契印は君の手に、妖は恋を知らない

 白鷺家の奥、誰も使わなくなった離れ。

 その一室に、綾乃は立っていた。

「……ここを使ってください」

 畳の上は薄く埃をかぶっているが、最低限は整っている。

 振り返ると、零が部屋の中を見回していた。

「随分と粗末だな」

「文句があるなら庭で寝てください」

「ほう、契約相手に対して強気だ」

「対等な契約ですので」

 

 即答だった。

 零は一瞬だけ目を細めて、ふっと笑う。

「……確かに」

 

 そのまま、部屋の中央に腰を下ろす。

 妙に様になっているのが腹立たしい。

 

「ここが、これからの“巣”か」

「巣ではありません」

「似たようなものだろう」

 

 軽口の応酬。

 だがそれは、昨夜までとは違う。

 どこか――距離が近い。

 

 

「それより」

 零がふと顔を上げた。

「お前、どうするつもりだ」

「何がですか」

「家の連中だ。あの視線……気づいているだろう」

 

 綾乃は少しだけ視線を落とす。

 

 今朝から、明らかに空気が違っていた。

 蔵の封が解かれたこと。
 綾乃が無傷で戻ってきたこと。
 そして――“何かが変わった”違和感。

 

「放っておきます」

 

 静かな答え。

 

「下手に動けば、面倒が増えるだけです」

「逃げるという選択は?」

「ありません」

 

 きっぱりと言い切る。

 

「ここで立場を変えます」

 

 その言葉に、零は口元を歪めた。

「ほう。あの状況からか?」

「はい」

 

 迷いがない。

 

「あなたがいますから」

 

 

 一瞬。

 

 空気が、止まった。

 

 

 零の目が、わずかに見開かれる。

 

「……随分と軽く言う」

「事実です」

 

 綾乃は首を傾げる。

 

「あなたは強いのでしょう?」

 

 その言葉に、零は小さく笑った。

 

「今は“お前次第”だがな」

 

 そしてゆっくり立ち上がる。

 

「だが――悪くない」

 

 綾乃に一歩近づく。

 

「そうやって頼られるのは」

 

 低く囁くような声。

 

 距離が、近い。

 

 

「……離れてください」

「嫌だと言ったら?」

「困ります」

 

 間髪入れず返す。

 

 零は一瞬黙ってから、くっと笑った。

 

「本当に面白いな、お前は」

 

 

 その時だった。

 

「綾乃!」

 

 障子が乱暴に開く。

 

 現れたのは、姉だった。

 

「こんなところで何を――」

 

 言葉が、止まる。

 

 部屋を見渡し、眉をひそめる。

 

「……誰かいるの?」

 

 零はすぐそばに立っている。

 だが、姉には見えていない。

 

「いいえ。掃除をしていただけです」

 

 綾乃は平然と答える。

 

「嘘ね。さっきから気配が――」

 

 姉が一歩踏み込んだ、その瞬間。

 

 零が、わずかに手を動かした。

 

 ――ゾワッ

 

「っ……!」

 

 姉の体が強張る。

 

「な、なに……今の……」

 

 目に見えない“圧”。

 空気が重く沈む。

 

「ここは、冷えますね」

 

 綾乃はあえてそう言った。

 

「体調を崩されますよ」

 

 姉は顔を歪める。

 

「……気味が悪いわね」

 

 吐き捨てるように言い、踵を返した。

 

 障子が閉まる音。

 

 

 静寂。

 

 

「……今のは」

 

 綾乃が零を見る。

 

「少し脅しただけだ」

 

 あっさりと言う。

 

「弱っているとはいえ、あの程度はできる」

 

 

 綾乃は、少しだけ考えてから言った。

 

「便利ですね」

 

「は?」

「使えます」

 

 一切の遠慮がない。

 

 零は一瞬ぽかんとして――

 

 次の瞬間、声を上げて笑った。

 

「ははっ……!」

 

 珍しく、はっきりとした笑い。

 

「本当に、お前は――」

 

 言いかけて、止まる。

 

 

 ふと。

 

 綾乃の手の契印が、かすかに光った。

 

 

「……またか」

 

 零の目が細まる。

 

「今度は何だ」

 

 綾乃は少しだけ戸惑う。

 

 

「……わかりません」

 

 

 ただ一つ、確かなことがあった。

 

 

 胸の奥にあったはずの“何か”が――

 

 ほんの少し、薄くなっている。

 

 

 零は、じっと綾乃を見つめた。

 

 

「……始まっているな」

 

 

「何がですか」

 

 

「代償だ」

 

 

 静かに、告げる。

 

 

「お前が俺といる限り、失い続ける」

 

 

 その声は低く――

 

 どこか、わずかにだけ。

 

 

 躊躇いを含んでいた。

 

 

 綾乃は、それに気づかないまま。

 

 

「構いません」

 

 

 そう答えた。

 

 

 迷いなく。

 

 

 ――同じ屋根の下で。

 

 二人の距離は、確かに近づいていく。

 

 そして同時に。

 

 取り返しのつかない何かが、静かに削れていく。