契印は君の手に、妖は恋を知らない

 夜。

 離れの部屋に、重い沈黙が落ちていた。

 

「……座れ」

 

 零の声は、低く静かだった。

 

 綾乃は何も言わず、言われた通りに座る。

 

 向かい合う形。

 

 だが――

 

 その距離は、どこか遠い。

 

 

「これからする話は、命令だ」

 

 

「はい」

 

 

 即答。

 

 そこに、疑問も感情もない。

 

 

(……やはりな)

 

 

 零は目を細めた。

 

 

「契約を解く」

 

 

 その一言。

 

 

 普通なら、驚くはずの言葉。

 

 

 だが綾乃は。

 

 

「合理的です」

 

 

 そう答えた。

 

 

 

 胸の奥が、わずかに軋む。

 

 

 

「方法は?」

 

 

「まだ完全ではないが、当たりはついている」

 

 

 零は、ゆっくりと言葉を選ぶ。

 

 

「契印は“結び”だ」

 

 

「結び?」

 

 

「力と魂を繋ぐ楔。だから――」

 

 

 一瞬、言葉を止める。

 

 

「強制的に断ち切れば、壊れる」

 

 

 

 空気が、張り詰めた。

 

 

 

「その場合の影響は」

 

 

 綾乃が淡々と問う。

 

 

 

「……不明だ」

 

 

 

 嘘ではない。

 

 だが。

 

 

 

「最悪の場合、お前は死ぬ」

 

 

 

 静かに告げる。

 

 

 

 それでも。

 

 

 

「問題ありません」

 

 

 

 迷いのない返答。

 

 

 

 

 その瞬間。

 

 

 

「……ふざけるな」

 

 

 

 零の声が、わずかに揺れた。

 

 

 

「それでいいわけがないだろう」

 

 

 

 綾乃は、首を傾げる。

 

 

 

「なぜですか」

 

 

 

「なぜ、だと?」

 

 

 

 一歩、近づく。

 

 

 

「お前は、自分が消えるかもしれないと言っているんだぞ」

 

 

 

「はい」

 

 

 

「怖くないのか」

 

 

 

 

 一瞬の沈黙。

 

 

 

「……その感覚が、わかりません」

 

 

 

 

 完全な無。

 

 

 

 

 零は、言葉を失った。

 

 

 

(ここまで、削られているのか)

 

 

 

 拳を握る。

 

 

 

 

「……いいか、綾乃」

 

 

 

 低く、しかしはっきりと。

 

 

 

「これは命令だ」

 

 

 

 

「はい」

 

 

 

 

「お前は、死ぬな」

 

 

 

 

 一瞬。

 

 

 

 空気が止まる。

 

 

 

 

「生きろ」

 

 

 

 

 その言葉は――

 

 

 

 今までで一番、強かった。

 

 

 

 

 綾乃は、わずかに目を瞬かせる。

 

 

 

 

 だが。

 

 

 

 

「……理解しました」

 

 

 

 

 それだけ。

 

 

 

 

 その答えに。

 

 

 

 

 零は、静かに目を閉じた。

 

 

 

 

(違う……)

 

 

 

 

 違う。

 

 

 

 

 そうじゃない。

 

 

 

 

 そう思うのに。

 

 

 

 

 どう言えばいいのか、わからない。

 

 

 

 

 

「……明日、動く」

 

 

 

 

 短く告げる。

 

 

 

 

「契印を壊すための場所へ行く」

 

 

 

 

「わかりました」

 

 

 

 

 淡々とした返答。

 

 

 

 

 

 その夜。

 

 

 

 

 綾乃は、すぐに眠りについた。

 

 

 

 

 迷いも、不安もなく。

 

 

 

 

 

 そして――

 

 

 

 

 零だけが、眠れずにいた。

 

 

 

 

 

(……どうすればいい)

 

 

 

 

 初めての感情。

 

 

 

 

 焦り。

 

 

 

 

 苛立ち。

 

 

 

 

 そして――

 

 

 

 

 恐怖。

 

 

 

 

 

「……ふざけるな」

 

 

 

 

 小さく吐き捨てる。

 

 

 

 

 

 千年生きてきた。

 

 

 

 

 多くの契約を見てきた。

 

 

 

 

 だが。

 

 

 

 

 

(こんなものは、知らない)

 

 

 

 

 

 守るほどに壊れる。

 

 

 

 

 近づくほど消えていく。

 

 

 

 

 

 そんな契約は――

 

 

 

 

 

「……壊す」

 

 

 

 

 低く、決意する。

 

 

 

 

 

「何をしてでも」

 

 

 

 

 

 その声には、確かな“意思”があった。

 

 

 

 

 

 ――守るために壊す。

 

 

 

 

 

 矛盾した選択が。

 

 

 

 

 

 二人を、次の段階へと進めていく。