朝。
離れの部屋は、いつもと変わらず静かだった。
「……起きているか」
零が声をかける。
「はい」
すぐに返事が返る。
だが。
その声には――
何の揺らぎもなかった。
綾乃は、すでに支度を終えていた。
髪も整い、着物も乱れがない。
完璧な“外見”。
けれど――
「どこへ行く」
「市へ」
「理由は」
「必要だからです」
会話は成立している。
だが、どこか噛み合わない。
(……薄い)
零は、わずかに眉をひそめた。
感情が、ほとんど感じられない。
「綾乃」
「はい」
「昨日のこと、覚えているか」
一瞬の間。
「……甘味処に行きました」
事実だけを答える。
「それ以外は」
問われて。
綾乃は、少しだけ考える。
「特に、何も」
その答えに。
零は、ゆっくりと目を閉じた。
(……ここまでか)
確信に近い理解。
“感情”はほぼ、消えている。
「……出るぞ」
短く言う。
市へ向かう道。
人々が行き交い、笑い、話す。
だが綾乃は。
それを“見ているだけ”だった。
「綾乃」
「はい」
「何か、感じるか」
問い。
「……特に」
やはり同じ答え。
その時だった。
「お姉ちゃん!」
小さな子供が、走ってくる。
昨日と同じような光景。
だが――
綾乃は、動かなかった。
ぶつかりそうになる。
その瞬間。
零が、子供を軽く引き寄せた。
「気をつけろ」
子供はきょとんとしてから、ぺこりと頭を下げて走り去る。
「……なぜ避けなかった」
零の声が低くなる。
「必要性を感じませんでした」
即答。
「ぶつかれば怪我をする可能性がある」
「その場合、処置します」
合理的すぎる返答。
だが――
“優しさ”が、ない。
「……そうか」
零は、それ以上何も言わなかった。
ただ。
その目だけが、わずかに鋭くなる。
その日の帰り道。
「止まれ」
突然、零が言った。
「どうしました」
「来る」
前方の影が、ゆらりと揺れる。
現れたのは――
「……やはりいたか」
黒装束の男。
「その印、渡してもらう」
前回とは違う。
明らかに“格”が上。
「下がっていろ」
零が前に出る。
だが。
「いいえ」
綾乃が、静かに言った。
「私が対処します」
「何?」
そのまま、一歩前に出る。
契印が、淡く光る。
「あなたの目的は、この印ですね」
男が笑う。
「理解が早いな」
「では」
綾乃は、迷いなく言った。
「差し上げます」
空気が、凍った。
「……は?」
零の声が、明らかに変わる。
「何を言っている」
「必要なければ、手放します」
無表情。
そこに、一切の躊躇いはない。
「綾乃」
低い声。
だが綾乃は、続ける。
「あなたが望むなら、渡します」
男が、ゆっくりと手を伸ばす。
「賢い選択だ」
その瞬間。
――ガシッ
強く、腕が掴まれた。
「……誰が許した」
零だった。
その目は――
今まで見たことのないほど、怒っている。
「それは俺のものだ」
低く、押し殺した声。
「勝手に差し出すな」
「ですが」
「黙れ」
初めての、強い遮り。
一瞬。
綾乃の動きが止まる。
そして。
「……理解しました」
あっさりと従う。
その様子を見て。
零は、ほんのわずかに歯を食いしばった。
(違うだろ)
そうじゃない。
そう思ったが――
言葉にならない。
「……話は終わりだ」
零が、前を向く。
「消えろ」
次の瞬間。
空気が裂けた。
圧倒的な力が、男を吹き飛ばす。
「くっ……!」
男は体勢を崩しながらも、すぐに距離を取る。
「……なるほど。面倒な存在がついているな」
忌々しげに言い、姿を消した。
静寂。
「……綾乃」
零が、ゆっくり振り返る。
「はい」
「お前」
一歩、近づく。
「今、自分が何をしようとしたか、わかっているのか」
「はい。問題解決です」
迷いのない答え。
その瞬間。
零は、完全に理解した。
――もう、遅い。
綾乃の中の“何か”は。
ほとんど、残っていない。
「……そうか」
低く呟く。
そして。
ほんのわずかに。
声が、かすれた。
「……なら、俺が止めるしかないな」
その言葉の意味を。
綾乃は、理解しなかった。
理解する“心”が、もうないからだ。
――空白になりかけた器。
それを前にして。
初めて。
零は、“失う恐怖”を知った。
離れの部屋は、いつもと変わらず静かだった。
「……起きているか」
零が声をかける。
「はい」
すぐに返事が返る。
だが。
その声には――
何の揺らぎもなかった。
綾乃は、すでに支度を終えていた。
髪も整い、着物も乱れがない。
完璧な“外見”。
けれど――
「どこへ行く」
「市へ」
「理由は」
「必要だからです」
会話は成立している。
だが、どこか噛み合わない。
(……薄い)
零は、わずかに眉をひそめた。
感情が、ほとんど感じられない。
「綾乃」
「はい」
「昨日のこと、覚えているか」
一瞬の間。
「……甘味処に行きました」
事実だけを答える。
「それ以外は」
問われて。
綾乃は、少しだけ考える。
「特に、何も」
その答えに。
零は、ゆっくりと目を閉じた。
(……ここまでか)
確信に近い理解。
“感情”はほぼ、消えている。
「……出るぞ」
短く言う。
市へ向かう道。
人々が行き交い、笑い、話す。
だが綾乃は。
それを“見ているだけ”だった。
「綾乃」
「はい」
「何か、感じるか」
問い。
「……特に」
やはり同じ答え。
その時だった。
「お姉ちゃん!」
小さな子供が、走ってくる。
昨日と同じような光景。
だが――
綾乃は、動かなかった。
ぶつかりそうになる。
その瞬間。
零が、子供を軽く引き寄せた。
「気をつけろ」
子供はきょとんとしてから、ぺこりと頭を下げて走り去る。
「……なぜ避けなかった」
零の声が低くなる。
「必要性を感じませんでした」
即答。
「ぶつかれば怪我をする可能性がある」
「その場合、処置します」
合理的すぎる返答。
だが――
“優しさ”が、ない。
「……そうか」
零は、それ以上何も言わなかった。
ただ。
その目だけが、わずかに鋭くなる。
その日の帰り道。
「止まれ」
突然、零が言った。
「どうしました」
「来る」
前方の影が、ゆらりと揺れる。
現れたのは――
「……やはりいたか」
黒装束の男。
「その印、渡してもらう」
前回とは違う。
明らかに“格”が上。
「下がっていろ」
零が前に出る。
だが。
「いいえ」
綾乃が、静かに言った。
「私が対処します」
「何?」
そのまま、一歩前に出る。
契印が、淡く光る。
「あなたの目的は、この印ですね」
男が笑う。
「理解が早いな」
「では」
綾乃は、迷いなく言った。
「差し上げます」
空気が、凍った。
「……は?」
零の声が、明らかに変わる。
「何を言っている」
「必要なければ、手放します」
無表情。
そこに、一切の躊躇いはない。
「綾乃」
低い声。
だが綾乃は、続ける。
「あなたが望むなら、渡します」
男が、ゆっくりと手を伸ばす。
「賢い選択だ」
その瞬間。
――ガシッ
強く、腕が掴まれた。
「……誰が許した」
零だった。
その目は――
今まで見たことのないほど、怒っている。
「それは俺のものだ」
低く、押し殺した声。
「勝手に差し出すな」
「ですが」
「黙れ」
初めての、強い遮り。
一瞬。
綾乃の動きが止まる。
そして。
「……理解しました」
あっさりと従う。
その様子を見て。
零は、ほんのわずかに歯を食いしばった。
(違うだろ)
そうじゃない。
そう思ったが――
言葉にならない。
「……話は終わりだ」
零が、前を向く。
「消えろ」
次の瞬間。
空気が裂けた。
圧倒的な力が、男を吹き飛ばす。
「くっ……!」
男は体勢を崩しながらも、すぐに距離を取る。
「……なるほど。面倒な存在がついているな」
忌々しげに言い、姿を消した。
静寂。
「……綾乃」
零が、ゆっくり振り返る。
「はい」
「お前」
一歩、近づく。
「今、自分が何をしようとしたか、わかっているのか」
「はい。問題解決です」
迷いのない答え。
その瞬間。
零は、完全に理解した。
――もう、遅い。
綾乃の中の“何か”は。
ほとんど、残っていない。
「……そうか」
低く呟く。
そして。
ほんのわずかに。
声が、かすれた。
「……なら、俺が止めるしかないな」
その言葉の意味を。
綾乃は、理解しなかった。
理解する“心”が、もうないからだ。
――空白になりかけた器。
それを前にして。
初めて。
零は、“失う恐怖”を知った。



