夕刻。
白鷺家の広間には、珍しく人が集まっていた。
当主、姉、親族、そして数人の使用人。
その中心に――綾乃が立っている。
「……綾乃」
当主の低い声が響く。
「近頃、お前の様子がおかしい」
「どのあたりがでしょうか」
淡々とした返答。
空気が、わずかに張り詰める。
「蔵の封が解かれた件。それに加え――」
視線が、綾乃の手へと落ちる。
「その“印”だ」
隠していたはずの契印。
だが、完全には隠しきれていない。
「答えろ。それは何だ」
一瞬の沈黙。
だが綾乃は、目を逸らさなかった。
「わかりません」
正直な答え。
広間がざわつく。
「ふざけているのか」
姉が吐き捨てる。
「そんな禍々しいものを持っていて、わからないですって?」
「事実ですので」
冷静すぎる態度。
それが逆に、場を苛立たせる。
「ならば――」
当主が静かに告げる。
「陰陽師に見せる」
その言葉に、空気が変わった。
(まずい)
綾乃の思考が、初めてわずかに揺れる。
外部に知られれば、確実に“利用される”。
その瞬間。
「――やめておけ」
低い声が、響いた。
誰にも聞こえないはずの声。
だが――
空気が、震えた。
「っ……!」
当主が顔を上げる。
「……何だ、この圧は」
見えないはずの存在。
だが確実に“何か”がいる。
零は、綾乃のすぐ隣に立っていた。
「ここで騒げば面倒になる」
小さく、しかしはっきりと。
「使え」
一言。
綾乃は、ほんの一瞬だけ目を閉じ――
そして、開く。
「お父様」
声が、静かに響いた。
「その判断は、おすすめしません」
「……何?」
「外部に情報を出せば、この家は標的になります」
ざわり、と場が揺れる。
「今朝、市で襲撃を受けました」
その一言で、空気が一変した。
「なに……?」
「契印を狙う者が、既に動いています」
嘘ではない。
だが“見せ方”を変えただけ。
「今、最も危険なのは――」
綾乃は、ゆっくりと周囲を見渡す。
「この家が“それを持っている”と知られることです」
完全に主導権を握る話し方。
誰も、言い返せない。
「……では、どうする」
当主が低く問う。
その瞬間。
綾乃は、迷わず答えた。
「私に任せてください」
静かで、強い声。
「これは私の問題です。私が処理します」
沈黙。
そして――
「……勝手なことを」
姉が噛みつく。
「今まで何もできなかったあなたが、急に何を――」
その時だった。
――ゾワッ
空気が、一気に冷えた。
「っ……!」
姉の言葉が止まる。
零が、ほんのわずかに視線を向けただけ。
それだけで。
「……やめろ」
低い声。
「それ以上、口を開くな」
誰にも聞こえていないはずなのに。
姉は、顔を青くして黙り込んだ。
異様な沈黙。
当主は、ゆっくりと綾乃を見る。
「……いいだろう」
短い決断。
「しばらくは、お前に任せる」
広間がざわめく。
「ただし」
鋭い視線。
「失敗すれば――わかっているな」
「はい」
綾乃は、迷わず頷いた。
その夜。
離れの部屋。
「……見事だったな」
零が壁にもたれながら言う。
「事実を並べただけです」
「いや、“使い方”が上手い」
くくっと笑う。
「ようやく立場が変わったな」
「まだ途中です」
綾乃は淡々と答える。
だが――
零は、じっと綾乃を見ていた。
「……どうしました」
「お前」
一歩、近づく。
「さっきの場面で、何も感じなかったのか」
「何も、とは?」
「恐怖、緊張、達成感――何でもいい」
問われて。
綾乃は、少しだけ考える。
そして。
「……特に」
そう答えた。
その瞬間。
零の表情が、わずかに歪んだ。
「……そうか」
短い返答。
だがその声には、はっきりとした違和感があった。
(削れているな)
確信に近い理解。
綾乃の“感情”は――
確実に減っている。
しかも今は。
“生きるために必要な部分”から。
「……綾乃」
零が、低く呼ぶ。
「はい」
「契約を解く方法が見つかれば――」
一瞬、言葉を止める。
だが結局。
「……いや、何でもない」
そう言って、視線を逸らした。
綾乃は、その意味を考えなかった。
考える“必要”を、感じなかったからだ。
――立場は、確かに逆転し始めた。
だが同時に。
綾乃の中の“何か”もまた。
確実に、失われていっていた。
白鷺家の広間には、珍しく人が集まっていた。
当主、姉、親族、そして数人の使用人。
その中心に――綾乃が立っている。
「……綾乃」
当主の低い声が響く。
「近頃、お前の様子がおかしい」
「どのあたりがでしょうか」
淡々とした返答。
空気が、わずかに張り詰める。
「蔵の封が解かれた件。それに加え――」
視線が、綾乃の手へと落ちる。
「その“印”だ」
隠していたはずの契印。
だが、完全には隠しきれていない。
「答えろ。それは何だ」
一瞬の沈黙。
だが綾乃は、目を逸らさなかった。
「わかりません」
正直な答え。
広間がざわつく。
「ふざけているのか」
姉が吐き捨てる。
「そんな禍々しいものを持っていて、わからないですって?」
「事実ですので」
冷静すぎる態度。
それが逆に、場を苛立たせる。
「ならば――」
当主が静かに告げる。
「陰陽師に見せる」
その言葉に、空気が変わった。
(まずい)
綾乃の思考が、初めてわずかに揺れる。
外部に知られれば、確実に“利用される”。
その瞬間。
「――やめておけ」
低い声が、響いた。
誰にも聞こえないはずの声。
だが――
空気が、震えた。
「っ……!」
当主が顔を上げる。
「……何だ、この圧は」
見えないはずの存在。
だが確実に“何か”がいる。
零は、綾乃のすぐ隣に立っていた。
「ここで騒げば面倒になる」
小さく、しかしはっきりと。
「使え」
一言。
綾乃は、ほんの一瞬だけ目を閉じ――
そして、開く。
「お父様」
声が、静かに響いた。
「その判断は、おすすめしません」
「……何?」
「外部に情報を出せば、この家は標的になります」
ざわり、と場が揺れる。
「今朝、市で襲撃を受けました」
その一言で、空気が一変した。
「なに……?」
「契印を狙う者が、既に動いています」
嘘ではない。
だが“見せ方”を変えただけ。
「今、最も危険なのは――」
綾乃は、ゆっくりと周囲を見渡す。
「この家が“それを持っている”と知られることです」
完全に主導権を握る話し方。
誰も、言い返せない。
「……では、どうする」
当主が低く問う。
その瞬間。
綾乃は、迷わず答えた。
「私に任せてください」
静かで、強い声。
「これは私の問題です。私が処理します」
沈黙。
そして――
「……勝手なことを」
姉が噛みつく。
「今まで何もできなかったあなたが、急に何を――」
その時だった。
――ゾワッ
空気が、一気に冷えた。
「っ……!」
姉の言葉が止まる。
零が、ほんのわずかに視線を向けただけ。
それだけで。
「……やめろ」
低い声。
「それ以上、口を開くな」
誰にも聞こえていないはずなのに。
姉は、顔を青くして黙り込んだ。
異様な沈黙。
当主は、ゆっくりと綾乃を見る。
「……いいだろう」
短い決断。
「しばらくは、お前に任せる」
広間がざわめく。
「ただし」
鋭い視線。
「失敗すれば――わかっているな」
「はい」
綾乃は、迷わず頷いた。
その夜。
離れの部屋。
「……見事だったな」
零が壁にもたれながら言う。
「事実を並べただけです」
「いや、“使い方”が上手い」
くくっと笑う。
「ようやく立場が変わったな」
「まだ途中です」
綾乃は淡々と答える。
だが――
零は、じっと綾乃を見ていた。
「……どうしました」
「お前」
一歩、近づく。
「さっきの場面で、何も感じなかったのか」
「何も、とは?」
「恐怖、緊張、達成感――何でもいい」
問われて。
綾乃は、少しだけ考える。
そして。
「……特に」
そう答えた。
その瞬間。
零の表情が、わずかに歪んだ。
「……そうか」
短い返答。
だがその声には、はっきりとした違和感があった。
(削れているな)
確信に近い理解。
綾乃の“感情”は――
確実に減っている。
しかも今は。
“生きるために必要な部分”から。
「……綾乃」
零が、低く呼ぶ。
「はい」
「契約を解く方法が見つかれば――」
一瞬、言葉を止める。
だが結局。
「……いや、何でもない」
そう言って、視線を逸らした。
綾乃は、その意味を考えなかった。
考える“必要”を、感じなかったからだ。
――立場は、確かに逆転し始めた。
だが同時に。
綾乃の中の“何か”もまた。
確実に、失われていっていた。



