契印は君の手に、妖は恋を知らない

 夜。

 離れの部屋には、静かな灯りがともっていた。

 綾乃は机に向かい、書物を広げている。

 契印に関する記述を探しているが――

「見つかる気がしません」

 

 ぽつりと呟く。

 

「当然だ」

 

 すぐ後ろから、零の声。

 

「それは人の領分を外れている」

 

「では、どうすれば」

「俺に聞け」

 

 あっさりと言う。

 

「ただし――」

 

 一拍置いて。

 

「対価は払え」

 

 

 綾乃は、静かに振り返る。

 

「何を望みますか」

 

 

 零は、少しだけ考えたあと。

 

 ふっと笑った。

 

 

「そうだな。簡単なものでいい」

 

 

 一歩、近づく。

 

 

「俺の名を呼べ」

 

 

「……今も呼んでいますが」

 

「違う」

 

 低く遮る。

 

 

「契約者としてではなく、“個”としてだ」

 

 

 意味が、わずかに掴めない。

 

 

「……零」

 

 

 とりあえず呼ぶ。

 

 

 その瞬間。

 

 

 契印が、微かに光った。

 

 

「……っ」

 

 

 胸の奥が、きしむ。

 

 

 だがそれ以上に――

 

 

「……やめろ」

 

 

 零が、珍しく強い口調で言った。

 

 

「今のは、駄目だ」

 

 

「何がですか」

 

 

「それは……」

 

 

 言いかけて、止まる。

 

 

 そして、舌打ちした。

 

 

「忘れろ」

 

 

 その様子は、明らかにおかしい。

 

 

「説明してください」

 

 

「必要ない」

 

 

「必要です」

 

 

 間髪入れず返す。

 

 

 沈黙。

 

 

 やがて零は、小さく息を吐いた。

 

 

「……お前の感情は、質が変わっている」

 

 

「質?」

 

 

「ただの安堵や恐怖ではない」

 

 

 視線が、綾乃に向く。

 

 

「今のは――“執着”に近い」

 

 

 一瞬、時間が止まる。

 

 

「……それは」

 

 

 綾乃は言葉を探す。

 

 

 だが。

 

 

 何も浮かばない。

 

 

「わかりません」

 

 

 素直な答え。

 

 

 零は、わずかに眉をひそめた。

 

 

「だろうな」

 

 

 そして、ぽつりと呟く。

 

 

「だから危険だ」

 

 

 

 その時だった。

 

 

 ――ズキン

 

 

 突然、零の表情が歪んだ。

 

 

「……っ」

 

 

 頭を押さえる。

 

 

「どうしました」

 

 

「……うるさい」

 

 

 低い声。

 

 

「記憶が……」

 

 

 その目が、どこか遠くを見る。

 

 

 

 ――白い光。

 ――誰かの声。

 ――伸ばされた手。

 

 

 

「……やめろ」

 

 

 苦しそうに呟く。

 

 

「思い出すな」

 

 

 

 綾乃は、静かに近づいた。

 

 

「触れてもいいですか」

 

 

「……好きにしろ」

 

 

 短い許可。

 

 

 綾乃は、そっと零の手に触れた。

 

 

 その瞬間。

 

 

 ――バチッ

 

 

 契印が、強く反応する。

 

 

 同時に。

 

 

 零の記憶が、流れ込んできた。

 

 

 

 ――炎。

 ――壊れた社。

 ――倒れた人間。

 

 

 そして。

 

 

 ――泣いている“少女”。

 

 

 

「……っ」

 

 

 綾乃の息が止まる。

 

 

 胸が、ざわつく。

 

 

 だがそれはすぐに――

 

 

 スッと消えた。

 

 

 

「……今のは」

 

 

 言葉にしようとして、止まる。

 

 

 何を感じたのか。

 

 もう、わからない。

 

 

「見たか」

 

 

 零の声が、静かに落ちる。

 

 

「……少しだけ」

 

 

「忘れろ」

 

 

 即答だった。

 

 

「俺の過去だ。お前が触れる必要はない」

 

 

 冷たい言い方。

 

 だが――

 

 

 どこか、拒絶にも似ている。

 

 

「……そうですか」

 

 

 綾乃は、それ以上踏み込まなかった。

 

 

 

 その態度に。

 

 

 零は、わずかに目を細める。

 

 

(……何も感じていない顔だな)

 

 

 さっき、確かに何かを見たはずなのに。

 

 

 動揺も、興味も、残っていない。

 

 

 

 その事実が。

 

 

 妙に、引っかかった。

 

 

 

「……綾乃」

 

 

「はい」

 

 

「お前」

 

 

 一瞬、言葉を探す。

 

 

 だが結局。

 

 

「……いや、いい」

 

 

 そう言って、背を向けた。

 

 

 

 聞けなかった。

 

 

 “今、何を感じたか”を。

 

 

 

 ――聞くのが、少し怖かったからだ。

 

 

 

 灯りが揺れる。

 

 

 二人の間に、静かな沈黙が落ちた。

 

 

 

 そして。

 

 

 その沈黙の中で。

 

 

 

 確かに何かが変わり始めていた。

 

 

 守るだけの関係から。

 

 

 もう一歩、踏み込んだ何かへと。