契印は君の手に、妖は恋を知らない

 朝。

 白鷺家の庭に、柔らかな光が差し込んでいた。

 

 離れの障子が、静かに開く。

 

「……」

 

 綾乃は、少しだけ目を細めた。

 

 光が、まぶしい。

 

 

(……前も、こんなふうに感じていた?)

 

 

 ふと、そんなことを思う。

 

 

 “感じる”ということ自体が、どこか新しい。

 

 

「起きたか」

 

 

 背後から声。

 

 

 振り返ると、零が柱にもたれて立っていた。

 

 

「はい」

 

 

 自然に返事をする。

 

 

 その一瞬。

 

 

 零の視線が、わずかに止まった。

 

 

「……どうした」

 

 

「いえ」

 

 

 綾乃は首を振る。

 

 

「少しだけ、光が眩しいと感じただけです」

 

 

 

 その言葉に。

 

 

 

 零は、ほんのわずかに息を吐いた。

 

 

 

「……そうか」

 

 

 

 短い返答。

 

 

 

 だがそれは、どこか安堵を含んでいた。

 

 

 

 

「市へ行きます」

 

 

 

 綾乃が言う。

 

 

 

「確認したいことがあるので」

 

 

 

「付き合う」

 

 

 

 即答。

 

 

 

 

「一人でも問題ありません」

 

 

 

「俺が問題だ」

 

 

 

 

 間髪入れず返す。

 

 

 

 

「……そうですか」

 

 

 

 

 特に拒否もしない。

 

 

 

 

 だがそのやり取りは。

 

 

 

 

 以前とは、少し違っていた。

 

 

 

 

 どこか柔らかい。

 

 

 

 

 

 市は、相変わらず賑わっていた。

 

 

 

 人の声、足音、笑い声。

 

 

 

 

 その中を、二人で歩く。

 

 

 

 

「……綾乃」

 

 

 

 

「はい」

 

 

 

 

「今、何か感じるか」

 

 

 

 

 以前と同じ問い。

 

 

 

 

 だが――

 

 

 

 

「……少しだけ」

 

 

 

 

 違う答え。

 

 

 

 

 

「人が多いと、落ち着きません」

 

 

 

 

「それは“嫌悪”だな」

 

 

 

 

「そういうものですか」

 

 

 

 

「ああ」

 

 

 

 

 

 零は、わずかに目を細める。

 

 

 

 

(戻っているな)

 

 

 

 

 完全ではない。

 

 

 

 

 だが確実に、“何か”が戻っている。

 

 

 

 

 

 その時だった。

 

 

 

 

「あ、あの……」

 

 

 

 

 控えめな声。

 

 

 

 

 振り返ると、店の娘が立っていた。

 

 

 

 

「昨日は、ありがとうございました」

 

 

 

 

 ぺこりと頭を下げる。

 

 

 

 

 昨日――ぶつかりそうになった子供の姉らしい。

 

 

 

 

「弟が怪我をしなくて、本当に助かりました」

 

 

 

 

 

 綾乃は、少しだけ戸惑う。

 

 

 

 

「……いえ」

 

 

 

 

 どう返せばいいのか、迷う。

 

 

 

 

 だが。

 

 

 

 

「よかった」

 

 

 

 

 ぽつりと、言葉が出た。

 

 

 

 

 

 その瞬間。

 

 

 

 

 綾乃自身が、わずかに驚いた。

 

 

 

 

 

(……今のは)

 

 

 

 

 

 自然に出た言葉。

 

 

 

 

 

 考える前に。

 

 

 

 

 

「……ありがとうございます」

 

 

 

 

 娘は嬉しそうに笑い、去っていく。

 

 

 

 

 

 その背を見送りながら。

 

 

 

 

 

「……どうした」

 

 

 

 

 零が問う。

 

 

 

 

 

「今」

 

 

 

 

 綾乃は、自分の胸に手を当てる。

 

 

 

 

 

「少しだけ、温かいと感じました」

 

 

 

 

 

 静かな声。

 

 

 

 

 

 零は、それを聞いて。

 

 

 

 

 

 ほんのわずかに、口元を緩めた。

 

 

 

 

 

「それが“安堵”だ」

 

 

 

 

 

「……そうですか」

 

 

 

 

 

 小さく頷く。

 

 

 

 

 

 その様子を見て。

 

 

 

 

 

 零は、ふと視線を逸らした。

 

 

 

 

 

「……まあ、悪くない」

 

 

 

 

 

 ぽつりと呟く。

 

 

 

 

 

 

 その後。

 

 

 

 

 二人は、並んで歩いた。

 

 

 

 

 言葉は多くない。

 

 

 

 

 けれど。

 

 

 

 

 沈黙が、苦ではない。

 

 

 

 

 

「……零」

 

 

 

 

 

 不意に、綾乃が呼ぶ。

 

 

 

 

 

「なんだ」

 

 

 

 

 

「前よりも、あなたのことが……」

 

 

 

 

 

 一瞬、言葉が止まる。

 

 

 

 

 

 まだ、うまく形にならない。

 

 

 

 

 

 けれど。

 

 

 

 

 

「……少し、わかる気がします」

 

 

 

 

 

 それが、精一杯の表現。

 

 

 

 

 

 

 零は、一瞬だけ黙って。

 

 

 

 

 

「……遅い」

 

 

 

 

 

 そう言った。

 

 

 

 

 

 だがその声は、どこか柔らかい。

 

 

 

 

 

 

「もっと早く気づけ」

 

 

 

 

 

 

 軽く言う。

 

 

 

 

 

 

 綾乃は、少しだけ首を傾げた。

 

 

 

 

 

「努力します」

 

 

 

 

 

 

 真面目な返答。

 

 

 

 

 

 

 そのやり取りに。

 

 

 

 

 

 

 零は、ふっと笑った。

 

 

 

 

 

 

 ――戻った日常。

 

 

 

 

 

 

 けれど。

 

 

 

 

 

 

 二人の距離は、確実に変わっていた。

 

 

 

 

 

 

 対等な契り。

 

 

 

 

 

 

 それは。

 

 

 

 

 

 

 まだ未完成で。

 

 

 

 

 

 

 だからこそ――

 

 

 

 

 

 

 これから、形になっていく。