契印は君の手に、妖は恋を知らない

 昼下がり。

 珍しく、綾乃は何も持たずに外へ出ていた。

 

「……本当に行くのか」

 

 隣で零が呟く。

 

「ええ。必要ですので」

 

「契印の調査に、甘味処が?」

 

 呆れたような声。

 

「人の感情が強く動く場所を観察します」

 

 理屈は通っているようで、どこかずれている。

 

 

「つまり、“遊び”か」

 

「違います」

 

 即否定。

 

「検証です」

 

 

 そう言いながら、店の暖簾をくぐる。

 

 

 中は賑やかだった。

 笑い声、柔らかな会話、甘い香り。

 

 

「……騒がしい」

 

 零が顔をしかめる。

 

 

「ここは人が“楽しい”と感じる場所です」

 

 

 綾乃は席に座り、周囲を観察する。

 

 

「感情の発生を確認するには適しています」

 

 

「お前、本当にそれがわかっているのか?」

 

 

「何がですか」

 

 

「“楽しい”という感情だ」

 

 

 問われて。

 

 

 綾乃は、少しだけ考える。

 

 

「……記録としては理解しています」

 

 

 その答えに。

 

 

 零は、何も言わなかった。

 

 

 

 やがて、甘味が運ばれてくる。

 

 

「どうぞ」

 

 

 店の娘が微笑む。

 

 

「ありがとうございます」

 

 

 綾乃も、形式通りに返す。

 

 

 だが。

 

 

 そのやり取りを見ていた零が、ぽつりと言った。

 

 

「今のは違う」

 

 

「何がですか」

 

 

「感情がない」

 

 

 あっさりと断言する。

 

 

「言葉は合っているが、“中身”が空だ」

 

 

 綾乃は、わずかに目を細める。

 

 

「効率的だと思いますが」

 

 

「……そういう問題じゃない」

 

 

 零は、ため息をついた。

 

 

 

 その時だった。

 

 

 隣の席から、楽しげな声が聞こえる。

 

 

「ねえ、これ美味しいね」

「ほんとだ。来てよかった」

 

 

 若い男女が、笑い合っている。

 

 

 

 綾乃は、その様子をじっと見た。

 

 

「……あれが“楽しさ”ですか」

 

 

「そうだ」

 

 

「理解できません」

 

 

 即答だった。

 

 

 

 零は、少しだけ考えてから。

 

 

「……なら、試してみるか」

 

 

「何をですか」

 

 

 その瞬間。

 

 

 零が、すっと手を伸ばした。

 

 

 綾乃の頬に触れる。

 

 

「――っ」

 

 

 距離が、近い。

 

 

「な、何を」

 

 

「観察だろう?」

 

 

 低く、囁く。

 

 

「お前が何を感じるか」

 

 

 

 心臓が、わずかに跳ねる。

 

 

 ……はずだった。

 

 

 

 だが。

 

 

 

「……特に」

 

 

 何も、起きない。

 

 

 

 その代わり。

 

 

 契印が、じわりと光った。

 

 

 

「……っ」

 

 

 何かが、抜ける。

 

 

 

 今、確かにあったはずの“何か”が。

 

 

 

「……やっぱりか」

 

 

 零の声が低くなる。

 

 

 

「今のは、“ときめき”に近い反応だった」

 

 

 

 綾乃は、瞬きをする。

 

 

 

「……そう、ですか」

 

 

 

 だが。

 

 

 

 もう、その感覚は残っていない。

 

 

 

「……何も、わかりません」

 

 

 

 静かな声。

 

 

 

 零は、手を離した。

 

 

 

「……ああ」

 

 

 

 短く答える。

 

 

 

 その表情は――

 

 

 わずかに、歪んでいた。

 

 

 

「全部、喰われてる」

 

 

 

 ぽつりと呟く。

 

 

 

「お前の感情は……もう、ほとんど残ってないな」

 

 

 

 その言葉。

 

 

 

 普通なら、怖いはずだった。

 

 

 

 だが綾乃は。

 

 

 

「問題ありません」

 

 

 

 そう答えた。

 

 

 

 迷いなく。

 

 

 

 

 その瞬間。

 

 

 

 零の目が、鋭くなる。

 

 

 

「……本気で言っているのか」

 

 

 

「はい」

 

 

 

「感情がなくなる意味、わかってるのか」

 

 

 

「生存に支障はありません」

 

 

 

 

 沈黙。

 

 

 

 そして。

 

 

 

「……違うだろ」

 

 

 

 低く、押し殺した声。

 

 

 

「それが問題なんだ」

 

 

 

 

 綾乃は、その意味を理解できなかった。

 

 

 

 理解しようとも、思わなかった。

 

 

 

 

 ただ。

 

 

 

 零のその表情だけが――

 

 

 

 なぜか、わずかに引っかかった。

 

 

 

 だがその“引っかかり”も。

 

 

 

 すぐに、消えた。

 

 

 

 

 ――恋の形を知らないまま。

 

 

 

 二人の距離は、確かに近づいている。

 

 

 けれどその実感だけが。

 

 

 綾乃の中から、消えていく。