あやかし瞳の花嫁

◇◇◇◇◇


「昨日の人は、誰だったんだろう……」

 玄関先でほうきを手に、遠羽は朝焼けの空を見上げてほうっと息を吐いた。
 あたたかい空気が冷えた戌面の内側を走って、顔の表面をじんわりとぬくもりで覆う。

(あやかしが見える人……ほかにもいたんだ……)

 人の目には見えざるモノ―あやかし。
 物心がつく前から当たり前のように見えていた存在は、見えてはいけないモノたちだった。

(見えることは秘密にしときなさいって、母さまによく言われたっけ……)

 遠羽は視界の端でじゃれあって遊ぶ二匹の小鬼たちを見つめ、再び空を見上げた。

(もう一度……会ってみたいな……)

 外の世界を知らない遠羽にとって、自分以外にあやかしを見ることのできる人は初めてだった。できることなら誰にも話せないあやかしのことを聞いてみたい。

 彼にも、自分と同じ世界が見えているのかと。

 だが一方で、それは叶わぬ願いだとため息をつく。

(わたしは、この家から出ることを許されない……母さまのお墓参りだって、月に一度、人目につかない深夜だけ……)

 遠羽はふっと寂しげにまぶたを落とすと、気を取り直すようにひとつ大きく息を吐いた。
 冷たい朝の風がふんわりと吹き抜ける。

「今日も一日、がんばらなくっちゃ」

 だが遠羽の気合もむなしく、空気の澄んださわやかな朝、というわけにはいかず。

「ちょっと遠羽!?」

 家の奥から響いた甲高い声に、遠羽は手にしたほうきの柄をぎゅっと握った。
 とたんに心臓が跳ね、嫌な予感に呼吸がわずかに浅くなる。

「遠羽!! さっさと来なさいよグズ!!」
「はい……! すぐに……!」

 遠羽は急いでほうきを片付けると、足早に勝手口へと向かった。厨の土間に草履(ぞうり)を脱ぎ捨てて、急いで廊下を進む。

(玄関を使わせてもらえないのって、不便……)

 その間にも、遠羽を呼びつける金切り声は家じゅうに響き渡っていた。

「お呼びでしょうか、愛莉(あいり)様……」
「遅い! 何回呼ばせるのよグズ!」

 襖を開けるなり、膝をついた遠羽の顔に手ぬぐいが叩きつけられる。面のおかげで痛くはないが、それでも気分のいいものではない。

「申し訳、ありません……」

 敷居にひたいをこすりつける遠羽の頭上に、大げさともとれるほどの愛莉のため息が降る。

「あんた、あたしのワンピースどこにやったの!?」

 着替え中だったらしい愛莉が、寝間着のまま仁王立ちになり腕を組んでいた。その視線が見下すように遠羽を見下ろしている。

(ワンピース……?)

 愛莉の言葉に、遠羽は小さく顔を上げた。
 思い当たるのは、最近愛莉が気に入ってよく着ている黄色の洋服のことだろう。

「え……あ、あれは、愛莉様が昨晩、洗濯しておくようにおっしゃられたので、今朝洗ったばかりで……」
「はあ!? じゃあ乾いてないってこと!?」
「は、はい……」
「ありえない! 昨日渡されたんなら、今日着れるようにしておくのがあんたの仕事でしょ!? ほんっとにグズなんだから!」

 苛立(いらだ)ちのままに、愛莉は鏡台の上の大ぶりなブローチを掴んだ。そのままそれを遠羽に向かって投げつける。
 おもわず首をすくめた遠羽の面が乾いた音を奏でると同時に、視界がぱっとひらけた。
 一歩引いた愛莉の表情が、いつになくよく見える。

(あ……! 面が……!)

 知らぬ間に面の紐が緩んでいたらしい。ブローチの当たった衝撃で落下した戌面が、無造作に廊下に転がっていた。

(どうしよう……怒られる……!)

 急いで面を拾わなければいけないのに、遠羽は咄嗟のことに体が硬直して動けなかった。
 なにがあっても面だけは、はずれないようにと気をつけていたのに、どうして今日にかぎって。

「なによその目は!」
「あ……申し訳……!」
「その目であたしを見ないでよ! 気味が悪い!」

 次の瞬間、愛莉の足が遠羽の肩を蹴り飛ばした。

「あんたみたいなのが異母姉(あね)だなんて反吐(へど)が出るわ! 所詮は(いや)しい女の腹から産まれたあんたなんか! この家に置いてやってるだけでもありがたいと思いなさいよ!」

 倒れ込む遠羽を、愛莉の足が容赦なく踏みつける。
 なんとか体勢を整えて土下座のままうずくまる遠羽は、繰り返し謝罪の言葉を口にしながら理不尽な暴力に耐えるしかなかった。

(わたしが、我慢すれば……)

 愛莉の癇癪は一時的なもの。抵抗せずに黙っているのが一番いい。
 根本的な解決にはならないのはわかっているが、癇癪を起こした愛莉にはなにを言っても無駄である。
 遠羽は痛みに耐えながら、この時間が早く過ぎることだけを願ってさらに体を小さく丸めた。

「愛莉! 朝からなにごとです!?」

 廊下の奥から響いた声に、愛莉の足がようやく遠羽から離れる。
 遠羽は人知れず小さく安堵の息を吐いた。

「お母様! 遠羽があたしのワンピースを洗ってないの!」

 金切り声でそう訴える娘をなだめ、桐子(きりこ)は廊下にうずくまったままの遠羽を横目で一瞥した。

「どういうことですか、遠羽」

 桐子の声に、遠羽はわずかに頭を上げた。
 視線は目の前の床を見つめたまま。視界の端に、桐子と愛莉のつま先が見えていた。

「は、はい……あの、愛莉様から、昨夜、ワンピースを洗濯するようにと、預かって……その……今朝洗ったばかりなので、まだ、乾いてなくて……」

 口の中の水分の足りない。張りつく喉を必死に震わせながら、遠羽は懸命に事情を説明した。
 夜遅くに預かったものであれば、誰でも翌朝に洗濯するだろう。夜中に洗濯物を干すなど、普通はしないことである。

 だがやはり、桐子も愛莉の母親なだけある。
 頭上から降ってきたため息は、遠羽をあっけなく突き落とした。

「それは、あなたの怠慢ではなくて?」
「え……? で、ですが……預かったのは、昨日の夜中で……」
「あなたの都合など関係ありません。愛莉が着たいと言うなら、それをすぐ用意できるようにしておくのがあなたの役目ではなくて?」

 おもわず顔を上げた遠羽に、桐子の冷たい視線が突き刺さった。