもむろに口を開けると、差し出されたフォークに唇を寄せた。
「…………甘いな」
それはケーキのことか。それとも無意識に込み上げた華やぐ心か。
ちらと遠羽の表情をうかがえば、彼女も燐のまなざしに応えるように小さく、しかし幸せそうにはにかんでいた。
「ありがとうございましたー」
ベルの響きが余韻を残して静かにドアが閉まる。
遠羽は弾む心のまま、道の向かいで待つ馬車へと一歩を踏み出した。
だが石畳に着地したとたん、がくんっと体が傾く。
「っあ……!」
転ぶかと思われた瞬間、遠羽を支えたのは燐の腕だった。腰に回された腕がしっかりと遠羽を抱き留める。
「大丈夫か?」
「ご、ごめんなさい……! 履き慣れなくて……」
かかとの高い靴もワンピースも、いつもの和装とは勝手が違う。
危うく転びそうになったことを恥ずかしく思いながらも咄嗟に顔を上げた遠羽は、至近距離に迫る燐におもわず言葉に詰まった。
鼻すじの通った整った輪郭に、つい見とれてしまう。
「悪い、気が利かなかったな」
「え、あっ……!」
遠羽が反応する間もなく、身をかがめた燐の腕が膝裏を掬って遠羽の体を浮かせた。
反射的に燐の首元にしがみついた遠羽の耳に、燐の短い吐息がかすめる。
突然のことに心臓は高鳴って、遠羽は内心慌てながらもどうすることもできずに顔を赤くしていた。
「あ、あのっ、燐さん……! 自分で、歩けますから……!」
「いいから、おとなしく抱っこされてろ。お前にケガなんてさせたら、木蓮がうるさそうだからな」
もっともらしい言い訳をする燐の視線が、どこか照れくさそうにあさっての方向へそらされる。
(燐さんも、照れてる……?)
冷静を装っている彼の鼓動がどことなく早くなっている気がして、気恥ずかしいのは自分だけではない気がして、遠羽は小さく喉を鳴らして笑った。
「……なーに笑ってんだ?」
問い詰めるような口調とは裏腹に、こつんとひたいを突き合わせた燐の口角は上がったまま。
二人だけの初めての外出。浮かれていたのは自分だけでなはいと知り、どこかくすぐったい気持ちに胸が踊る。
遠羽は「いえ別に」と短く返しながらも、燐と視線を合わせたままくすくすと吐息を弾ませて笑いあった。
「帰るか」
「はい……!」
互いに華やいだ心を噛みしめながら、燐は遠羽を抱きかかえたまま軽い足取りで馬車に乗り込んだ。
街道から遠ざかっていく馬車を、愛莉は表情をゆがめて睨みつけた。
「なんであの女がっ……!」
気晴らしに帝都に出てきてみれば、洒落た喫茶店から出てきたのは憎い異母姉の姿。それも真新しいワンピースを着て、面もつけずに外を出歩いている。
椛山家にいた頃はみすぼらしかった容姿も、手入れされ肌艶もよく、髪も小綺麗に整えられていた。
「本当なら、あの場所はあたしのものだったのに!」
五行宗家筆頭、名家宝来家。燐の花嫁となるべきは自分だったはず。それを気味の悪い瞳をした遠羽に掻っ攫われたのだ。
そう思い込んでいる愛莉にとって、遠羽の現状はおもしろくないに決まっている。
燐にエスコートされ、彼が遠羽に愛情を向けているのは端から見てもあきらかで。
「許せない……!」
自分を差し置いて幸せそうに笑っている遠羽も、自分を選ばなかった燐も。
愛莉は憤慨した様子で鼻を鳴らすと、きびすを返して地面を踏みしめた。
アンティーク調の落ち着いた雰囲気の店内を見回しながら、遠羽は窓際のイスに座って不安そうに身を小さくしていた。
(どうしよう……お作法とか、わからない……)
こんなことなら事前に木蓮から行き先を聞き出して、恥ずかしくない程度の所作を身につけておくべきだった。
「なんでも好きなもん頼め。遠慮はすんなよ?」
丸いテーブルの上に差し出されたメニュー表を前に、遠羽はすっかりと固まってしまった。
文字は読めても、それがどういったものなのか想像ができない。
「あの……わたし、こういうところは、初めてで……その……」
「じゃあ勝手に頼んでいいか?」
「お願いします……」
おそるおそる上げた視線の先で、燐が慣れた仕草で店員を呼んで注文をしていた。
周囲を見回せば、ほかの客たちはそれぞれが思い思いのまま優雅なひとときを過ごしているらしい。
(わたし、場違いな気がする……?)
馬子にも衣装とはよく言ったもので、せっかく燐から贈られたワンピースも着こなせているとはとても言いがたく、服に着られてしまっている。
さらに首をすくめて視線を泳がせる遠羽の向かいで、燐が喉の奥でくつくつと笑っていた。
「くくっ……悪い」
手の甲で口元を隠していても、笑いをこらえているのは一目瞭然である。
遠羽が恨めしそうに燐を上目づかいに見ていれば、ちょうど注文した品が届いた。
コトン、と目の前に置かれたのは、店自慢のショートケーキだと店員が教えてくれる。
(これが、『ケーキ』……)
いつぞやに帝都へ出かけた異母妹が話していた洋菓子。「どうせあんたは食べることなんて一生ないでしょうけどね」と嫌味も一緒に自慢されたのは一回ではないが。
大きないちごがひと粒まるごと乗ったケーキを前に、遠羽は眉間にしわを寄せて凝視していた。
(これは……どこから食べるのが正解……?)
「んな固くならなくても大丈夫だ。作法なんかねぇから気にすんな」
本当だろうかと思い黙って燐を見れば、彼は皿に添えられたフォークを手に取っておもむろにケーキの端をひと掬いした。
「ほら」
「え? あ……」
差し出されたフォークの先にちょこんと乗るケーキを見て、次いで燐を見る。
頬づえをついた彼は微笑みを浮かべていて、催促するようにフォークの先端をわずかに揺らした。
(こ、このまま食べていいんだよね……?)
遠羽はおずおずと唇をひらくと、ケーキの欠片をぱくんと口に含んだ。
とたんに口内に広がる甘さに、遠羽は大きく目を丸くしてぱちぱちとまばたきを繰り返した。
「うまいか?」
「っこんなにおいしいもの、初めて食べました……!」
目を輝かせてぱあっと表情に花を咲かせた遠羽に、燐も自然と頬が緩む。
ここに来るまであれこれと心配はあったが、どうやら杞憂で終わりそうである。
(こんなことなら、もっと早く連れてきてやればよかったな)
遠羽の境遇を鑑みて、変化に慣れるまではと外出は控えていたが、この様子なら問題なさそうである。
むしろ道中の彼女の様子を見るに、新しいものに対する好奇心は人一倍ありそうだ。
(積極的なのは、こっちとしてもありがたいな)
「燐さんは召し上がらないんですか?」
ひと口ひと口を味わうようにゆっくりとフォークを口に運んでいた遠羽が、小首をかしげて燐に問うた。
テーブルに運ばれてきたケーキはひと皿だけで、燐の前には洒落たコーヒーカップが置かれているだけである。
「ああ……俺はいい。お前を連れてきてやりたかっただけだからな」
そう言ってカップを持ち上げた燐に、遠羽は迷いなくフォークの先を差し出した。
自分がしてもらったように、ケーキの欠片を掬って。
遠羽のその行動に、おもわず燐も手を止める。黙って遠羽を見れば、彼女はまっすぐな視線を燐に向けていた。
「燐さんにも、食べてほしいです……」
遠慮がちにつぶやいた遠羽の頬が少しだけ赤く染まっていて、そのいじらしくてかわいらしいまなざしに、燐はくすぐったさを覚えた。
(そんなふうに言われたらな……)
遠羽にお願いされると、どうやら自分は断れないらしい。
燐はおもむろに口を開けると、差し出されたフォークに唇を寄せた。
「…………甘いな」
それはケーキのことか。それとも無意識に込み上げた華やぐ心か。
ちらと遠羽の表情をうかがえば、彼女も燐のまなざしに応えるように小さく、しかし幸せそうにはにかんでいた。
「ありがとうございましたー」
ベルの響きが余韻を残して静かにドアが閉まる。
遠羽は弾む心のまま、道の向かいで待つ馬車へと一歩を踏み出した。
だが石畳に着地したとたん、がくんっと体が傾く。
「っあ……!」
転ぶかと思われた瞬間、遠羽を支えたのは燐の腕だった。腰に回された腕がしっかりと遠羽を抱き留める。
「大丈夫か?」
「ご、ごめんなさい……! 履き慣れなくて……」
かかとの高い靴もワンピースも、いつもの和装とは勝手が違う。
危うく転びそうになったことを恥ずかしく思いながらも咄嗟に顔を上げた遠羽は、至近距離に迫る燐におもわず言葉に詰まった。
鼻すじの通った整った輪郭に、つい見とれてしまう。
「悪い、気が利かなかったな」
「え、あっ……!」
遠羽が反応する間もなく、身をかがめた燐の腕が膝裏を掬って遠羽の体を浮かせた。
反射的に燐の首元にしがみついた遠羽の耳に、燐の短い吐息がかすめる。
突然のことに心臓は高鳴って、遠羽は内心慌てながらもどうすることもできずに顔を赤くしていた。
「あ、あのっ、燐さん……! 自分で、歩けますから……!」
「いいから、おとなしく抱っこされてろ。お前にケガなんてさせたら、木蓮がうるさそうだからな」
もっともらしい言い訳をする燐の視線が、どこか照れくさそうにあさっての方向へそらされる。
(燐さんも、照れてる……?)
冷静を装っている彼の鼓動がどことなく早くなっている気がして、気恥ずかしいのは自分だけではない気がして、遠羽は小さく喉を鳴らして笑った。
「……なーに笑ってんだ?」
問い詰めるような口調とは裏腹に、こつんとひたいを突き合わせた燐の口角は上がったまま。
二人だけの初めての外出。浮かれていたのは自分だけでなはいと知り、どこかくすぐったい気持ちに胸が踊る。
遠羽は「いえ別に」と短く返しながらも、燐と視線を合わせたままくすくすと吐息を弾ませて笑いあった。
「帰るか」
「はい……!」
互いに華やいだ心を噛みしめながら、燐は遠羽を抱きかかえたまま軽い足取りで馬車に乗り込んだ。
街道から遠ざかっていく馬車を、愛莉は表情をゆがめて睨みつけた。
「なんであの女がっ……!」
気晴らしに帝都に出てきてみれば、洒落た喫茶店から出てきたのは憎い異母姉の姿。それも真新しいワンピースを着て、面もつけずに外を出歩いている。
椛山家にいた頃はみすぼらしかった容姿も、手入れされ肌艶もよく、髪も小綺麗に整えられていた。
「本当なら、あの場所はあたしのものだったのに!」
五行宗家筆頭、名家宝来家。燐の花嫁となるべきは自分だったはず。それを気味の悪い瞳をした遠羽に掻っ攫われたのだ。
そう思い込んでいる愛莉にとって、遠羽の現状はおもしろくないに決まっている。
燐にエスコートされ、彼が遠羽に愛情を向けているのは端から見てもあきらかで。
「許せない……!」
自分を差し置いて幸せそうに笑っている遠羽も、自分を選ばなかった燐も。
愛莉は憤慨した様子で鼻を鳴らすと、きびすを返して地面を踏みしめた。
