契印は君の手に、妖は恋を知らない

 昼下がりの市は、相変わらず人で溢れていた。

 綾乃は帳簿を抱え、淡々と歩く。

 白鷺家の使いとしての用事。
 だが実際は――

「情報収集、だったか」

 隣を歩く零が、気怠げに言う。

「ええ。契印について、何か手がかりがあれば」

「そう都合よく見つかるとは思えんがな」

「だから探すのです」

 

 短いやり取り。

 その時だった。

 

 ――ザワッ

 

 空気が、変わった。

 

 人の流れが、わずかに歪む。

 誰かが意図的に、近づいてくる気配。

 

「……止まれ」

 

 零の声が低く落ちる。

 

「どうしました」

「来る」

 

 その一言と同時に――

 

「白鷺の娘だな」

 

 背後から声。

 

 振り返るより早く、腕を掴まれた。

 

「――っ」

 

 男だった。

 旅装束に紛れているが、その目は明らかに普通ではない。

 

「離してください」

「悪いな。少し付き合ってもらう」

 

 強引に引き寄せられる。

 周囲の人々は気づいていない。

 まるで、この一角だけが切り取られたように。

 

「結界か」

 

 零が呟く。

 

「術者か。面倒だな」

 

「その通りだ」

 

 男が笑う。

 

「この娘、“印”を持っているだろう?」

 

 綾乃の心臓が跳ねる。

 

「やはりな。遠目にもわかるほどの気配だ」

 

 男の手が、綾乃の手首に伸びる。

 

「それを、頂こう」

 

 

 次の瞬間。

 

 ――バキッ

 

 鈍い音が響いた。

 

 

「……は?」

 

 男の腕が、不自然な方向に折れていた。

 

 

 そしてその背後に――

 

「勝手に触るな」

 

 

 零が立っていた。

 

 

 その目は、昨日までとは違う。

 

 冷たく、鋭く、そして――

 

 圧倒的だった。

 

 

「……見えないはずだが」

 

 男が歪んだ顔で笑う。

 

「なるほど。妖か」

 

 

「察しがいいな」

 

 零はゆっくりと手を下ろす。

 

「だが遅い」

 

 

 その瞬間。

 

 空気が“沈んだ”。

 

 

 息が詰まるほどの圧。

 足がすくむほどの存在感。

 

 

「な……っ」

 

 男が後ずさる。

 

「馬鹿な……この力……!」

 

 

「言ったはずだ」

 

 零の声は、静かで。

 

 そして――絶対的だった。

 

 

「触るな、と」

 

 

 次の一歩。

 

 それだけで、距離が消える。

 

 

「ぐっ――!」

 

 男の体が地面に叩きつけられる。

 見えない力で押し潰されているように。

 

 

「契印を狙う程度の雑魚が」

 

 零は見下ろす。

 

「俺の契約者に手を出すな」

 

 

 その言葉。

 

 

 綾乃の胸が、わずかに揺れた。

 

 

 ――その瞬間。

 

 契印が、強く光る。

 

 

「……っ」

 

 

 ドクン、と心臓が鳴る。

 

 

 何かが、抜ける。

 

 

 さっきまで確かにあった“何か”が――

 

 するりと消えていく。

 

 

「……綾乃」

 

 零の声が、わずかに低くなる。

 

 

「今、何を感じた」

 

 

 問われて。

 

 綾乃は、少しだけ考える。

 

 

 そして。

 

 

「……わかりません」

 

 

 そう答えた。

 

 

 本当に、わからなかった。

 

 

 ただ一つ。

 

 

 さっき、零を見たときに感じた“何か”が――

 

 もう、思い出せない。

 

 

「……そうか」

 

 

 零は短く呟く。

 

 

 その目に、ほんのわずか。

 

 苛立ちのようなものが宿った。

 

 

 やがて、倒れた男を見下ろし――

 

「消えろ」

 

 

 それだけで、男の意識が落ちた。

 

 

 結界が解ける。

 周囲のざわめきが戻る。

 

 

 何事もなかったかのような日常。

 

 

「……帰るぞ」

 

 零が背を向ける。

 

 

「はい」

 

 綾乃は頷き、歩き出す。

 

 

 その背を見ながら。

 

 

 零は、わずかに眉をひそめた。

 

 

(……今のは、“安堵”か。それとも――)

 

 

 答えは、出ない。

 

 

 ただ一つ確かなのは。

 

 

 契印は、確実に何かを喰っている。

 

 

 そしてそれは――

 

 

 “感情”の中でも、より重要なものに変わりつつあるということ。

 

 

 ――守るほどに、失われていく。

 

 

 その矛盾が。

 

 二人の関係を、ゆっくりと歪めていく。