あやかし瞳の花嫁

 表情を覆い隠す(いぬ)の面。
 それが、椛山(かばやま)遠羽(とわ)が人目を避ける理由だった。

 まだ寒さの残る夜中の静けさの中、遠羽は寺の急な階段を登りきって小さく息をつく。

「こんな夜更けに、墓参りに来る人なんていないものね……」

 わずかに乱れた着物の裾を整えて、遠羽は提灯の明かりを掲げた。
 砂利敷きの境内を進み向かった先は、闇に飲まれた墓地の一番奥。
 雑木林との境目にひっそりとたたずむ墓石は簡素で、それが墓だと知らない者にはただ地面から突き出た岩にしか見えないだろう。
 丸みを帯びた小ぶりな岩に名前が彫られることもなく、そばに刺さった野花立だけが、それが墓石なのだと主張していた。

「……母さま……」

 岩の前に膝をついて、遠羽は面の下でふんわりと口元をやわらげた。
 月命日の晩にこうして人目を忍んで母のもとを訪ねる暮らしも、かれこれ何年目になるだろうか。

(母さまがいなくなって……面をつけるようになって……きっともう、誰もわたしの顔なんて覚えてない……)

 あの頃は顔の輪郭に合わず大きかった面も、今ではすっかりと馴染んでしまった。
 そっとふれた面の表面はなめらかで、指先からひんやりと冷たさが伝わる。

「……そろそろ、帰らなくちゃ……また来るね、母さま」

 墓石に手を合わせ、遠羽は名残惜しそうに腰を上げた。
 唯一黙認されている外出とはいえ、あまり遅くなっては、なにを言われるかわからない。

 するとその時、遠くから鳥がいっせいに羽ばたいたような音がこだまする。
 同時に鼓膜をかすめた風切り音は、あきらかに雑木林の奥から聞こえていた。

「……誰か、いるの……?」

 返事など、あるはずもない。
 ひとけのない真夜中の墓所。
 遠羽はすぐにでもここから立ち去るべきなのだろう。
 だが彼女の足は、吸い寄せられるように雑木林へと向けられていた。

(行かないほうがいいのはわかってる……でも…‥)

 いつもと同じ時間帯。
 いつもと同じ景色。
 そこにはいつも、遠羽ひとりだけ。のはずだった。

(なんでかわかんない、けど……確かめなきゃ、いけない気がする……)

 暗闇へと足を踏み入れる恐怖よりも、いつもと違うたったひとつの違和感に対する好奇心のほうが勝っていた。

 遠羽の足はためらうことなく雑木林の奥へと進んでいく。
 提灯の明かりに照らされて長く伸びた影がゆらゆらと妖しく揺らめき、深い闇が辺りに広がっていた。
 それでも遠羽は、導かれるように前だけを見つめていた。

(……黒い、花びら……! これって……!)

 視界にいくつもちらつく影が花びらだと気づいた瞬間、遠羽は息を飲んで足を止めた。

(あやかしの、印……!)

 見渡せば、足元に真っ黒な彼岸花が咲いていた。

 この世には存在しないはずの黒い花。
 誰にも見えないはずの、あやかしの存在を示す花。

(やっぱり、来るべきじゃなかった……!)

 そう思えども、遠羽はすでにあやかしの領域に足を踏み入れてしまっている。
 気づかれる前に逃げなくては。取り返しがつかなくなる前に。
 遠羽は急いできびすを返した。

「危ねえ!」
「っ!?」

 誰かの叫びが静寂の中を突き抜ける。
 その声に振り返った瞬間、遠羽の体は強い風に煽られバランスを(くず)していた。
 尻もちをついた拍子に、戌の面がはずれて地面に落下する。

 むせ返るほどの甘い香り。
 風の音に混じる獣の湿った息づかい。

「っ!?」

 反射的に顔を上げた遠羽は、目の前の光景に息を飲んだ。

 真っ赤な毛色をした巨大な猿の顔が、そこにあった。
 鋭い牙をむき出しにして、歯のすきまから吐息を漏らして、つり上がった目がぎょろりと遠羽の姿を(とら)える。

「っ……あ……」

 ()われる、とそう思った。
 だが同時に、それも悪くないと思ってしまった。

(わたしなんか、いなくなっても、誰も悲しまない……だったら……)

 眼前の巨猿が顔の半分ほどもあろうかと思うほどに大きく口を開けるのを、遠羽はまばたきもせずに見つめていた。

(いっそのこと……このまま母さまのところに……)
「伏せてろ!」

 再び聞こえた声は先ほどよりもずっと近い。
 次の瞬間、どこからともなく現れた炎の帯が遠羽と巨猿の間を駆け抜けた。
 周囲を鮮やかに照らした炎は巨猿に絡みつき、焦げたにおいが鼻につく。
 低いうめき声が断末魔に変わるのはすぐのことで、炎に包まれた巨猿がみるみる形を変えていく。

「ったく! なんでこんなとこに人がいやがんだ!」

 惨劇から目をそらせずにいる遠羽の視界を(さえぎ)るように、大きな影が彼女の前に降り立つ。
 それが誰かの背中だと気づくと同時に、遠羽はその光景に目を奪われた。

 黒い彼岸花が咲き誇る中、炎が闇を切りひらき、舞い上がった黒い花弁が火の粉に焼かれながら降り(そそ)ぐ。
 ひとつに結われた長い黒髪が風に揺れ、(ひるがえ)った黒いコートは炎に照らされて赤や紫に輝いて見えた。

「チッ、往生際の悪い猿だな」

 舌打ちとともに掲げられた腕を彼が横に()げば、炎はさらに勢いを増して燃え上がった。

「っ……あれ、は……?」
「あれは猩猩(しょうじょう)だ。普段はもっと山奥にいて、こんな人里まで降りてくることはめったにねぇんだが……」

 遠羽の問いに応えた男の言葉が、はっとしたように途切れる。

「……お前、()()が見えるのか?」
「っ!」

 訝しむ男の声色に、遠羽は背すじが凍った。
 人ならざるモノが見えるなんて、普通じゃない。
 だから誰にも打ち明けずに、ひた隠しにしてきたのに。

 振り向いた男と目が合う。
 漆黒の瞳がまっすぐに遠羽に向けられ、男の端正な顔立ちが驚きに満ちていた。

「お前……! その()……!」

 男のつぶやきに、遠羽はびくりと肩を跳ねさせた。

(面が、ない……!)

 咄嗟に落ちていた面を手探りで拾い、弾かれたように身を起こす。
 呼び止める男の声を振り切って、遠羽はその場から逃げるように駆け出した。

(どうしよう……! 見られた……!)

 こみ上げる焦りを飲み込んで、遠羽は必死にもと来た道を走った。



 闇の中へと消えた背中を見つめたまま、男はその場を動けずにいた。

「まさか、あの瞳を持ってる人間がまだいたとはな……」

 男は一瞬思案するように目を細める。

 猩猩退治の現場に突如として現れた娘。
 炎の明かりに照らされた彼女の瞳は、まるで宝石のように輝いて見えた。
 光が揺れるたびに、虹彩は数多の色に(きら)めいて。

「……『あやかし()』、か……」

 素直に、きれいだと思った。
 同時に、あの()が欲しいとも。

 男は短く指笛を鳴らした。
 すぐそばで空気を震わせた鈴の音に、男はわずかに口角を上げる。
 いつのまにか足元にすり寄ってきた白猫が、次の瞬間には肩に乗って頬を寄せていた。

「あの娘のにおいを、たどれるか?」

 男の言葉に応えるように猫は高くひと声鳴くと、音もなく地面へと降り立つ。
 ふたつに分かれた尾を左右に揺らしながら、白猫は颯爽と闇の中へと消えていった。