「こんな広いお部屋……わたしなんかには、もったいないです……」
「…………は?」
拍子抜けしたのは燐のほうだった。
視線を泳がせて気まずそうにする遠羽の文句は的はずれもいいとこで、その矛先は常に自分に向けられたもの。
自分のことを蔑ろにする癖は、長年にわたり椛山家で下に扱われてきたせいだろう。
「わたしなんか、お役に立てることなんて、なにもないのに……」
すっかりと肩を落としてしまった遠羽に、燐は人知れずため息をついた。
「『わたしなんか』」
「え……?」
感情のない低い声色が空気を震わせて、遠羽はおもわず顔を上げた。
まっすぐに自分を見つめる燐に表情はなく、まなざしの奥に怒りのようなものを感じる。
「っ……!」
おもむろに燐の手が上がるのを視界の端に捉えて、遠羽は瞬間的に身構えた。
叩かれる。そう思ったのもつかの間、ぽすん、と彼の手が頭に乗せられる。
「そうやって自分で自分を蔑むな」
「っあ……の、申し訳ありません……!」
「謝る必要もねぇよ」
ああ、きっと旦那様は機嫌を損ねてしまった。
せっかく部屋の用意までしてもらったのに素直にお礼も言えず、その厚意を無下にしてしまって。
頭上から離れていく手のぬくもりに顔を上げられなくて、遠羽は自分のつま先を見つめたまま唇を噛んだ。
きれいに磨かれた廊下とは対象的に、薄汚れた足袋とくたびれた着物の裾が目に入って余計にみじめな気分になる。
(わたし、ここにいるべきじゃない……)
「遠羽」
「……はい」
燐の呼びかけにかろうじて返事はしたものの、やっぱり顔を上げられない。
すると、彼の手のひらがそっと頬に添えられた。
もう一度「遠羽」とやわらかく名を呼ばれ、おずおずと上を向く。
ゆっくりとまばたきをした真剣なまなざしが、まっすぐに自分に注がれていた。
「ここにはお前を虐げるものはなにもない。なにをしても咎めるやつはいない。この家はお前の家で、お前はお前のしたいことをすればいい」
もし文句を言うようなやつがいたなら全員黙らせてやると続けた燐の言葉が、じんわりと胸に広がっていく。
(……わたしの、したいこと……)
そんなことを言われたのは初めてだった。
いままでは言われたことやるだけの日々で、言われたとおりにしたからといって褒められることもなく、ともすれば理不尽な叱責や暴力にさらされることも少なくなかったのに。
込み上げる感情が目尻を熱くする。それをごまかすように、遠羽は唇を震わせた。
出会って間もないのに。まともに話をしたのは今日が初めてなのに。
ただ瞳が欲しいからという理由で、よく知りもしない人間にここまでしてくれるなんて。
たった一日で、返しきれないほどのぬくもりをもらった気がする。
(わたし、すごく恵まれてる……)
「っあの……」
「ん?」
「ありがとうございます……旦那様」
「あとそれ」
燐の人差し指が鼻先に向けられて、遠羽は「え?」と短く音をこぼした。
「その『旦那様』って呼び方、どうにかなんねぇか?」
わずかに唇をとがらせた燐の表情がまるで拗ねた子どものようで、遠羽は小さく目を丸くした。
一瞬でも「かわいい」と思ってしまったことは口が割けても言えない。
とはいえ『旦那様』と呼ぶ以外に、どう呼べばいいのか。
「……燐でいい」
まばたきを繰り返す遠羽の仕草から思考を察したのか、燐がぽつりとつぶやく。
それは名前で呼ぶことを許されたということ。
「あ……の……燐、様……?」
「『様』はいらねぇ」
ぶっきらぼうに言う燐の頬がわずかにふくらんだのは気のせいだろうか。
遠羽は気まずそうに顔をそむけた燐の横顔を見上げて、どうしたものかと視線を泳がせた。
『旦那様』も『燐様』もダメ。かといって呼び捨てになどできようはずもない。
(えっと……えっと……)
まだかとちらりと視線を寄越した燐に、遠羽は遠慮がちに口をひらいた。
「え、あ、あの…………燐、さん……?」
「…………」
「…………」
「…………悪くねぇな」
聞こえるか聞こえないかの声量でぼそっとこぼした燐が、首のうしろを掻いていた。
横顔が少しばかり照れくさそうに緩んでいる。
「あー……祝言は明日だからな。今のうちにしっかり休んどけよ」
「ん……ぇえ!?」
ぽんぽんと頭をなでられて、一瞬なにを言われたのか理解が追いつかなかった。
たしかに燐のもとに嫁ぐという話にはなっている。心の準備ができているかは別として。
だがまさか大事な門出の儀式が明日だなんて、いくらなんでも急ぎすぎではなかろうか。
「だっ、燐さん……!」
立ち去る背中に慌てて声をかけた遠羽を振り返るでもなく、燐はひらひらと手を振って廊下の角を曲がってしまった。
「ちょ、待って……」
「さあさ遠羽様! ここからはワタシにお世話させてくださいませ」
「あ、わたし……?」
追いかけようとした足を止めたのは、どこからともなく姿を見せた木蓮だった。
彼女の持つ籠には真新しい着物や手ぬぐい、櫛や香油が収められている。
「まずはお湯浴みに参りましょう。それから髪もきれいに整えなくてはいけませんね」
「え、あ……!」
木蓮の指摘で、遠羽は雑に切られた髪を思い出し急に恥ずかしくなった。
長さもバラバラで乱れたままの髪で屋敷を歩き回っていたなんて、みっともないにもほどがある。しかも監禁されていたせいで三日も体を清めていない。
(やだ……わたしったら、こんな身なりで旦那様……燐さんの近くに……)
口にこそ出さなかったが、彼は不快に思わなかっただろうか。
一気に不安に駆られて、遠羽は涙目で木蓮を見上げた。
彼女は遠羽の言いたいことがわかっているのか、「大丈夫ですよ」と言ってほんのりと微笑んでみせた。
「燐様も忙しいと二日くらい入らないですし。あやかし退治のあとは返り血まみれ泥だらけで帰ってくることもありますから」
「なんの慰めにもならないです……!」
さらりと暴露をした木蓮が、袖口で口元を隠してくすくすと笑っていた。
「おヨメさまお風呂入る!?」
「一緒に入る!」
「これお前たち! 遠羽様はお疲れなのですよ!」
いつのまにか集まっていた小さな式神たちが、足元でわいわいとはしゃいでいた。
木蓮に一喝されても懲りずに「おヨメさま」「遠羽さま」と群がる子どもたちに、遠羽の顔にもつい笑みがこぼれた。
「…………は?」
拍子抜けしたのは燐のほうだった。
視線を泳がせて気まずそうにする遠羽の文句は的はずれもいいとこで、その矛先は常に自分に向けられたもの。
自分のことを蔑ろにする癖は、長年にわたり椛山家で下に扱われてきたせいだろう。
「わたしなんか、お役に立てることなんて、なにもないのに……」
すっかりと肩を落としてしまった遠羽に、燐は人知れずため息をついた。
「『わたしなんか』」
「え……?」
感情のない低い声色が空気を震わせて、遠羽はおもわず顔を上げた。
まっすぐに自分を見つめる燐に表情はなく、まなざしの奥に怒りのようなものを感じる。
「っ……!」
おもむろに燐の手が上がるのを視界の端に捉えて、遠羽は瞬間的に身構えた。
叩かれる。そう思ったのもつかの間、ぽすん、と彼の手が頭に乗せられる。
「そうやって自分で自分を蔑むな」
「っあ……の、申し訳ありません……!」
「謝る必要もねぇよ」
ああ、きっと旦那様は機嫌を損ねてしまった。
せっかく部屋の用意までしてもらったのに素直にお礼も言えず、その厚意を無下にしてしまって。
頭上から離れていく手のぬくもりに顔を上げられなくて、遠羽は自分のつま先を見つめたまま唇を噛んだ。
きれいに磨かれた廊下とは対象的に、薄汚れた足袋とくたびれた着物の裾が目に入って余計にみじめな気分になる。
(わたし、ここにいるべきじゃない……)
「遠羽」
「……はい」
燐の呼びかけにかろうじて返事はしたものの、やっぱり顔を上げられない。
すると、彼の手のひらがそっと頬に添えられた。
もう一度「遠羽」とやわらかく名を呼ばれ、おずおずと上を向く。
ゆっくりとまばたきをした真剣なまなざしが、まっすぐに自分に注がれていた。
「ここにはお前を虐げるものはなにもない。なにをしても咎めるやつはいない。この家はお前の家で、お前はお前のしたいことをすればいい」
もし文句を言うようなやつがいたなら全員黙らせてやると続けた燐の言葉が、じんわりと胸に広がっていく。
(……わたしの、したいこと……)
そんなことを言われたのは初めてだった。
いままでは言われたことやるだけの日々で、言われたとおりにしたからといって褒められることもなく、ともすれば理不尽な叱責や暴力にさらされることも少なくなかったのに。
込み上げる感情が目尻を熱くする。それをごまかすように、遠羽は唇を震わせた。
出会って間もないのに。まともに話をしたのは今日が初めてなのに。
ただ瞳が欲しいからという理由で、よく知りもしない人間にここまでしてくれるなんて。
たった一日で、返しきれないほどのぬくもりをもらった気がする。
(わたし、すごく恵まれてる……)
「っあの……」
「ん?」
「ありがとうございます……旦那様」
「あとそれ」
燐の人差し指が鼻先に向けられて、遠羽は「え?」と短く音をこぼした。
「その『旦那様』って呼び方、どうにかなんねぇか?」
わずかに唇をとがらせた燐の表情がまるで拗ねた子どものようで、遠羽は小さく目を丸くした。
一瞬でも「かわいい」と思ってしまったことは口が割けても言えない。
とはいえ『旦那様』と呼ぶ以外に、どう呼べばいいのか。
「……燐でいい」
まばたきを繰り返す遠羽の仕草から思考を察したのか、燐がぽつりとつぶやく。
それは名前で呼ぶことを許されたということ。
「あ……の……燐、様……?」
「『様』はいらねぇ」
ぶっきらぼうに言う燐の頬がわずかにふくらんだのは気のせいだろうか。
遠羽は気まずそうに顔をそむけた燐の横顔を見上げて、どうしたものかと視線を泳がせた。
『旦那様』も『燐様』もダメ。かといって呼び捨てになどできようはずもない。
(えっと……えっと……)
まだかとちらりと視線を寄越した燐に、遠羽は遠慮がちに口をひらいた。
「え、あ、あの…………燐、さん……?」
「…………」
「…………」
「…………悪くねぇな」
聞こえるか聞こえないかの声量でぼそっとこぼした燐が、首のうしろを掻いていた。
横顔が少しばかり照れくさそうに緩んでいる。
「あー……祝言は明日だからな。今のうちにしっかり休んどけよ」
「ん……ぇえ!?」
ぽんぽんと頭をなでられて、一瞬なにを言われたのか理解が追いつかなかった。
たしかに燐のもとに嫁ぐという話にはなっている。心の準備ができているかは別として。
だがまさか大事な門出の儀式が明日だなんて、いくらなんでも急ぎすぎではなかろうか。
「だっ、燐さん……!」
立ち去る背中に慌てて声をかけた遠羽を振り返るでもなく、燐はひらひらと手を振って廊下の角を曲がってしまった。
「ちょ、待って……」
「さあさ遠羽様! ここからはワタシにお世話させてくださいませ」
「あ、わたし……?」
追いかけようとした足を止めたのは、どこからともなく姿を見せた木蓮だった。
彼女の持つ籠には真新しい着物や手ぬぐい、櫛や香油が収められている。
「まずはお湯浴みに参りましょう。それから髪もきれいに整えなくてはいけませんね」
「え、あ……!」
木蓮の指摘で、遠羽は雑に切られた髪を思い出し急に恥ずかしくなった。
長さもバラバラで乱れたままの髪で屋敷を歩き回っていたなんて、みっともないにもほどがある。しかも監禁されていたせいで三日も体を清めていない。
(やだ……わたしったら、こんな身なりで旦那様……燐さんの近くに……)
口にこそ出さなかったが、彼は不快に思わなかっただろうか。
一気に不安に駆られて、遠羽は涙目で木蓮を見上げた。
彼女は遠羽の言いたいことがわかっているのか、「大丈夫ですよ」と言ってほんのりと微笑んでみせた。
「燐様も忙しいと二日くらい入らないですし。あやかし退治のあとは返り血まみれ泥だらけで帰ってくることもありますから」
「なんの慰めにもならないです……!」
さらりと暴露をした木蓮が、袖口で口元を隠してくすくすと笑っていた。
「おヨメさまお風呂入る!?」
「一緒に入る!」
「これお前たち! 遠羽様はお疲れなのですよ!」
いつのまにか集まっていた小さな式神たちが、足元でわいわいとはしゃいでいた。
木蓮に一喝されても懲りずに「おヨメさま」「遠羽さま」と群がる子どもたちに、遠羽の顔にもつい笑みがこぼれた。
