契印は君の手に、妖は恋を知らない

 翌朝。

 白鷺家の屋敷に、静かな騒ぎが起きていた。

「蔵の封が、解かれている……?」

 使用人たちがざわめく中、綾乃は何事もなかったかのように廊下を歩いていた。

 その背後に――

「……退屈だな」

 低く、気怠げな声。

 誰にも聞こえないはずのそれに、綾乃だけが小さく息を吐く。

「静かにしてください。目立ちます」

「誰も俺は見えていないだろう」

「見えなくても、気配で不審に思われます」

 

 昨夜、契約を交わした“あの男”。

 今は、綾乃のすぐ後ろを歩いている。

 鎖は――消えていた。

 

「……本当に、出られるとはな」

 男は自分の手を見下ろす。

 かつて刻まれていた契印は消え、代わりに綾乃の手が淡く光る。

 

「お前が鍵、というわけか」

「そういうことになります」

 

 淡々としたやり取り。

 だが内心、綾乃も理解しきれていない。

 なぜ自分に移ったのか。

 どうすれば戻るのか。

 何もわからない。

 

「名は?」

 不意に男が問う。

 

「……聞いていませんでしたね」

「契約相手の名も知らぬのは不便だ」

 

 綾乃は少しだけ考えてから答えた。

「綾乃です」

「綾乃、か」

 男はその名を舌の上で転がすように呟く。

 

「では俺は――」

 一瞬、言葉を止めてから、薄く笑った。

 

「零(れい)と名乗ろう」

 

 偽名か、本名かはわからない。

 だがそれ以上を聞くつもりもなかった。

 

「では零。あなたは目立ちます」

「どういう意味だ」

「その格好です」

 

 黒一色の装束に、異様な気配。

 人ならざるものの存在感は、見えなくとも“違和感”として残る。

 

「外に出ます。情報を集めたいので」

「ほう。積極的だな」

「無知のままでは死にます」

 

 さらりと言い切る。

 零はくくっと喉を鳴らした。

「いいだろう。付き合ってやる」

 

 

 屋敷の門を出た瞬間。

 零は、わずかに目を細めた。

 

「……随分と変わったな」

「何がですか」

「空気だ。人の匂いが濃い」

 

 千年単位で生きている存在の言葉は、どこか現実味がない。

 だが同時に――

 その視線は、どこか懐かしむようでもあった。

 

「ここが、お前の世界か」

「ええ。少なくとも、私はここで生きています」

 

 市は朝から賑わっていた。

 行き交う人々、商人の声、食べ物の香り。

 

「……騒がしい」

「嫌いですか」

「嫌いではない。ただ――」

 

 言いかけて、零はふと足を止めた。

 

「どうしました」

 

 綾乃が振り返る。

 その瞬間。

 

 ドン、と誰かがぶつかってきた。

 

「きゃっ……」

 小さな子供だった。

 よろけた体を、咄嗟に支える。

 

「大丈夫?」

「う、うん……」

 

 子供は綾乃の顔を見て、安心したように笑った。

 その笑顔を見た瞬間――

 

 綾乃の手の契印が、わずかに光る。

 

「……っ」

 

 ほんの一瞬。

 胸の奥が、空洞になったような感覚。

 

「どうした」

 零の声が低く響く。

 

「いえ……何でもありません」

 

 だが零は、じっと綾乃の手を見ていた。

 

「今、何が起きた」

「わかりません」

「嘘をつくな」

 

 掴まれる手首。

 鋭い視線。

 

「契印が反応したな」

 

 綾乃は目を逸らさず答える。

「……一瞬、何かが抜けた気がしました」

「何か、だと」

 

 零の目が、わずかに細まる。

 

「感情だ」

 

 断言だった。

 

「今のは、“安堵”だな」

 

 綾乃の心臓が、わずかに跳ねる。

 

「お前があの子供に抱いた感情。それが――」

 

 零は、ゆっくりと笑った。

 

「契印に喰われた」

 

 ぞくり、と背筋が冷える。

 

「……それは、どういう意味ですか」

「そのままの意味だ。お前の感情は、俺の力の代価になる」

 

 軽く言う。

 あまりにも、あっさりと。

 

「つまり」

 

 零は、綾乃の手を持ち上げる。

 

「お前が何かを感じるたびに、それは消費される」

 

 その言葉は、静かで――

 そして、残酷だった。

 

「……問題ありません」

 

 だが綾乃は、迷わず答えた。

 

「感情など、なくても生きられます」

 

 一瞬。

 零の表情が、わずかに止まる。

 

 そして次の瞬間。

 

「……本気で言っているのか」

 

 低く、わずかに苛立ちを含んだ声。

 

「ええ」

 

 綾乃は淡々と続ける。

 

「むしろ都合がいい。余計なものが減るだけです」

 

 その言葉に、零は沈黙した。

 

 やがて――

 

「面白い」

 

 ぽつりと呟く。

 

「なら試してみろ」

 

 その目には、どこか危うい光が宿っていた。

 

「どこまで削れても、“お前”でいられるのか」

 

 

 その日。

 

 綾乃はまだ知らない。

 

 自分が、どれほど大切なものを――

 

 これから、失っていくのかを。