張り詰めた空気の中、向かい側から聞こえてきたため息が、いっそう遠羽の緊張を高めた。
「なんで遠羽が謝るんだ」
「え……?」
「お前は俺の嫁で、ここはお前の家でもあるんだから、好きにしていい」
顔を上げた遠羽の視界の先で、燐が再び味噌汁に口をつけていた。
パクパクと軽快に朝食を口に運ぶ燐は、どうやら怒ってはいないらしい。
そのことに安堵しておもわず木蓮を見れば、彼女も「よかったですね」と唇を動かしていた。
(燐さん、よろこんでくれてる……?)
黙って咀嚼する彼の胸の内はわからないが、少なくとも嫌々食事をしているふうではなさそうである。
すると、燐はおもむろに遠羽に視線を寄越して茶碗を置いた。
「……食べないのか?」
遠羽は食事をする燐を見つめるばかりで、自分の朝食には一向に箸をつけようとしない。
ずっと見られているのも落ち着かないが、それ以上に理由が気になって仕方がなかった。
(昨日の宴席でも、ひと口も箸をつけなかったしな……)
昨夜は祝言やらなにやらで緊張して喉を通らなかったのかもしれないが、今日も、ともなると話は変わってくる。
「え、っと……あの……」
まさかそこを指摘されるとは思っていなかった遠羽は、咄嗟に言い訳もできずに視線を泳がせた。
(だって……今まで誰かとごはんを食べるなんてことは……)
椛山家では、家族と一緒に食事をすることは許されなかった。
いつも片づけの合間に残りものを胃に流し込むか、余りものがない日はなにも食べないことも少なくはなかった。
だがそんなことを燐に言えるはずもない。
(どうしよう……あとでこっそり食べようと思ってたなんて、言えない……)
なにも言えなくなってうつむく遠羽に、燐は小さく息を吐いた。
箸が置かれるかすかな音に、遠羽の肩が小さく跳ねる。
「あの家じゃどうだったかは知らねぇが、俺の前で遠慮なんてするな」
燐は、あえて椛山家のことに言及した。
遠羽の言動の礎にあるのは、すべてあの家での境遇である。虐げられ、とことん劣等感を植えつけられた彼女の意識を変えるのはたやすいことではない。
「それとも、俺と一緒じゃ嫌か?」
「そんな……! 嫌だなんてことは……!」
おもわず顔を上げた遠羽の視界で、燐がまっすぐに自分を見つめていた。
そこに怒りや落胆はなく、あるのは慈しみの色をした微笑みだけ。
「俺は、遠羽と一緒にメシが食いたい」
やわらかい声でそう言われて、拒絶することなどできようか。
遠羽はおずおずと手を合わせると、遠慮がちに箸を取った。
「……い、いただきます……」
燐に見守られながら、震える手で椀を手に取る。
ゆっくりと味噌汁に口をつけて、ほっと息を吐くと、肩の力がふんわりと抜けていった。
「……あったかいごはんは、久しぶりです……」
ぽつりとこぼした何気ないひと言に、燐と木蓮がぎょっとする。
するとどこからともなく、いっせいに式神たちが居間になだれ込んできて遠羽のまわりに群がった。
「遠羽様! おかわりならたくさんあります!」
「おなかいっぱい食べてください!」
「ほらこれも! 遠慮しないで!」
「そ、そんなにたくさん、食べられません……!」
次から次へと差し出される小鉢のおかずやら飯櫃に、遠羽は困ったように頬をほころばせた。
当たり前に自分の食事が用意され、誰かと一緒に、おなかいっぱい食べられる。
こんなこと、今までの生活では考えられなかった。
(わたし、こんなにも幸せでいいのかな……)
あたたかなぬくもりに満たされていく心は、すっかりと絆され離れがたくなっている。
「ほら、これも食え」
「燐様! ご自身の嫌いなものを遠羽様に押しつけないでください!」
「チッ……」
木蓮によって間髪入れずにもとに戻された小鉢に悪態をつく燐に、遠羽は式神たちと一緒に小さく声を上げて笑った。
にぎやかな朝食もほどほどに、燐の出勤時間が迫っていた。
玄関まで見送りにきた遠羽から隊服の上着を受け取り、慣れた仕草で袖を通す。
その姿に、遠羽はひと時見惚れてしまった。
(初めて会ったときの、燐さんだ……)
あれから二度ほど彼の隊服姿を見ているはずなのだが、やはり記憶に残っているのはあの日の晩の出会いだった。
鴉のような漆黒の色合いが、玄関から差し込む朝日にきらきらと輝いて見える。
「遠羽? どうした?」
「あ、いえ……」
「ご主人、祝言を挙げたばっかりなのに、もうお仕事ですかー?」
「おヨメさまもさみしいですよね!?」
ともに見送りに出てきた小さな式神たちが、燐と遠羽を交互に見上げながら言った。
(さみしくない、と言えば、嘘になるけど……)
仕事に向かう燐を、そんなことで困らせたくはない。
この家に迎えてもらって、たくさんのぬくもりをもらって、これ以上なにを望むというのか。
だが式神たちはお構いなしに、せっかくだから休めばいいのに、二人で親睦を深めればいいのにと、好き勝手に不満を漏らしていた。
「お前らうるせぇよ。いいから散れ」
盛大なため息とともに、しっしと手のひらを払う燐に、式神たちはぶーぶーと文句を言いながら持ち場へと戻っていく。
残されたのは、燐と遠羽の二人だけ。
一気に静かになった空間に、二人は互いに少し緊張した様子でぎこちなく笑みをこぼした。
「あー……まあなんだ、なるべく早く帰るようにはする」
視線を落とした遠羽がさみしがっているように思えて、かといって今から仕事を休むわけにもいかず、燐はひと言そう約束する。
その意図を正確に汲み取ったらしい遠羽がはにかみながら返事をするのを、燐はどこかくすぐったいような気持ちで聞いていた。
「あの、燐さん……」
「ん?」
「えっと……差し出がましいことかとは、思ったのですが……」
遠慮がちに遠羽が差し出したのは、藍染の風呂敷に包まれた折詰だった。
「よろしければ、お昼に召し上がってください」
「……弁当……?」
きょとんとして小首をかしげた燐に、遠羽は咄嗟に腕を引っ込めた。
朝食の準備に並行して用意した弁当を、木蓮はいい案だと絶賛してくれたが、やはり余計なことだったかもしれない。
「あっ、必要なければ、その、お持ちいただかなくても、構いません……! 申し訳」
「遠羽」
慌てて頭を下げる遠羽の発言を遮って、燐は風呂敷包みに手を伸ばした。
「ありがとう」
「っ……!」
ふんわりと浮いた手のひらの重みに遠羽が視線を上げると、ぽすんと頭にぬくもりが乗る。
そのまま軽く頭をなでられて、遠羽はぱちぱちと瞬きを繰り返した。
「それとな、晩の味噌汁も、頼んでいいか?」
「っ! はい……!」
食事の支度を任せてもらえるということは、少しは認めてもらえたということ。
とたんに華やいだ表情で返事をする遠羽に、燐も無意識に目尻を下げていた。
「行ってくる」
「はい、お気をつけて」
はみかむ遠羽の頬をかすかに指先でなぞって、燐は背を向けて玄関をあとにした。
「なんで遠羽が謝るんだ」
「え……?」
「お前は俺の嫁で、ここはお前の家でもあるんだから、好きにしていい」
顔を上げた遠羽の視界の先で、燐が再び味噌汁に口をつけていた。
パクパクと軽快に朝食を口に運ぶ燐は、どうやら怒ってはいないらしい。
そのことに安堵しておもわず木蓮を見れば、彼女も「よかったですね」と唇を動かしていた。
(燐さん、よろこんでくれてる……?)
黙って咀嚼する彼の胸の内はわからないが、少なくとも嫌々食事をしているふうではなさそうである。
すると、燐はおもむろに遠羽に視線を寄越して茶碗を置いた。
「……食べないのか?」
遠羽は食事をする燐を見つめるばかりで、自分の朝食には一向に箸をつけようとしない。
ずっと見られているのも落ち着かないが、それ以上に理由が気になって仕方がなかった。
(昨日の宴席でも、ひと口も箸をつけなかったしな……)
昨夜は祝言やらなにやらで緊張して喉を通らなかったのかもしれないが、今日も、ともなると話は変わってくる。
「え、っと……あの……」
まさかそこを指摘されるとは思っていなかった遠羽は、咄嗟に言い訳もできずに視線を泳がせた。
(だって……今まで誰かとごはんを食べるなんてことは……)
椛山家では、家族と一緒に食事をすることは許されなかった。
いつも片づけの合間に残りものを胃に流し込むか、余りものがない日はなにも食べないことも少なくはなかった。
だがそんなことを燐に言えるはずもない。
(どうしよう……あとでこっそり食べようと思ってたなんて、言えない……)
なにも言えなくなってうつむく遠羽に、燐は小さく息を吐いた。
箸が置かれるかすかな音に、遠羽の肩が小さく跳ねる。
「あの家じゃどうだったかは知らねぇが、俺の前で遠慮なんてするな」
燐は、あえて椛山家のことに言及した。
遠羽の言動の礎にあるのは、すべてあの家での境遇である。虐げられ、とことん劣等感を植えつけられた彼女の意識を変えるのはたやすいことではない。
「それとも、俺と一緒じゃ嫌か?」
「そんな……! 嫌だなんてことは……!」
おもわず顔を上げた遠羽の視界で、燐がまっすぐに自分を見つめていた。
そこに怒りや落胆はなく、あるのは慈しみの色をした微笑みだけ。
「俺は、遠羽と一緒にメシが食いたい」
やわらかい声でそう言われて、拒絶することなどできようか。
遠羽はおずおずと手を合わせると、遠慮がちに箸を取った。
「……い、いただきます……」
燐に見守られながら、震える手で椀を手に取る。
ゆっくりと味噌汁に口をつけて、ほっと息を吐くと、肩の力がふんわりと抜けていった。
「……あったかいごはんは、久しぶりです……」
ぽつりとこぼした何気ないひと言に、燐と木蓮がぎょっとする。
するとどこからともなく、いっせいに式神たちが居間になだれ込んできて遠羽のまわりに群がった。
「遠羽様! おかわりならたくさんあります!」
「おなかいっぱい食べてください!」
「ほらこれも! 遠慮しないで!」
「そ、そんなにたくさん、食べられません……!」
次から次へと差し出される小鉢のおかずやら飯櫃に、遠羽は困ったように頬をほころばせた。
当たり前に自分の食事が用意され、誰かと一緒に、おなかいっぱい食べられる。
こんなこと、今までの生活では考えられなかった。
(わたし、こんなにも幸せでいいのかな……)
あたたかなぬくもりに満たされていく心は、すっかりと絆され離れがたくなっている。
「ほら、これも食え」
「燐様! ご自身の嫌いなものを遠羽様に押しつけないでください!」
「チッ……」
木蓮によって間髪入れずにもとに戻された小鉢に悪態をつく燐に、遠羽は式神たちと一緒に小さく声を上げて笑った。
にぎやかな朝食もほどほどに、燐の出勤時間が迫っていた。
玄関まで見送りにきた遠羽から隊服の上着を受け取り、慣れた仕草で袖を通す。
その姿に、遠羽はひと時見惚れてしまった。
(初めて会ったときの、燐さんだ……)
あれから二度ほど彼の隊服姿を見ているはずなのだが、やはり記憶に残っているのはあの日の晩の出会いだった。
鴉のような漆黒の色合いが、玄関から差し込む朝日にきらきらと輝いて見える。
「遠羽? どうした?」
「あ、いえ……」
「ご主人、祝言を挙げたばっかりなのに、もうお仕事ですかー?」
「おヨメさまもさみしいですよね!?」
ともに見送りに出てきた小さな式神たちが、燐と遠羽を交互に見上げながら言った。
(さみしくない、と言えば、嘘になるけど……)
仕事に向かう燐を、そんなことで困らせたくはない。
この家に迎えてもらって、たくさんのぬくもりをもらって、これ以上なにを望むというのか。
だが式神たちはお構いなしに、せっかくだから休めばいいのに、二人で親睦を深めればいいのにと、好き勝手に不満を漏らしていた。
「お前らうるせぇよ。いいから散れ」
盛大なため息とともに、しっしと手のひらを払う燐に、式神たちはぶーぶーと文句を言いながら持ち場へと戻っていく。
残されたのは、燐と遠羽の二人だけ。
一気に静かになった空間に、二人は互いに少し緊張した様子でぎこちなく笑みをこぼした。
「あー……まあなんだ、なるべく早く帰るようにはする」
視線を落とした遠羽がさみしがっているように思えて、かといって今から仕事を休むわけにもいかず、燐はひと言そう約束する。
その意図を正確に汲み取ったらしい遠羽がはにかみながら返事をするのを、燐はどこかくすぐったいような気持ちで聞いていた。
「あの、燐さん……」
「ん?」
「えっと……差し出がましいことかとは、思ったのですが……」
遠慮がちに遠羽が差し出したのは、藍染の風呂敷に包まれた折詰だった。
「よろしければ、お昼に召し上がってください」
「……弁当……?」
きょとんとして小首をかしげた燐に、遠羽は咄嗟に腕を引っ込めた。
朝食の準備に並行して用意した弁当を、木蓮はいい案だと絶賛してくれたが、やはり余計なことだったかもしれない。
「あっ、必要なければ、その、お持ちいただかなくても、構いません……! 申し訳」
「遠羽」
慌てて頭を下げる遠羽の発言を遮って、燐は風呂敷包みに手を伸ばした。
「ありがとう」
「っ……!」
ふんわりと浮いた手のひらの重みに遠羽が視線を上げると、ぽすんと頭にぬくもりが乗る。
そのまま軽く頭をなでられて、遠羽はぱちぱちと瞬きを繰り返した。
「それとな、晩の味噌汁も、頼んでいいか?」
「っ! はい……!」
食事の支度を任せてもらえるということは、少しは認めてもらえたということ。
とたんに華やいだ表情で返事をする遠羽に、燐も無意識に目尻を下げていた。
「行ってくる」
「はい、お気をつけて」
はみかむ遠羽の頬をかすかに指先でなぞって、燐は背を向けて玄関をあとにした。
