あやかし瞳の花嫁

◇◇◇◇◇


 すやすやと眠る遠羽を横目に見ながら、燐は静かに肩の力を抜いた。

 我ながらよく耐えたものだ。
 椛山家でのできごとを思い出すと、まだ怒りが込み上げてくる。

(遠羽を監禁しただけでなく、事もあろうに花嫁を代われとはな……)

 自己過信にもほどがある。異母妹(いもうと)だという娘はさぞや存分に両親に甘やかされてきたのだろうことは容易に想像がついた。

 一方で、遠羽がこれまであの悪意の矛先に立たされていたことも。

(異能持ちの数は減少傾向にあるとはいえ、遠羽の価値も見抜けねぇ独善者どもめ)

 だが同時に、解せない部分もある。
 末端とはいえ名家の当主である康之が、あやかし瞳について知らないはずはない。ならばその瞳の持ち主に異能が現れることもわかっているはずだ。

(椛山康之は、なぜ遠羽の存在を報告しなかった? あの者たちなら、遠羽を利用することを考えないはずはない……)

 なにか、遠羽を表に出さなかった理由があるのか。

(……使用人、か。よくもまあ娘に対してそんなことが言えたもんだ……)

 明るいところで見れば見るほど、遠羽が置かれていた環境の過酷さが伝わってくる。
 着古した着物にあかぎれのできた指。強引に切られた髪は艶もなく、小さくひらいた唇は少々乾燥しているらしかった。

「……こんなことなら三日も待たずに、すぐに連れ出してやればよかったな……」

 まだ互いによく知りもしない間柄。
 とはいえこれまでの遠羽の生活を思うに、彼女には心穏やかに過ごしてもらいたいと思う。

 わずかに肩に感じた重みに、燐は小さく口角を上げて、自身もひと眠りしようとまぶたを閉じた。



「――羽、遠羽」
「……っ」

 心地よく鼓膜を震わせる声に、遠羽はゆっくりと意識を浮上させた。
 視界はななめになっていたが、ぼんやりとする頭ではその理由に思い当たらず、何度かまばたきをする。

「遠羽、着いたぞ」
「っ!」

 次の瞬間、遠羽は勢いよく頭を起こして声のしたほうを見やった。
 いつの間にか馬車は走るのをやめていて、どこかの家の前に停まっているらしかった。

「えっ、あ……!? わたしったら……! すみません……! つい……!」

 寝ないようにと努めていたはずなのに、睡魔の誘惑にあっけなく敗北してしまったらしい。
 しかも燐の肩を借りていたという事実に気づいて、遠羽は真っ青になった。

(わたし、なんてはしたないことを……!)

「少しは休めたか?」

 だが燐は気にしていないようなそぶりで、「もう少し寝かせてやりたかったんだがな」と申し訳なさそうに眉を下げている。

(どうして、こんなに気遣ってくれるんだろう……)

 彼が欲しかったのは彩雲瞳であって、遠羽自身ではない。
 気遣われる理由はないはずだと思いながらも、そうされることに慣れていないせいか戸惑いと同時にふわふわとした気持ちも感じていた。

「ああそうだ。これを、お前に返しておく」

 そう言って燐が懐から取り出したものを目にするなり、遠羽は息が止まるかと思った。
 否、実際呼吸することを忘れていたかもしれない。

「っ! 母さまの手ぬぐい……!」

 捨てられたとばかり思っていた。
 愛莉によって無惨に裂かれ、手元に戻ってくることはないとあきらめていたのに。

「っ、これ……どうして……」

 手ぬぐいを受け取って、遠羽は信じられないとばかりに燐を見上げた。
 裂かれた手ぬぐいは不器用ながらもきれいに縫い合わされている。

「ん? ああ、あの家にいた小鬼たちだ。お前もよく知ってるだろ?」

 なんの気なしにそう言う燐が、小鬼たちがこっそりとゴミ箱から回収して修復したのだと教えてくれた。

(あの子たちが……)

 いつも庭で遊んでいたり自分のあとをトコトコとついてまわっていた小さなあやかし。
 言葉を交わすことはできなかったが、遠羽は二匹に一方的な親しみを感じていた。気づいたらそばに寄り添ってくれていた秘密の友だちは、孤独や不安をまぎらわせてくれたものだ。

「あの、旦那様……あの子たちは……その……」
「あの小鬼たちなら、荷物と一緒にもう来てるんじゃねぇか? ずいぶんとお前に懐いてるみてぇだしな」

 小鬼たちがついてきてくれることがうれしい反面、遠羽の不安は尽きなかった。
 もしも新しい家に馴染めなかったら。
 もしも至らぬことで家主を怒らせてしまったりしたら。
 二匹の姿が見えるのは、もう遠羽だけではないのだ。

「心配しなくても、祓ったりしねぇよ」

 遠羽の不安を察したのか、燐が苦笑しながら口を添える。
 単純なもので、燐に言葉にされれば無条件に安堵してしまうのだから不思議なものである。

「あの……ありがとう、ございます……」

 母の手ぬぐいを胸に抱き、遠羽はわずかに微笑みを浮かべて言った。
 胸に広がるあたたかい気持ちに、自然と目尻が下がる。

(……そんな顔もできるんだな……)

 伏し目がちにやわらかい表情を見せる横顔に、燐もまた小さく口角を上げていた。

「さてと、あんま待たせてもうるせぇからな。そろそろ降りるぞ」

 そう言うなり、燐は颯爽と馬車から降りた。
 無言で差し伸べられた手に、遠羽は遠慮がちに自身のそれを重ねる。
 引き寄せられるように外の世界へと降り立った遠羽は、目の前にそびえ立つ立派な門扉におもわず身を引いた。

(おっきなお屋敷……本当に、今日からここで暮らすの……?)

 無意識に乾いた空気を飲み込んで、遠羽は緊張で足がすくんでしまった。

「そんなに気負う必要はねぇよ。ここは本邸じゃないからな」
「え……?」
「本邸はいろいろと息苦しくてな。仕事柄、ひとりで別邸にいるほうが気楽なんだ。今日から二人になるけどな」

 どこか楽しそうな響きをした声が言葉を紡ぎ終えると同時に、燐の手によって門扉がゆっくりとひらいた。

 手を引かれるままに一歩敷地に足を踏み入れた瞬間である。
 突風のように一気に、濃いあやかしの気配が遠羽の全身に襲いかかった。