前庭の敷石を越えて門の外に出れば、特公課の馬車の横で見知った顔が待っている。
黒い詰襟の隊服を身にまとった小和瀬慧は燐の姿を見つける否や、とても上司に対する態度とは思えぬ仕草で車体にもたれかかっていた。
「おはよーございまーす」
間延びしたあいさつに短く返事をした燐のあとを追いかけるようにして、慧もいそいそと馬車に乗り込む。
すると彼は、意外そうな声を上げて、燐が手に持つ風呂敷を指さした。
「珍しいですねー。隊長が弁当持参なんて。てか初めてじゃないっすか?」
「そうか?」
とぼけてみせる燐に「そうっすよー」と軽口を叩きながら、慧は再度上司の顔色をうかがった。
どこか緩んだ表情を覗かせる燐の雰囲気が、普段とくらべてずいぶんとやわらかい気がする。
「…………隊長、なんかいいことでもありました?」
慧の問いに「さあな」とそっけなく返して、燐は車窓の外を眺めながら、膝に置き直した風呂敷包みにそっと手を添えた。
特公課が現場へ到着したのは昼過ぎのことである。
鬱蒼とした山中はやけに静まり返っていて、湿った空気が肌にまとわりついて不快感を増幅させていた。
「なーんか、山に入ってからずっと曇ってて、嫌な天気っすねー」
暗雲が垂れこめる空を見上げながら、慧は「さっきまであんなに晴れてたのに」とぼやいた。
「この山全体が、あやかしの領域なんだろーな」
同じように上空を見上げた燐の言葉に、慧は心底うんざりとため息をついた。
「『山が黒煙を纏うとき、入山すること罷りならず。入れば二度と戻れなくなる』――」
帝都で起こる事件の中には、不可解な現象を伴うことがしばしばある。
怪異の原因はあやかしによるものが大半で、一般人の目には映らないことから必然的に異能を駆使する特公課が現場に駆り出されることになる。
「言い伝えが実際に起こるようになって半年……僕たちに調査討伐依頼が入ったのが一週間前……こんなにあきらかな怪異が起きてるんだから、さっさとこっちに投げてくれればいいのに、警邏部のやつら仕事が遅いんすから…………ねー、隊長」
「俺はなにも言ってねぇが?」
「やだなぁ、代弁してあげたんじゃないっすかー」
けたけたと軽快に笑う慧の声に被るように、気味の悪い鳴き声が山中にこだました。
特公課の面々も一斉に口を閉ざして、全員が厚い雲に覆われた空を見上げる。
「鳥……じゃなさそうっすね」
山じゅうに響き渡る声とともに、あやかしの気配が一段と増していた。
周囲には濃い霧が立ち込め、暗雲がぐるぐると渦を巻き始める。
「さーて、なにが出てきますかねー」
あやかしはあきらかに特公課に敵意を向けているが、一向に姿を見せる様子はない。
ただ不穏な空気を振りまいて、鳴き声を轟かせて威嚇するばかり。
「……めんどくせぇ。引きずり出すか」
「そんな強引な……! どうせ夜になれば姿を現すんですから、日暮れまで待ち伏せしましょうよ!」
しびれを切らして攻撃を仕掛けようとする燐を、慧が慌てて止める。
あやかしがこちらの存在を認識している以上、夜に出現することはわかりきっている。わざわざ刺激して凶暴にさせることはないのだ。
だが燐は日暮れまで待ってられないとばかりに、隊服の袖をまくった。
「今日は早く帰るって約束してんだよ」
「は? 誰と?」
訝しむ慧に、燐は小さく口角を上げた。
「嫁さんと」
「…………」
「…………」
「……はああああっ!? あんたいつ結婚したんすか!」
「ん? 昨日」
「「はああああっ!?」」
燐の投下した爆弾発言に驚いたのは慧だけでなく。
周囲で臨戦態勢を取っていた部下たちも、一斉に声を上げて山の空気を震わせた。
寝耳に水とはまさにこのことである。我らが隊長に今まで女性の影なんてなかったはずなのに。名家の令嬢に言い寄られても冷たくあしらっていた隊長が、よもや婚約もなしに結婚とは。
「ちょちょちょどーいうことっすか説明してくださいよー!!」
「うるせーな。つーわけだから、さっさと片づけて帰るぞ」
やいのやいのと騒ぐ部下たちを尻目に、燐の瞳が漆黒から炎の色めきへと変化していく。
腕に巻きつくように赤い流水紋が浮かび上がって、燐は上空の渦の中心に向かって炎の玉を放った。
その瞬間、耳をつんざくような鳴き声が山全体を揺り動かした。
黒い詰襟の隊服を身にまとった小和瀬慧は燐の姿を見つける否や、とても上司に対する態度とは思えぬ仕草で車体にもたれかかっていた。
「おはよーございまーす」
間延びしたあいさつに短く返事をした燐のあとを追いかけるようにして、慧もいそいそと馬車に乗り込む。
すると彼は、意外そうな声を上げて、燐が手に持つ風呂敷を指さした。
「珍しいですねー。隊長が弁当持参なんて。てか初めてじゃないっすか?」
「そうか?」
とぼけてみせる燐に「そうっすよー」と軽口を叩きながら、慧は再度上司の顔色をうかがった。
どこか緩んだ表情を覗かせる燐の雰囲気が、普段とくらべてずいぶんとやわらかい気がする。
「…………隊長、なんかいいことでもありました?」
慧の問いに「さあな」とそっけなく返して、燐は車窓の外を眺めながら、膝に置き直した風呂敷包みにそっと手を添えた。
特公課が現場へ到着したのは昼過ぎのことである。
鬱蒼とした山中はやけに静まり返っていて、湿った空気が肌にまとわりついて不快感を増幅させていた。
「なーんか、山に入ってからずっと曇ってて、嫌な天気っすねー」
暗雲が垂れこめる空を見上げながら、慧は「さっきまであんなに晴れてたのに」とぼやいた。
「この山全体が、あやかしの領域なんだろーな」
同じように上空を見上げた燐の言葉に、慧は心底うんざりとため息をついた。
「『山が黒煙を纏うとき、入山すること罷りならず。入れば二度と戻れなくなる』――」
帝都で起こる事件の中には、不可解な現象を伴うことがしばしばある。
怪異の原因はあやかしによるものが大半で、一般人の目には映らないことから必然的に異能を駆使する特公課が現場に駆り出されることになる。
「言い伝えが実際に起こるようになって半年……僕たちに調査討伐依頼が入ったのが一週間前……こんなにあきらかな怪異が起きてるんだから、さっさとこっちに投げてくれればいいのに、警邏部のやつら仕事が遅いんすから…………ねー、隊長」
「俺はなにも言ってねぇが?」
「やだなぁ、代弁してあげたんじゃないっすかー」
けたけたと軽快に笑う慧の声に被るように、気味の悪い鳴き声が山中にこだました。
特公課の面々も一斉に口を閉ざして、全員が厚い雲に覆われた空を見上げる。
「鳥……じゃなさそうっすね」
山じゅうに響き渡る声とともに、あやかしの気配が一段と増していた。
周囲には濃い霧が立ち込め、暗雲がぐるぐると渦を巻き始める。
「さーて、なにが出てきますかねー」
あやかしはあきらかに特公課に敵意を向けているが、一向に姿を見せる様子はない。
ただ不穏な空気を振りまいて、鳴き声を轟かせて威嚇するばかり。
「……めんどくせぇ。引きずり出すか」
「そんな強引な……! どうせ夜になれば姿を現すんですから、日暮れまで待ち伏せしましょうよ!」
しびれを切らして攻撃を仕掛けようとする燐を、慧が慌てて止める。
あやかしがこちらの存在を認識している以上、夜に出現することはわかりきっている。わざわざ刺激して凶暴にさせることはないのだ。
だが燐は日暮れまで待ってられないとばかりに、隊服の袖をまくった。
「今日は早く帰るって約束してんだよ」
「は? 誰と?」
訝しむ慧に、燐は小さく口角を上げた。
「嫁さんと」
「…………」
「…………」
「……はああああっ!? あんたいつ結婚したんすか!」
「ん? 昨日」
「「はああああっ!?」」
燐の投下した爆弾発言に驚いたのは慧だけでなく。
周囲で臨戦態勢を取っていた部下たちも、一斉に声を上げて山の空気を震わせた。
寝耳に水とはまさにこのことである。我らが隊長に今まで女性の影なんてなかったはずなのに。名家の令嬢に言い寄られても冷たくあしらっていた隊長が、よもや婚約もなしに結婚とは。
「ちょちょちょどーいうことっすか説明してくださいよー!!」
「うるせーな。つーわけだから、さっさと片づけて帰るぞ」
やいのやいのと騒ぐ部下たちを尻目に、燐の瞳が漆黒から炎の色めきへと変化していく。
腕に巻きつくように赤い流水紋が浮かび上がって、燐は上空の渦の中心に向かって炎の玉を放った。
その瞬間、耳をつんざくような鳴き声が山全体を揺り動かした。
