あやかし瞳の花嫁

 いつもなら門前で上司が出てくるのを待つのだが、その日、慧はいそいそと馬車を降りるなり玄関へと直行した。
 普段より少しだけ早く来たのは、ある目的があってのこと。

(隊長が()らすのが悪いんすから)

 内心で自己を正当化しつつ、ガラガラと音を立てて引き戸を開ける。
 だがそこに出迎えはなく、屋敷の中はしんと静まり返っていた。

「おはよーございまーす! たーいちょー!」

 廊下の先に向かって声を張れば、屋敷の奥から不機嫌そうな足音が近づいてくる。
 角を曲がった燐は玄関に立つ慧の姿を見るなり、あからさまにため息をついた。

「朝っぱらからうるせーよ」
「あー! せっかく迎えに来てあげたのに、ひどくないっすかー!?」
「はえーんだよ」
「たまにはいいじゃないっすかー。隊長に会いたかったんす」
「やめろ気色悪い」

 燐が心底嫌そうな顔をして玄関に下りるのを横目に見ながら、慧はニシシッと歯を見せて笑った。

「毎朝お見送りしてもらってうらやましいなー」

 そう言って慧は、ついっと燐の後方に視線をやると、軽く腰を曲げてそこに立つ遠羽を見上げた。

「はじめまして。遠羽さん、ですよね?」

 上司の結婚を不意打ちに聞かされてから、一か月。
 いつまで経っても紹介してくれない燐にしびれを切らして、慧はわざわざこうして玄関まで迎えに来たのだ。あわよくばうわさの花嫁に会えることを期待して。

「僕、小和瀬慧っていいます。いつも隊長にお世話になってます」

 こてんと小首をかしげて名乗れば、燐から「本当にな」と返ってくる。
 深々と頭を下げた遠羽が顔を上げてふんわりと微笑むと、慧は下から覗き込むようにしてまじまじと遠羽の顔を見つめた。

「…………本当にきれいな瞳だ……」

 慧の視線は遠羽の顔、正確には人ならざるあやかし瞳に注がれていた。
 丸く見開かれた目が、まるで魅入られたかのようにまばたきもせずにまっすぐに見つめている。

 拒絶するのも謙遜するのも違う気がして、遠羽は困ったように眉を下げるしかなかった。

「おら、急ぐんだろ。さっさと行くぞ」

 見かねた燐の手のひらが慧の目元を覆って、視線を強引に遠羽から引き剥がす。
 とたんに普段のおちゃらけた雰囲気を(まと)い直した慧は、けろっとした様子で居住まいを正した。

「そうでした! それじゃあ遠羽さん、隊長お借りしますね!」

 言うなり、慧はそそくさと玄関を出て馬車へと向かっていった。
 そのうしろ姿を見送って、燐が「やれやれ」とひとつ息をつく。

「朝から騒がしくて悪いな」
「いえ、楽しそうな方ですね」
「やかましいだけだ」

 小さく肩をすくめる燐に折詰を手渡して、遠羽はくすくすと笑った。

 この屋敷を訪れる人間はほぼいない。遠羽にとっても久々の他人との接触である。
 それがずいぶんと楽しげで悪意など微塵もなさそうな青年であったから、遠羽も少しだけ肩の力を抜くことができた気がする。

「……遠羽、明日の予定は?」
「え、あ……特には……木蓮さんとお稽古をするくらいでしょうか」

 そもそもこの屋敷から出ることのない遠羽に友人や知り合いの類いはなく、燐が仕事に行っている日中は式神と一緒に家のことをするのが常である。
 とはいえ空き時間というものはどうしてもできてしまうわけで、遠羽はその時間を学び直しにあてていた。

 女学校に通わせてもらえなかった遠羽には初歩的な学しかない。家事はできても読み書きは初等教育程度。そろばんも簡単な計算しかできず、名家の人間としての所作も立ち居振る舞いも身についていない。
 だが燐に嫁いだからには、彼に見合う淑女を目指したいと思い木蓮に頼み込んだのである。

「わかった。ならそのまま空けといてくれ」

 日中の予定が埋まることはないのにと思いながらも、遠羽は短く返事をして燐の背中を見送った。

(燐さん、明日のお仕事、お休みなのかな……?)

 少しだけ期待してしまった自分を振り払うかのように頭を振る。
 だが燐の言葉の意図が掴めず、遠羽は小さく首をかしげた。

「遠羽さま? どうかされましたか?」

 玄関から戻ってこない遠羽を心配してか、奥から木蓮が声をかける。
 落ち着いた足取りで近づいてきた木蓮を、遠羽は小首をかしげたまま振り返った。

「あの……燐さんから、明日空けとくように言われて……」

 そう伝えるなり、木蓮は「まあ!」と短く感嘆の声を上げた。

「ではさっそく準備しなくては!」

 いそいそと遠羽の手を取って部屋へと向かう木蓮の歩みがいつもより軽やかである。
 どこか楽しそうな彼女に引きずられるがまま、遠羽はやはりその理由が思い当たらず戸惑うばかり。

「あ、あの、木蓮さん、明日、なにかあるんですか?」
「まあ遠羽さまったら! デートに決まってますよ、デート」
「デっ……!? えっ!?」
「燐様が手当たり次第に買ったお召し物が、まだいくつもあるんです。華やかな着物もいいですが、洋服も捨てがたいですね」

 遠羽が相づちを打つ間もなく、木蓮はああでもないこうでもないとひとりごとを連ねていた。

 もともと持ち物の少なかった遠羽の部屋は、この一か月で燐から贈られた品々で囲まれていた。
 最初は弁当の礼から始まり、やれ日頃の稽古の褒美だとか家事の礼だとか、あげくの果てには特別な理由があるわけでもなく、ただ遠羽に似合いそうだったからと、服やら履物やらを見繕っては手土産に持ち帰ってくるのだ。
 式神たちが「そろそろ衣装部屋が必要ですね」とぼやいていたのは記憶に新しい。

「さあ遠羽様! すべてこの木蓮にお任せください」

 満面の笑みで袖をまくった木蓮に、遠羽はただおとなしく返事をするしかなかった。