契印は君の手に、妖は恋を知らない

 朝。

 

 白鷺家の庭に、柔らかな風が吹いていた。

 

 戦いの痕跡は、もうほとんど残っていない。

 

 

「……静かですね」

 

 

 綾乃が、ぽつりと呟く。

 

 

「ああ」

 

 

 隣で、零が短く答える。

 

 

 

 あの日から、数日。

 

 

 契りは安定し、暴走する気配もない。

 

 

 だが――

 

 

「完全ではない」

 

 

 零が言う。

 

 

「まだ不安定な部分はある」

 

 

「はい」

 

 

 綾乃は頷く。

 

 

 けれど、その表情は落ち着いていた。

 

 

 

「それでも」

 

 

 

 少しだけ、視線を上げる。

 

 

 

「前よりも、はっきりしています」

 

 

 

「何がだ」

 

 

 

 問われて。

 

 

 

 ほんの少し、迷って。

 

 

 

「……あなたのことが」

 

 

 

 静かに、答える。

 

 

 

 

 その言葉に。

 

 

 

 

 零は、わずかに目を細めた。

 

 

 

 

「遅い」

 

 

 

 

 いつものように言う。

 

 

 

 

 だが。

 

 

 

 

 その声は、柔らかい。

 

 

 

 

 

「努力しました」

 

 

 

 

 

 真面目に返す。

 

 

 

 

 

 そのやり取りに。

 

 

 

 

 

 ふっと、空気が緩む。

 

 

 

 

 

 

 少しの沈黙。

 

 

 

 

 

 風が、二人の間を通り抜ける。

 

 

 

 

 

 

「……零」

 

 

 

 

 

 綾乃が、名前を呼ぶ。

 

 

 

 

 

「なんだ」

 

 

 

 

 

 

「ひとつ、確認したいことがあります」

 

 

 

 

 

 

「言ってみろ」

 

 

 

 

 

 

 まっすぐに見上げる。

 

 

 

 

 

 

「この契りは――」

 

 

 

 

 

 

 一瞬、言葉を選ぶ。

 

 

 

 

 

 

「あなたにとって、必要なものですか」

 

 

 

 

 

 

 

 静かな問い。

 

 

 

 

 

 

 

 だがその奥には。

 

 

 

 

 

 

 

 ほんの少しの“不安”があった。

 

 

 

 

 

 

 

 零は、それを見逃さなかった。

 

 

 

 

 

 

 

「……違うな」

 

 

 

 

 

 

 

 ぽつりと答える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 綾乃の目が、わずかに揺れる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 だが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 次の言葉が、続いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「必要だから結んだんじゃない」

 

 

 

 

 

 

 

 

 一歩、近づく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「選んだから結んだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その言葉。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まっすぐで、迷いがない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……選んだ?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ああ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 綾乃の手を取る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今度は、迷いなく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お前をだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その瞬間。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 胸が、強く鳴る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――ドクン

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 驚くほど、はっきりと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……これが」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 綾乃が、息を呑む。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……感情」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 以前よりも、強い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 消えない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……零」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 名前を呼ぶ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今度は、はっきりと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「私も」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一歩、近づく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あなたを、選びたいです」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その言葉は。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まだ少し、不器用で。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それでも――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 確かな“意思”だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一瞬の沈黙。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 零が、静かに息を吐く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ようやくか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そう言って。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 綾乃の額に、軽く触れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「遅すぎる」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その仕草は、優しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「すみません」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 素直に謝る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「許す」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 即答だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「だから――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一瞬だけ、言葉を止めて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「もう離れるな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 静かに告げる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 命令のようで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 願いのような言葉。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 綾乃は、小さく頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 迷いは、もうない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その瞬間。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 二人の手の契印が、淡く光る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今度は――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 奪うためでも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 繋ぎ止めるためでもない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ただ、共にあるための光。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――結び直した契り。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 千年越しにようやく形になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 不完全で。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それでも、確かなもの。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これからも変わっていくもの。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――画面の向こうの、君じゃない君へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 やっと触れられた“本当の君”を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今度こそ、手放さない。